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カクレ理系のやぶにらみ

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時間のある方はお読みください。軽い気持ちで読み始めると頭が痛くなります。

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 29日に行われた千葉県知事選挙で森田健作氏が1,015,978票を取って当選しました。2位候補に36万票という大差をつけての当選です。ちなみに森田氏の得票率は全投票数の45.5%、投票率が45.56%でしたから森田氏は全有権者の20.7%から投票されたことになります。
 このことは同じ時期に行われた世論調査の結果と見比べると、一つの仮説が浮かび上がってきます。
 ご覧になった方も多いと思いますが、民主党の小沢代表が続投を宣言したことに対する世論調査の結果は、「代表を辞任すべき」がいずれの調査も6割以上、「説明に納得できない」も6割以上の回答となっています。
 森田健作氏が支持される一方で、小沢一郎氏が否定的な評価を受けているのはどういうことかというと、小沢氏に象徴される従来型の政治家にかなりの人がうんざりしている、ということがわかります。森田氏がどのような人であるかは、今まで培ってきたイメージ(それが実像と一致しているかどうかは別として)があります。それは一言でいうと、小沢氏に象徴される政治家像とは異なるということです。有権者はそこに期待して投票したと考えて差し支えないと思います。
 したがって今回の世論調査の結果を、小沢氏個人に対する不信任と理解するのは過ちの元であるといえます。「代表を辞任すべき」とか「説明に納得できない」と回答した人は、その機会が与えられれば、自民党や民主党の中にうようよしている小沢一郎的な政治家に対しても同じ不信任を突きつけるはずです。
 民主党は実現性が高くなってきた政権交代ということに執着していますが、ここへ来て政権交代のためならば何をしてもいいのか、それでは今までの自民党とどこが違うというのか? という疑問を持つようになりました。政党名と政策は異なりますが、体質は同じではないかと思ってしまうのです。
 
 森田氏に対して、その知名度の高さから面白半分で投票した人も中にはいると思います。しかし、有権者の行動は、この人がどういう人なのか自分にはわかっている、という人を支持する傾向が強くなっていることも事実です(その最初の例は石原慎太郎東京都知事ではなかったかと思います)。そういう投票行動をとる人を浮動層と呼んでいるわけですが、その割合は年々増えています。その分政党に対する支持者が減っていることになります。
 政党よりも個人の持つイメージによって投票を決めるという傾向が強くなっていくと、最終的には独裁者の登場を促すことになります。それはそれで随分危険なことであると思うのですが、現状ではやむを得ないかなとも思ったりしています。せめて個人に権力を集中させないことに気をつけるべきでしょう。嗚呼。
by T_am | 2009-03-31 07:02
 北朝鮮が人工衛星の打上げと称して長距離弾道ミサイルを発射することについて、朝鮮中央放送のいつもの女性アナウンサーが政府の見解を発表しているシーンがテレビで放映されていました。本来こういう場面はテクストの全文を読んで、その文脈を検討しないといけないのですが、マスコミは編集によって視聴者受けするところを切り貼りして私たちに見せてくれます。別に北朝鮮を擁護するわけではありませんが、今回の朝鮮中央放送ニュースの引用された部分を聴いていると、いつもと同じ強弁と脅しに聞こえます。同時に、国際社会におけるならず者という北朝鮮に対する憎しみと蔑みが日本人の中に増幅されていくのがわかります。
 こういうのを観ていると、マスコミがやっていることは報道ではなく誘導であると思います。そういえば日本のマスコミは明治以来一貫して煽動機関でした。制作者の先入主や視聴者の受けを狙った編集をしたニュースが多いので、一社だけのニュースで判断するのは危険なことだと思います。

 北朝鮮はなぜ核兵器を持つことに執着するのでしょうか? その理由として考えられるのは、核兵器を持つことにより軍事力を強化させることが金王朝ともいうべき政治体制を存続させていくことに不可欠だからです。
 このことは敗戦前の日本もそうでしたし、崩壊前のソ連と東欧の社会主義国もそうでした。軍と秘密警察による恐怖によって国民を従わせ、権力を維持するというのは、弱体化しつつある国の常套手段です。それだけに軍や秘密警察が無力化したとたんにこれらの国は崩壊してしまいました。したがって、北朝鮮としてはどんなに貧しくなっても軍事費を削って軍を弱体化させるわけにはいかないのです。
 ですから拉致がそうであったように、偽札や覚醒剤の製造が外貨を得るための国家的事業であることは容易に想像できます。北朝鮮は体面を重んじる国柄ですが、その一方でなりふり構ってられないという状況にあることも事実です。

 北朝鮮が保有している数発の核爆弾も、それを敵国にまで運搬する手段がなければさほど脅威ではありません。長距離弾道ミサイルであるテポドン2号がどこまで完成しているのかわかりませんが、今回の発射実験でそれが明らかになると思います。
 北朝鮮のような小国が核兵器を持つことは、ミツバチの針のようなものだと思います。うかつに手を出せば針に刺されるという警戒心を対立する国に与えることにはなりますが、その針を使ったときが北朝鮮の滅亡のときでもあります。
 北朝鮮の現在の体制が滅んでも周辺の国が痛痒を感じることはありませんが、その結果として大量の難民が流れ込んでくることは困る、というのが国境を接する韓国・中国・ロシアの本音でしょう。そのためにはこれらの国では北朝鮮の現体制が続くことを欲しているので、北朝鮮に対する援助を止めることができない状況に陥っています。それらの物資は飢えと貧困に喘ぐ国民を救うのではなく、現在の体制を延命させることに使われています。
 こうしてみると国際政治というのは、大国のエゴのぶつかり合いというバランスの上に成立しているということを感じます。そもそも核兵器の不拡散とは、自分たちが核兵器を持つのはいいがそれ以外の国が核兵器を持つのは許さないというエゴによるものです。政情の不安な国は核兵器をきちんと管理できるかどうか疑わしいのだから、それらの国を通じて核兵器が万一テロリストの手に渡ったら世界は危険なことになる、という論理を聴いたことがあります。それならば、いっそのこと核保有国が一斉に核兵器を廃絶すれば済むのではないかと思うのですが、そういうことをするはずがありません。
 イラク戦争は、アメリカによるこのような論理が強引に展開された結果起こった戦争です。戦争を開始するかどうかは、勝った後の損得勘定をクールに計算した上で決定すべき事案ですが、ブッシュ政権はそうではありませんでした。911の事件をきっかけにブッシュ大統領の宗教的偏見によって起こされた戦争がイラク戦争です。
 したがって北朝鮮が、次は自分の番だという恐怖から、核兵器の保有を強行したのは(北朝鮮にすれば)当然の帰結であるということになります。

 中国とロシアは、在韓米軍の存在が嫌なのではないかと思います。朝鮮半島を社会主義体制に対する防波堤とするいう理由で在韓米軍が展開しているわけですが、仮に北朝鮮という国が消滅したとして、在韓米軍や在日米軍は撤退するかどうかを考えると、それはあり得ないというのが結論となります。アメリカにすれば中国とロシアを牽制するためにこれらの軍事力を維持しておくはずです。ですから中国とロシアにすれば、アメリカに対する牽制という意味で、北朝鮮が核兵器を保有することを暗黙のうちに認めているのではないかと思えてなりません。両国が北朝鮮に対して消極的な態度を繰り返しているのはこのような背景があるからではないかと考えるのです。

 日本が今回ミサイルの落下物に対して迎撃準備をしているというのはどういう意味があるのでしょうか?
 ミサイル本体に対する迎撃ではないので、北朝鮮の人工衛星であるという主張を躱すことができるうえに迎撃に成功すれば北朝鮮のミサイルを無力化することにつながります。その場合北朝鮮は大きな打撃を受けることになります。その一方で、迎撃に失敗すれば日本は赤っ恥を世界に晒すことになります。あるいは失敗しても実験と割り切って、より実効性のあるミサイル迎撃システムの開発をすればいいと考えているのかもしれません。失敗した場合、そういう方向に世論が誘導されていくように思います。政府の真意はわかりませんが、この機会を利用しよう考えているように見受けられます。
 凶暴で何をしでかすかわからないという輩に対しては、まともにぶつかることは避けて兵糧攻めにすることが味方の損耗を最小限にする方法です。日本が行っている制裁措置というのは決して無駄ではありません。
 しかし、アメリカにすればイラクという泥沼に足を突っ込んでいるので現状では時間稼ぎをするしかないというのが本音でしょう。つまり北朝鮮を巡る各国のスタンスに当面変化はないと考えられるのです。
by T_am | 2009-03-30 07:13 | その他
 就職する際に自動車運転免許を持っていることが当たり前ですが、今ではさらにパソコンが使えることも必須となっています。オフィスの中では、一人1台のパソコンが支給されていることも普通に見られるようになりました。
 その結果どういうことが起こっているかというと、ソフトの機能を充分に使いこなせないまま不便な思いをしている人が増えています。一例を挙げると、ワープロソフトには必ず差し込み印刷という機能がついています。展示会の案内状を大勢の人に宛てて発送するときに、宛名を各位とするよりも、相手の名前を書いた方がインパクトが強くなります。案内状の内容は宛名以外皆同じですから、差し込み印刷という機能を使うと簡単に作成できるのですが、これを知らないと宛先の人数分文書を作らなければならないことになります。できあがった文書をコピーして宛名の名前を変え、さらにコピーして名前を変える、これを延々と繰り返さなければなりません。その手間は大変ですし、時間もかかりますから生産性は低くなります。
 どうしてこういうことが起こるのかというと、理由は二つあります。
 一つは、ソフトの使い方についてきちんと教育していないことです。凡庸なシステム担当者はパソコンを与えておけばいいだろうと思いがちであり、自分の会社で行われている業務上従業員がどういう機能を使いこなせた方がいいのかという検証を怠っているからです。
 といっても、このような指摘は「景気が悪いのは政府のせいだ」というのと同じで、言っても無駄だという気がします。できている企業はとっくにやっていることですし、できていない企業はいつまで経ってもできるようにならないからです。
 二番目の理由は、自分がやっている仕事を面倒くさいと思いながら諾々と繰り返している従業員自身の中にあり、これを問題意識の欠落といいます。自分がやっていることが不便で面倒くさいと思ったならば、どうすればそれを改善できるのか考えることは決して無駄なことではありませんが、そちらの方がはるかに手間がかかるので、大半の人は真剣に取り組もうとはしません。
 毎度毎度手間をかけて案内状をつくっているので何とかならないかという思いを持つことで、その人はいずれワープロソフトには差し込み印刷という機能があることに辿り着きます。不思議なことにその人の思いが強ければ、ふと開いた雑誌に載っていたとか、親切な人が教えてくれたとかいうきっかけが必ず与えられます。それさえ見逃さなければ必ず辿り着くのです。
 こうしてワープロソフトソフトのこととして書いていますが、勘の鋭い読者は、このことは仕事全般についていえることだとお気づきのことと思います。
 今やっていることのここがおかしい。あるいは、今やっているやり方では、こういう場合に対応ができない。ではどうすればいいのか? このような問題意識を持つことに慣れてくると、自分で色々と勉強することが当たり前となっていきます。ネットで調べる、本を読む、知っている人の話を聞く、等々。そうやって自分の問題意識を形のあるものにしていく行為が有用であることは、あらゆる仕事に共通しています。
 
 問題意識にもレベルがあり、簡単に解決できるものと一筋縄ではいかないものがあります。簡単に解決できるものには誰でも取り組みますが、そうでないものに対しては諦めてしまう人が多いようです。その場合、作業をすること自体がその人の目的となっていることがあります。私の仕事はこれ、と決めつけているので、手間がかかってもある程度時間がかかってくれた(残業しなくて済むくらい)方がいいわけです。こうなると、これを改善しようとは思わなくなります。
 生産性の低い職場、活気のない職場ではこのような空気が横行しています。そういうところへ行くと、この人たちは自分がやっていることを後生大事に抱えて、これからもやっていくんだろうなあ、と思うことがあります。その人たちに対して責任を負っているわけではないので私は黙っていますが。
 なお、問題意識というのは仕事の改善だけに関係するのではありません。今までやっていなかった新しい課題に取り組むというのも問題意識と根気が必要です。問題意識を持つことができる人とそうでない人とでは、その差が次第に広がっていくのは言うまでもありません。
by T_am | 2009-03-29 09:01 | 社会との関わり
 自動車を運転する方はご存じのように、ハンドル・ブレーキ・アクセルにはそれぞれ「遊び」が設けられています。アクセルでいえば、ある程度ペダルを踏み込まないとエンジンの回転数が増加しないというのが「遊び」です。遊びが少ない車では、アクセルペダルをほんのわずか踏んだだけで自動車が加速してしまうことになります。これでは車庫入れや徐行運転のときに不便ですし、危険でもあります。遊びという不作動範囲を入力装置に持たせることによって、操作ミスを防ぐことができるようになります。
 
 人間の心にもこのような「遊び」があった方がいいと思っています。
 人間の感情は絶えず変化しています。いことがあれば嬉しくなったり楽しいと思いますし、逆に嫌なことがあれば傷ついたり怒ったりするのが普通です。
 ところがこの社会はストレスに満ちているので、細かいことにまでいちち目くじらを立てていては疲れますし、身が持ちません。もちろん、他人のミスを絶対に許せないという人はいます。また、鋭角の多い人というのもいます。そういう人たちを見ていると、きっと気の強い人なのだろうけれども家族は大変だろうなあ、とつい思ってしまうのです。
 以下、気の強い人には無縁のことを書きます。

 些細なことでも気になって態度や表情に出てしまうというのは、自分が傷つくか他人を傷つけるかどちらかの事態を招きます。このときに弱い立場の方が傷つくことになっているので、大人よりも子どもの方が傷つきやすくなります。
 人を傷つけたり自分が傷つくのが嫌だという人にとって、他人とは深く関わらないようにしようという考え方やニヒリズムが魅力的であることは知っています。その代わり、他者との間にコミュニケーションが成立したときの充足感を得ることはできなくなります。
 この充足感はそうやたらと感じられるものではありませんが、この人ともっと話をしていたい、このままもうちょっと一緒にいたいと思うのは結構いいものであることは保証します。
 人間は意図せずに他人を傷つけてしまうことがあるので、人を絶対に傷つけないというのは不可能です。ただし、そのことを知っているのと知らないのとではまるで違うということも事実です。友達にするならばどちらの方がいいかといえば、知っている人の方がいいに決まっています。
 ネガティブな感情に対して「遊び」を設けるというのは、嫌なことがあっても見ないふり、気づかないふりをすることで可能となっていきます。日本人はネガティブな感情に対してもともと淡泊な民族ですから、そのうちに「水に流した方がいい」と思ったり、あるいは忘れてしまったりすることができるものです。狭い世間で暮らしているので、些細なことであれば目くじらをたてない方がいいということが経験的にわかっているのではないかと思います。
 けれども誤解しないでいただきたいのですが、理不尽な仕打ちを受けても我慢すべきだというのではありません。私の場合、そういうときは断固戦うことにしています。その分世間が狭くなることもありますが。
by T_am | 2009-03-27 06:58 | 心の働き
 この間、政府高官の発言が物議を醸したと思ったら、今度は北朝鮮のミサイル迎撃に関する「政府筋の発言」が報道されました。ちなみに、政府高官も政府筋もともに官房副長官のことを指すのだそうです。前回の政府高官は漆間官房副長官でしたが、今回わざわざ「政府筋」と異なる表現をしているのは発言者が前回とは異なるということを示唆しているのかもしれません。
 北朝鮮が発射したミサイルを本当に迎撃できるかどうかは「やってみないとわからない」と見るのが正しいと思います。実験と実戦は違いますから、実験で成功しているからといって実戦でも成功するという保証はどこにもありません。
 したがって、この政府筋の発言はどなたのものかはわかりませんが、ことさら取り上げるほどのものではないと思います。むしろ、こういう発言をマスコミに対し行うというのは何か思惑があって話しているか、単なるバカかのどちらかです。前回の「政府高官」殿はどちらかというと思慮の浅い御仁であることがその後の報道で伝えられていました。トップがトップならば、幹部もそれに似てくるようです。このたびの「政府筋」殿がどちらのタイプなのかはまだわかりませんが、何らかの思惑があって発言したのではないかと勘ぐりたくなります。

 北朝鮮がミサイルを発射して、その迎撃に成功すれば、「わが国のこれまでの防衛方針に間違いはなかった。すぐ隣に何をしでかすかわからない危険な国があるのだから、今後の備えを万全にしておくに越したことはない」という声が興ってくることは確実です。仮に、失敗した場合でも「このように何をしでかすかわからない国がすぐ隣にあるのだから、より実効性の高い迎撃システムを構築しなければわが国の安全保障は望めない」とかなんとか理屈をこねて防衛費予算を増額させようとする動きが出てくることは容易に想像できます。どう転んでも軍事力の増強に結びつくことになると思います。
 NHKのニュースは次のように伝えています。
 http://www.nhk.or.jp/news/k10014927381000.html#

(前略)日本がミサイル防衛システムを作動させたとしても迎撃は不可能だという認識を示しました。そのうえで、この政府筋は「石破農林水産大臣が防衛大臣をしているときに、『ミサイル防衛システムは当たるのか』と聞いたら、『当たると思う』と答えたが、私は『当たらないだろ』と言った。憲法の解釈がどうなるとか、そういうことを延々やって、実際のことを何もやってこなかった、過去50年を反省するしかない。口を開けてみているしかない」と述べました。

 「政府筋」殿は、このことが言いたかったわけです(新聞記事はこの部分をカットしていました)。つまり、この人は、日本の軍事力を実効性のあるものにするために、今回のミサイル迎撃が失敗すればいいと強く望んでいるのです。自分の意見の正当性を立証したいと願うあまり、事態がより危機的な方向に推移することを願うというのはその人の人間性に欠陥があることを現しています。自分の職務に誠実な人であれば危機的状況に陥るのを何とかして回避しようと考えるのが当然だからです。率直に言って、この人は大久保彦左衛門みたいな人であると思いました。もっとも江戸時代の大久保彦左衛門は何の実権も持たない老人に過ぎなかったので、それだけ無害だったといえます。その点、現代の大久保彦左衛門氏はどうでしょうか?
 ついこの間、日本テレビの社長が辞任したばかりだというのに、あいかわらずこの国のマスコミは個人の発言をロクに吟味もせずに一斉に垂れ流すということを行っています。政府要人の発言ともなれば、確かに無視するわけにはいかないのでしょうが、新聞のように最後の部分をカットした報道の仕方では、どういう思惑で発言しているのかがよくわかりません。やはりニュースというのは色々と比較してみないとわからないものであるということが改めてわかりました。

 思うに、このオフレコ発言というのは、しょっちゅう行われているのでしょうね。マスコミはそれをニュースとして報道するかどうか判断して、たいていのものは没にしていると思われます。大スクープになる発言がいつもあるわけじゃなし、大半はたわいもない内容ではないか。 
 実をいうと、オフレコと称して、政府要人の発言を匿名で報道することに何の意味があるのか、私には未だに理解できません。個人の本音を聞き出しても、相手の思惑に乗せられるのがオチです(亡くなった金丸元自民党副総裁はこの名人でした)。ときには失言を引き出すこともあるでしょうが、それは揚げ足取りの材料になるだけです。敵の失点は自分の得点というのがわが国の政治家に共通した信念であり、議論よりも非難をした方が大衆受けするということをよく知っています。これではいつまで経ってもまともな議論の展開は望めません。
 政治の場合、政治家個人の感想よりも、責任のある立場の人としてどう判断しているのか、どう行動していくのかを伝えてもらった方がよほど有益です。記者の方が質問をする際には、それはなぜですか? ということを何度も繰り返していただきたい。そうすると深く考えていない政治家はたちどころに馬脚を現します。満天下に恥をさらすわけですから、そうならないよう緊張感が生まれることになります。
 仲良しクラブみたいな取材環境でつくられたニュースは退屈でなりません。
by T_am | 2009-03-25 06:05 | 社会との関わり
 私用での手紙を滅多に書かなくなりました。理由は電話が普及したから。ちょっとした用件であれば、わざわざ手紙を書かなくとも電話をかければ済むからです。
 現代は、ちょっとした用件をメールでやりとりするらしい。この場合のメールとは携帯電話のメールであり、「らしい」と書いたのは私がそれを使っていないからです。
 商業文を手紙で書いたり、電子メール(この場合はパソコン。以後も「電子メール」と書いた場合はパソコンで発信するメールと思ってください。)でやりとりするということは頻繁に行っています。コミュニケーションを文書でとるか、それとも会話でとった方がいいのかを使い分けています。

 若い人たちで、手紙を書いたことのない人は大勢いると思います。ゆえに、この人たちは手紙を書く際のマナーというか感覚がわからない。携帯のメールしか使っていなければそれも当然でしょう。
 ごくたまに、携帯からメールが送られてくることがあります。そこで困るのが差出人の名前が書かれていないことです。メールソフトのアドレス帳に登録してあれば送信者が誰かわかるのですが、そうでない場合誰が送ってきたのかわからないままとなります。
 もっとも、たいした用件ではないのが多いので実害はないのですが・・・

 手紙の場合、末尾に日付と相手の名前と自分の名前を書きます。これは商業文でも変わりません。そのときに、差出人の名前を名字しか書いていないものがあり、受取人であるこちらの名前がフルネームで書いてあると横柄な感じがします。私の感覚では、相手の名前をフルネームで書くのは、それだけあらたまった手紙であるということであり、それだけに差出人の名前が名字だけというのは失礼であると思うのです。
 これは携帯のメールとは無関係です。そもそもそういう大事な文章を携帯のメールで送るということがありえないのですから、気にする必要はありません。

 若い人の中には、ラブレターを書いたこともなければもらったこともない人が大勢いるのではないかと思います。そんな必要はないといわれればそれまでなのですが、なんだか寂しいような気がします。
 余計なお世話ついでにもうひとつ書いておくと、メールで使われる顔文字は遊び感覚で使われているのだろうと思えばどうということもないのですが、これに頼るのもどうかと思います。それよりも文章に自分の気持ちを込める工夫をし、送られてきた文章の行間を読み取ることを心がけた方がいいように思います。ブログで多用される(笑)というのもそうですね。これを雑誌などの活字媒体で見かけると情けなくなります。一応文章を書くプロが書いているはずの記事なのに、あまりにも芸がないと呆れてしまうのです。
by T_am | 2009-03-23 13:00 | 社会との関わり
 昨日からアクアラインと本四連絡架橋で高速料金の割引がスタートしました。この後、29日から地方高速道路を土日祝日に限りどこまで走っても高速料金が千円となります。政府の説明では景気対策とのこと。それにしては割引の対象となるのがETC車載器の搭載車だけというのはおかしいと思いませんか?
 個人消費を促して景気対策とするのであれば、高速道路の全利用者に対して割引を実施すべきでしょう。
 民主党は高速料金の無料化を政策として掲げています。仮に、民主党が政権党となってこの政策を実行に移す場合、対象をETC搭載車だけとしたらどうなると思います?

「ふざけんじゃねーぞ!」
「国民をなめんなよ!」

 こういう声が巷に飛び交うことは必至であろうと容易に予測されます。なぜかというと誰でも法の前に平等だからです。
 ところが、今回の措置については、非難の声はあまり聞こえてきません。どちらかといえば、マスコミも好意的に報道しているようです。昨日の読売新聞の社説は、安くすればいいというものではないと批判的でしたが、割引の対象がETC利用者に限定されていることにはふれていませんでした。
 今回の高速料金割引の財源はいわゆる霞ヶ関埋蔵金と呼ばれる特別会計が充てられています。特別会計といっても税金です。高速料金を割引するということは、利用者が支払うべき料金を国が税金を使って肩代わりするということですから、本来その恩恵を受けるものは平等でなければなりません。
 しかし、実際にはETCの利用者だけがその恩恵を受けることができ、層でない人は蚊帳の外に置かれています。

 問い1:なぜ高速料金を大幅に割り引くのか?
 答え1:料金を安くすることで高速道路をばんばん使ってもらい、消費を拡大することが景気対策につながるから。
 
 問い2:なぜ割引の対象をETCの利用者に限定するのか?
 答え2:ETCの普及率を高めたいから。

 政府が3月31日までにETC車載器を購入した人に、四輪車の場合最大で5250円の助成金を支給するということを行い、現在取扱店の店頭では品薄(というよりもほとんど品切れ)状態となっています。このため、金子国交相は100万台まで助成を続ける考えがあることを表明しました。
 ETCが料金所(特に出口)での交通渋滞の緩和に役立つというのが、システムを導入した主な理由です。それ以外にも料金所の料金収受員の人件費を減らしたいという道路公団(今ではNEXCO東日本・中日本・西日本という会社です。)の思惑もあったと思います。
 普及率を高めるならば、ETC車載器を買取ではなくてリースにすればもっと普及していたはずです。今までも高速道路の早朝割引、夕方割引、深夜割引など様々な割引制度が設けられてきました。それでも、一般ドライバーが今までETCにそっぽを向いてきたのは、二万円近いお金を出してETCをつけてもそれに見合うメリットがないと判断していたからです。割と頻繁に高速道路を利用するユーザーは既にETCをつけています。取り付けにかかる費用を負担しても料金割引のメリットの方が大きいからです。
 今回の政府の措置に関心が高いのは、この春高校を卒業して息子や娘を大学に進学させる地方在住の親たちです。引っ越しに車を出さなければならないからですね。高速道路を使って往復してもその料金が数千円で済むというのであれば、親たちが色めき立つのも無理はありません。
 政府にしても今更、ETC車載器をリースにします、といえば既に購入済みのユーザーから「金返せ」と怒られることになるわけですから、口が裂けてもそんなことをいうわけにはいきません。けれどもETCの利用率を上げたい(ETCの推進役は、財団法人 道路システム高度化推進機構という国交相所轄の団体です。当然そこの理事には国交相出身者が天下りしています)ので、あの手この手で利用率を増やしてきたわけです。
 しかし、割引実験をした当初は、料金を割引することで通行量を増やすことができないかというものでした。当初の目的は通行量を増やすということだったのです。それがどういう経緯を経てETC利用者だけを割引の対象とすることになったのかはわかりません。けれども目的のすり替えが行われたことは間違いないといってもいいでしょう。

 今回、高速料金の大幅割引を行うにあたり、国交省としては、この機会にETCの普及率を高めることに利用しようということにしたのだと思います。その延長がETC購入者に対し、助成金を出すということです。このように、景気対策といいながら実際はETCの普及率アップという目的にすり替えられているのです。それならば、もっと助成金の金額を増やせばいいのですが、そうなると自動車を持たない人から文句が出ることを恐れているのでしょう。
 
 30日からは平日でも全車種(トラックも含む)の高速料金が3割引となります。トラックの場合、ETC車載器をつけている車が多いので、その分物流コストが下がることになりますから、日本経済に与える影響も大きなものがあることは否定できません。むしろこちらの方が影響が大きいのではないかと思います。けれども平日の全車種3割引ということはあまり報道されていません。政府も、土日祝日の高速道路千円で乗り放題ということを強調しているようです。
 こうしてみると土日祝日の高速道路が千円で乗り放題というのは、国民の耳目をひくための人気取り政策なのだと思えてなりません。そこに国交省道路局の思惑(というよりは利権?)が加わったというわけです。

 これは経済産業省の所轄になりますが、日本経済に大きな影響を与える法律に省エネ法の改正があります(改正されたのは昨年)。これは、簡単にいえば、石油の消費量を減らすために、省エネ法の対象となる事業所の範囲を拡げて、従来は一定規模以上の大規模な工場・事業場を対象としていましたが、改正法では企業全体で年間のエネルギー使用量が1500キロリットル以上の会社に対して省エネを義務づけるというものです。この結果小売業やサービス業も省エネ法の対象に入り、エネルギー(実際は石油)の使用を合理化していく義務が課せられることになりました。

http://www.enecho.meti.go.jp/topics/080801/3.pdf

 いったい、この国は石油の消費量を減らしたいのか、それとも増やしたいのかどっちなのでしょうか?
 政府とマスコミは、スーパーのレジ袋を有料化して石油資源を節約することで温暖化ガスの排出を抑制しようといっておきながら、もっとどんどん車に乗って石油を消費してください、ということも呼びかけているのです。
 今までエコロジーを推奨していたはずのマスコミも、今回の措置に否定的な意見を述べたところは(私の不勉強もあるでしょうが)、今のところ見あたりません。
 環境省はなぜ黙っているのか? チームマイナス6%はどこへ行ったのでしょうか?

 景気対策が必要であることは、経済の素人である私にも理解できます。しかし、こうも場当たり的な政策が繰り返されるのを見ていると、日本という国が活力を失いつつあるというのも当然であるように思えるのです。

追記
 平日全車種3割引は、走行距離が100km以内に限定されています。しかも1日に何回も乗る場合は最初の2回までに限られ、実施期間も7月7日までとなっています。生活対策という名目ですが、いったい普通の人が仕事とは関係なしに平日の昼間に高速道路を走るものかですかね。全車種を対象としているわけですから、仕事で高速道路を使う人も想定しているはずですが、それにしてはセコイと思います。走行距離を限定したことで実に中途半端なものになりました。なんのためにそれをやるのか、という目的がぶれると中途半端なことになり結果として何をしているかわからなくなってしまうという典型的な事例です。
by T_am | 2009-03-20 21:29 | あいまいな国のあいまいな人々
 黄砂のせいで鼻水が止まらない。事務所の中にいればそれほどでもないのだけれども、出張に出ているのでもろに黄砂を吸い込むことになるようだ。
 喉が痛むうえに悪寒がするところをみると風邪のひき始めらしい。ドラッグストアに飛び込んで風邪薬を買って呑む。風邪かなと思ったらすぐパブロン、じゃなくてすぐ薬を呑むことにしている。市販薬でも効果がなければ、かかりつけの医者にいって薬をもらう。風邪はひき始めが肝心。なんだか薬の宣伝文句ばかりだけれども、本当にそうなのです。ひき始めの対応如何で風邪はこじれもし、また、すぐ直りもします。
 それにしても、悪寒がするときに、駅で女子高校生の短いスカートを見ると寒気が倍増しますね。今年はストッキング(黒が流行しているらしい)を履いている娘が多いけれども、数年前は生足の娘が多かった。もろに木枯らしを受けて足を真っ赤にしているのを見ると、そこまでして自分をかわいく見せたいかと嘆息したものです。

 「『オシャレしようと思ったら、少しくらい寒くても我慢しなさい』ってお母さんにいわれたの。」
 
 これは、高校生の頃デートしたときにガールフレンドが言ってた言葉です。初冬なのに薄手のセーター一枚だったので、「寒くない?」と聞いたところ、こう答えたのです。ガールフレンドにこう言われると、なんていぢらしい、と思うから不思議です。多少の我慢をしても自分をかわいらしく見せたいという心理は同じでも、自分のガールフレンドだと可憐だと思うのですが、赤の他人だと、こいつらどうかしてるんじゃないか? と思ってしまいます。
 矯正下着もそうですね。胸を形よく見せるブラすっかり定着しました。値段が高めなので、普段は安物の下着をつけていても、デートのときは必須アイテムとなっています。女の子はパンツだけで勝負すると思ったら大間違いです。デートのときは素直に褒めてあげましょう。「今日はとても可愛いよ。」
 そうすると女の子は本当に可愛くなっていきます。

 女の人はいくつになっても、可愛いと言われると嬉しいようです。それも、どうでもいい男から言われるよりは好きな男から言われ方がはるかに嬉しいようですね。だから、お父さん方もたまにはご自分の奥さんを褒めてあげてください。
「今日はなんだか可愛いね。」
 もしかすると、夕ご飯のおかずがいつもより一品多くなるかもしれません。ただし、お父さんの日頃の言動によっては、「何よ。何か下心があるんじゃないの?」と疑われかねませんのでご注意を。
by T_am | 2009-03-19 07:01 | 心の働き
 人間は全能ではないがゆえに、森羅万象すべてにわたって理解することはできません。その人がわかっていることとわかっていないことを比べれば、誰でもわかっていないことの方がはるかに多いのです。
 わかるというのは二つあって、自分で認知し納得することによってそれが「ある」とわかる場合と、認知できない(すなわち、なんだかよくわからない)けれどもそれが「ある」とわかる場合とがあります。
 人類はまだ素粒子を直接観測していませんが、それが「ある」ことを知っています。時間と空間も同様です。これらは、それが「ある」ことを直接観測することはできませんが、様々な状況証拠によってそれが「ある」ということが認められています。
 この場合、その実物の「存在」を認識しているのではありません。概念として理解しているか、あるいは知識として知っているのです。物理学者にとって素粒子は「概念」ですが、私も含めて一般人にとって素粒子は「知識」に過ぎません。もちろん、その実物を見た人は誰もいません。
 
 わかっていないというのにも二通りあって、認識することは可能であるがまだ認識していないので「知らない」場合と、そもそも認識することができなくて(つまり「見えなくて」)「わからない」場合とがあります。
 自然や歴史、事件の真相というのは前者に属し、神や霊魂は後者に属します。
 前者の場合、理解するための手段として科学があります。ですから、科学の発展は認識する技術の発達に支えられてきました。
 ただし、歴史や事件の真相は人間の想像によってその空隙が埋められることもあります。NHKの大河ドラマで今年は「天地人」が放映されていますが、これは史実と作者の想像によって埋められたその隙間に基づいてつくられています。たとえば、長澤まさみが演じる初音というキャラクターは原作者の想像の産物です。また、直江兼続の台詞も史実として伝えられているもの以外は作者の想像によるものです。
 物語の面白さは作者の想像の面白さによって左右されます。司馬遼太郎さんや宮城谷昌光さん、みなもと太郎さんのような大家は、史実として残されていない歴史の空白を想像力で補い、その人にしかできない表現力で書き記す(みなもとさんの場合は描く)巧者です。

 このように人間には、「見えないもの」を、状況証拠を固めることでそれがそこに「ある」と理解する能力と、想像力によって補う能力が備わっています。ですから、「見ることができない」という理由でそれを直ちに否定することはいささか短絡的であるように思います。
 たとえば、神(大文字のGOD)を見ることはできません。そこで神を「存在するもの」と考えると、誰もその実物を見ることはできないのですから、神はいないという結論が導かれます。ところが、神は「作用」(すなわち、人生の節目であなたの「背中を押してくれる力」)であると理解すると、神はあるということができます。もっとも、養老孟司先生であれば、「神はあなたの脳の中にある」とおっしゃるかもしれません。たぶん、それが真実に最も近いのだろうと思います。
 幸か不幸か私には霊能力がありません。したがって、私には霊を見ることができません。だから霊などないと主張するつもりはありません。神と同様に、霊も存在であると考えると、これを観測する技術(誰でも見えるようにすること)を人類は持たないのですから、霊は存在しないと主張することも可能です。しかし、霊を「語りかける相手」として理解する人にとっては、霊はあるということになります。私には霊能力はありませんが、そういうことは理解できるのです。
 ただし、「功徳を施せば神様に報いてもらうことができる」と説く人や、「霊が人間に災いをもたらした場合、それは私のような特殊な能力を持った人間が祓うことができる。悪い霊を祓ってもらいたければその対価を支払いなさい。」と説く人を私は信用しません。水子供養を勧める宗教家も同様です。これらはいずれも人の弱みにつけ込む輩だからです。
 私の今の住まいの南側には墓地が隣接してあります。タバコを吸うときは(家の中では吸わせてもらえないので)墓地に面したベランダに出て吸うことになります。毎日のように、六十基くらいある墓石を見下ろしながら(我が家は2階にあります)タバコを吸っていると、常にどれかのお墓にお花が供えられていることに気づきました。
 お花を供える人はたいていはおばあちゃんです。朝早くやってきてはお参りをして帰って行きます。
 その様子を眺めているうちに、墓地だから薄気味悪いと思うのは失礼なことではないのかと考えるようになりました。熱心にお墓参りをする人がいて、その対象を穢れていると決めつけるのはやはり間違っているということに思いあたったのです。
 仏壇やお墓に相対し、死んだ人に向かって語りかけるということが私たちにはあります。死者は何も答えてくれませんが、それでも人は語りかけることをやめません。これは人間が持っている性なのだといえます。
 人間は、自分に見えないものでも「感じる」(あるいは「わかる」)力を持っています。
 ところが、合理的思考に慣れた現代人は、見えない=存在しない、わからない→否定する、と短絡的に結びつけて考える傾向が強いように思います。そしてそのような人ほど、「目に見えるもの」や「言葉にされたもの」に縋り付くようです。
 合理的に判断するというのは必要なことですが、世の中には合理的に判断してはいけないものもあります。人間関係がまさにそうで、そこに合理的思考法を持ち込んで、見えるものだけを信じたり、自分にわからないものを否定するということを繰り返していると、弱い方の心がより多くすり減っていき、歪んでいきます。
 その被害を受けやすいのが子どもです。
 どういうことかというと、「見えるもの」にテストの点数や順位をあてはめて、「わからないもの」を子どもの気持ちや才能と置き換えてみれば、おわかりいただけるかと思います。その場合、最大の被害者は子どもですが、親の心も少しずつ歪んでいくことになります。本人は気づいていませんが。

 このように、自分にとって「見えないもの」や「わからないもの」にも意味がある場合があります。自分に「見えない」からといって、直ちに「存在しない」と結論づけたり、「わからない」からといって否定するというのは、知性に欠けた振る舞いであるといわざるを得ません。
by T_am | 2009-03-17 06:58 | その他
 テレビ局と新聞社による世論調査が毎月行われています。毎月、「麻生内閣の支持率が○○%に下落しました」と報道される、あれです。今月もこの前、調査結果が仰々しく報道されていました。覚えておいででしょうか。
 この調査手法は電話調査と呼ばれているもので、コンピュータが無作為に表示した電話番号にかけて、アンケートに答えてもらうというものです。全国民にアンケートをとればいちばんいいのですが、それだと時間と費用がかかりすぎるので、このように無作為抽出した人たちにアンケートに答えてもらうことで全体の傾向を把握しようというわけです。
 このような調査手法を標本調査といい、世論調査ではおおむね千件程度の回答が得られるように電話をかけて調査をしています。
 千件程度の標本数で日本国民の意識がわかるのか疑問に思われる方もいらっしゃると思います。理論的には、これくらいでもいいらしいのですが、標本調査を実施する際には注意しなければならないことがいくつかあります。
 第一に、調査対象(標本)に偏りがないこと。つまり、男性だけに偏ったり、標本が特定の地域・年代に集中しては、結果も偏ったものになってしまいます。
 実は、電話調査というのは固定電話に対してかけるのですから、携帯電話しかもっていない人にはかかってきません。IP電話も同様です。携帯電話しか持っていない世帯というのは独身世帯(社員寮に入っている人を含む)がそうですし、学生もそうです。逆に、固定電話を持っている人というのは、ある程度年齢がいっている人たちです。そうしてみると、マスコミが行っている世論調査というのは、実は固定電話をもっている層に対する調査であることがわかります。その意味では「世論」調査という名称はちょっと問題があるようです。
 けれども、携帯電話しか持っていない人たちが新聞やテレビのニュース番組にきちんと目を通しているかというと、そういう人は少ないと思われます。ですから、世論調査の結果が大々的に発表されても、その結果にそれほど違和感を感じないのは、ニュースをご覧になるあなたが固定電話を持っている層に含まれるからです。
 二番目の注意点は、質問の内容を吟味することです。
 世論調査の中でこんな設問があります。「あなたは、麻生太郎氏と小沢一郎氏とでは、どちらが内閣総理大臣にふさわしいと思いますか?」
 この質問の仕方は二者択一を迫るものであり、他の回答を選択することができないところに問題があります。回答した人の中には積極的に麻生氏(もしくは小沢氏)を信任するという人もいるでしょう。しかし、中には「俺は与謝野さんの方がいいと思うだけどなあ」とか「あたしは岡田さんの方がいいと思うわ」という人がいても、二人のうちどちらかを選ばなければならないという制約が加えられています。そういう人はどのように判断するかというと、「どちらの方がまだましか?」という考え方によって回答することが考えられます。しかし、回答者のそのような心理状態は調査結果には反映されません。
 この回答状況は次の通りです。
 日本テレビ 回答数613  麻生太郎氏27.7%  小沢一郎氏21.7% わからない50.6%
 読売新聞  回答数1065  麻生太郎氏26.4%   小沢一郎氏35.3%  わからない38.3%
 産経・FNN 回答数1000  麻生太郎氏23.2%   小沢一郎氏31%  わからない47%
 朝日新聞  回答数1126  麻生太郎氏22%    小沢一郎氏32%  

 気になるのは日本テレビの調査だけが他の調査と逆の結果になっていることです。標本数が他の調査に比べて少ないので、その分誤差が大きいのかもしれません。
 または、調査主体のイメージが標本を偏ったものにしているということも考えられます。マスコミは不偏不党を謳っていますが、会社によってそのポジションが異なることは周知の事実です。読売や産経は保守的、朝日や毎日はその逆、というイメージができあがっています。ですから回答者によっては、たとえば朝日新聞の調査だったら答えたくないという人もいるのです。逆に、朝日新聞のファンであれば積極的に協力するでしょう。こうしたことが調査標本を偏ったものにしていくことも考えられます。
 日本テレビ1社だけが他の調査結果と異なっているというのはなぜなのか、その原因はわかりません。来月以降の調査結果も継続的にみないとこの結果が意味することについて判断できないと思います。
 それよりも、この調査結果を見る限りでは、「麻生さんよりも小沢さんの方がまだましと思っている人たちの方が多い。それ以上にどちらも総理にふさわしくないのではないかと疑問を持っている人の方が多い」ということだけはわかります。その点、「わからない、無回答」を朝日新聞が無視しているのは理解できません。どうしても白黒つけたいということなのかもしれませんが、それ以外の考えを持っている人たちがいるということをきちんと掲載すべきです。
 各調査の数値がすべて異なっているのは、誤差がつきものであり一致するはずがないからです。ですから、たとえば読売新聞が、「麻生氏の方がふさわしいと応えた人は26.4%いるが、小沢氏の方がふさわしいと応えた人は31%いた」と発表したとしても、その数字には、誤差が含まれているので、あまり意味がないと判断する方が無難です。
 それでも、麻生さんを選んだ人と小沢さんを選んだ人とではどちらの方が多いか? ということについては信頼していいと思います。けれども、麻生さん(あるいは小沢さん)を積極的に信任するという人が世の中にどれだけいるかということについては、この調査からはわからないのです。
 
 むしろ世論調査の読み方としては、数字が前回の調査と比較してどのように変化したか? にウェイトを置くべきでしょう。
 朝日新聞の1月の調査では、小沢さんの方がふさわしいと答えた人は45%いたとのことです。2ヶ月の間に、その割合は減ってしまっています。この間に西松建設の違法献金疑惑が持ち上がり、小沢さんの秘書が逮捕されたということが影響しているからです。

 世論調査の結果というのは、マスコミ各社が仰々しく報道していますが、鵜呑みにすることはできません。調査結果について信頼していいのは、どちらの方が高いか(あるいは少ないか)という比較と、前回の調査と比較して数字がどのように変化したかというトレンドだけです。
 それも固定電話を持っている層に対する調査ですから、固定電話を持たない層がどのように思っているかというのは、調査結果には現れてきません。ですから、○○%という数字にはあまり意味がありません。
 そういうのを「世論調査」と称するのは、羊頭を掲げて狗肉を売るようなものではないかと思います。
 それだけに「世論調査」が世論誘導の道具として使われる可能性もあります。現に、「アナウンス効果」というものがあることが指摘されており、これは特定の政党や政治家に対する報道が有権者の投票行動に影響を及ぼすことがあるというものです。
 今回の調査の中に、献金疑惑に対する小沢代表の説明について「納得しているかどうか?」という質問がありました。さらに「小沢代表は責任をとり代表を辞任すべきだと思うか?」という質問もありました。
 これらの質問は、世論誘導につながりかねない危険性を孕んでいると思います。
 というのは、これらの質問が「小沢代表はクロだ」という前提に立っているからです。確かに、この国では、疑惑を持たれた政治家が国民を納得させるだけの説明をしたというのは過去に一度もありません。中には自殺した政治家もいます。そういうことがあるので、政治家に対するお金の疑惑が報道されると、こいつはクロじゃないかという目で見てしまいがちになります。ですから、「納得していない」と回答した人は小沢代表はクロであると思っているということであって、小沢代表の記者会見の様子を見ているとは限らないということがいえます。仮に見ていたとしてもダイジェスト版でしょう。
 したがって小沢代表の説明に納得しているか? という調査を行ったことによって、同氏がクロであるというイメージ付けが改めてなされたと思います。
 また、責任をとり代表を辞任すべきかどうか、という質問もおかしな質問です。本人が事件に関与していたことが明らかになれば、その責任をとるとすれば国会議員を辞職する以外ありません。国会議員でなくなれば民主党の代表も辞めなければなりません。民主党の代表というポストは違法献金とは関係ないのです。にもかかわらず、代表を辞めるべきだと思うか? という質問はいささか短絡的過ぎると思います。にもかかわらずそのような質問を設けるというのは、本人がクロだという前提に立っているからでしょう。
 そのような先入観に基づいて行われる調査結果を公表することは、国民に対しアナウンス効果をもたらすことが懸念されます。現在、選挙が直ちに行われるというわけではありませんが、政治家や政党に対するイメージはこのようなマスコミの報道によって少しずつ変わっていっているというのが事実です。それだけの力をマスコミは持っているのです。

 日本は議院内閣制ですから、与党第一党の党首が総理大臣となります。したがって、麻生さんと小沢さんと比較して、どちらが首相にふさわしいと思うかという調査をすることは論理的に間違いではないといえます。
 それにしても、政党の党首というのは、自分のあずかり知らぬところで他人と比較されて、その結果を世論調査でございますといって大々的に公表されるのですから、普通の神経の持ち主であればプライドがずたずたになっても不思議ではありません。しかもそのことについて文句も言えないのです。
 ですから、総理大臣というのは割の合わないポストであり、相当強靱な精神の持ち主でなければ勤まらないと思います。だから安倍さん、福田さんは途中で放り出すようにして辞めてしまったわけです。また過去においては在任中に亡くなった人もいます。
 麻生さんの神経が図太いことは周知の事実ですが、小沢さんも相当図太そうですね。
by T_am | 2009-03-16 07:10 | 社会との関わり