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カクレ理系のやぶにらみ

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時間のある方はお読みください。軽い気持ちで読み始めると頭が痛くなります。

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 自分の意見の正当性を主張する際に用いられるレトリックには様々な種類がありますが、最も多用されているのは次の2つではないかでしょうか。

1.私の言う通りにすると、こういういいことがありますよ
2.私の言う通りにしないと、こういう悪いことがありますよ

 1.はテレビショッピングやラジオショッピングなどの通販で多用されています。そこでは、「この商品を使うとこういういいことがありますよ。しかも今回は特別に普段よりもずっと安く買えますよ。」という二段構えのセールストークが繰り広げられているのが普通です。いわば、人間の欲を刺激するレトリックであるといえます。
 2.の論理は霊感商法でおなじみですが、基本的には相手に恐怖感や不安感などを植え付けて自分に従わせようとするものです。
   
   勉強しなさい。遊んでばかりいると大人になってから苦労するわよ。

 世のお母さん方がわが子に向かって一度は口にしたことがある言葉ですが、あまり高圧的にいうとかえって子どもの反発を招きます。一部の占い師でこのような言い方をする人がいますが、どちらかというと少数派です。実際には、もっとソフトに、次のような説得の仕方がとられます。

2’.このまま何もしないでいると、こういうことが起こりますよ。
  それを回避するには、このようなことをしなければなりません。

 このようなレトリックは日常至る所で見受けられます。社会保険料の値上げや増税がなされたときもそうでしたし、最近では温室効果ガスの排出削減の正当性を訴えるために用いられています。
 このようなレトリックはなにも霊感商法の専売特許というわけではなく、政府広報でも用いられていますし、かくいう私自身も用いたことがあります。
 このレトリックが多用されるのはそれだけ効果があるからです。それだけに、これを用いる人は、なんとしても相手を説得したいという意図を持っています。それは善意に基づく場合と悪意に基づく場合とがありますが、根底にあるのは自分のやっていることに疑問を感じていないということです。

 上手に嘘をつく秘訣は、99%の真実を並べた中に1%の嘘を織り交ぜることです。ここでいう「嘘」とは、自分で考えついたことを指します。99%の真実が1%の嘘にきづかないようにしてくれます。逆に、真実の割合が低ければ、すなわち嘘が多ければ、相手に見破られる危険性は高くなります。

 また、何も嘘をつかなくとも、自分に都合のいいところだけを強調して、都合の悪いところは敢えて伏せておくということも行われます。2004年に成立した年金改革法では、厚生労働省は法案が成立するまで前年の出生率を公表しませんでした。それまで、出生率は前年並みと見込んで作成されたプランだったのですが、実際に公表された出生率は02年が1.32であるのに対し、03年は1.29でした。国会での審議中にこの数字を公表すると法案の成立に支障をきたすことを恐れて、敢えて公表を遅らせたものと考えられています。
 統計数値やグラフは、相手を説得する有効なツールとして、プレゼンテーションでは必ず用いられています。しかし実際には、良心的でない人たちに自分の都合のいいようにつくられた資料が用いられています。
 そのような作為を見破るには、多少の専門的な知識が必要となります。といっても高校卒業程度の学力があれば充分理解することができるのです。

 人は自分が見たいと思うものを見るものですし、信じたいと思うものを信じるものです。

 「僕は君のことを信じている。だって、君のことが好きだから。」というのは、論理としては支離滅裂ですが、感情としては筋が通っています。ここで、「君のことを信じることができる」といっているわけではないことに注意してください。言っているのはあくまでも「君のことを信じている」という意思の表明に過ぎません。なぜわざわざこんなことを言うのかといえば、信じようとしなければ好きだという思いが冷めてしまいかねない、ということに不安を感じているからです。したがって、このようなメッセージは「君のことを好きでいたいから、君を信じる。」という意味であると解釈することができます。そして、その後には次のようなメッセージが隠れています。

 「だから、君を疑うことにつながる事実は見たくないし、知りたいとは思わない。」

 一方、人間が誰かを嫌ったり憎んだりするときは、これと逆のことが起こります。すなわち、その人のいいところを見ようとはせずに、悪いところだけを見ようとするのです。けれども自分の気持ちが次の通りであることに、自分自身では気づいていません。

 「この人のことを嫌いで(憎んで)いたいから、この人の悪いところだけを見ていたい。それを覆すような出来事は見たくないし、知りたくもない。」

 このような気持ちを持っている人は、何かあるとことさら悪い方に解釈しようとします。これを偏見といい、人が誰かを憎んだり疑ったりするときに発生します。

 話が脱線してしまいました。申し訳ありません。

   このまま何もしないでいると、こういうことが起こりますよ。
   それを回避するには、このようなことをしなければなりません。

 このレトリックも効果がない場合があります。
 それはどのような場合であるかというと、相手がへそ曲がりである場合とまるっきりの無知である場合です。
 タバコのパッケージには、ご丁寧にこう書いてあります。

  喫煙は、あなたにとって肺気腫を悪化させる危険性を高めます。

 あるいは、医者は喫煙癖のある患者にこう諭します。

  このままタバコを吸い続けていると、そのうち癌になりますよ。

 せっかくの忠告も、肺気腫や癌の恐ろしさを知らない人には効果をあげることができません。また、へそ曲がりは、「いいんだよ。どうせ人間はいつか死ぬんだから。」といって取り合おうとしません。さらに、頭のいい人であれば、反論してくることもあるでしょう。
 私は、どちらかというと、こういうへそ曲がりの方が好きです。
 この人たちにとっては、他人が言うことに素直に従うということが嫌なのです。そのため、善意に基づいて説得を試みる人にとってはどうにも手に負えない厄介者と思われてしまいます。それだけ損をすることもありますが、当人はそのことを意に介していません。
 へそ曲がりが歳をとって角が取れてくると、何ともいえない人間味がにじみ出てきます。
 さらにいえば、へそ曲がりでも抹殺されずに生きていける今の世の中を、かけがいのないものであるとも思っています。
by T_am | 2009-02-28 07:03 | 心の働き
 辞書を開いて、マニュアルという言葉を引いてみると、「操作説明書」「取扱説明書」という訳が並べられています。ここでは、仕事に関連するマニュアルということで「作業手順書」とか「操作手順書」という訳語でご理解いただきたいと思います。
 マニュアルの目的は、次の2つがあるからです。

1.その作業(操作)を初めてやる人でも、それを見ながら作業(操作)をすれば、誰でも同じことができる。
2.ミスや事故を防ぐために、決められたやり方をきちんと守ってもらい、勝手なことをさせないようにする。


 1の目的は、できない人をできるようにするというものですが、「誰でも同じことができる」というのがポイントです。人によって結果がまちまち、というのでは困るのです。したがって、マニュアルの作り方にも工夫が必要となります。
 ところが、たいていのマニュアルは作りっぱなしであり、誰も見ようとはしません。というのは、そういうマニュアルの作り方をしているからです。
 まず第一に、できあがったマニュアルの検証がされていません。少なくとも、マニュアルを新人に渡して、これを見ながらやってみろ、といって作業をさせてみないと、そのマニュアルの出来不出来がわかりません。
 また、マニュアルを分厚いファイルにまとめて綴っているために、手軽に持ち出して読むということができないようになっているのが普通です。
このような職場では、はっきりいって、マニュアルを作るだけ無駄です。どうせ誰も読まないのですから。

 なぜ、こんなことが起こるのかというと、マニュアルを作る人も作れと指示する人も、きちんとした教育を受けていないことに由来します。教育担当者がまじめに勉強をしていない会社だとこのようなことが起こります。素人が素人にマニュアルをつくらせるのですから、まともなものができるはずがありません。

 作業には「教え方」というのがあります。順にあげると、

1.なぜその作業を行うのか理由と目的を説明する。
2.作業の手順を説明しながら、目の前で実際にやってみせる。
3.もう一度同じことを繰り返す。ただし、作業の急所ではコツを強調する。
4.手順を復唱しながら、実際に作業をやらせてみる。できないときは、手順を忘れてしまっているのであるから、覚えるまで教えることを繰り返す。
5.一通りできるようになったら、一人でやらせてみる。途中でわからないことがあったり、予期せぬことが起きた場合、誰に報告して指示を仰げばいいかを明確にしておく。
6.時々様子を見に来る。

 1は動機付けのために必要なステップです。これを不明瞭にしておくと、教わって人が後で自分勝手にアレンジしたり、手を抜いたりすることにつながります。
 3の作業のコツというのも忘れがちなポイントです。どの作業にも品質を一定以上に維持するための急所というのがあるはずなので、それをきちんと教えないといけません。
 5の、何かあったときに誰に訊いたらいいかをあらかじめ明確にしておく、というのは教わる側の不安を降り除くために必要な措置ですが、そこまでで気づかない上司や先輩は多いのです。
 このような教え方ができるようになるには、教える側が作業の内容を分解し、分析しているということが欠かせません。
 同じことは、マニュアルを作る側にもいえることです。ですから、マニュアルを作れと指示をする人は、マニュアルを作る人に対して、「作業の教え方」についての教育を施していなければなりません。

 マニュアルは、上記1から5までのことが書かれているものですから、作業をやるときに手元に置いて見ながら作業ができるようになっていなければなりません。分厚いマニュアルファイルの中に綴られていて、しかも自分が見たいマニュアルがどこにあるのか目次やインデックスも用意されていないというのでは、誰もマニュアルを見なくなります。
 マニュアルを作るのであれば、作業の数だけマニュアル・ファイルがあるべきであり、その保管場所がきちんと決められていなければなりません。そういうことを指導するのも、マニュアルを作れと指示する人の役割なのです。

 なお、せっかく作ったマニュアルでも、それが完全であるという保証はどこにもありません。検証して修正すべき箇所があれば、直ちに直すべきです。修正することを考慮して、ページ単位でマニュアルを差し替えることができるようにしておくということも考えられます。なぜなら、改定が1回ですむとは限らないのですから。

 ついこの間、香川県立中央病院で受精卵を取り違えるという事件が起きていたことが報道されました。このケースでは、受精卵を取り扱う際の取り決めがなかったことも報じられています。
 マニュアルの目的の2にあるように、作業ミスを防ぐためにマニュアルを設ける場合もあります。航空機の整備など、単純なミスでも重大な事故を招きかねない種類の作業を対象にして、このようなマニュアルは設けられます。
 ところが、平成11年9月30日に東海村JCOで起こった臨界事故は、正規のマニュアルを無視することが常態化した中で起こりました。マニュアルが用意されていても、それを守ろうという意識がなければ、マニュアルは無視されることになります。
 ただし、そのことを担当者のせいにしても問題は解決されません。
「なにをやってるんだ! ちゃんとやらなきゃダメじゃないか!」と担当者を叱責すれば、それで事故は防げると考える管理者がいれば、その人は無知であり無能です。人間は本来ミスを犯す生き物であるという認識からスタートしなければ、事故はいつまでも防ぐことはできません。
 そのための手段のひとつに「教育」があります。人間は窮屈なことを嫌うので、何も歯止めがなければ、人は安易な方向に流されていきます。そのため、「なぜこの作業が必要なのか?」「過去にどのような事故やトラブルが起こったのか?」「それは何が原因だったのか?」ということを従業員に教育することが必要であり、それはトップの責任です。トップがそのことに無関心でいれば、管理者は無責任になっていきます。
 その結果、現場の担当者に対する意識付けが放棄されて、マニュアルがどんなに立派でも、誰も守らない、誰も見もしないということになっていきます。
 したがって、マニュアルさえ整えればそれでよいというわけではなく、現場の担当者がマニュアルを遵守するという風土を作っていくことがトップと管理者の責任となります。

 「余計なことはしないで、黙って俺の言う通りやってればいいんだ!」と部下に向かって怒鳴りつける管理者がたまにいますが、このような管理スタイルは部下の人格を否定し、やる気を失わせるので管理者として最低です。短期的には実績を上げることができるかもしれませんが、長期的に見ると、この人が破壊するものの損失の方がはるかに大きくなります。

 マニュアルに対するもう一種類の誤解は、それが人間の創造性と自由を損なうというものです。
 しかし、「自由」と「好き勝手にやっていい」というのは異なります。
 マニュアルが設けられるのは、誰がやっても同じ結果にならなければならない作業に対してであり、そのような作業では好き勝手にやってもらっては困るのです。別な言い方をすれば、マニュアルを設けることができるのはロボットに置き換えることができる作業に限られるということになります。判断業務はマニュアル化(ロボット化)することはできません。
 判断に至るアルゴリズムは人間の脳の中にあるのだから、それをマニュアル化することは可能ではないのか? こう思われるかもしれません。
 実際には、マニュアルはあらかじめ解答(結果)がわかっている作業とは相性がいいのですが、解答が未知であるものをマニュアル化することはできません。これらの分野とは相性が悪いのです。
 したがって、判断業務において個人の創造性が損なわれることはありません。また、マニュアル化されている作業でも、それを改善することが禁止されているわけでもありません。
 このように、マニュアルの用途は限定的であり、誤解されている部分も多くあります。しかも、導入にあたって、従業員の教育などやらなければならないこともあり、結構面倒なツールです。
 それだけに、これが充分活用されているという企業は相当レベルの高い企業です。ご自分の職場にマニュアルがない場合でも、個人の意欲と努力によって部分的にマニュアルを導入することは可能です。作業の種類によってはマニュアルがあった方がいい場合があり、その際はここでご説明したことを参考にしていただければ幸いです。 
by T_am | 2009-02-27 06:58 | 社会との関わり
 今回は、前回お話しした「どっちを向いて仕事をしているか」ということと関連した話です。
 私たちが行う仕事には必ず目的があります。言い換えれば、何のためにそれをやるのか? という問いかけを絶えずしていないと、自分がやっていることが当初の目的から逸脱していってしまうという危険をはらんでいます。
 その例をご紹介しましょう。以下は2月21日の朝日新聞による報道の抜粋です。
http://www.asahi.com/politics/update/0221/TKY200902210132.html

 職を失った人たちへの緊急支援策として、国が昨年末から貸し出しを始めた国家公務員宿舎の空き家が埋まらない。募集枠は1千戸以上あるのに、発表から2カ月近くたった17日現在、財務省に入居の報告があったのは全国で2戸だけ。貸し出しからトラブル対処まで、自治体に国が丸投げしたことが理由だ

 国家公務員宿舎は全国に約22万5千戸ある。このうち入居者がなく一定期間貸し出せる部屋の情報を、財務、国土交通、厚生労働省などが地元の自治体に提供。自治体が了解すれば国と賃貸契約を結んで入居希望者に貸し出す仕組みだ。昨年12月に開始した。安いところでは月3千~4千円程度と公務員と同額の格安家賃で借りられる。

 ところが、つくば市を中心に県内で約190戸の空き部屋情報を連絡された茨城県は、いまも募集を始めていない。国がすべての物件について「入居期間中の家賃は原則として一括で地元の自治体が前納する」「問題があった場合は自治体が責任をとって対応する」というルールを決めているからだ。 (以下省略)

 昨年暮れに日比谷公園で「年越し派遣村」が設けられ、職を失ってホームレスとなった人たちが集まりました。その後、各地で派遣切りなどで職を失った人を救済するための策がとられ、県営住宅などを自治体がこれらの人を対象に貸し出すということも行われました。国家公務員宿舎の提供もその一環です。
 当初の目的は「職を失って寮を追い出され住むところがなくなった人たちへの緊急支援策として(一時的に)住居を提供する」ということでした。したがって、これらの人々が入居することができて初めてその目的が達成されることになります。
 ところが、その目的を実現するための手法の段階で、「入居期間中の家賃は原則として一括で地元の自治体が前納する」「問題があった場合は自治体が責任をとって対応する」という高いハードルが設けられたために、自治体でこれを解決することができず、結果として募集を開始できずにいるという事態になったとのことです。
 やれといわれているからやるけれども、面倒なことには関わりたくないので、責任は全部地方自治体に押しつけるという国の担当者の気持ちが見え見えです。全国で唯一、二人の入居が決まった新居浜市では予算をかき集めて、今年度分の家賃5万円を入居者に代わって一時的に支払うことでクリアできたとのことです。
 所与の目的を達成するために何をすればいいか、何をしなければならないかを企画立案して実行するのが責任あるビジネスマンの役割です。そういうことができるだけの能力があると認められているからこそ正規職員として雇用されているのであり、そこそこ高い給料と権限を与えられているわけです。そこが時給で働くパートタイマーやアルバイトと異なるところです。
 この事例のように、仕事を遂行している途中で当初の目的が失われてしまい、せっかくの施策が効果を発揮しないというのを「お役所仕事」といい、批判の的となります(実際何度も起こっています)が、民間企業でも日常茶飯事のように起きています。
 目的を達成するための障碍はいつだってありますが、それをクリアする手段を考え出して実行するのがプロと呼ばれる人たちです。
 ところが、やる気のない人や仕事の素人は課題を達成する手段を考える中で当初の目的を見失ってしまい、中途半端な結果しか出ないという事態を招きます。また、稀には自分よりも弱いものに意地悪をして憂さ晴らしをするという人(預かった乳幼児を虐待するベビーシッター、寝たきりで身体を満足に動かせない老人をわざと乱暴に扱う介護士など)もいます。
 本来であれば、そういうことが起こらないようにチェックするために上司がいるわけですが、その上司自身が仕事の目的を理解していなかったり、自分の都合を優先させる人であればチェック機能を期待することはできなくなります。

 これをご覧の読者がご自分の仕事に誠実でありたいと考えるのであれば、自分の仕事の目的は何か? これをやることは仕事の目的に合致しているか? ということのセルフチェックをしていただきたいと思います。
 やっていることが仕事の目的から逸脱していくことは、故意でなくとも起こりうることだからです。
by T_am | 2009-02-24 07:04 | 社会との関わり
 今さらと思うかもしれませんが、映画「おくりびと」を観てきました。本木雅弘はいい役者ですね。こういういい役者をリアルタイムで観ることができるというのは幸せなことだと思います。

 今回は「仕事の向こう側にあるもの」を通じて、何のために仕事をするのかについて考えてみたいと思います。
 何度も言うように、私たちが属する組織や会社は分業によって成立しています。そこで行われている仕事はには必ず前工程と後工程とがあります。このことはリレーをイメージしていただくとわかりやすいでしょう。前の走者からバトンを受け取り、自分が走った後で次の走者にバトンを渡す、というものです。こうして、私たちが行った仕事の成果は最終的には消費者(あるいは住民)に辿り着いていきます。

 飲食業や小売業の店舗で働く人は、自分の仕事がお客と直結しているので、自分の仕事に対するお客の反応が直に返ってきます。お客に喜んでもらえれば自分も嬉しいと思いますし、お客が怒れば自分も不愉快になります。
 ところが、エンドユーザーに直結する部門だけが仕事をしているわけではありません。たとえば、人事部の仕事の対象は社員と学生ですし、製品開発部門や生産部門でつくられた製品がエンドユーザーに届くまでにはさらに様々な人の手を経なければなりません。こうしてみると、エンドユーザーに直結しない仕事の方がはるかに多いのかもしれません。
 そこで、自分の仕事は誰につながっているのか? 自分はどっちを向いて仕事をしているのか? ということについて考えてみましょう。
 自分の仕事の相手は、その人が置かれている立場によって異なってきます。

(従業員の場合)
・消費者
・自分の同僚
・他部署の人間(子会社も含む)
・取引先(仕入れ先)
・取引先(納品先)
・取引先(金融機関)
・官公庁(許認可関係)
・上司や経営者

(経営者の場合)
・株主(出資者)
・消費者
・自社の従業員
・取引先(仕入れ先)
・取引先(納品先)
・取引先(金融機関)
・同業者
・株主

(公務員の場合)
・住民、国民
・民間企業、法人
・自分の同僚
・他部署の人間
・他の関係官庁
・納品業者
・上司や議員

 このように、自分の仕事の向こう側には必ず「誰か」がいます。それは、ご覧のように必ずしも消費者(顧客)とは限りません。仕事をしていて嬉しいと感じたとき、よかったと思うときというのは、相手から満足してもらえた、喜んでもらえたときであるというのはどなたにも経験がおありかと思います。自分の仕事の向こう側にいる「誰か」が満足し喜んでくれたとき、自分の仕事に対してやりがいと誇りを持つことができるのです。
 仕事の向こう側にいる「誰か」のために仕事をせよというのではありません。そういうことも考えられると申し上げているに過ぎません。ですから、自分の仕事の向こう側にいる「誰か」を無視して仕事をするということも可能です。法や常識に反しない限り、そうしたとしても咎められることはありません。食品の消費期限や原材料を偽って表示していたということが発覚して問題となった企業がいくつもありましたが、それらは皆、法や常識に反した行為をしたということで責められたのです。

 仕事の向こう側にいる「誰か」を無視し、あるいは「誰か」に気づかずに仕事をしている人は大勢いると思います。もちろん、「誰か」の存在を身近なものとして仕事に取り組んでいる人もいます。
 これらの違いは、その人がどっちを向いて仕事をしているのか? ということに起因します。現在失業中の方は、生活のために職を得ることに切々としていることでしょう。既に仕事を得ている方の中には、ご自分の出世や保身のために上司やトップに気を遣っているでしょう。あるいは、上司のパワハラの下で苦労しながらも、それでも仕事を辞めないのは偏に家族のためであると割り切っている人もいると思います。また、自分のキャリアアップのために今の仕事をとらえているという人もいると思います。

 どっちを向いて仕事をしてるのかを整理してみると、次のようになります。

1.自分自身
2.自分の生殺与奪の権限を握っている人
3.自分の身近な人たち
4.自分の仕事の向こう側にいる「誰か」

 どれがよくてどれが悪いということは申しません。
 たとえば、トップの顔色を伺いながら仕事をしている人は、少なくとも自分の仕事には手を抜かないので、人ごとのように仕事を進める無責任な人間よりははるかに仕事の成果をあげることができます。会社にとってどちらが有益な人間であるかは明らかでしょう。
 このように、物事にはマイナスの面ばかりではありません。
 要は、自分がどれを選択するか(選択しているのか)ということになります。

 自分が置かれている状況によっては、これしか選択肢がないという場合もあります。現に、失業中の人であればきれい事なんか言ってられない。とにかく勤め先を見つけたい。と思っている人がいるであろうことは容易に想像できます。
 弱者とは他に選択肢のない状態にある人をいうのですから、その人たちがどれを選んだとしても他人がこれを責めることはできません。
 ただし、詐欺師や犯罪者は、自分の向こう側にいる「誰か」を利用し傷つけるために行動します。しかし、上記のうち、1から3に該当する人たちは、自分の仕事の向こう側にいる「誰か」を軽視または無視することはあっても、これを利用することまでは考えていません。ここが普通の市民と犯罪者とで決定的に違うところです。
 けれども共通点はあるのであって、人間はその人の体温や息づかいを知らない場合は、他人を記号としてとらえることができ、記号に対してはどんな酷薄なことでも平気でできるというところが共通するところです。
 ちょっと前(2月13日)に、強制退去処分を受けたフィリピン人夫妻が申請していた特別滞留許可に対し、東京入国管理局はこれを認めずに夫妻に対し帰国日を決める通知をした報道がありました。この夫妻には日本で生まれた中学一年生の娘がおり、両親と一緒にフィリピンへ帰っても言葉も話せないし、知人もいないということで、入管の決定に批判的なトーンの報道が多かったように記憶しています。
 このケースでも、不許可の決定をした官僚にとって、この一家は単なる「記号」であったのだと思います。法の適用は厳正中立であるべきであり、悪しき特例を設けると今後も同じことが発生するという考え方もあります。その視点に立てば人間を記号として扱うのは適正であるということになるのですが、釈然としない思いが残ります。
 この問題については、いずれ「システムと個人」というテーマで考察することにして、ここでは、人間は他者を記号として認識したときに、記号に対してはどこまでも酷薄に慣れる性質があることを指摘しておくだけにとどめます。

 自分に対し、他人を記号として認識することを許可する人は、自分が他人から記号として認識されるかもしれないというリスクには気づいていません。どういうことかというと、たとえば振り込め詐欺の犯人たちは、アウトローの世界に身を置く以上、もっと大きな暴力の餌食にされることがあるということです。
 このことは、合法的なシステムの下でも起こりうることです。
 自分はその世界を最後まで泳ぎ切ってみせるという自身のある人はともかく、それが嫌だという人は、他者を記号として扱うということから決別しなければなりません。

 実は、自分の仕事の向こう側にいる「誰か」の存在を意識できるというのは、人間が本来持っている能力なのではないかという気がしてなりません。映画「おくりびと」がヒットし、数々の賞を受賞したというのは、人間は誰かに満足してもらい喜んでもらうことに自分の存在気を見出すということに共感した人が多いからであろうと思います。
 そもそも、自分が行ったことに対して満足したり、感謝してくれるというのは、その人を記号として扱う限りあり得ないことです。

 どっちを向いて仕事をするのかということについて、自分の仕事の向こう側にいる「誰か」を意識して仕事をすることは、その「誰か」のために仕事をするということになり、結果として自分に返ってくるということがいえると思います。
 ただし、見返りを期待して他人に何かをしてやると考えると裏切られることの方が多いものです。また、自分がしたことを理解してもらえないということだってたくさんあるはずです(「おくりびと」の中でもそのようなシーンがありました)。だから、そのようなことは一切しないという考え方も成り立つのですが、それでも、人間が他人に親切にしたいと思うのは、そのような性質が本来備わっていることに起因するのですから、「自分がやりたいと思うからやる。それ以上何も望まない。」というふうに割り切って振る舞うことの方が自然に適うのではないかと思います。
by T_am | 2009-02-23 07:06 | 社会との関わり
 以前も書いたように、労働者の大半は企業との間で包括労働契約を締結しています。
 包括労働契約というのは、仕事の内容は勤務地については(原則として)会社に一任するという内容の契約です。だから労働者は、辞令一本で異動(場合によっては引っ越しも)しなければなりません。労働者本人には、会社との間で契約書を交わした覚えはないので、そのような自覚はないと思いますが、契約は双方が合意した瞬間に成立する(契約書はそれを証拠として残すための書類です)ので、実態はそういうことなのです。
 就職はしたものの、自分の持っていた仕事とは違うとかやりたいことがやれないという理由で会社を辞めてしまう人が多いそうですが、それも会社との間の労働契約が包括契約であることに由来します。それが嫌であれば、私はこの仕事をしますという請負契約を会社と締結しなければなりません。
 しかし、請負契約というのは、単純で賃金の低い(たとえば内職のような)仕事か報酬は高いけれども難易度が高い(つまり誰にでもできるわけではない)仕事の両極端に分かれてしまいます。
 大卒の若者に、このような難易度の高い仕事をこなすだけの能力が備わっていることは考えにくいので、単純で賃金の低い仕事しか選べないという状況に陥る可能性が極めて高いといえます。

 包括労働契約について会社の視点で考えてみると、海のものとも山のものともわからない新卒の若者を大量に採用するわけですから、当たりはずれがあることは当然覚悟しているはずです。
 どれだけの能力があるのかよくわからない人間に仕事をさせるときに、普通であれば、誰でもできる仕事から与えて様子を見ながら、次第に難易度の高い仕事を与えていくというやり方をとります。まず雑巾がけから初めよ、というのは極端に思われるかもしれませんが、これにはちゃんとした理由があります。
 新規で採用した人間には、もっとも基本的な仕事からスタートしてもらい、その人の能力に余裕がある限り仕事の難易度を高くしていくことで、万一その人間がスカであっても、それなりの仕事を与えておくことができるわけです。
 しかし、もっと大きな理由は、現場のことを知らない人間(自分でできない人間)は部下を教えることができない、ということがわかっているからです。
 前回、上司は部下よりもすべてにおいて優れていなければならないという考え方をご紹介しました。部下にとって、自分ができることを上司はできないというのでは、上司の権威は失墜してしまいます。そこで、新入社員を現場に放り込んで、基本的な仕事をマスターさせるということを行っているのです。
 現場の仕事をさせられて、「こんなはずじゃなかった」とか「こんなことをするためにこの会社に入ったんじゃない」と愚痴をこぼすのは勝手ですが、たとえば雑巾がけをしたことのない人間が住みやすい家を設計できるかというとそうではありません。見た目には格好良くてきれいな家を設計することはできるでしょうが、住む人にとっては不便この上ないという家になるのがオチです。現場を知らない幹部が現場を無視した指示を乱発し、結果として会社を駄目にしていくという事例はいくらでもあるのです。
 したがって、会社が新入社員を採用するにあたって包括労働契約を結ぶというのは充分根拠があることなのです。
 「お前はそんなことをいうが、新入社員の感性を生かすために商品開発の仕事をさせてヒット商品を生み出している会社もあるではないか」とおっしゃるかもしれません。しかし、むしろそれはマスコミが取り上げるほど珍しいことなのだと考えるべきです。当たり前のことを取り上げてもニュースとしての価値はありません。犬が人をかんでもニュースにならないが人が犬をかんだらニュースになる、という言葉があるように、よほど珍しいことだからニュースになるのです。
 思いつきが成功につながるというのは滅多にあることではありません。それを期待する会社があるとしたら、そのような会社は早晩ダメになっていきます(かつて「感性の経営」と呼ばれたセゾングループは解体してしまいました)。何も感性がダメだというのではありません。感性を活かすには技術の裏付けが必要であると申し上げているのです。そのような技術は現場を知らなければ身につくことはありません。
 また、丸暗記した知識や理論は役に立ちません。その証拠に、東大法学部を卒業した高級官僚たち(つまり日本でもっとも優秀な人たち)が日本を率いているにもかかわらず、住みにくい世の中になる一方ではありませんか。
 
 最近では、企業が新入社員に即戦力であることを求めるという風潮が強くなってきています。そのための知識と技術を大学で教えておいてもらいたいということのようですが、それは企業の人事教育担当者の責任放棄であり、文科省の官僚の勘違いに過ぎません。そもそもどのような能力があるのかもわからない人間を採用しておきながら(つまり、その人間に将来何をさせるのかもわからないくせに)、仕事に必要な知識と技術を身につけておけというのは矛盾します。
 新入社員に即戦力となることを期待するのであれば、その人間に何をさせるかをあらかじめ明確にした請負契約を結ぶべきであって、包括労働契約による採用をするのはおかしいということになります。
 これからの世の中は語学力が必要であると思われているようですが、語学力のある人というのは次の2種類に分類できます。

1.外国人と会話ができる人
2.外国人と交渉ができる人

 企業のニーズは、2の能力を持つ人であることは明らかですが、日本人相手にロクに交渉もできない人間が英語を習ったからといって、外国人と交渉できるようになるはずがありません。にもかかわらず、国際人を育てるために子どものうちから英語を教えましょうというのは、はっきりいってリソースの無駄遣いです。
 中学高校大学と英語を教えていながら英会話のできる人はほんの一握りしかいません。大半の人間は習ったことを忘れてしまっているのが現状であるにもかかわらず、小学校から教えれば英語が話せるようになると考える人の気持ちが知れません。必要に迫られれば人間はそれを修得しますが、そうでないものは身につかないのです。

 閑話休題。新入社員に要求される最低限の能力は次の2つです。

1.読み書き計算(昔はそろばんといいました)
2.上の者の指示に従うという被統治能力

 地方在住者であれば、これに自動車運転免許が追加されるのですが、正直言ってこの2つができれば新入社員としての仕事は充分できるのです。これ以外の能力は、労働者の仕事の難易度が高まるにつれて、自分で身につけていかなければなりません。従業員に対して企業が研修を行うことがありますが、そもそも覚えようという気持ちのない人も対象にするために、集合教育にはあまり効果が期待できないのです。

 ここで、「計算」という能力についてちょっと考えてみます。
 実は、計算に関する能力は次の2つに分類することが可能です。

1.与えられた計算を間違えずにできる
2.どのような計算式を組み立てたらいいかがわかる

 1は、電卓さえ使えれば誰でもできることです(検算する習慣はあった方がいいでしょう)。しかし、2は、どのようにしたら問題を分析(解決)できるかということに関わってくるので、誰でもできるというわけではありません。
 先ほどの語学力の場合もそうでしたが、「何かができる」ということには二通りの意味があって、ひとつは「人並みのことができる」、もうひとつは「応用することができる」という意味であることがわかります。
 多くの人はたいていのことについて「人並みのことができる」のですが、「応用することができる」ところまで到達しているわけではありません。
 これは新入社員も例外ではありません。
 難易度の高い、やりがいのある仕事をしたいのであれば、それができるだけの能力を身につけなければなりません。自分にその能力がないにもかかわらず、「自分がやりたい仕事はこんなことじゃない」とか「自分らしさが出せない」と不平不満を述べても誰も耳を傾けてくれません。
 仕事は親切な魔法使いのおばあさんがプレゼントしてくれるわけではありません。やりたい仕事があれば自分で勝ち取らなければならないのです。
by T_am | 2009-02-21 07:11 | 社会との関わり
 権力とは他者を従わせることのできる力をいい、相手がそれに従わないときにペナルティ(制裁)を課すことで強制力を持ちます。強制力を持たない権力は存在しません。したがって権力とは、相手が従わないときに実力行使できるだけの力を持つことによって初めて成立するものですから、実力行使の力を失うと権力も失われてしまいます。

 よく似た言葉で、「権限」があります。
 権限とは、特定の目的を達成するために自分一人で決定し実行できる状態にあることをいい、権力を持つ者から付与、委譲もしくは委任されることによって手に入れることができます。権限の全部または一部はさらに別な人間に委譲することができます。
 ついでに「権利」について述べておくと、ものごとを自分の意志で実行できることをいいます。ですから権利を行使しないことも許されます。投票する権利、教育を受ける権利などは、行使しなくとも誰も文句を言いません。
 ところが、権限は特定の目的を達成するために付与・委譲されたものですから、何もしないでいると「特定の目的」を達成することができなくなってしまいます。したがって権限を持つ者が何もしないということは自己の責任を放棄するということになります。

 社長が従業員に対して権力をふるうことができるというのは、その指示・命令に従わなかったときに、就業規則によってペナルティを課すことが定められているからです。ペナルティには、譴責・減俸・出勤停止・降格・解雇などがあり、もっとも重いのが解雇です。また、就業規則に明文化されていないペナルティとして「飛ばす」ということも、他に対する『見せしめ』として行われています。

 以上述べたことはものごとの一面に過ぎません。というのは、人間は自発的に他者の指示や助言に従うことがあるからです。
 たとえば、友達や恋人のアドバイスを受け入れるという場合を考えてみると、その人たちはあなたに対して強制力を持っているわけではありません。にもかかわらず、なぜその意見を受け入れるのかというと、そうした方がいいと自分で判断したからです。そういうことが繰り返されると、あなたはその人に対して「一目置く」ようになっていきます。
 人間には、自分が認めた人のいうことに素直に従うという習性があります。逆に言えば、自分が認めていない者の言うことには反発するということもあるので、部活などで新しくキャプテンになった人、人事異動により初めて部下を持った人が悩む原因となります。
 小売業大手のイオンでは、「上司は部下よりもすべてにおいて優れていなければならない」という決まりがあるそうです。この人は自分よりも優れている、どうみても自分はこの人に敵わないと思うから部下は言うことを聞くのです。
 上司が部下よりも優れているというのは、どのような点をいうのかというと、

・情報
・経験
・識見
・熱意
・人格

 などがあげられます。これらの点において部下よりも優れているからこそ、部下は上司の言うことを聞くわけです。
 しかし、ときには人事異動によって他部署から上司として着任することがあります。この場合、上司よりも部下の方が情報と経験において優れていることになるので、ややもすると部下から軽んじられるということが起こります。その場合、何が上司にとっての武器になるかというと「識見」と「熱意」の二つしかありません。
 実は、この二つが上司と部下との間に決定的な差をもたらすものなのです。情報と経験の差は努力によって埋めることが可能です。その原動力となるのが、上司本人の「熱意」と「識見」です。
 熱意は訴え続けることによって相手に伝わっていきます。自分の識見は一緒に行動しているうちに次第に理解してもらえるようになります。したがって、新たにリーダーとなった人は、熱意と識見さえ備えていれば何とかなるといえるのです。そのうちに、情報と経験が蓄積されていく(熱意のある人はそのスピードも速い)ので、メンバーよりも数段優れたリーダーができあがっていきます。
 なお、人格を練り上げるには長い時間が必要であり、その間にほかの四つが備わっているのが普通ですから、これはいわば「おまけ」のようなものだと思ってください。最初からこれを目指したいという人もいるかもしれませんが、その前にやることがあるはずです。

 このようにメンバーから、あの人の言うことを聞いていれば間違いないと思われているリーダーが、リーダーシップのある人ということになります。リーダーシップは権力とは異なる力であり、嫌々取り組むよりも進んで取り組む方が組織やチームの効率は数段よくなることはいうまでもありません。
 ですから、部下に軽んじられていると思ったときにキレる上司というのは墓穴を掘っているようなものです。

「俺はお前の上司だぞ!」
「上司のいうことが聞けないのか!」

 こういう台詞は、本人は切り札のつもりでいっているのでしょうが、聞かされる方にしてみれば、「私はあなたの上司という以外、何の取り柄もない人間です」とカミングアウトされているようなものです。しかし、このような言葉の裏側には、「お前は考えなくてもいい、言われたことだけやってればいいんだ」という心理が潜んでいるのです。
 バカにバカと言われることほど腹の立つものはありません。ですから、このようなことを口走る人は、軽蔑されることはあっても、尊敬されることはないのです。
 他人を強制的に従わせると、その強引さに匹敵するだけの反感を相手の中に芽生えさせることになります。そのような反感は、どうしても表に出てしまいますし、なによりもモチベーションを低下させます。
 そのようなチームや組織は要となる人間がいないので、個人プレーに走りがちですし、自分さえよければ他人はどうでもいいという風潮が生まれやすくなります。
 他人を高圧的強制的に従わせ、言うことを聞かない者には罵詈讒謗を浴びせるというやり方は、短期的にはそこそこの効果をあげますが、部下の考える自由を奪い取ることから嫌になって辞めていく者が続出するという事態を招きます。
 組織や会社が続く限り、未来永劫、その人が責任を持ってそのポジションを守るというのであればそれでもいいのかもしれませんが、人間には寿命がある以上そんなことは不可能です。
 ご自分に部下がいて、過去1年の間に2人以上の人間が辞めていったならば、一度ご自分の管理スタイルを振り返ってみることをお奨めします。
 なぜなら、リーダーには自分の後継者を育てるという任務もあるのですから。

 もっとも、世の中には自分の後継者になりうる人材を一生懸命潰しているリーダーがいることもまた事実です。こうなるともはやつける薬はありません。
by T_am | 2009-02-20 06:56 | 社会との関わり
 前回、仕事の本質は分業であるということを申し上げました。このことは、人間の社会が構成員による分業を前提として成り立っていることからわかることです。現に、個人の生命維持に必要なすべての活動を自分一人だけでやるというのは不可能です。必ず誰かの手を借りなければなりません。唯一の例外は、無人島に行って暮らすことです。

 会社組織も社会の一部分である以上、そこで行われる仕事も分業によって成立しています。そこで、チームワークということについて考えてみると、個人が自分に割り当てられた仕事を独力で遂行できることがチームワーク成立の前提条件となります。ビジネス書では、他人に寄りかからないことと規定しています。他人に寄りかかることによって、助け合うのが当然ということになり、ひいては、この仕事ができなかったのは誰某さんが協力してくれなかったせいであると責任転嫁することにつながるというのが理由です。
 この考え方には一理あると思うのですが、その反面、自分の仕事には他人から干渉されたくない代わりに他人の仕事には口を出さないという意識を醸し出すことにもつながりかねません。そのこと自体悪いというのではありませんが、本人にとっては、他人から期待をかけられる範囲が狭まっていくということになります。無愛想で人とあまり口をきかないが自分の仕事はきちんとやるという人がいたとすると、周囲の人間がその人に依頼する仕事は、その人がしてくれるものだけに偏っていきます。そうなると、その人はいつまでも同じ仕事をやり続けるということになってしまいます。
 チームワークはよく矢久に例えられるので、ここでも野球を例えに考察していくと、野手が自分の守備範囲を完璧に守っている状態がチームワークがきちんと機能している状態であるということになります。
 ところが、ポテンヒットというのがあるように、誰の守備範囲か明瞭でないところに打球が飛んだ場合、自分の仕事に口出ししてほしくない代わりに他人の仕事にも口を出さないという意識があると、これは俺がとるべき打球じゃないということになってしまいます。お互いにそう思ってしまったら、打球はポテンヒットとなってしまい、見方は点を失うことにもつながりかねません。
 ポテンヒットを防ぐためには次の二つのことが必要となります。
 第一に、自分の守備範囲を、自分が思っている以上に拡げて設定すること。状況によってはチームメイトの守備領域に踏み込むこともあり得ると理解すること。
 第ニに、隣のチームメイトと声を掛け合ってコミュニケーションを維持していること。

 二番目のコミュニケーションについてですが、今まで私がみてきた中で、この人は仕事ができるという人の共通項として、他部署の人間であっても「誰が今何をしているかちゃんと知っている」ということがあげられます。これは、オフィスの中で交わされる会話(電話での受け答えも含みます)について、耳をダンボにして聞いていることで可能となります。それでも自分の仕事に支障をきたさないのですから、キャパシティの大きな人であることがわかります。
 一番目の、「状況によってはチームメイトの守備範囲に踏み込む」というのは、野球でいうベースカバーを想定していただいたら結構です。バッターが1塁ベースに向けてバントした場合、1塁手が前に出て捕球しようとしますが、このときセカンドが1塁ベースに入ります。このときにセカンドが、俺の仕事じゃないからといって知らん顔をしていたら、1塁はがら空きになってしまうのでバッターランナーはセーフになってしまいます。セカンドがベースカバーをするチームとそうでないチームとではどちらが強いかはいうまでもないでしょう。
 このように、チームメイトが一時的に突出した仕事に取り組んでいるとき、その人に最も近い位置にいるメンバーがその代わりを務めるということは、組織の中でも日常的に行われていることです。
 以上のことから、チームワークとは個々のメンバーができないことを他の人間が適時フォローに入ることができることであるといえます。その前提として、個人が自分に割り当てられた仕事を期限内に仕上げることができて、しかもその品質は常に一定以上のレベルを維持しているということが必要です。つまり、他人に寄りかからなければやっていけない人の集まりではなくて、充分な実力を備えた専門家の集団でなければチームワークは成立しないのです。
 人間は誰でも得意不得意を持っています。それぞれ、できることとできないことがあるのですから、サトウさんのできないことをスズキさんが分担し、スズキさんのできないことはタナカさんが分担するという体制を築くことが必要です。そのうえで、不測の事態が起これば、リスクを最小限にするために他のメンバーがすかさずベースカバーに入るというチームは隙のない強いチームです。チームのメンバーが、自分の仕事だけやっていればいいと考えていたり、誰かが助けてくれるだろうと思っていると、必ず隙ができてしまい、誰かが後始末に追われることになります。

 課題に対してチームで取り組むという考え方は、人間は不完全な存在であり、その能力は有限であるという認識からスタートしています。それでもチーム全体で最高のパフォーマンスを引き出すことを可能にするのがチームワークです。
 いいチームワークを実現できるかどうかのきっかけはひとえにリーダーにかかっています。チームとしての課題を明示し、その中で個人の役割分担を明確にするという過程を省くことはできません。ところが、凡庸なリーダーはどちらも省略してしまうので、メンバーは目的意識を持つことがありませんし、なにより自分の仕事の範囲を自分で決めてしまうという弊害が起こります。そして、凡庸なリーダーはそのことを黙認するのです。
 そうするとどうなるかというと、お人好しや気の弱い人は他人の後始末に追われるけれども図々しい人はそれを何とも思わない、その一方で気の乗らない仕事はほったらかしておいて好きなことしかしないという人間さえ出てきます。一度こうなってしまうと、その癖はなかなか抜けません。
 それらは本人も悪いのですが、リーダーにも責任があります。少なくともリーダーは、メンバーが仕事の範囲を自分で決めてしまうことを容認してはならないのです。

 チームワークはいいリーダーといいメンバーによってつくられます。その出発点は、既に申し上げたように、自分は不完全な存在であるという認識とそれでもパフォーマンスを高めるにはどうしたらいいか? という疑問を持つことにあると思います。
by T_am | 2009-02-18 06:08 | 社会との関わり
 仕事というのは終わりのないマラソンのようなものだと思います。会社が競技場であり、従業員はその競技場の中をひたすら走り続けています。会社を辞めるということは、その競技場から去るということであり、別な会社に転職すれば新たな競技場で走り出すということになります。独立して自分で会社を起こした人は、競技場ではなく一般道路を走ることになるのですが、場合によっては道を自分で切り開きながら走らなければなりません。
 以前の日本は終身雇用(といっても戦後に始まった制度です)でしたが、それも怪しくなってきました。企業の本音は人件費=コストですから、歳をとって人件費が高くなった人はご遠慮願いたいというところにあるようです。ですから高齢者を冷遇する(昇給をストップする、昇進をストップするなど)企業はいくらでもあります。定年の延長などとんでもないことであり、むしろ定年となった人を嘱託社員として安い賃金で雇用すればいいと考えている企業もあります。
 不思議なことに、そういう制度をトップに立案する人は自分が歳をとるということを考慮に入れていないようです。この制度が適用されるのはあなた達であって自分ではない、という意識が人事担当者にはあるような気がしてなりません。

 閑話休題。従業員は競技場の中で走り続けなければならないのですから、ちんたら走っている従業員はまっ先に目をつけられることになります。ですから、従業員が我が身を守るためには走り続けることができるだけの気力と体力を身につけなければならないということです。
 気力というのは、以前申し上げた修羅場を経験しても構わないという意識から生まれてきます。逆に、修羅場から逃げたり、他人に肩代わりしてもらって楽をしようと考える人には、気力は備わっていきません。
 仕事には、楽にできるものと苦労しなければできないもの、手間がかかって煩わしいものなど様々なものがあります。また、誰の責任分野なのか曖昧なものもあります。
 自分の成績を上げることに熱心な人は、ポイントにならない仕事を選別してそれを他人に押しつけるということを知っています。また、うまくいくかどうかわからない仕事で、いざというときには責任問題に発展しそうなものに対しても、誰かに押しつけるという行動をとりがちです。しかし、この人たちは「自分の仕事」については勤勉なので、部下や同僚の評判は別として、概して上の人の覚えはめでたいといえます。
 
 社員が多い会社では必ず、楽にできる仕事しかしないという人がいます。手間がかかるのは同じですが気苦労がないだけやりやすいのでしょう。その代わり肝心な仕事がいつも後回しにされるので、まわりはずいぶん迷惑することになります。
 こういう人は仕事から逃げていることになるので、その未来は暗いといえます。
 対外的な仕事というのは、利害が対立することが多いので、気苦労が多く切ない交渉をしなければならないのが普通ですが、それが嫌になったのでしょう。上司に願い出てその中でも特に楽なセクションにまわしてもらうことに成功した人を知っています。その仕事は時間さえかければ、はっきりいって誰でもできる仕事でした。交渉相手とは利害関係がないので、いつ何をどうするという手続き上の打ち合わせさえしていれば仕事はまわっていくのです。
 誰でもできる仕事しかしない人、仕事をしているふりをして遊んでいる人は、まわりの人間から敬意を払われるということがありません。それだけなく、その人がいなくても誰も困らないということに、まわりの人も気づいていきます。その人はやがて人事異動によって他部署に移り、そこでも誰でもできる仕事をしていました。そして、いつの間にか会社を辞めてしまったのですが、その人がいつ辞めたのか私は知りません。私のまわりの人たちも知りませんでした。その人は、自分が辞めたことすらかつての同僚たちに気づいてもらえなかったのです。

 会社というのは不思議なところで、しなければならないことをやらずにほったらかしにしておくと、見るに見かねた誰かが何とかしてくれることがあります。なぜなら、そうしないとまわりの人も含めた全体が困るからです。しかし、そのことに味を占めて、同じことを何度も繰り返していると、やがて「戦力外」という烙印を押されることになります。
 一度貼られたレッテルを剥がすのは容易ではありません。あいつはこういうヤツだというレッテルはいつまでもついて回り、何か問題が起こると「やっぱりそうだった」とみなされます。
 その人がどういう人間であるか、一番よくわかっているのはその人の下で働いている人です。というのは、誰でも、自分よりも上の人間に対しては演技することを心がけますが、自分よりも下の人間に対しては無防備となるからです。もしかすると、その会社の社員の人柄を一番よく知っているのは掃除のおばさんではないかと思います。

 組織にとって必要なのは成果をあげる人間です。その人の人間性が考慮されることはあまりありません。人格者であっても契約の取れない営業マンよりは、性格に問題はあってもきちんと契約を取ってくる営業マンの方が会社にとっては大事な人材となります。
 ビジネスマンが会社という競技場の中をひたすら走り続ける存在である以上、自分は何を目的として走り続けるのかを考えておいた方がいいと思います。
 生活のため? 家族のため? 趣味に打ち込むお金を得るため? 
 人によって解答は様々であることでしょう。どれが正解というものではありませんが、何かのために我慢して仕事をしていると思ってしまうと、仕事というのはとたんに苦痛の連続と化してしまいます。
 苦痛からはできるだけ逃れたいと思うのが人間の自然な行動ですが、目先の苦痛を回避しようとしてもっと悲惨な目に遭うかもしれないというのは、実に皮肉なことであると思います。
by T_am | 2009-02-17 06:57 | 社会との関わり
 「人は無能レベルに達するまで昇進する」というピーターの法則があります。
 有能な平社員は主任に昇進し、さらに有能な主任は係長に昇進します。無能な係長の昇進はそこでストップしますが、有能な人はさらに課長・部長へと昇進していきます。島耕作や矢島金太郎のような有能な人物は社長にまで上り詰めますが、たいていの人はいつかは能力の限界を露呈し、そこで昇進がストップするというのが「ピーターの法則」です。表現を変えれば「中間管理職は無能な人間で占められる(有能な人間はさらに昇進してしまうから)」ということになります。
 ローレンス・J・ピーターが、サラリーマンの、上司に対する悪口を正当化する目的で「ピーターの法則」を発表したのかどうかは定かではありませんが、私はこれを、だからビジネスマンは自己啓発を続けなければならない、という意味で教わりました。つまり、ピーターの法則は現実をよく現しているということです。

 昇進に限らず、個人の能力に余力がある限り、その人に割り振られる仕事は増えていきます。そしてオーバーワークになると、時間内に終わらないとか休日出勤しなければならないという状態に陥ります。すなわち、仕事に対する個人の遂行能力には限界があり、その限界を超えると、時間によってカバーしなければならないということがわかります。これは、能力の不足は時間によって補うことができる、と言い換えることもできます。

 前回、同じことを長く続けているとマンネリに陥ってしまうということを申し上げました。同じことをやり続けるには、私たちの人生は長すぎるのです。誰でもその間に必ず限界に突き当たります。
 たいていの人はこの限界に突き当たった頃に人事異動によって異なる仕事に就きます。このことは、上司というのはちゃんと部下をみているということの証左でもあります。ところが、稀に、いつまで経っても異動しない(昇進もしない)という人がいます。その理由として考えられるのは、その人がやっている仕事は会社の中枢にかかる重要な仕事ではなく傍流に属するものであるが熟練を要するものなので、その人を異動させると、後任が育つまでの間は上司がフォローしなければならない。それよりもその人に継続してもらった方がいい、と上司が判断しているということです。
 このような、会社の花形部門ではないけれどもそれがないと困るという仕事はどこの会社にもあります。自ら望んでそのようなポストに就くこともあるでしょうし、たまたま配属されたということもあるでしょう。
 前回申し上げたのは、人間は自らを変えようと意識しなくとも自然と変わっていくものである、ということです。喩えていえば、ある部署に異動してきた人間には賞味期限があるということです。なぜならば、人間は時間の経過とともに徐々に変質していくからです。どのように変わっていくかは別にして、人間は必ず変化していきます。自らを変えようと思わなくても、いつの間にか変わってしまうのです。例外はありません。
 食品の場合、賞味期限を過ぎてもしばらくは食べることができますが、味は落ちていきます。そしていずれは食べられなくなってしまいます。人間も同じですが、その人の意識の持ちようによっては、賞味期限をリセットし、経過した時間を熟成期間に変えることもできるというところが異なります。
 養老孟司先生は東大で解剖学をずっとやってこられた方です。ご自分でも書いておられるように、解剖学という分野は既に解明され尽くした学問であり、新発見がない分野です。したがって、解剖学教室では毎年同じことをしなければなりません。このことは、一通り知識が身についてしまえば新たに勉強する必要がないということでもあります。
 ところが養老先生は、人間を解剖しているうちにいろいろなことを考えるようになったそうです。そこで相当勉強されたご様子ですが、ご本人はそんなことは少しもおっしゃってはいません。昨日と同じ自分のままでいることをよしとせずに、勉強を続けることによっていつの間にか自分が変わってしまったという絶好の見本が養老先生です。そうでなければ、ご自分の専門外のことについてもあれだけ卓見を述べることができるはずがありません。
 養老先生のような偉い方でなくとも、普通の人でも、意識して自分を変えていくことは可能です。自分を変えて何をするかというと、新しい仕事をつくる(あるいはつくり替える)のです。
 そのための手段が自己啓発なのですが、そのコツは、今の自分の外縁部を広げていくというつもりで取り組むことです。自分の知識や能力を1枚の円盤のようにイメージしたときに、中心に近い部分ほど得意な分野となります。そして外側に行くほど曖昧になっていくので、ここに手を加えることで自分の知識や能力という円盤の面積を広げていくわけです。中には、アメーバのように特定の方向にだけ広がっていくということもあるでしょうが、決して悪いとはいえません。むしろ、たとえば英会話を習うだとか何かの資格をとるとか、今の自分に縁もゆかりもないことに取り組もうとするのは、たとえば転職を目指しているというようなはっきりした目的でもない限り、長続きするものではありません。例外は、それに興味がある、それをやってみたいという場合です。
 
 自己啓発の必要性を説くのは、その方が仕事が面白くなるからです。
 功利的見地に立って、自己啓発をした方が自分にとって有利であるという考え方も抗いがたいものがありますが、一度そのような考え方をしてしまうと、自分にとってメリットがあると確信できないものには取り組まないということになりかねないので、そうは申しません。
 自分が知らないものの中にも、自分にとって価値のあるものがあります。しかし、それは取り組んでみなければわかりません。もしかすると全くの徒労に終わるかもしれませんが、長い目で見れば、そのような失敗経験も、これは自分にとって有益かもしれないという嗅覚を発達させることになっていきます。
 人に騙されるのは人を見る目がないからです。けれども、人に騙されたことがないと人を見る目は育っていかないというの事実なのです。
by T_am | 2009-02-16 06:57 | 社会との関わり
 以前、同じ仕事を3年も続けているとマンネリに陥るということを申し上げました。今回はそのことについて、もう少し掘り下げて考えてみたいと思います。

 仕事について1年目はあれよあれよという間に過ぎていきます。どちらかというと仕事に慣れるのに精一杯で、自分のやりたいことが充分にできない場合があります。二年目は、1年目の経験を踏まえて少し余裕が出てくる頃です。自分の考えを仕事に反映させることができるようになる時期です。
 三年目はその延長です。たいていのことは経験済みですから落ち着いて対応できるだけなく、ゆとりを持って仕事に取り組むことができるので、もっとも充実した時期であるといえます。
 これが四年目になるとどうなるかというと、もはやベテランの境地に達しているのですが、ベテランならではの落とし穴に陥りやすいといえます。このリスクは職歴の古いお局様状態の社員ほど高いことはおわかりいただけるでしょう。

(その1)
 自分の経験に基づいて判断してしまうので、判断が硬直化されやすい。新しい発想、従来と視点を変えた発想がしづらくなってくる。

 その職歴が長くなると、たいていのことは経験済みとなっています。したがって、何かを行うときは自分の経験に照らして判断することが可能です。そのこと自体は特段問題があるわけではありません。ただし、柔軟な考え方ができるということが前提ですが。
 社会の情勢は少しずつ変化しています。それに合わせるようにして会社の事情も変わっているのが普通です。「うちのトップはいうことがころころ変わるので嫌になっちゃうよ」という声は至る所で聞こえますが、それにはちゃんと理由があります。
 第一に考えられるのは、某国の総理大臣のように、自分の思いを人に伝えようという熱意もなくその場その場で思いついたことを口にする思慮の浅いトップである場合。あるいは性格に弱いところがあるか迷いがある場合です。もっとも、トップがこれでは会社は早晩傾くことになります。
 第二に考えられることは、以前発言したときとは状況が変わっていることを察知してやむを得ず発言の内容を変える場合です。トップの権力が強い組織では、誰も文句を言えないので、臆せずに朝令暮改ができることになります。

 一般に難易度の高い仕事になればなるほど、唯一の正解というのは存在しなくなります。マニュアルというのは、唯一の正解を定めて、その通りにやりなさいと強制するものです。マニュアルに書かれていることについて、これはどうやってやるんですか?と誰かに聞かなければできないとすれば、それはマニュアルとして失格です。それを読んでその通りにすれば誰でも同じことができる、というのがマニュアルだからです。したがって、マニュアルが有効なのは人間の動作を対象とした場合に限られます。判断業務をマニュアル化することはできません。ここのところが誤解されているように思います。
 判断業務には唯一の正解がないというのは、そのときの状況によって判断が変わっていかざるを得ないからです。しかし、ベテランになればなるほど自分の成功体験に呪縛される傾向が強くなりますし、その人のプライドがそれを後押しします。

(その2)
 自分の判断に自信を持っているので、人の意見を聞こうとしなくなる。他人に助言を求めなくなる。
 
 最初の頃は、どのように考えたらいいのかもわからないので他人に助言を求め、その意見に謙虚に耳を傾けるのですが、自分一人で判断できるようになってくると、他人の意見が鬱陶しくなってきます。「そんなこと、いちいちいわれなくてもわかってるよ」とか「こんな細かいことはどうだっていいじゃないか。」という気持ち芽生えてくるのです。
 このような気持ちをもたらすものは、自分自身のプライドです。この分野に関しては自分が一番という気持ちがあると、自分の判断は常に正しいと思うようになります。しかし、過去においてそうだったからといって、これからもそうだということにはなりません。
 自分はこう考える。しかし、もしかしたらもっといい考えがあるかもしれない。このように考えて行動したことが、過去の成功をもたらしたということに気づかない人は多いのです。

(その3)
 仕事の重要度が自分でわかるので、顧客や組織の利益よりも自分の都合を優先することがある。

 このことを組織ぐるみでやっているのが公共サービスです。直近では社会保険庁がそうですね。ついこの間のことですが、引っ越ししたので運転免許証の住所変更をしようと休みの日にもよりの警察署を訪ねたところ、受付窓口は平日の10時から5時までしかやっていないとのことでした(交通課の職員は全員休んでいました)。「それじゃ、仕事を休んでこないといけないんですか?」と訊くと、申し訳なさそうに、「(書類が整っていれば)代理の方でもいいんですが・・・」という返答が返ってきました。
 これは、市役所の区民生活課(市民課)も同様です。平日しか受付をしていないので、小売業や飲食業などの平日に休める人はともかく、そうでない人はわざわざ休みを取って届け出をしなければなりません。
 ただし、図書館のように改善された公共サービスもあるので、そのことは評価する必要があると思いますが、正直言って不便でなりません。
 自分の都合で店を開けたり閉めたりする商店があれば、客に見放されることは中学生でもわかる理屈です。にもかかわらず、公務員の皆様にはそのような自覚がないようです。政治家や官僚の中には競争原理を導入することが好きな方がいらっしゃいますが、それならば、まず行政自らから導入してはいかがでしょうか? ひとつの地域に2つ以上の役所があって住民は好きな役所を選ぶことができるというものです。住民から選ばれなかった役所には職員もろともご退場いただくようにすれば、公共サービスの水準は間違いなくアップするはずです。
 役所の悪口を書いてしまいましたが、顧客や組織の利益よりも自分の都合の方を優先して仕事をする人というのはどこの職場にもいます。この人たちは、ともすると自分の気分で顧客や取引先に意地悪をすることがありますし、面倒くさいことは先送りにするか他人に押しつけるということを日常茶飯事のように行っています。

 第三の落とし穴が一番悪質ですが、これらの落とし穴がもたらす危機はどれも大差ありません。
 これらのリスクを回避するために定期的に社員を異動させるということが行われているのですが、中には同じ職場にずっといるという人もいます。専門的な技能・知識を必要とする職場ほどその傾向が強いのですが、そのような職場の所属長となった人は特に注意が必要でしょう。しかし、自分の在任中は大過なく過ごした方が自分の評価もよくなるので、こういうところにメスを入れるという人はまずいません。たいていは見て見ぬふりをするようになります。

 組織はこうして腐っていきます。

 がん細胞とは、メカニズムに変調をきたした結果、他の細胞との調和と協同を無視して自分の複製を際限なく増やす細胞をいいます。散文的に表現すると、がん細胞は周囲を顧みずに自分の都合だけで行動する細胞であるといえます。
 しかし、その結果は、宿主の生命を奪うことになり、ひいては自分も死んでしまうというのは皮肉であると思います。
 組織に害をなす人間を、悪意を込めて、がん細胞にたとえることがありますが、当人には自分が組織に害を与えているという自覚がありません。それだけに、その行動は次第にエスカレートしていき、破滅するまでそれは続きます。


 以上述べたことは「落とし穴」に過ぎないのであって、必ずそうなるというものではありませんからご安心ください。
 それでも、何もしないでいると「落とし穴」に陥ってしまう可能性は極めて高いといえますので、ここに書いたような兆候が自覚できたら要注意です。
by T_am | 2009-02-14 07:08 | 社会との関わり