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カクレ理系のやぶにらみ

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時間のある方はお読みください。軽い気持ちで読み始めると頭が痛くなります。

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 学ぶことの意義は功利性にあると他人を促しても何の効果もないというのが私の経験知ですが、内田樹先生が本日のブログでもっと掘り下げた見解を示しておられます。(内田樹の研究室「学びと暗黙知」)http://blog.tatsuru.com/

 内田先生のブログを読んでいて思ったのですが、「学び」の動機と「人付き合い」の動機は、実は同じなのではないかということに思い当たりました。
 先生はこのように書かれています。

「学び」というのは、「学ぶことの有用性や意味があらかじめわかったので、学び始める」というようなかたちでは始まらない。
それは商品購入のスキームである。
「学び」というのは、「その有用性や意味がわからないもの」(私たちの世界はそのようなもので埋め尽くされている)の中から、「私にとっていずれ死活的に有用で有意なものになることが予感せらるるもの」を過たず選択する能力なしには起動しない。
「学び」を可能にするのは、この「意味のわからないものの意味が予見できる力、有用性がいまだ知れないものの潜在的な有用性がかすかに感知できる力」である。
この力がなければ、子どもたちは「子どもでもその有用性や意味のわかる知識や技能」だけを選択することになる。 


 この中で、「意味のわからないものの意味が予見できる力、有用性がいまだ知れないものの潜在的な有用性がかすかに感知できる力」というのは、要するに「自分の性分に合っているかいないかを感じ取る力」ということであろうと私は考えています。世の中には、「いずれ自分にとって死活的に有用で有意なものになること」はいくらでもあります。しかし、私たちはそのすべてを身につける必要はありません。なぜならば、私たちの社会は分業によって成り立っているからです。
 病気にかかれば、適切な治療を施さなければ死んでしまうことだってあります。だからといって私たちに医師としての技能知識が必要かといえばそうではありません。分業によってそれを受け持ってくれる人が存在するからです。
 ということは、人間は「いずれ自分にとって死活的に有用で有意なものになること」の中で、自分の性分にあったものを選択すればいいことになります。

 親は自分の経験から、勉強すればいいことがあるよとか、勉強しないと困るのは自分だぞ、ということを子どもに話して聞かせます。学びに対するそのようなアプローチの仕方は、そのことの有用性が確認されない限り学ぼうとしない子どもたちを量産することになるということを、内田先生が指摘しておられます。
 同じことは他人とのつきあいにもいえることです。人付き合いを功利的に考えるとどうなるかというと、たとえば次のようになります。

 この人は自分にお小遣いをくれるので機嫌をとっておいた方がいい。
 こいつは自分に親切にしてくれるから、つきあっておいて損はない。
 この女はセックスさせてくれるので、一発やりたいとき便利だ。
 この娘と一緒にいると自分が引き立つ。

 このように思ったときから、その人が自分にとって利益をもたらしてくれるかどうかで他人を判断するようになり、自分に利益をもたらすことはないとわかった瞬間に、その人を歯牙にかけないという行動をとります。

 あなたはご自分のお子さんに、このような人間になってほしいと思いますか?

 人間がほかの誰かと親しくなるのは、その人が自分と相性がいいからにほかなりません。大勢いる人の中から、自分と相性のいい人と巡り会うというのは確率論の立場からみるととても低いことになります。それでも進学や就職など環境が変わってもちゃんと新しい友達をみつけることができるのは、自分と相性の良さそうな人をかぎ分けるセンサーのようなものが人間には備わっているからだといえます。ただし、相性というからには程度があって、その友達が自分の大親友になるか、単なる友達になるかは運次第というところです。それでも、自分と相性の悪い人とは気づかずに話しかけてしまうということがまずないのは不思議でなりません。人間の持っているセンサーはそれだけ感度が高いということになります。
 ところが、自分に利益をもたらすかどうかという基準で他人を理解しようとすると、このセンサーは働かなくなります。運が悪ければ、この人と一緒にいると自分は得をするということが理屈ではわかっていても、一緒にいることが少しも楽しくないということだって起こります。不幸なことに、そういうことは後になってから気づくものです。
 首尾よく三高の夫をゲットして後は一生安泰と思っても、結婚後何年か経った後でセックスレスとなってしまい、夫婦の関係がギスギスしたあげく夫が浮気に走ったという例は案外多いものです(現に、そのあげく夫を殺害してしまった妻もいます)。

 それが自分にとって何の役に立つかわからないけれども、とりあえず自分はそれについて知りたいと思うところから「学び」は起動します。人間関係も全く同じです。そして、人間は自分一人であっては自分を発見することができません。他人との関係の中で自分を発見する以外ないのです。
 他人との関係を功利的に理解するという心理の底には、自我を守ろうとする意識があることは否定できません。誰でも悪口を言われた経験があるわけですから、無防備に他人を信じることは危険であると思うのはやむを得ないと思います。その代わり、他人を容易に信じないという気持ちは、自分に利益をもたらす人間とだけつきあうということにつながっていき、心の飢餓感は増していきます。
 功利的基準で意志決定を繰り返すことで、その人が失う利益は最大化していくというのは何とも皮肉なことですが、そのことに気づいていない大人は大勢います。だから功利的見地に立って物事を判断するのはやめましょうというのではありません。そういってしまうこと自体、功利的な立場で述べていることになるからです。

 自分がそれを知りたいと思うからそれを学ぼうと思う。他人に何かしてあげるのは自分がそうしたいからに他ならない。見返りを期待するわけではない。
 少なくとも、私はこのように思ったときに心が楽になりました。
by T_am | 2009-01-30 07:38 | 心の働き
 共通の目的を持って二人以上の人間が集まると組織ができます。組織は人間が運営するものですから、そこに所属する人間の考え方の影響を受けます。就中トップの及ぼす影響は大きなものがあり、その権力が強いほど、また組織がシンプル(権限を持つ人が少ない)なほど強い影響力を発揮します。
 トップの権力が強くてシンプルな組織といえば、創業者によるワンマン経営の会社がすぐ思い浮かびます。事実、このような会社ではトップの人間性が強く現れていることは、そこで働く授業員が一番よくわかっているはずです。
 逆に、トップの権力が弱い組織や複雑な構造をしている(権限を持つ者が複数いる)組織では、トップの人間性がそのまま反映されるということは少なくなります。
 なぜこのようなことが起こるのかというと、人間は自分の上位にある者の顔色を伺いながら行動するからです。
 人間は一度にいろんなことができるわけではありません。しかも組織では限られた資金をどのように使うかということも重要になってきます。したがって組織の内部では常に、何を優先して行うか、あるいは何をしないか、という意志決定が求められるのであり、その判断基準は権限を有する者によって変わります。
 下にいる者は、その顔色を伺いながら、自分のやるべきことの優先順位を決めていくので、トップが喜ぶものを優先して行うようになります。そして、ときにはそれが必要であってもトップが喜ばないと判断すればあえて無視するということも行われます。こういうことが繰り返されていくうちに、組織はそのトップの人間性に染まっていくのです。

 組織がトップの人間性に染まっていくというのはありふれたことですから、そのこと自体どうということはありません。問題があるとすれば、そのことによって組織が自壊するということでしょうか。
 人間には誰でも欠点もあれば限界もあります。多くの場合、それらはその人の長所とイコールでもあります。仮に、トップの欠点や限界が組織に反映されたとしても、それが直ちに問題となるとは限りません。組織が小さいうちは、長所がもたらすメリットの方が大きいので欠点や限界が問題となることはありません。しかし、組織が大きくなってくると、トップ自身の欠点や限界(それらは長所でもあります)によってもたらされる問題もガン細胞のように密かに成長していきます。そして、あるとき突然業績が悪化することで、そのことが明らかになります。しかし、その問題はトップ自身が持つ欠点や限界に基づくものですから、トップにそれを克服することはできません。そうなってくると組織そのものの存続が危うくなってくるのです。
 旧ダイエーグループや旧西部セゾングループは、いずれも日本を代表する流通企業組織でした。ダイエーグループでは急成長をもたらした多角化戦略が最後には足を引っ張りましたし、西部セゾングループでもいっとき注目を浴びた感性の経営と文化事業が不採算となってしまいました。かつての長所が問題となってしまったのです。
 ダイエーグループでも西部セゾングループでも、その急成長をもたらしたのはトップによるワンマン経営でしたが、組織を崩壊させたのもワンマン経営です。その原因をもう少し掘り下げてみると、トップの座にいる期間が長すぎたこと、トップが後継者をきちんと育てられなかったことがあげられると思います。このことは仕事熱心なトップほど陥りやすい罠であるといえます。
 世の中には仕事が趣味と公言して憚らないトップがいます。それはとても頼もしいようにみえますが、言い換えれば、組織を自分の私物と思っているということであり、したがって自分が死ぬまで実権を手離すつもりはないということでもあります。当然、自分の後継者を真剣に育てようという気持ちはありません。そういうトップに率いられている組織はいずれ自壊(もしくは分裂)すると考えてもよいと思います。
 一方、世の中には百年以上続いている組織や会社はいくらでもあります(日本でもっとも歴史の古い組織は東大寺などの寺院であると思います)。これらの組織では、通常は権限が一人の人間に集中しているということはありません。というのは、トップはいずれ交代するという前提で組織が設計されているからです。例外は、環境が著しく変化したために、組織を抜本的に変革しなければ生き延びることができないとき、一人の人間が強力なリーダーシップを発揮してこの危機を克服するという場合です。後世、中興の祖と称される人(浄土真宗における蓮如など)がこれに該当します。歴史の古い組織や会社にはたいてい中興の祖といわれる人がいるものです。
 
 組織が崩壊する要因は、トップ自身の欠点や限界(ただし、それは長所であることも多い)による自壊と外部の環境が変わったときそれに対処しきれない場合の2つがあると思います。
 経営コンサルタントで、ワンマン経営を肯定したり積極的にワンマン経営を推奨する人がいますが、ワンマン経営はいずれ自壊する運命にあることを考えるとどうかと思います。
 組織を継続させるためにも、自分の後継者を育成しておくことが必要なのですが、案外これが難しいものです。いったんは退いたトップが、業績悪化を理由に再びトップに返り咲くという事例はあちこちで見かけます(後継トップの突然の死亡という不運な場合もあります)。
 そのようなことを避けるためにも、やはり権限を一人の人間に集中させるということは避けた方がいいのかもしれません。そのためには、信頼して任せられるだけの人物を見つけ出さなければならず、人を見る目を養っておく必要があります。それは個人に対する好き嫌いとは別な次元の問題です。
 こうしてみると、やはり組織のトップになるというのは大変なことなのだと思わざるを得ません。
by T_am | 2009-01-29 07:15 | その他
 橋本治さんと内田樹さんの対談集「橋本治と内田樹」(筑摩書房)を読んでいたら、目から鱗が落ちる思いをした箇所があったので引用します。

橋本 技術って、ある程度のところに行くと余分なことをしたくなるものだっていうことを、わかってない人ってとっても多いですよね。
内田 そうですね。
橋本 料理上手な料理好きの奥さんて必ず余分なことを従って、あるアイデアで、そのアイデアを人に言いたがるんだけど、必ず余分なんですよね。でも技のある人って、余分なところまでいってワンセットなんですよ。
内田 なるほど。
橋本 でもできない人って、「その余分はいらないから基本だけ教えてください」「必要最小限度の一番手っ取り早く簡単にできる方法だけ教えてください」って言うんだけど、それは絶対に技術と結びつかない。余分という開花の仕方をしないから、決して幸福にならないんですよ。
内田 ふーむ。(104ページ)

 自分がずっと感じていたことを誰か他の人がうまく言葉にしてくれたときの気持ち、といえばおわかりいただけるでしょうか。私にとって「目から鱗が落ちる思い」というのはそういうことを指します。
 技術ということについての見解は、180冊もの本を書いてこられた橋本治さんならではの発見ではないかと思います。橋本さんの著書は、テーマを決めてそのことを掘り下げていくうちにわかったことが次々と登場してくることが多いのですが、そのことは自分が「教えられる立場」ではなく「教えたいと思う立場」に立つとよくわかります。
 技術は、教わった段階では単なる知識に過ぎません。それを自分のものにしていくには自分で考えて自分のものにしていくというプロセスが絶対に必要なのですが、教える側が余分なことを言うのは、実は考えるヒントを提示しているわけです。私が今伝えたことを自分のものにするにはこういうことに目を向けるといいですよ、というメッセージがそこには込められています。
 しかし、教わる側にすればそのような態度は衒学的にみえることがありますし、何とか理解しようと躍起になっているところに余計なことを言われるとかえって混乱してしまうと思いがちです。
 実は、橋本治さんは、この後に教わる側がとのようにしていったらいいのかもちゃんと述べておられます。興味のある方はご覧になってください。
by T_am | 2009-01-28 07:00 | その他
 前回に続き、二酸化炭素ガスの排出権取引がなぜおかしいかを考察したいと思います。
 
 二酸化炭素は、動物が活動する限り必ず排出する性質のものです。人類が排出する二酸化炭素がなぜ問題になっているかというと、地球を温暖化させるほどの量が排出され続けていると思われているからです(真偽の程はわかりません)。
 大気中の二酸化炭素濃度の高まりが温室効果を起こしており、その結果地球の平均気温が上昇しているのだという立場にたってすべての議論が進められています。ここでは、そのことについてはあえて触れませんが、それでも排出権取引というのがおかしいことは指摘可能です。

 人類が排出する二酸化炭素ガスがなぜ多いかというと、結論はただ一つ、石油を始めとする化石燃料を使っているからです。化石燃料の消費量は、人口と経済成長との間に正の相関関係があります。つまり、人口が増えたり経済成長が行われるとその分消費される化石燃料が増えていくことになるわけです。
 したがって、二酸化炭素ガスの排出量を削減するということは、基本的には、地球人口が減少するか、経済がマイナス成長するかのどちらかでもない限り、達成できるものではありません。しかし、人口を人為的に減少させるということは許されることではありませんし、発展途上国の国民に向かって、「あなたたちは引き続き貧しい生活のまま我慢してください。それが地球温暖化を回避する道なのです。」と説くこともできません。

 読者の中には、バイオエタノールなどの代替え燃料を用いるか、一人一人が石油資源を節約する生活をすればいいのではないか、とお考えの方もいらっしゃるかもしれません。しかし、これらの方法が二酸化炭素ガスの放出削減にどれだけ効果があるかは疑問です。たとえば、バイオエタノールを生産する際には(原料であるサトウキビの栽培や収穫、運搬といった段階から)化石燃料が使われています。また電球型蛍光灯も節電効果はありますが、それを製造する際には二酸化炭素ガスを排出します。また、廃棄する際に環境を汚染する心配もあるので注意が必要です。ということは、その処理工程において二酸化炭素ガスを排出することになります。さらに、太陽電池も製造過程で二酸化炭素を排出しますし、燃料電池で動く自動車は充電するたびに二酸化炭素を排出します。
 このように、新技術によってつくられた製品に置き換えることで従来の製品よりも二酸化炭素の排出量が抑制できるといわれていても、結局は製品(そのための原料の生産も含みます)の製造から廃棄までをトータルして考えないことには意味がありません。
 各地で導入が進んでいるレジ袋の有料化でも、レジ袋の代わりに買い物袋を持ち歩いたとしても、そのための袋を新しく購入するのであれば効果は低くなります。なぜなら、その袋を製造・包装・運搬するために二酸化炭素ガスが排出されているからです。それを回避するには、家にある袋をそのまま使うしかないのですが、それもいつかはダメになります。そうなったときには新しく買い物袋を購入するしかないわけですから、その時点で二酸化炭素ガスの排出に荷担することになります。
 もっと意地悪なことをいうと、あなたがレジ袋を断っても、毎年新しい服や水着、化粧品を買うという生活をしていれば、あるいは休日に長距離ドライブや旅行をすれば、それだけ二酸化炭素ガスの排出に荷担していることになります。それらはレジ袋削減の比ではありません。
 QCサークルで用いられる手法であるABC分析の要諦は、結果の大部分は原因となる事象のうちの一部分によって起こるというものであり、したがってこれに手をつけない限り改善の効果は期待できないというものです。
 自分にできることからやりましょうというのは、とても立派な心がけだと思いますが、枝葉末節の事柄に一生懸命努力を傾けてもそれは自己満足に過ぎません。「何もしないよりもマシではないか」と思われるかもしれませんが、「結果は出ませんでしたが一生懸命やりました」といっても通用しません。だって、二酸化炭素濃度は毎年増え続けており、それが地球温暖化の原因だというからには、二酸化炭素濃度を減らさない限り意味がないではありませんか。目的は二酸化炭素の排出を減らすことではありません。二酸化炭素濃度を下げることで地球温暖化を食い止めることではないのですか?
 政府やマスコミの言い方をみていると、最初は地球温暖化をくい止めなければならないといっておきながら、いつの間にか、あなたが二酸化炭素の削減を心がければ地球温暖化は防ぐことができるという言い方にすり替わっていることに気づきます。この間にはものすごい論理の飛躍があるのです。本当に二酸化炭素濃度を下げようとするならば、誰もが江戸時代の生活に戻らなければなりませんが、そのことは政府もマスコミも絶対に触れようとはしません。もちろん、私も江戸時代に戻れといっているのではありません。できもしないことを、さもできるかのように言うのはおかしいと申し上げているのです。

 閑話休題。排出権取引という概念が導入されたのは、発展途上国を京都議定書の枠組みに取り込むための方便であったと思います。
 途上国の人たちが、「今まで二酸化炭素ガスをまき散らしてきたのは先進国の人間なのだから自分たちには関係ない。地球温暖化よりも自分の国が発展し、国民が飢えや貧困、病気に苦しまないですむようにすることの方がはるかに重大である」と考えるのは当然です。そのような考え方をする人に対して、地球温暖化がもたらすデメリットを説いても説得力はありません。それよりも、「あなたの国が二酸化炭素ガスの排出を抑えてくれたら、その分を先進国が買い取ることにしますよ。」と持ちかけることの方がはるかに効果があるのです。
 しかし、排出権取引というのは、もともと排出していない二酸化炭素ガスを「排出枠」という権利に置き換えて、それを先進国に売り渡すというものですから、トータルすれば二酸化炭素ガスの排出量に変化はありません。むしろ、途上国では排出権取引によって得た資金は、政治家や役人が着服するのでもない限りインフラ整備などに使われるので、その国を豊かにする方向に作用します。そのことはその国の国民にとってプラスになりますが、結果として二酸化炭素ガスの排出量は増加することにつながっていきます。
 市場原理によって、排出権を売却し続けるためには途上国も新技術を導入して二酸化炭素ガスの増加を抑制する行動をとるはずである、と考えるのは机上の空論でしかありません。たとえば、途上国で発電所をつくろうとするときに、手っ取り早くできるのは火力発電所です。初期費用と運営コストがかかる原子力発電所をつくるとは考えられません。
 同じことは工場にもいえることです。経済発展の途中にある国では例外なく公害問題が起こっており、それは、経済の発展が最優先であって環境汚染対策は二の次にされるからです。豊かになって初めて環境汚染に目を向けるだけのゆとりができてくるのです。
 先進国でも、排出権を購入するコストが惜しいと思うはずだから、二酸化炭素ガスの排出削減に動くであろうという期待もあると思います。しかし、そんなことをするよりも京都議定書を離脱する方がよほど簡単です(現にアメリカがそうでした)。にもかかわらず、先進国が京都議定書に参加しているのは、環境ビジネスが金になると思っているからです。オバマ大統領が地球温暖化対策に積極的に取り組むと表明しているのは、そのことが雇用を生み、アメリカ経済にプラスになると考えているからです。ヒューマニズムで判断しているわけではないと思います。
 省エネやエコのための製品を開発すれば、それが売れることは間違いありません。しかし、そのことが経済の発展(すなわち国民の生活を豊かにする)に寄与するとは考えにくいのです。
 昨年、自動販売機でたばこを購入するための成人識別カードとしてタスポが導入されました。そのために数百億円というお金が投入されました(その原資はたばこの代金から捻出されています)が、その経済効果はほとんどゼロに等しかったといえます。その理由はタスポの普及率が低いからではありません。タスポというカード自体は何も新しい価値を創造しないからです。
 どういうことかというと、たとえば、食料品を購入してそれを食べることで人間はエネルギーを得ることができ、仕事や勉強という活動に携わることができます。それらの活動は物づくりという行動や需要そのものですから、新たな売買活動に結びつくといえます。このように、食料は人間が新しい価値を創造するために使われるのです。
 ところがタスポはそうではなく、持っていても何も生み出さないのです(タスポを持たなくてもたばこを買うことはできます)。
 省エネやエコのための製品は、従来あった製品を置き換えただけのものですから、新しい需要を生み出すものではありません。電球型蛍光灯が省エネになるからといって部屋を増築する人はいませんし、最近の冷蔵庫は電気代が安いからといってもう1台冷蔵庫を買い足す人もいません。それを購入することで従来あったものを廃棄するという行動を伴います。
 それらの製品が経済の発展に寄与するためには、消費者人口が増えるか今まで世の中に存在しなかった製品を作り出す以外ないのですが、現実はそうではありません。まだ使えるエアコンや冷蔵庫をきっぱりと捨てて省エネ型の新製品に買い換えるならば別ですが。

 公害が問題となったときに、工場の排気ガスや排水に厳しい規制が設けられ、企業はそれに従うことで公害問題を解決してきました。そのために開発・導入された技術によって国民の生活がどれだけ豊かになったか測定することは困難ですが、少なくとも環境汚染は低減されました。その結果、公害に対処するために社会全体が負担しなければならないコスト(たとえば医療費など)は軽減されるという効果をもたらしました。
 二酸化炭素の排出量を削減するための方策(たとえばレジ袋を削減するなど)によって社会全体のコストをどれだけ低減することになるのかは明らかではありません。なぜならば、地球温暖化(=二酸化炭素濃度の上昇)によってもたらされた現象であると断定できた被害はまだ存在しないからです。
 さらには、地球全体の二酸化炭素ガスの排出量が増え続けている以上、削減策がどれだけ効果があったのかは誰にもわからないからです。ちなみに、レジ袋を1枚削減すると二酸化炭素をおよそ62グラム削減できるというコマーシャル(@大和ハウス)がありますが、この数字は推定値です。1枚のレジ袋の中に62グラムの二酸化炭素が含まれているわけではなく、製造の際に何グラム、運搬する際に何グラムという推定値の積み重ねをいっているのです。もちろんそれが正しいかどうかは誰にも検証のしようがありません。

 また脱線してしまいました。すいません。
 錬金術というのは、価値の低いありふれた金属を、高価な金に変える技術のことをいいます。核融合でも起こさない限りそんなことは不可能なのは明らかとなっていますが、これだけ科学が発達した現代でも錬金術に取り憑かれる人は後を絶ちません。
 お金を預けるだけで何倍にもなって返ってくるという儲け話や、マルチ商法が廃れることはありません。人間は、額に汗を流してお金を得ることよりも、楽をして金儲けをする方がはるかに好きな動物であるといえます。
 同様に、二酸化炭素というありふれた物質について「排出枠」や「削減量(マイナス○%、マイナス○グラム)」という架空の存在を取引の材料にしてお金に変えようというのは、まさに錬金術であるといってもいいと思います。
 世の中に存在しない物を売りつけようとする人のことを詐欺師と呼びます。錬金術師というのは現代では死語ですが、かつては詐欺師と同義語でした。
 錬金術はいつか必ずぼろが出るものであり、その被害者は錬金術を信じてお金を出してきた無邪気な人たちに限られるというのはいつの時代も同じです。
 念のためいっておきますが、日本が排出枠を買い取るために必要な原資がどのような名目で徴収されるにせよ、最終的にこれを負担するのは消費者であることに変わりはありません。
by T_am | 2009-01-27 07:07 | あいまいな国のあいまいな人々
 1月24日のNHKニュースで、公明党の太田代表が麻生首相に、「地球温暖化対策をめぐる国際交渉で焦点となっている2020年ごろまでの中期的な温室効果ガスの削減目標について、日本としての具体的な目標をことし4月までに打ち出すよう」申し入れをしたとのことです。また、「企業どうしが二酸化炭素の排出枠を売買する『国内排出量取引制度』を、遅くとも2013年から本格的に導入するよう求め」たそうです。

 私は二酸化炭素ガスの排出削減には反対の立場ですから、この要求、就中「国内排出権取引制度」は国の活力を削ぐものとして看過するわけにはいきません。そこで、今回は二酸化炭素ガスの排出権取引の矛盾について私見を述べることにします。

排出権取引とは
 A国とB国とがあり、ともに年間1億トンの二酸化炭素ガスを排出していると仮定します。A国では、地球温暖化に歯止めをかけようという世論の後押しもあって、二酸化炭素ガスの排出量を10%削減することに成功しました。したがって、A国の二酸化炭素ガスの排出量は9千万トンとなり、1千万トンが削減されたことになります。この削減された1千万トンを権利として認め、これを排出権と呼ぶことにします。一方B国では地球温暖化よりも自国の経済発展の方が優先するということで、その取り組みをまったくしませんでした。その結果、経済成長は達成できましたが、二酸化炭素ガスの排出量は10%増えてしまい、1億1千万トンとなってしまいました。
 排出権取引というのは、A国が持っている1千万トン分の排出権をB国がお金を出して買い取るというものです。こうしてB国は堂々と1億1千万との二酸化炭素ガスを排出することができるようになりました。

排出権取引制度導入の理由
 上の例で、A国では国を挙げて二酸化炭素ガスの排出削減を行った結果、削減分の排出権をB国に買い取ってもらうことができたので、その分国が豊かになりました。これに味を占めたA国では、受け取ったお金の一部を技術開発に回し、さらに二酸化炭素ガスの削減を実現し、その分の排出権も売り払うことを国策としました。
 一方B国では、二酸化炭素ガスの排出権を買い取ったものの、その分がコストとなって製品価格に転嫁されてしまったので、輸出がその分減ってしまいました。これに懲りたB国では、やはり二酸化炭素ガスを自力で削減しなければならないということに気づいたのです。

 
 このように、市場原理を導入することによって、二酸化炭素ガスの排出削減が可能になるという理由で排出権取引制度が導入されることになりました(EUでは既に実施されています)。
 しかし、どう考えてもこの制度には矛盾があります。

矛盾その1
 排出権取引が行われている間は、二酸化炭素ガスの総排出量が減ることはありません。せっかく減らした国や企業があっても、それを権利として買い取り、自己の増加分に充当する国や企業が出てくれば、二酸化炭素ガスの総排出量が減ることはありません。したがって、二酸化炭素ガスの排出量削減という観点からは、排出権取引制度は否定されるべきです。このように、自己否定を孕んだ制度というのは極めて珍しいと思います。

矛盾その2
 排出権取引は、市場原理を導入して、二酸化炭素の排出はコストであるという状態を人為的につくりだして、その結果二酸化炭素ガスの排出を削減していこうというものです。市場原理が有効であるのは、全員がそのルールに従って行動することが大前提となります。
 俺には関係ないもんね、といって二酸化炭素ガスの排出を続ける(具体的にいうと京都議定書に参加していない)国があると、二酸化炭素ガスの総排出量は増えることになりますから、排出権取引を認めて長期的なスパンで二酸化炭素ガスの排出削減を実現していこうという目論見は無駄に終わってしまいます。

矛盾その3
 排出権取引制度が実効性を持つには、参加者に対する強制力がなければなりません。「二酸化炭素ガスの排出が思うように減らなかったので、本来であれば排出権を買い取らなければならないのでしょうが、あいにく手元に資金がないものですから、今回は買い取ることができません。」という身勝手な理屈を認めていては取引制度の根幹が崩れてしまいます。たとえ、企業の決算が赤字であっても、例外なしに、排出権買取り資金を徴収する仕組みがなければならないのです。

矛盾その4
 二酸化炭素ガスの排出削減義務は、すべての国民と企業・団体が負うべきです。例外があってはなりません。ということは、排出権取引には個人も参加しなければ二酸化炭素ガスの排出削減効果を損なうことになります。二酸化炭素の排出を削減しなければコストがかかる一方であり、排出量の削減ができればそれは権利として売却できるという状態をつくれば、誰もが喜んで協力するようになります。
 排出権取引に参加するのは、政府・地方自治体も例外であってはなりません。いずれも組織の規模はその辺の企業とは比較にならないほど大きいのですから、是非とも参加してもらわなければ二酸化ガスの削減目標の達成はその分困難になります。
 このことは、排出権取引を管理する組織・団体も同様です。ここの企業・家庭単位で二酸化炭素ガスの排出量を把握して、それが目標以下のところには排出権を与え、達成できなかったところには買い取りさせるという重要な仕事なのですから、民間に委託できるというものではありません。なかには、これを誤魔化す輩も出てくることでしょうから、そのような不逞の輩に対する捜査権と告発権も持たせる必要があります。
 そのための活動量は年々増えていくことと思われますが、この組織団体も排出権取引制度の枠内に入っていなければなりません。事務活動が増えればその分二酸化炭素ガスの排出量は増えると思いますが、必要経費と割り切って排出権を買い取るべきです。二酸化炭素ガスの排出削減のために設けられた組織団体が二酸化炭素ガスの排出増加を行っているというのは皮肉ですが、多少のことには目をつぶるべきです。

矛盾その5
 排出権取引制度を運営維持する主体はどうするかというと、これはやはり公営とすべきでしょう。取引市場を民営化すると、個人間の違法な取引や闇のマーケットが登場し、反社会性力の資金源ともなりかねません。取引市場の公正中立を厳正に維持するには、排出権取引制度の運営主体は、やはり公営でなければなりません。その結果、官僚の天下り先を新たにつくり出すことになりますが、地球温暖化の前には些細な問題に過ぎません。

矛盾その6
 排出権取引制度を運営維持するために財源は誰がどうやって負担するかというと、売買される排出権に一定の手数料を徴収するという方法が有力です。そうやって制度の運営維持費を捻出するわけです。その中には、天下り官僚の人件費や退職金も当然含まれます。制度の維持運営のためには膨大な事務手続きが発生することが予想されるので、その分雇用も増えます。また、専用の事務所も必要となるので、その分の建築需要が発生し、これも景気を刺激することが予想されます。新たな建物と組織団体を設立し、そこに役人を送り込むという手法はバブル崩壊後も多用されてきた手法です。これは一時的に地方の景気を刺激をするという効果があるものの、維持費の方がかえって高くつくということで、現在それらは自治体のお荷物になっていますが、今回は違います。二酸化炭素ガスの排出削減は国を挙げて取り組むべき課題なのですから、反対する人はいません。なお、排出権取引制度の運営維持のために集めた手数料は、柔軟かつ小回りのきく活用をするためにも特別会計として独立させ、国会の無用な干渉を断固排除するということが必要です。

矛盾その7
 排出権取引の売買代金は誰が負担するのかといえば、最終的には消費者となります。もちろん業種や製品によっては最終価格に転嫁できないという場合もあるでしょう。その場合はどうなるかというと、その分人件費を削って対応することになります。企業は利益を出さなければ存続することができません。企業が存続できなければ従業員の雇用も失われるわけですから、これは我慢すべきです。
 結局のところ、最終的には個人が負担することになるのですが、その結果個人消費がますます落ち込み、景気がいっそう悪くなることも予想されますが、この国では財源確保がすべてに優先される政治課題です。国民から文句が出たら定額給付金をばらまけば一時しのぎになります。その財源は赤字国債なので、未来の国民が負担することになりますが、どうせ10年後には総理大臣も替わっていることですし、そんな将来のことまで政治家は責任をとることはないというのが国会議員の論理です。

矛盾その8
 排出権取引制度が軌道に乗り、すべての国民・企業・組織団体が削減目標を達成したときにどうなるかというと排出権がだぶつくことになりその価値は暴落することになります。しかし、心配することはありません。そうなればなったで、新しい削減目標を設定すればいいだけのことです。なにしろ洞爺湖サミットのときに政府は、2050年には二酸化炭素ガスの排出量を世界中で半分にしなければならないとまでいっているのですから、そこへ行き着くまで排出権取引制度は安泰です。

矛盾その9
 排出権というのは人間がつくり出した権利に過ぎず、その実体はどこにもありません。かつて日本では、人間がつくり出した地価という価値が暴走し、バブル経済を引き起こしてから破綻しました。(アメリカでも住宅価格のバブルが起こり、それが昨年破綻したことで世界的な金融危機に発展していきました。)
 実体のないものをいくら売買しても、経済の拡大再生産に寄与するところは全くありません。最初のうちは活況を呈するでしょうが、所詮バブルなのでいずれ破綻します。
 そういうお金の使い方をするよりは、輸出産業に投資して貿易収支を黒字にした方が海外から入ってくるお金で国民生活が豊かになると思うのですが、地球温暖化防止のためには皆が艱難辛苦を耐え忍ぶべきであるという風潮が合意形成されつつあるのですから、そのことが問題にされることはないと思われます。


 排出権取引がどのようなものになるのか具体的なものが見えてこないので、とりあえず思いついたことを書いてみました。
by T_am | 2009-01-26 07:06 | あいまいな国のあいまいな人々
 昨日から雪が積もったので、先週アップした鳥屋野潟公園のユキツバキの蕾がどうなったかを観てきました。
 金曜日が暖かかったので、少しは開いたかなと思っていたのですが、案外変化がありませんでした。

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 下の写真は、同じ蕾の先週の写真です。比べてみると、少し色づいていることがわかります。

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 このほかにも蕾はたくさんあるのですが、どれもまだ固いままです。
by T_am | 2009-01-25 10:04 | 写真日記
 二松まゆみさんの「モンスターワイフ 幸せなふりはもうしない」(講談社α新書)を読みました。
 著者は「となりの寝室事情 うちの寝室事情 恋人・夫婦仲相談所」を主催されており、主婦から寄せられる数々の相談に対し、ご自分の体験をふまえたアドバイスをされています。

http://www.suzune.net/contents/

 多くの女性にとって結婚は夢ですが、夢はいずれ覚めてしまいます。多くの主婦がセックスレスを経験しており、中には夫の浮気に悩む人もいます。この本は、そうした悩みを抱える主婦からの相談事例に基づいて、現在悩みを抱えている主婦へのアドバイスとなっています。
 ここで注目すべきは、妻が夫を変えるというアプローチの仕方ではなく、自分が変わっていくことを勧めている点です。そのためには、自分の中の「イヤな女」の部分に気づかなければならない。その手がかりとして「モンスターワイフ」という概念を提唱されています。
 夫の携帯を盗み見る妻、鞄の中身をチェックする妻、いつも不機嫌な妻、めそめそしていてすぐ泣く妻、むだ毛の手入れを怠っている妻。ありとあらゆる事例が紹介されており、その根本にあるのは夫とのセックスに対する不満(セックスレスやマンネリ)であると著者は指摘しています。イヤな女の事例を細々とユーモラスに挙げている理由は、「私には関係のないことだわ。あー、よかった。」と安心してもらうためではなく、夫婦仲に不満を感じている以上必ず原因があるはずであり、その責任の一端は妻である自分にもあるという自覚を持ってほしいからであることがわかります。
 ただし、この本は夫婦不仲の責任を妻の側に一方的に押しつけるためのものではありません。たとえば、夫が浮気をしたときに、妻がとるべき選択は「許す」か「分かれる」しかないと二松さんは断言しておられます。「自分の幸せを本当に考えるなら、どこかできっぱりと『許す』か『分かれる』かの決断を、それがどれほど過酷なことであってもしなければなりません。でなければ前に進めないのです。」

 男がこの本を面白半分に読み、夫が自分の責任転嫁に利用することはできるでしょうが、そんなことをしても誰も幸せになるわけではありません。むしろ、妻がきちんと自分自身を見つめたうえで、夫に対して真摯に接してきたならば、夫の側も真剣に応えないわけにはいきません(それまで、夫は何もしなくてもいいと免罪しているわけではありません)
 「自分の幸せを本当に考える」ことの大切さをこの本は訴えているように思います。そして、そのためのアドバイスが随所にちりばめられているので、主婦には読むことをお勧めしたい本です。もしも、ご自分の奥さんがこの本を読んでいることに気づいたならば、そんな奥さんをいじらしいと思ってあげてください。
by T_am | 2009-01-25 09:40 | 心の働き
 子どもの学力低下を憂え、その学力を何とかして高めなければならないという思いが知識人の間の共通認識としてあります。そして、その問題の解決は教育制度の改革によって可能となる、ということが広く信じられています。
 昨年12月に文部科学省は高校の学習指導要領の改定案(平成13年度から実施)を発表しました。その内容は、ゆとり教育と完全に決別するというもので、教える英単語の数を1300から1800に増やし、英語の授業は英語で行うというものです。ニュースをご覧になった方も多いと思います。
 子どもの学力を向上させるにはもう一度詰め込み教育をやる以外ないという意見には同意しますが、その代わり子どもたちの間に「学力の格差の拡大」をもたらすことを覚悟しておくべきでしょう。カリキュラムを濃いものにしたからといってすべての子どもの学力向上に結びつくわけではありません。むしろ、「ついて行ける子ども」と「そうでない子ども」とはいつでもどこにでもいるのですから、その違いがはっきり現れるようになるだけのことです。
 
 現在の、高校と大学の事実上の全入状態は、他人と同じことをやっておかないと不安であるという心理に基づいています。誰もが高校・大学に行く時代なのだから、自分の子どもが高校や大学に行っておかないとそれだけ不利になるという心配、もしくはかわいそうであるという気持ちがあるわけです。
 ところが、学力を向上させるための詰め込み教育が行われると、ついて行けない子どもが出てくるのですから、いずれ批判が起こることは目に見えています。
 その中で、気になる動きとして、生徒や父兄が自由に高校を選べるようにしようというものがあります。従来の制度は、子どもの自宅から通える範囲内で受験できる高校が決められていました。新しい制度は、その枠を取り払い、受験できる高校をより広範囲に選択できるようにするというものです。学校間に競争原理を導入しようというのがその理由です。
 実際には、志望校を決める際には、自分が合格できるのはどの高校か? という基準で決定しているわけですから、新しい制度がもたらすものは、より広い範囲の中での高校の序列化です。結局、新しい学習指導要領を消化できるのは一握りの高校であり、多くの高校が消化不良を起こすことが予想されます。
 このとき、競争原理によって、レベルの低い学校とそこに勤める教師が不利な扱いを受けるということになると何が起こると思いますか?

 ひとつには、全体の足を引っ張る生徒には途中でお引き取り願うということが行われるようになると思われます。こう書くと、ずいぶんひどいことのように思うかもしれませんが、既に入試という関門を設定して生徒の振り分けをしているわけですし、やる気のない生徒は来てもらわなくても結構という割り切り方をする学校が出てきても不思議ではありません。
 次に考えられるのは、成績別クラス編成です。実力テストによって、同じような学力の生徒を集めてクラスを編成し、そのレベルにあった授業をするわけです。こうすることで、できる子どもが集まっているクラスはどんどん進んでいきますし、そうでない子どもが集まっているクラスでも落ちこぼれが出る可能性は少なくなります。その代わりクラス間の格差はどんどん広がっていきますし、レベルの低いクラスが差別される恐れも出てきます。

 そんなことを許してはならないと思われるかもしれませんが、あなたが、「今の子どもは学力が低下しているのだからこれを向上させるのが社会の急務である」という考えに同意した時点で、「そんなこと」が起こるのはやむを得ないと許諾したことになるのです。なぜかというと、人間の価値を学力という単一の基準で測定することに同意しているからです。
 いろいろな人間がいる方がかえって社会は活気に溢れてきます。ところが、同じような人間ばかりだとそうはいきません。そのことは誰もがわかっているのでしょうが、やはり学力の高い方がいいと思ってしまうのは、その気持ちの底に、お金をたくさん持っている方が人間は幸せになれるという意識があるからだと思います。そう思うから、わが子には高校・大学に生かせてやりたいという思いも生まれてくるわけです。
 事実上の全入状態の実現と学力の向上とは両立するものではありませんが、その根底にある意識は共通しています。そう考えると、教育の効果を功利的に理解する(いい成績をとっていい高校・大学に進むと将来有利であると考える)ことが諸悪の根源であるということに思い当たるのです。
by T_am | 2009-01-21 06:59 | あいまいな国のあいまいな人々
 1月20日はアメリカ合衆国の大統領就任式が行われます。ブッシュ政権の失政(市場に委ねすぎたこと、政治に宗教を持ち込んだこと)が今日の惨状をもたらしたと考えられているだけに、大勢の市民がオバマ新大統領の就任式に参加する見込みです。
 日本でも、新大統領は演説の巧者として知られ、またネットを活用するという新しい手法を導入して厳しい大統領選を勝ち抜いてきたことが知られているだけに、新大統領に対する興味は深いものがあります。現時点では、麻生総理に対する関心よりも高いのではないかと思います。
 ただし、これらはあくまでも市民の視点での話です。昨年暮れからイスラエルがガザ地区に空爆を繰り返してきたことに対する新大統領の姿勢に、アラブ地区では不満と失望が高まっています。アフリカ系の血を引く新大統領には、従来の大統領とは異なる対応を期待していただけに裏切られたという思いが強いのでしょう。もっとも、アラブの中でも冷静な人々の中には、アメリカ社会におけるユダヤ勢力の影響力を考えれば、このことは充分予測されたことだと受け止める向きもあります。 
 オバマ新大統領が黒人だからといっても、しょせんはアメリカ合衆国の大統領であることに変わりはありません。
 アメリカとソ連は国際社会において、他国に軍事介入するなど、ときとして恣意的に振る舞ってきました。どの国も国益を最大化することを考えていますが、覇権を持つ国家はそれを武力で実現できるというところが他の国と異なるところです。
 オバマ新大統領がどのような政策を執るのかは今後の推移を見なければわかりませんが、アメリカの国益を優先して考えることは間違いありません。
 しかし、人間はともすればものごとを自分音都合のいいように考えがちなので、新大統領が自分たちにとって有利に動いてくれるのではないか? とアメリカ国民でもない私たちも期待しがちです。ですから、しばらくは様子を見るべきなのでしょう。

 追記。北朝鮮が、プルトニウムを武器として使ったということを暴露しました。このことでオバマ新政権がどのような対応をするのか反応を探りたいということなのだとおもいます。頼れるものは自分だけ、という立場におかれると自然と外交感覚が磨かれていくようです。これは人間も一緒で、おんぶにだっこで甘やかされて育つと、しだいに無能力化していくことが明らかとなっています。
by T_am | 2009-01-20 06:49 | その他
 前回考察したように、エネルギー問題も食糧問題も結局は人口問題に収斂することがわかります。人類の人口が増えればそれだけ化石燃料が枯渇するXデーは早くやってきますし、必要とする食料も多くなり、それを生産するために環境にそれだけ負荷をかけることになります。
 自然界では、環境に適応して生物は個体数が増えていきますが、過剰に適応した生物は、たとえば恐竜のように、何らかの原因で環境が変化するとそれについて行くことができず滅びてしまいます。恐竜が滅びたのは隕石による寒冷化が原因とされていますが、地球自身も活動を続けている惑星なので、自然は絶えず変化しています。そのことが、生物の増加を促進することもあれば、逆に個体数を減少させることもあります。火山噴火や地震、津波、洪水などは容赦なく生物の生命を奪います。また疫病の流行も個体数を減少させます。これらは、結果として生物の野放図な増加を抑制するメカニズムとして機能してきました。しかし、人間だけがこれらの自然災害にもかかわらず、自然環境に手を加えることによって人口を増やし続けてきた種なのです(二酸化炭素の排出量は、人口が増え続ける限り減ることはありません)。
 私は自然保護について原理主義者ではありませんから、自然に手を加えて人間が住みやすくするようにすることを否定するものではありません。しかし、人間が手を加えるのは限定的なものにとどめ自然と調和できる範囲内でなければならないと思っています。自然を略奪するかのようにして開発するのはいつか痛烈なしっぺ返しがくるからです。
 そのように考えると、人口は適当な水準で抑制すべきであるということになります。したがって、少子化により日本の人口が減少傾向に入っているということは奇貨とすべきではないかとも思います。
 確かに、人口の減少は社会の総需要が減ることになり景気停滞の要因となります。しかし、既に述べたように、日本の国土が養える人口の上限を現在は超えているわけですから、その分何とかして稼ぎ出さなければなりません。それが加工貿易であり、自動車や電気製品を輸出することで稼いだお金が国内を潤してきたわけです。
 その前提は、エネルギー問題と食糧問題が顕在化しないということです。特に石油を始めとする化石燃料が枯渇すると、現在の物流体制は崩壊してしまうので、従来のような規模での貿易は不可能となります。また、内燃機関が使えなくなるので、機械に頼った農業は立ちゆかなくなります。そうなると、基本的に国内で生産できる食料しか食べることができないことになります。
 そうなったときに、人口規模が減少していると、社会の混乱はその分少なくて済みます。したがって、日本にとってありがたいのは、化石燃料が少しずつ不足していき、長い時間をかけて無くなっていくというパターンです。化石燃料がなくなるときに、国土のキャパシティ以上に人口を抱えている国というのは、それだけ大きな混乱を経験することになり、それは人口が適正規模に落ち着くまで続きます。

 古来、結果的に人口を「調整」してきた出来事に戦争があります。戦争はいかなる自然災害よりも大規模に人命を奪います(例外は地球規模で寒冷化し、草木も育たない世界になること)。そうかといって、人口を調整するという目的で戦争を起こすことは許されるものではありません。すべての生き物には生きる権利があり、他の生き物の生きる権利(すなわち生命)を奪ってもいいのはこれを捕食するときと自分の生命を守るときに限られます。
 そうすると、これ以上人口を増やさないようにするにはどうすればいいかということになりますが、日本の場合は人口の減少傾向にあるのですから、そのことは考えなくてもいいことになります。
 
 未来の予測をする場合、それが実現すればいいのにという願望を伴うことが多いのですが、ここに書いてあることばかりは実現して欲しくありません。となると、化石燃料の代替えエネルギーを開発して実用化することがさしあたっての課題ということになります。

 地球の温暖化によって耕作可能地域の北限が北に移動するのであれば、耕地面積を増やすことで食料生産量が増えることになるので、日本のように南北に長い国はかえって有利になります。国内で消費して余った食料を輸出すれば外貨を稼ぐことができるはずですが、日本はコストが高いので、農産物には価格競争力がないかもしれません。その場合、食糧自給率を高めるように、農地を振り分ければいいのです。
 現在の食糧自給率はカロリーベースで40%というのは、全品目の平均値に過ぎません。米や野菜のように、国内でほぼ賄えるものもある一方で、小麦や大豆などほぼ全量を輸入に頼らなければならないものもあります。農地を振り分けるというのは、自給率の低い品目に農地を割り当て、その生産を税金で保護することが必要だということです。何もしなければ、国産小麦や国産大豆は輸入品よりも高いものになり、買い手がつかないことが予想されます。輸入品に関税をかけることは食品の最終価格を引き上げることになり、市場を衰退させます。農業と畜産業に税金を投入して保護するというのは必要なことです。少なくとも田んぼを休耕させて、減反奨励金を支払うよりは前向きなお金の使い方であると思います。
 日本という国は、農作物の生産に適した国土を持っているので、食糧問題の解決に対しても他国に比べると有利な立場にあるといえます。
 そうすると、残る問題はやはりエネルギー問題ということになります。先の戦争は、エネルギーを確保するために起こしたわけですから、エネルギー問題が日本にとってのアキレス腱であることに変わりはありません。
 日本にとって、今ここにある危機というのは常にエネルギー問題であり、いずれ必ず訪れるXデーに備えて、化石燃料に代わるエネルギーを確保することに力を注ぐべきであるという結論が導かれるのです。化石燃料が無くなれば二酸化炭素濃度は何もしなくても下がっていきます。今は、二酸化炭素の排出削減などと見当違いなことをやっているときではありません。
by T_am | 2009-01-19 06:18 | 科学もどき