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カクレ理系のやぶにらみ

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時間のある方はお読みください。軽い気持ちで読み始めると頭が痛くなります。

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 今回は、前回の「13歳の進路」とセットになっています。
 子どもの成長に伴って、親には心配事ができていきます。自分の子どもはよその子どもよりも成長が遅いのではないか? あるいは劣っているのではないか? という不安です。
 ただし、不安と安心は裏表の心理ですから、よその子どもよりも成長が早かったり、すぐれているところを見つけると、親は安心するというのも事実です。これはいい悪いではなく、親というものはそのように感じるものなのだということです。

 ですから親には、わが子の成長度合いをよその子どもと比較しがちなところがあります。よその子どもと比較して成長が早い分には安心するのですが、遅いとやはり気になるものです。たとえば、よその子に比べて、おしめがとれるのが遅い、言葉を話すのが遅いのではないか? 等々、心配事の種は尽きません。
 子どもが大きくなって学校へ行くようになると、親にとって今度はわが子の成績や運動能力が気になるようになり、ここでもほかの子どもとの比較が行われます。テストの点数が平均点よりも低いといっては心配し、順位が前回のテストよりも下がったといっては不安に駆られることになります。逆に、点数が平均よりも高かったり順位が上がれば、親は安心していられます。そして、いつも点数が平均よりも高く、順位が上の方にある場合、親はわが子を自慢に思うようになるのです。
 また、兄弟姉妹がいる家庭では、親は兄弟姉妹と比べて考える傾向があります。たとえば、兄はおっとりしているが弟の方は要領がいいとか、姉は人見知りするタイプだが妹の方は物怖じしない、というふうに。
 けれども、親によるこのような「品定め」は子どもにとって何ら益するところはありません。人間にとって一番嫌なことは他人と比較されるという形をとって自分を否定されることだからです。

 「○○さんちの△△ちゃんはこういうことができる。それに比べてあんたは・・・」

 親にすればれができるけれども、わが子を発奮させるつもりでこういっているのでしょうが、実際には逆効果です。自分が同じいわれ方をしたらどう思うかを考えてみればわかるでしょう?

 子どもが親に期待しているのは、自分を肯定してくれることであって、否定することではありません。ただし、肯定するだけでは子どもが間違った方向へ進むことがあるので、ときには叱ることによってこれを修正してやることも親の勤めです。

 わが子の個性を伸ばしてやりたいと考える親は多いと思います。
 しかし、口ではそういいながら、わが子をよその子と比べ、平均よりも優れていれば自慢に思い、劣っていれば心配するというのは矛盾しています。
 いいところも悪いところも含めてその子の「個性」なのですから、「個性」とか「自分らしさ」ということをいっても仕方ありません。むしろ、自分の力で生きていけるように育てることがもっとも大切なことです。その次に、人間は努力することによって自分自身を変えられるのだと教えること。ただし、これは必ずしも学校の成績のことをいっているわけではありません。自分の好きなこと、やりたいことに一生懸命打ち込むうちに、いつの間にか自分が変わっているというものです。
 どんなにかわいい子どもでも、親はその子が死ぬまで面倒をみることはできません。親の方が先にいなくなるというのが自然の摂理です。
 人間が幸せに生きていくためには、幸せを感じられるハードルを低く設定することが大切であって、そのためには、ささいなことでも嬉しいと感じられる感受性を持った方がいいのです。
 自分の子どもには幸せになってほしいと思わない親はいません。しかし、そこでいう「幸せ」とは親が考える「幸せ」であって、子どもが感じる「幸せ」と同じではありません。こうして考えていくと、親が思っている「子どものためにしている」というのは、実は「自分が納得するためにしている」場合もある、ということがわかります。
 人間とは敏感なもので、自分に向けられる愛情表現がどのようなものであるかをちゃんと感じ取ることができます。親が、自分はこれだけ愛情を注いでいると思っていても、それが実は「自分を納得させるため」の愛情表現に過ぎなければ、子どもはそれを疎ましいと感じます。その代わり、何も代償を求めない愛情(たとえば、赤ちゃんをあやしてやると自分も一緒になって楽しくなります)は必ず相手に伝わります。
 親がそのような愛情を子どもに注いでいる限り、子どもはいつかきっと親に感謝するようになります。別に、感謝されるために子どもを育てるわけではありませんが、他人に素直に感謝することのできる人間を育てるというのは尊いことであると思います。
by T_am | 2008-12-31 07:49 | 心の働き
 今回は現在中学1年生の人に宛てて書いてみました。もちろんその親御さんにも読んでもらうということを想定しています。

 皆さんが中学に入学して、もう8ヶ月が経とうとしています。
 中学1年生の皆さんは、先生や親と自分の進路についての第1回目の話合いをしたことと思います。そのときに、将来何になりたいのか? ということを訊かれたかもしれません。訊かれなかった人も、ここで一度考えてみてください。

「自分は将来何になりたいのか?」
「自分は将来何をやりたいのか?」

 自分が将来何になりたいのか、きちんと考えを持っている人もいれば、よくわからないというひともいると思います。また、親や先生に訊かれたけれども、恥ずかしくて答えることができなかったという人もいることでしょう。
 けれども誤解しないでほしいのですが、将来何になりたいのか? と訊かれたときに、中学1年生の段階で、何になりたいかをちゃんと決めていなければならない、というものではないのです。わからなければ、わからないで構いませんし、特になりたいものはない、という人もいるでしょう。今は、それでも構わないのです。
 自分が何になりたいのか、何をやりたいのか、早いうちに決まる人もいれば、なかなか決まらない人もいます。高校生や大学生になってから決める人もいます。また、後になって、なりたいものが変わることもあります。ですから、日本中の中学1年生が、三者面談のときに、将来何になりたいかを決めていなければならないということではないので、安心してください。

 それでは、先生や親は、なぜ皆さんに「将来何になりたいのか」という質問をするのでしょうか?
 それは、皆さんに、自分自身のことについて考えてもらいたいと思っているからです。自分は何になりたいのか? 自分はなにをやりたいのか? ということを考えるのは自分自身を見つめることにつながります。
 ある人にとっては、自分が何になりたいのか今はまだよくわからないけれども、部活をやっていると楽しい、ということもあるかもしれません。あるいはこの授業が好きだというのもあるかもしれません。

 私は、今はそういうことでも構わないと思います。

 けれども、自分が何をやりたいか、将来何になりたいかということは時々は考えるようにしてください。
 先生や親に訊かれたときに答えられるようにするためではありません。では、なぜかというと、自分が何をやりたいか、将来何になりたいかが見つかることは、「自分にとってとても大事な何か」を見つけることだからです。そのために、時々自分「自身を見つめる」ということをしておいた方がいいのです。
 「自分にとってとても大事な何か」を見つけるために時間がかかるのはしかたありません。なかなか見つからないということだってあるでしょう。別に焦る必要はありません。いつかきっと見つかります。

 「自分にとってとても大事な何か」が見つかる日のために、勉強や部活は一生懸命やっておいた方がいいと思います。というのは、勉強も部活も皆さんにとっては未知のことだからです。こういうと、「勉強はともかく、部活のことはもうわかってるよ」と思うかもしれませんが、本当にそうでしょうか? あなたが、部活の中で「まだできないこと」はたくさんあるのではありませんか? それはあなたにとって「未知」の領域です。
 自分がまだ知らないものや事柄について知りたいという気持ち(好奇心)と今できないことをできるようになりたいと願う気持ちは、それを知ろう、あるいはできるようになろうと努力することによって報われます。そのときに得られる「達成感(楽しさ)」は、人間をさらなる未知の領域に誘ってくれます。好奇心やできるようになりたいという願い、そしてそれが叶ったときの達成感(楽しさ)は、その人が一生懸命取り組み続けるためのエネルギーになっていきます。

 「自分にとってとても大事なもの」がいったい何であるか、まだわからないという人にとって、それはその人が未だ知らないことの中にあるということになります。だから自分が知らないこと、あるいはまだできないことについて一生懸命に取り組むというのはそれを見つけるということにつながっていくのです。
 
 既に、将来何になりたいか決まっているという人は、どうすればそれになれるのかをおうちの人や先生に聞いてみましょう。きっとアドバイスをしてくれるはずです。
 親や先生に聞くのが恥ずかしいという人は、友達に聞いてみるのもいいでしょうし、自分で調べてみるのもいいでしょう。友達がわからなくても、あなたがそれになりたいと思っている限り、そのうちきっとその答えは見つかります。

 ところで、皆さんの親は、皆さんに対して、こういう人になって欲しいという願望を持っていると思います。
 たとえば、親が医者をしていれば子どもにも医者になって欲しいと考えていることでしょうし、商売をしている家であれば、その商売を継いで欲しいと思っているかもしれません。また、サラリーマンの家庭であれば、きちんとした会社に勤めて欲しいと考えているかもしれません。
 自分の親がどう考えているか、薄々感じている人も皆さんの中にはいることと思います。

 いつか、自分のやりたいこと、自分がなりたいものが決まったならば、皆さんはそれをどこかの時点で、親にきちんと伝えなければなりません。
 自分の希望と親の希望が一致しない場合はなおさら、それを親にきちんと伝えなければなりません。親を失望させたり、あるいは悲しませたりするかもしれませんが、それが「自分の人生を決める」ということになるのです。

 既に自分が何になりたいかを先生や親に話した人を除けば、その日はまだしばらく先になると思います。それまで勉強や部活を一生懸命やっていれば、いずれ「自分にとってとても大事な何か」はきっと見つかります。それまで何も焦る必要はありません。
by T_am | 2008-12-27 07:17 | その他
 先日のニュースで、裁判員登録の通知を受け取った3名の男性が、実名を公表して、裁判員制度に反対するという会見を行ったというのがありました。裁判員法が、候補者に対し氏名や住所などを公にすることを禁じているにもかかわらず、自ら名前を公表したというのがポイントです(実際にはマスコミがこの人たちの名前を報道することはしていません)。
 私自身は、自分が裁判員に選ばれたとすれば拒否することはしませんし、家族が選ばれたならば裁判に行くことを勧めると思います。今回はそのことについて述べてみます。

 一方、ネットで行われたアンケートの結果によれば、(http://www.excite.co.jp/News/it/20081219/Markezine_6161.html)

 裁判員に選ばれたら行くかについてたずねたところ、「本音は辞退したいが行く」が最も多く42.5%で、「辞退したい」が25.9%、「辞退する」が8.8%で、合わせて34.7%もの人が辞退の意向を示し、「必ず行く」は22.8%となっている。年代別では特に20代で「辞退する」が17.9%

 となっていたとのことです(有効回答数421名、男性52.3%、女性47.7%)。裁判員制度に否定的な情報がネットには多いので、心情はともかく「行く」と回答した人が65.3%いたということには正直いって驚きました。

 辞退の理由については、全体の50.7%が「仕事が忙しいから」と回答し、性別、年代問わずトップとなった。次いで「トラブルに巻き込まれそうだから」が30.8%、「不利益が生じそうだから」が29.5%と続き、「育児や介護があるから」「何をするのかわからないから」が10%台。「育児」 「介護」といった認定可とされる辞退理由よりも関連トラブルを心配する人が多くなっている

 こうしてみると、辞退すると答えた人の6割は、裁判員の仕事をするよりも優先すること(仕事や育児、介護)があると考えていることがわかります(辞退理由は複数回答可としているようです)。また、裁判員になることが自分の不利益になると思っている人も6割程度(「トラブル」と「不利益」の合計)いることもわかります。このように考えている人の、回答者全員に対する割合はおよそ2割程度となります。
 裁判員制度に反対する人たちの主張をネットで拾ってみると、「裁判員制度はいらない! 大運動」という市民団体のサイトがあったので、そこに掲載されている反対理由を引用して考えてみることにします。 http://no-saiban-in.org/

 第1に、裁判員制度は、そもそもその実施を国民が望んでおらず、国会でもまともな討論がほとんどないままに成立したものです。また、各種の世論調査によれば、制度の実施が約半年先に迫った現時点でも、国民の8割前後が消極意見を持っています。すなわち、裁判員制度は、国民の要求とはおよそかけ離れた、とんでもない制度です。
 第2に、裁判員制度は、非公開で行う「公判前整理手続」と3~5日で終える連日法廷による拙速審理により、被告人の防御をつくす機会を制限し、その権利を侵害するものです。さらに、「人を裁きたくない」と考える裁判員候補者であっても、その思想信条を無視し、罰則付きで裁判員になることを強制し、人を処罰させようとするものです。

 第1の理由について、私には同意することができません。そもそも政策や制度改革は(消費税の導入のように)国民が望んでいないことも行われるのが当たり前であって、それを実施するかどうかを、国民が望んでいるかどうかによって決めるのであれば、国会での論議は不要となります。その結果、小泉元総理のように世論の操作に長けた政治家が思うように政治を行うことができるようになるわけです。そのことに私は懲りています。民意は常に正しいのだから政治は民意に従うべきだ、というのは国をミスリードすることがあると思います。
 また、論理の進め方も、「8割前後が消極意見を持っています」というのは、「必ず行く」と答えた22.8% の人を除けば8割前後となるということを行っているのだと思いますが、この8割近い人たちを同一のグループであるとして括り、だから「国民の要求とはおよそかけ離れた、とんでもない制度」であると結論づけるのは、ずいぶん乱暴だと思います。ここの箇所を読んだとき、私は意識調査の回答者の8割が反対しているのかと早とちりしました。
 次に、第2の理由についてですが、裁判員の判断は法廷に提供された事実によってなされるべきであり、マスコミ等の報道による予断を避けなければならないのですから、短期間に集中して審理するのはやむを得ないと考えます。さらに裁判員の負担を思いものにしないためにも審理が長期化しない方がいいのは自明の理です。
 なお、「思想信条の自由」とは、どのような思想信条であろうが、それを持つことと外部に表明することは自由な権利として保護されるというものです。憲法第19条の規定(思想及び良心の自由は、これを侵してはならない)は、個人行動の自由まで保障したものではありません。たとえば、聖書に書かれていないという理由によりわが子に対する輸血や手術を拒否する、という自由は場合によっては制限されることがありますし、オウム真理教による地下鉄サリン事件のように反社会的な行動は厳しく指弾されます。

 裁判員に選ばれたら辞退したい、と考える理由として「人を裁くようなことをしたくない」というのがあるのは理解できます。自分の判断によって、被告が死刑になったり無期懲役になることもあるわけですから、それが他人に与える影響はきわめて大きいといえます。したがって、そのような判断を下す立場になることにためらいを覚えたり、そもそも自分にそのような資格があるのかと疑いを持つこともあろうかと思います。そのような葛藤は避けたいという気持ちは理解することができます。

 しかし、人間には、何であろうと判断を下さなければならないときがあります。そのことを理不尽であるとか不当であるとかいうことはできても、結論を出さなければならない立場から逃避することはできないのです。
 このことは、責任とは何か、という設問に結びついていきます。
 光市の母子殺害事件の判決が第1審では無期懲役となったときに、おかしいと思われた方は大勢いると思います。最終的には死刑判決となりましたが、このときに、裁判官の感覚は市民感情とかけ離れているのではないかという批判がありました。裁判員制度を導入する理由には、市民感情を裁判に繁栄させようということもあると思います。
 テレビの前であれば自由にものをいうけれども裁判員としては判断したくない、というのは自分の言動に責任を負いたくないという気持ちによるものです。面倒なことは他人に任せて自分は傍観者でいたいというのは虫が良すぎると思いませんか?
 自分で決めたことは自分が責任をとらなければなりません。
 では、裁判員として判断したことの責任をとるとはどういうことをいうのでしょうか?
 それが死刑であれ、あるいは無期懲役であれ、被告と被害者もしくはその家族に大きな影響を与えるわけですから、そのことをいつまでも覚えておこうとすることが、自分の判断に責任をとるということになるのだと思います。

 先の戦争に負けたときに中国や満州から日本に引き揚げて来た人や、原爆が投下されたときに広島や長崎にいた人たちが自分の経験をいつまでも忘れずにいる(そしてその体験を他人に伝えようとする)のは、それが生き残った自分の責任であると考えるからです。
 このように考えることのできる人の心を尊いと私は思います。

 私は、裁判員制度が、個人の中に市民としての意識(この社会を維持するためには、他人任せではなく自分が社会に関わっていかなければならないという意識)を植え付ける契機になるのではないか、と考えています。そのことから、「本音は辞退したいが行く」と答えた人も含めると65.3%もの人が「行く」と回答したことをみると、私たちの社会は決して捨てたものではないと思えるのです。
by T_am | 2008-12-26 07:15 | あいまいな国のあいまいな人々
 日本という国は本当に便利な国であると思います。
 電車は時間通り来ますし、郵便物も途中でなくなるということは(たまにありますが)ほとんどありません。電話は24時間かけることができます(真夜中にかかってきた方は迷惑ですが)し、メールもそうです。電気やガス、水道も24時間いつでも使えます。ラジオもそうですし、テレビもほぼ24時間放送しています。インターネットも24時間利用可能です。
 私たちはこれが当たり前だと思っていますが、これらのサービスは基本的に年中無休です。ということは、人が休んだり遊んだりしている間、働いている人がいるということになります。
 このことは小売業や飲食業・サービス業では常識となっており、これらの産業に従事する人は、交代で休みを取り、全員が一斉に休むということは(原則として)ありません。 もうすぐ正月になります。
 年末年始の休みに帰省する人も多いと思いますが、その人たちを運ぶ電車・バス・飛行機・船といった交通機関は休みなく動いています。

 たとえば、飛行機が飛ぶために何が必要かを考えてみます。
 まず、操縦士と客室乗務員が必要です。それから安全に飛ぶための整備士が必要です。そのほかにも空港で働く人は大勢います。受付カウンターの職員、土産物売り場の店員さん、レストランの従業員、保安検査場の職員、売店のおばさん、搭乗口の職員、ボーディングブリッジを操作する人、預かった荷物を飛行機に運ぶ人、機内の清掃員、管制官など、乗客の目に見えないところで働いている人はまだまだ大勢いると思います。さらに空港に電力や水道・ガスを供給するために働いている人も大勢います。この人たちは交代で休みを取ることで年末年始でもきちんと飛行機が飛ぶようにしているわけです。
 これは、年末年始に稼働している他の交通機関でも同じです。
 ついでに述べておくと、飛行機が飛ぶためには、空港が必要です。空港の建設工事には大勢の人が従事したはずですし、その工事に使った原材料や建設機械をつくった人たちもそれぞれ大勢いるはずです。さらに、その機械の部品をつくった人、その部品を加工するための機械をつくった人もいます。そして、機械を動かすための燃料を採掘した人、運搬してきた人、さらにそれを精製した人たちがいます。

 このように考えてみると、無人島で自給自足をするのでもない限り、人間の営みには、それを見えない部分で支えている人たちが大勢いることがわかります。その人たちがきちんと働いていることによって、よほどのことがない限り、飛行機は時間通り安全に運行されているのです。
 その代わり、この目に見えない役割の連鎖のどこかで誰かがさぼったり、誤魔化したりすると、その結果は川下に現れてくることになり、飛行機の正確さ、安全性、快適性は損なわれることになります。
 
 私たちが消費者として口にするもの、手にするもの、身につけるもの、利用するもののすべては他人の手によってつくられたものです。ひとつの製品をつくる、あるいはひとつのサービスを提供するための工程は、ひとつ遡るたびに広がっていき、結果として無数の工程の末にそれらの供給が可能となっていることがわかります。
 そして、私たちは消費者でありながら、ときには供給する側として、これらの無数の工程のどこかを担っていることも忘れてはなりません。
 最初に述べた「日本は本当に便利な国です」というのは、このように、目に見えない役割の連鎖の各過程において誰もがまじめにきちんと仕事をしているおかげで、日本の社会の安全性・快適性・正確性・利便性が維持されているということを意味しています。既に述べたように、どこかで誰かがさぼったり誤魔化したりしていると、それは川下に現れます。たとえば、建物の強度計算を偽ったり、品質や賞味期限を偽装すること、手抜き工事をするとどういうことになるかの実例を外国も(含めて)私たちは嫌というほど目にしてきました。

 今まで述べてきたことについて、私たちは消費者の立場から、特に意識することもなく当然であると思っています。自分はそれに対してお金を払っているのだから、その金額に応じた品質とサービスのレベルが保証されるのは当然であると。
 しかし、本当にそうだといえるでしょうか?

(サービスのレベルや商品の品質)≧(対価として支払う金額)

 私たちが通常思っていることを数式にして表すとこうなります。そして、私たちは、このことが市場原理が導入されることで実現されると信じています。
 自由競争の元で仮に、

(サービスのレベルや商品の品質)<(対価として支払う金額)

 であれば、それは「神の見えざる手」によって市場から駆逐されるはずだということになるからです。
 ですから、市場原理という考え方があまねく行き渡ると、「自分はそれに対してお金を支払っているのだから、その金額に応じた品質とサービスが保証されるのは当然である」という論理が自然発生してきます。つまり、供給する側にはサービスのレベルと商品の品質を保証する義務があって、それをしない者は市場から駆逐される、と考えられるからです。
 この論理自体は間違っているとは思いません。
 しかし、この論理をあざ笑うかのような事例が相次いで告発されているのも事実です。いわゆる偽装問題ですが、中には会社が潰れてしまったところもあるのに後を絶たないのはなぜなのでしょうか?

(サービスのレベルや商品の品質)>(対価として支払う金額)

 であるとき、消費者はそれを「値打ちがある」と思い、そのような買い物をしたいと望んでいます。つまり左辺はそのままで、右辺を小さくしたいと考えるわけです。そのために、チラシを一生懸命眺めたり、店ごとの価格を比較したり、あるいは値引交渉をします。それが賢い消費者としての行動であることを私たちは信じています。
 私たちが買う立場のとき、この不等式の右辺を小さくしたいと思うように、売る立場にいる者が右辺を大きくしたい、そのためには左辺を小さくしても同じことであると考える人がいることもあり得ることでしょう。要は、左辺が明らかに小さいことがはっかくしなければいいと。
 これを、経営者のモラルの低さや学習能力が欠落しているといってしまえばその通りなのですが、私は、供給する側に善良さや勤勉さが欠けていると市場原理は機能しない、と思っています。
 たとえば、船場吉兆が廃業せざるを得なかったのは、あまりのひどさに客足が途絶えてしまい、会社を維持することができなくなったからです。
 偽装が発覚して潰れた企業もあれば潰れなかった企業もあります。その違いは、発覚した際の経営陣の対応の差によるものであり、それによって注文が途絶えてしまうか再開されるかが分かれたからに過ぎません。船場吉兆が市場原理によって潰れたのであれば、赤福も石屋製菓も潰れているはずです。でも実際には、船場吉兆は潰れ、赤福や石屋製菓は潰れませんでした。
 この疑問に対して考えられる結論は「市場原理は機能していない」ということです。あるいは、「市場は過ちを犯すことがある」ということもできると思います。
 
 公共サービスを民営化すれば、市場原理が導入されてよくなると思うのは早計です。
 国鉄は民営化してサービスがよくなったという人がいますが、これは短絡的すぎると思います。民営化によって私鉄と競争するようになったからだと思われていますが、実際に旧国鉄の路線で廃線となったのは競争がない過疎地の路線か新幹線が通ることによって自社競合が起こった路線であって、私鉄と競合している路線が廃線となったわけではありません。民営化することで消費者の批判に晒されることを恐れたためにサービスが良くなったに過ぎないのです。
 上越新幹線と東北新幹線は一時期、テロ対策のためと称して車内のゴミ箱を使えなくしていました。しかし、はるかに旅客数の多い東海道新幹線では車内のゴミ箱はちゃんと使えましたし、山陽新幹線に至ってはゴミを回収するお嬢さんが車内を巡回していたほどです。同じ民営化会社なのにいったいこの違いは何なのかといえば、お客が文句を言うか言わないかの違い(上越新幹線は社内のゴミ箱が使えませんと大阪の人にこぼしたら、大阪でそんなことしたら暴動が起きますよ、といわれたことがあります)によるものでしょう。
ここでも、市場原理は機能しているとはいえません。市場原理の成果といえるのは、競合する私鉄との速さ(所要時間)の競争ということになります。

 市場原理に頼りすぎると、私たちは「目の前の取引にのみ関心を向ける」ようになります。というのは、自分が購入する商品の品質やサービスのレベルを保証するのは売り手の責任だからです。そして、その対価として代金を支払いさえすれば自分の義務は果たされると思うようになります。
 万引きをして捕まった者が、「金を払えば文句ないだろう」といって逆ギレすることがあるのは、代金を支払うことで通常の売買が成立するのだから、自分が万引きをした事実は帳消しにできると思い込んでいるからです。
 
 冒頭に述べたように、私たちが日常行っている「買い物」が成立するためには、それ以前に無数の人たちが関わっています。もしかすると、私自身もそのどこかの工程に関わっているかもしれません。このことは、勤労経験のあるすべての人にいえることです。
 そして、視点を変えれば、私たちがしている仕事の後には、どれくらいあるかわからないけれどもいくつもの工程があって、最終的に消費者にたどり着くということがわかります。その消費者というのは一人や二人ではすみません。日本の社会はそれほど複雑になっているのです。
 この社会を維持するためにはコストがかかり、私たちはそれを、モノやサービスを購入する対価として支払うことで負担しています。税金も公共サービスを受ける対価として理解することが可能です。
 「目の前の取引にのみ関心を向ける」ことが癖になっていると、自分はちゃんと金を払っているんだから自分の権利を主張するのは当然だ、というふうに思いがちです。
 しかし、私たちの社会は無数の人が関わることによって成立しているわけであり、自分もその関わりの一端を担っているわけです。
 したがって、お金さえ支払っていればこの社会が維持できるというわけではありません。この社会を維持するために私たちがしなければならないのは、お金を支払うことだけではなく、「この社会と関わっている」ということであり、自らの役割に最善を尽くすという良心です。
 すべての価値は金銭で測定するという考えは、この「良心」を蔑ろにすることがあります。現に、バブル崩壊後、人間をコストとしてしか理解しない経営者と投資家たちは後を絶ちません。このような考え方が社会を蝕んできたことは、皆様思い当たることがおありかと思います。
by T_am | 2008-12-23 07:38 | あいまいな国のあいまいな人々
 日本が今の構造的不況から抜け出すのは容易ではないという前提で、では個人はどうすべきか? ということを考えてみます。

 まず、家計がおかれている今日の状況を整理してみると、可処分所得の減少を第一に考えなければなりません。社会保険料は継続的に増額していくことが決まっているので、定期昇給が期待できる若い世代でも、可処分所得はそれほど増えていくわけではありません。定期昇給に期待できない中高年層では、業績悪化を理由とした賃金や賞与のカットも既に行われています。さらに派遣労働者となっている人々は企業の業績悪化の緩衝装置とされており、今回の派遣切り問題で、非常に不安定な身分であることが明らかになりました。 今回の不況は所得が伸びないことが消費の停滞につながっていることが原因です。従来は輸出によって獲得したお金が給料や賞与という形に姿を変えて家計にまで巡っていたいのですが、その流れは既に断ち切られています。そのお金の流通経路が復活する見込みは低い(大企業の経営者たちが心を入れ替えるとは思えません)ので、家計の可処分所得の減少傾向は継続し、将来の収入増加を前提とした購買行動をとることができなくなるということにつながります。
 このことは新築マンションの売れ残りという現象に既に現れており、6月にスルガコーポレーション民事再生法の手続申請(負債額約620億円)をしたのに次いで、7月にはゼファー(同949億円)が、8月にはアーバンコーポレイション(同2558億円)が経営破綻し、つい最近ではダイア建設(同約300億円)が経営破綻しました。
 給与所得者にとって数千万円の買い物となる住宅(マンション)の購入は、長期間にわたって返済をしなければならないうえに、返済が滞れば最悪の場合住むところを失うというリスクがつきまといます。当然、将来の収入と支出を検討し、返済にまわせる余力の範囲内で返済計画を組まなければなりません。つまり、個人によって借りられる額に限度があるわけで、これ以上借りることはできません。(サブプライムローンの問題は、購入した住宅は将来高値で売れるという目論見で購入者の返済限度額を無視した貸し付けが横行したことに由来します。これらの貸し付けを行った企業の中には、返済が不能となることは織込み済みであり、そうなれば住宅を取り上げて競売にかけることで資金を回収するというつもりでいたのです。個人でもこの仕組みに乗っかって、最初から転売目的で高額のローンを組んで住宅を購入した人もいましたが、その目論見は外れすべてを失うことになりました。)
 買いたいという需要があるにもかかわらず事情がそれを許さないという状況によって、今後個人による不動産売買はますます減っていくものと思われます。
 
 ここで消費について考えてみます。
 私たちを消費に誘うものは、テレビや雑誌などのマスメディアによる外部の情報です。そこでは、この商品を買うとあなたの生活はこういうふうに豊かになりますよということをアピールし、私たちの想像力を掻き立てます。高額商品ほどこの傾向が強く、現にそういう動機で購入した商品はどこの家庭にもありますし、旅行や食事に出かけた人もおおいことと思います。
 一方、女性を対象にしたセールスでは、毎年毎シーズンごとに新しい流行がつくられています。化粧品、洋服、水着、小物などその種類は多岐にわたり、これをきちんとフォローしようとすると女の人はいくらお金があっても足りないだろうなあ、などと人ごとながら心配してしまいます。
 実際には、財布に限界があるので何かを諦めるということをしなければなりません。これは男でも女でも同じなので、ほとんどの人は欲しいものはあるれども我慢しなければならず、そのことでストレスを感じている(だからもっとお金が欲しいと思う)、という状態が今日まで続いています。
 この問題を解決するには、どれだけ支出しても耐えられるだけの収入を手にしなければなりません(一時所得では使い切ってしまえば終わりですから根本的な解決にはならないのです)が、それが叶う人は(テレビに出るくらい)きわめて稀です。
 年配の方であれば、この、問題を解決するための鍵はわかっているけれどもそれが手にはいることはないという状態を聞いたことがあるかもしれません。それは仏教でいう餓鬼道です。餓鬼道とは死後の世界のひとつで、そこに墜ちた亡者は餓鬼と呼ばれ、常に飢えと渇きに苦しみ、食べ物や飲み物が手に入ることはありません。私たちは餓鬼ほどお金に渇望しているわけではありませんが、欲しいと持っているものが手に入らず願いが叶わないところは一緒です。餓鬼を苦しめているものは飢えや渇きよりも、手に入りそうで手に入らないという絶望感であって、これはわたしたちにもいえることです。私たちと餓鬼の違いは、餓鬼にも寿命があり、その寿命が尽きるまで餓鬼道から抜け出すことはできませんが、私たちには自力救済が可能だということです。
 抹香臭い話になってしまい恐縮ですが、収入の範囲内で生活することを当たり前と考えることが自立救済の道です。欲しいものがあれば、後先のことを考えずに買うのではなく、お金を貯めてから買うという自制心が自分を救ってくれます。そうやって、身の丈にあった生活をすることに不満を抱かなくなれば、高額な住宅ローンを組むときも無理な返済計画を組むこともなくなります。
 このような考え方は、消費を冷やすのではないかとご心配されるかもしれません。確かに、私が否定しようとしているのは、過剰な消費に拠らなければ成り立っていかない現在の仕組みです。実態とかけ離れた過剰な投資、生産、消費行動によってバブルはもたらされ、その破綻によって大勢の人が傷つきました。現在でも、はるかに小規模ですが、実態にそぐわない消費行動が個人の単位で行われる限り、それはいずれ破綻します(これは企業も同様です)。その波紋は小さいながらも周囲に影響を及ぼし、本人と周りの人を傷つけることになります。
 個人におけるダウンサイジングとは、自分の生活を身の丈にあったものに合わせ、それが当たり前であると思える意識に変革することであると思います。
 そのことが自分を救い、ひいては周りの人を傷つけずに済むことにつながります。私たちは自分にだけ責任を負っているのではなく、周りの人にも責任を負っているのですから。
by T_am | 2008-12-22 07:07 | 社会との関わり
 昨今の不況は消費の減少による構造的不況であることを以前指摘しました。既に影響が出始めているように、少子化による人口減少は今後加速していくので、日本がこの構造的不況から抜け出すことは容易ではないと予測されます。
 人間は、私もそうですが、わかっていても切羽詰まらないと知恵が湧いてこないという性質があり、少子化問題にどう対応していくのかということも、危機的状況が出現しない限り対策がとられることはないであろうと思われます。
 そうはいっても、子を持つ親の身としては将来に対して無関心ではいられないので、今後色々と考えてみたいと思います。

 今回は、その第1回目として、再び消費を拡大することが可能かどうかを考えてみることにします。
 消費を拡大させるには方法が3通り考えられます。
第一に、どんどん移民を受け入れて人口を増やすこと。
第ニに、個人の所得を増やして消費を拡大させること。
第三は、個人の所得は増えないまでも、安心して消費できるようにすること。このことは、個人が持っている貯蓄を使い切っても安心して暮らせるようにすると言い換えることができます。

 第一の方法は、アメリカの例をみてもわかるように、残念ながら効果があるとは思えません。現在でも外国人労働者は相当数入国しており、そのほとんどは長期滞在ビザと不法滞在によるものです(「在日」と呼ばれる朝鮮民族もいます)。市町村によっては、これら外国人の姿を多く見かけるところもあるくらいですから、意外と多くの外国人が日本で働いていることがわかります。
 ところが、その多くは言葉の問題(日本語は読めるが書くことができない、もしくは日本語の会話はできるが読書ができない)によって、いわゆる3K(きつい、汚い、危険)の仕事に従事せざるを得ないことが多く、所得も低いとされています。
 したがって、外国人労働者を受け入れても、その多くが低所得層となることが予想されるので、期待通りに消費が増えるとは思えません。

 第ニの方法である、個人の所得を増やして消費を拡大させる案ですが、これは短期的には効果があると思われます。それが本当に実行されるならば、の条件付きですが。
 このブログに時々コメントを寄せてくださるウルトラ警備隊長さん(この方のブログは本当にすごい。時事問題について法的観点から整理し、どのように理解するのが合理的であるかがわかりやすくまとめてあります。1回の原稿に相当の労力が注ぎ込まれており、敬服に値します)いることのご指摘通り、消費は大勢の人によって行われなければ効果がありません。フェラーリが100台売れるよりはカローラが1000台売れる方が日本経済に与える効果は大きいと思います。
 ただし、それには自由に消費に回すことができるだけの所得があることが前提となります。
 バブルの頃までは、日本人の大半が、自分は中流であると思っていました。当時は、欲しいと思えばたいていのものは買うことができたからです。しかし現在はそうではありません。中高年層は、家の中にはたいていのものが揃っており、欲しいものはあまりないけれどもお金もないという状態ですし、若年層では、欲しいものはあってもお金がないという人の方が多いように思います。
 平成14年2月から景気回復は始まり、企業の業績は伸び続けてきましたが、総人件費は抑制されてきました。経営者たちは、利益が上がっても従業員に還元するよりも設備投資に回す方を選んだのです。ただし、正社員の給料を上げないのではモチベーションが下がるので多少の昇給はするけれども、派遣社員のウェイトを増やしていくことで総人件費を抑制するという手の込んだやり方をしました。サービス残業が一向に減らないことを考えると、できるだけ給料を払いたくないというのが経営者の本音であるように思います。
 そこへ来て今回の円高です。日本経済の構造は、輸出関連企業が稼いできたお金を日本の国内で回すことで繁栄してきたという側面があるので、円高が日本に与える影響は甚大なものがあり(中国が人民元に対し、経済力に見合った切り上げをしないのも同じ理由によります)、消費を拡大させるためにあえて人件費を増加させるという発想は、企業経営者には期待できないと思います。仮に、その必要性を理屈で理解したとしても、それよりも自社の業績維持の方を優先させるはずです。なぜならば、経営者にとって、会社の利益と自分の利益は完全にシンクロするからです。優先すべきは他人の利益ではなく自分の利益なのです。
 では視点を変えて、法律によって、企業に対し人件費の抑制を禁止した場合どうなるでしょうか? 個人所得は増えるでしょうが、残念ながら、その分が消費に回るとは思えません。その理由はこの次の段落で述べます。

 第三の、貯蓄がゼロでも安心して暮らせる世の中というのは、期待する方が無理というものです。自分が将来もらえる年金は目減りすることが確実にわかっていながら、負担しなければならない税金や医療費は確実に増えることが予想されるからです。
 そのほかにも、人生には一時的な出費が求められることがあり、これに対する備えもしておかなければなりません。引っ越し、結婚、出産、子どもの受験や入学などがそうで、それぞれ意外とお金がかかるようになっており、普段から貯金しておかないと、いざというときに困ることになります。したがって、日本人の貯蓄性向は相変わらず高い水準が維持されるものと思われます。

 なお、現状では少子化が改善する可能性はありません。
 出生率(合計特殊出生率のことです)は女性の学歴と負の相関関係にあり、女性が高学歴であるほど出生率は低下することが知られています(結婚する時期が遅くなるから)。
 歴代総理大臣は、少子化担当相という役職を設けて女性大臣を任命するのがお好きなようですが、どうも任命しただけで放ったらかしにしているように思えます。それよりも目先の経済対策に取り組んだ方が選挙では有利に戦えるというのが本心ではないでしょうか? 
 出生率が低下を続けているのは、女性が安心して子供を産み育てることができない社会だからだという指摘がありますが、どうでしょうか? 確かに、女性が安心して子どもを産み育てることができる社会であるかといえば、そうではないと認めざるを得ません。ですからそういう心配をして子供をつくらない夫婦もいるかと思いますが、実は、もうこれ以上子どもはいらないと考えている夫婦の方が圧倒的に多いのです。
 なぜならば、子育ては金がかかることが身にしみてわかっているからであって、子どもが欲しくないわけではないが、これ以上育てることはできないと諦めているのです。そのように考えている夫婦を非難することは誰にもできません。
 ですから時々政治家で、出生率を上げるために若い女性にはもっと頑張ってもらいたいと頓珍漢なことをいう人がいますが、それをいうなら、子どもの医療費や授業料は大学を卒業するまで無料にするとか、国がもっと大幅に親を支援するという政策をとってからいうべきでしょう(ただし、それをやると大幅な増税が必要になるので、国民がこぞって反対することは目に見えています)。自分は何もするつもりもないくせに、他人に対して問責的になるのは人としていかがなものかと思います。

こうしてみると、日本の消費が将来再び拡大基調になるというのは見込みがないことがわかります。見込みのないものにいつまでもこだわっても仕方ないので、むしろ社会的規模でダウンサイジングしていくことを考えた方がいいように思います。
 そのことについては、別な機会を設けて考察することにします。
by T_am | 2008-12-21 07:41 | あいまいな国のあいまいな人々
 前回の続きです。
 学力テストをどれだけ実施しても子どもの学力を高めることにはなりません。こう書くと意外に思われるかもしれません。なぜなら学力テストは入試ではないからです。
 テストとは、本来子どもが学習した習得度合いを測定するためのツールに過ぎません。唯一入学試験だけが、受験生をテストの結果に基づいて順位付けし、上から順番に合格としていく仕組みを持っています。したがって、生徒が勉強するのは、将来自分が受けることになる入試でいい成績を取るため、ということに目的がはっきりしています。
 このような状況では、学力テストはどの高校を受験したらいいかという参考資料にはなると思いますが、それ以外の使い道はありません。
 知事や県会議員は自分の県の平均点が全高平均よりも高ければ満足するでしょうが、でも、それがどうしたというのでしょう? 地方では、地元にそれだけ優秀な子どもがいても、大学へ進学するときは県外の大学へ行っているのであって、卒業するときになっても必ずしも地元に戻って来るわけではありません。人材が流出しているわけですから、平均点が高くても何にもならないと、私は考えます。逆に大阪府のように大都市を抱えるところの平均点が全国平均を下回っていたとしても、他の都道府県から優秀な学生が集まり、卒業後も地元に帰らずに大阪に残ってくれる方が、大阪にとってよほどメリットがあると思います。

 それでも日本全体でみれば、優秀な学生を育てなければ国際競争力がつかないと考える方はいらっしゃると思います。
 実は、学力テストに頼らなくても、子どもの成績を上げることは可能です。その答えは単純で、いわゆる「詰め込み教育」をもう一回やればいいのです。
 二十年前、三十年前と比較して子どもの学力が低下しているという指摘は正しいと私も思います。というのは、子どもたちに教えるカリキュラムの総量が年々減ってきているからです(このことは教科書をみるとわかります)。
 したがって、カリキュラムの総量を増やせば、学力テストの平均点は向上します。
 
 その代わり「落ちこぼれ」も多数発生することになります。
 それでは勉強について行けない子どもがかわいそうだということで、カリキュラムが年々減ってきたわけですし、その極めつけがゆとり教育の実施です。
 現在の教育行政は、子どもの学力低下という指摘を受け止めて、ゆとり教育という従来の方針から大きく梶を切りつつあるように見受けられます。学校の授業時間が増えているのはその現れでしょう。ですから遠慮なくカリキュラムを増やして、子どもたちに「詰め込み教育」をする、今が好機であるといえるのです。
 このような書き方をすると、お前は「落ちこぼれ」た子どもがかわいそうだと思わないのか、という批判を浴びることはわかっています。
 しかし、よく考えてみてください。
 「落ちこぼれがかわいそうだ」というのは、「勉強ができるのはいいことだし、勉強ができないのは悪いことだ」という意識の裏返しに他なりません。このような意識が国民的合意となっていることこそが、勉強のできない子どもを差別していることに気づくべきです。
 ある程度の漢字が読み書きできて簡単な四則計算ができれば、テストの成績が悪いというのは、足が遅いとか逆上がりができない、絵を描くのが苦手、あるいは音痴であるというのと大差ないと思います。確かに、自分が音痴であれば、友達とカラオケに行ったときは引け目を感じるでしょう。しかし、、誰でも得意なことと不得意なことがあるのであって、特定のことが不得意(たとえばテストの成績が悪い)だからといって、その人の人格が否定されるわけではない、ということを私たちは受け容れるべきではないかと思います。
 何でも自分一人でできるというのはきわめて稀な存在です。むしろ、できないもの同士が自分にできるものを持ち寄って共同作業をしていく方が、遙かに大きな成果を上げることができるものです。
 私がこんなことを書くのも、ある程度の漢字が読み書きできて、簡単な四則計算ができれば、それ以上勉強ができてもそれは学力ではない、と思っているからです。
 教育の目的は、一番目がリテラシーを身につけさせることです。
 昔風にいえば、この「読み書きそろばん」の能力が「基礎的な学力」であって、どの程度のレベルで習得するべきなのかは、仕事に就くにあたって最低限身につけておいてほしい能力として、社会的合意に基づいて決めることができます。別に、微分積分がわからなくてもたいていの職業に就くことはできますし、南北戦争が起きたのがいつかわからなくても仕事に支障はありません。したがって、これらの勉強は「基礎的な学力」の範疇からは逸脱しているということがわかります。

 これはよく指摘されることなのですが、テストの問題にはあらかじめ解答が用意されています(そうでなければ採点ができないからです)。そこで、色々な問題の解き方を覚えておくことが効率的な試験勉強であるということになります。言い換えれば、受験勉強というのは、考える力ではなく、問題の解き方をどれだけ覚えたかの差によって勝負が決まるといってもよいでしょう。
 日本では、そのような競争を勝ち抜いてきた秀才たちが国をリードするという仕組みになっています。このような仕組みは、今日は昨日の延長であるという時代であれば、何の問題もなく効果を発揮するでしょう。何か問題や課題が発生しても、どう対処すればいいかの解答(前例)は過去をひもとけばあるわけです。
 ところが、少子化という局面に入った以上、日本が抱える問題に対する解答は過去にはありません。つまり、解き方がまだ発見されていない問題なので、どれだけ問題の解き方を覚えるか、という思考法を繰り返してきた人にはこの問題を解くことができません。未知の問題を解く力はないけれどもテストの成績はいい、という人は果たして学力が高いといえるでしょうか?
 このことは、日本人の勉強する目的が、とりあえずいい大学へ入る(そうすれば収入の高い仕事に就くことができるから)というところにあることに由来しています。いい大学へ入ることができるかどうかで勝負が決まるのですから、当然そこには効率よく立ち回るテクニックが確立されることになり、それが「どれだけ問題の解き方を覚えたか」ということになるわけです。だから、昔から(私よりも年上の世代から)ずっと大学の4年間というのは学生にとってはモラトリアムと思われてきました。
 私は、そのことを否定するわけではありません。それもアリだと思います。しかし、誰もがみんな同じような考え方をした結果、テストでいい成績を取ることが学力だと思いこむようになったのは間違いだと思います。もっといえば、別にいい成績を取らなくてもいいんだよ、と子どもに安心していえる社会の方が住みやすいのではないでしょうか?

 ではお前のいう学力とは何なんだ? と訊かれれば、それは既に述べたように「未知の問題に取り組む力」のことであるということになります。
 未知の問題に対して解答を導き出すのは、実は容易にできます。このことは、教育問題に多くの人がそれぞれ異なる意見を述べていることでもわかります。ただし、それらはすべて「仮説」であって、それが正しいと証明されるか、あるいは明らかに間違っていると証明されるまでは「仮説」に過ぎません。
 仮説を申し立てることは、現に私がしているように、誰でもできます。これらは玉石混淆ともいうべき状態なので、それぞれの仮説を比較し吟味していく中で、次第に取捨選択されていきます。そのとき大切なのは、間違いを見抜く力(これを身につけるためにも勉強は必要です)と自分に過ちがあったときにそれを認めることができるかどうかです。
 事実に基づいて仮説を導き出す力も含めて、このような力を学力であると思います。以前、このブログで、孔子の「学びて思わざれば則ち罔(くら)し、思いて学ばざれば則ち殆(あやうし)し。」について述べました。二千五百年も前の人がこのような指摘をしており、その言葉が今日まで生き残っているという事実からは、この言葉に納得する人がいつの時代にもおり、それぞ後世にこれを伝えてきたということがわかります。
 孔子の時代は学力テストなんてものはありませんでした。官僚登用のための試験制度ができたのはおよそ千年後の随の時代です。にもかかわらず、いつの時代にも高い学力を身につけた人は登場していました。
 さらに中国における受験地獄ともいえる科挙に合格した人を官僚に登用しても、それぞれの王朝が衰退し滅びることは避けられませんでした。
 これらのことを思うと、学力テストが生徒の学力を向上させるのではないこと、また、試験に合格した人を官僚に登用する制度を設けても国力の維持には寄与しないことがわかります(明治維新で活躍した人たちは、学力テストに合格して世に出たわけではありません)。
 なお、既に述べた説明から、個人が持っている学力を学力テストで測定することはできないこともおわかりいただけるかと思います。
だから、これ以上学力テストのことで騒ぐのはやめにしませんか? というのが今回の私の結論です。
by T_am | 2008-12-20 06:53 | あいまいな国のあいまいな人々
 今回は「学力テスト」について考えてみます。
 まず趨勢をみると、ゆとり教育が行われたときに、そのカリキュラムがあまりにも簡単なものになったことに不安を持った人たちがいました。その後国際的な学力テストの結果日本の成績位置が低下していることが明らかになりました。それをみた人たちの中には、子どもたちの学力が低下することを看過していては諸外国に対抗できる人材が育たなくなり、日本の国際競争力が劣ることになるという指摘をし、わが子の幸せを願う親の気持ちもあって、現在の日本はゆとり教育の揺り戻しともいうべき現象が起こっているようです。
 全国一斉学力テストの結果を公表せよと迫る人たちは、市町村ごと学校ごとの成績を公表することで競争原理を導入すれば、全体の学力が向上すると考えているようです。
 でも、ちょっと待ってください。学力テストの結果を公表すれば本当にそうなるのでしょうか? 私には、そうは思えません。
 親の視点で考えてみましょうか。
 親であれば、わが子の幸せを願うのは当たり前ですから、いい成績をとっていい学校へ行ってほしいと考えています。今の日本(韓国や中国はもって徹底しています)では、最終的に「いい大学」を出ることが幸せになること(このことは、高い収入を得ることとほとんど同義語となっています)であると考えられているからです(だから子どもを塾にやるわけです)。
 したがって、わが子の成績がどうなっているかに強い関心を示すのは当然となります。ただし、テストの点数自体は何かと比較しないと意味を持たないので、平均点と比較して高いか低いか、次にわが子の順位が全体の中でどの位置にあるのか(偏差値はこのためのツールです)を知りたがります。つまり、親にとって関心があるのは、全体におけるわが子の位置なのですが、この場合の全体とは必ずしも全国である必要はありませんし、都道府県である必要もありません。わが子が進学する高校を受験する子どもたち(つまり、わが子のライバルとなる子どもたち)がすんでいる地域が「全体」であればいいのです。その中の平均値とわが子の点数を比較すれば学力テストの目的は達成されます。その高校へ進学する生徒が住んでいるエリアが市町村という行政区域に一致しているのであれば、市町村単位での結果の公表には意味がありますが、そうでなければ(親にとっては)あまり意味がないことになります。
 実際の受験制度は、その地域の受験生を入試の点数で順位付けをしていき、上から順番に合格にしていくというものです。受験生の成績に応じて高校が用意されており、点数の高い子どもが行く高校、中くらいの子どもが行く高校、低い子どもが行く高校というように、進路指導によってどの高校に進学したらいいかが決められているのが現状です。
 したがって、親の関心は、どうしたらわが子の成績がほかの子どもよりもよくなるか、にあるのであって、全体の学力の向上などどうでもいいということになるのです。大阪府の平均点が東京都よりも低いというのは、政治家にとっては我慢できないことかもしれませんが、親にとっては関係ありません。親が、全体の学力の低下を憂うのは、わが子の学力がそれに引きずられて低下するのではないかという心配があるからです。

 市町村ごとの成績(平均点)を公表することで競争原理を導入し、全体の学力を高めていこうというのは、しょせんは絵空事であるように思えてなりません。競争原理は、競争に敗れた企業や個人は市場から脱落していき、勝者のみが残ることを促します。つまり、全体の構成員を選別して敗者を強制的に退場させることが競争原理の本質なのです。
 このことは、具体的にいうと、質の悪い学校や生徒には退場してもらうということであって、大学や高校のえり好みをしなければ、希望者は全員進学できるという「事実上の全入制度」と矛盾します。
 子どもを高校に行かせたい、大学に行かせたい。こういう要求に応えるために高校と大学がどんどん新設されてきたわけです。少子化で生徒の数が減れば、個々の学校経営に支障を来すようになるので、学校の数を減らさなければならないというのは自明の理屈です。
 そのときに、全入状態を維持しながらこれに対応するには、同レベルの学校の数を減らす代わりに1校の通学エリアを広げていくことで生徒数を確保するという方法以外ありません。ところが、レベルが最低の学校から廃止していくと、「そこにしか行けない子ども」のいき場所がなくなってしまい、全入という原則に反します。
 それが嫌だったら頑張って勉強して自分の学力を高めればいいだろう、といわれそうですが、仮にそうやって全体の学力(平均点)が高まったとしても、1番の生徒とびりっけつの生徒は必ずいるわけです。したがって、全体の学力が上がっても、全体の中で相対的に学力の劣る生徒や学校が発生することに変わりはありません。
 競争原理が社会に利益をもたらすと信じられているのは、競争を通じて、市場により有益なサービス(製品)を提供するものが市場に選ばれ、そうでないものは市場の支持を失い退場せざるを得なくなるからです。
 では、教育における「市場により有益なサービス」とはなんでしょうか?
 この設問に対する解答はすでに出ており、それは「いい学校への進学率の高さ」ということです。つまり、いい学校への進学率が高い学校は生徒を集め、そうでない学校は生徒が来なくなるということになります。
 企業が製品の品質を維持できているのは、不良品の発生率を下げる努力をしているということもありますが、チェックにより不良品を発見し排除していることも大きい、という事実を忘れてはなりません。競争原理をおおっぴらに教育に導入すると、進学率に貢献しない生徒が排除される仕組みが学校内に設けられるようになります。それだけ中途退学する生徒が増えることになるのですが、現在ですら日本の社会は中途退学者に暖かいものではありません。相当なハンデを背負って社会に出るわけです。
 にもかかわらず、これ以上中途退学者を増やす施策をとってどうするつもりなのでしょうか?

 「人間の幸福は自由に使えるお金の金額によって左右され、そのためにはいい大学を出ることが必要条件である。」とか「自由競争を担保した上で競争原理を導入すると、劣悪なものが退場し、すぐれたものだけが市場に残る。また効率がよくなるので、コストパフォーマンスが向上する」という考え方が、私たちの社会の共通認識となっているように思います。
 このような画一的な意識がはびこることが、社会的弱者を大量につくり出しているということにいい加減気づいてもいい頃ではないかと思うのです。
by T_am | 2008-12-19 13:03 | あいまいな国のあいまいな人々
 麻生首相は12日、総額23兆円規模の追加景気対策「生活防衛のための緊急対策」を発表しました。その内訳は以下の通りです。

【財政上の対応】
・雇用対策(約1兆円)
・雇用創出のための地方交付税増額(1兆円)
・「経済緊急対応予備費」新設(1兆円)
・政策減税(約1兆円)
・生活対策(金融措置を除く)(約6兆円)

【金融面での対応】
・改正金融機能強化法に基づき、現在は2兆円の政府の資本参加枠拡大(10兆円)
・政策金融の「危機対応業務」発動・拡充(3兆円)

 具体的に、いつ、何をするのか、がわからないのでなんともいえませんが、私にはあまり効果がないように思えます。というのは、日本の社会にはお金の偏在化を促すシステムがあるからです。
 資本主義社会では、個人消費が拡大すると景気がよくなって経済が成長していきます。そのためには、すべての国民が消費に回せるだけのお金を持たなければなりません。今日の不況は、消費にまわせるお金の絶対量(可処分所得)が減ってきていることに由来します。これには、元々お金を持っていない人たちの増加と、恐怖にかられて貯蓄を堅持しようとする人たちの増加が影響しています。
 非正規雇用労働者の生活がいかに不安定で悲惨な境遇にあるかは、最近のメディアによる報道でいやというほど知らされてきました。メディアによるこのような報道は、お金を持たないことは惨めなことであるという意識を私たちに植え付け、突然のリストラによる失業の恐怖を煽ってきました。
 このことは、男の鬱病患者数の増加(三十歳代と四十歳代で多く、1999年の7万1千人に対し、2005年には14万人に増えている。なお女性の鬱病患者は高齢者に多い-http://www2.ttcn.ne.jp/honkawa/2150.html より)に現れていると思います。というのは、仕事が辛くてもまた給料が少しくらい安くても、失業してホームレスになるよりはましだと考えるからです。
 バブル崩壊後の日本に吹き荒れたリストラの嵐によって、企業は従業員に対し、失業してホームレスになるのと、少しくらい安くても安定して給料がもらえる方とどちらがいい? という選択を迫ることができるようになりました。ですから、過去最高益を記録しながらもそれがたいして賃上げに反映されない(その代わり設備投資は積極的に行われました)という状況が起こり、経済成長が続いているといわれながら景気がよくなった感じが一向にしないという状態が続いたのです。
 また、相次ぐ労働者派遣法の改正は、企業にとってより有利な(ということは労働者にとって不利な)方向で進められてきました。適用業種を広げることで派遣労働者数が増え、その分正社員の雇用が減ることになりました。その結果が、今回の派遣切りによる失業者数が3万人に達するだろうという予測です。今回派遣切りを行う企業が大幅な赤字に陥っているというわけではありません。非正規社員を含めると1万6千人の従業員の削減を発表したソニーでも今年度の営業利益の予測値は2千億円です(為替レートの推移によっては更なる下方修正もありうるとしています)。
 どうも株価対策のために従業員のリストラを打ち出している企業も多いのではないかと思われ、これらの企業では売れるモノづくりよりも株主の方に関心があるような気がします。当然そこには従業員に対する関心は更に希薄になります。
 世の中の企業がこぞって派遣労働者を増やし、業績が悪化するとこれら派遣労働者の解雇をする、ということを行うようになると、当然個人消費は冷え込むわけですから世の中の景気は悪くなり、巡り巡って自分の首を絞めていくことになっていきます。このことは中学生でもわかる理屈ですから大企業の経営者がこのことに気づかないはずがないと思うのですが、現実に起こっていることをみると、必ずしもそうではないようです。この悪循環は金融界にいえることで、不良債権を抱えたくないという理由で行う貸し渋りや貸し剥がしは、巡り巡って自分の業績に悪影響を及ぼします。

 では、なぜ中学生でもわかることが堂々と行われているのかというと、2つのことが考えられます。
 第一に、これら大企業の経営者たちは中学生以下の知能しか持ち合わせていない。
 第二に、これら大企業の経営者たちが、そんなことはとっくにわかっているけれども、何とか他人を出し抜いて自分だけはいい思いをしたい、というセコイ知性の持ち主である場合。

 生憎私には、これら大企業の経営者と面識があるわけではないので、はたしてどちらなのか判断のしようもありません。そうでない第三の可能性をご存じの方は教えてくださるようお願いする次第です。

 前回述べた、「お金をたくさん持っている人の方が充実した人生を送ることができ、お金を持たなければそれだけ惨めになるというイデオロギー」が私たちにとって身近なものになっている以上、私たちも「何とか他人を出し抜いて自分だけはいい思いをしたい」というセコサとは無縁ではありません(わが子に対して、何とか頑張っていい学校に行ってほしいと思っている親もそうです)。したがって私たちは今日の社会の被害者であるかもしれませんが、同時に、そのような社会の到来に荷担した共犯者でもあるということになります。

 以前「行き詰まる消費社会」で述べたように、日本の社会を人間の身体に例えると、お金という血液が身体の隅々まで行き渡っている間、人間は健康でいられます。しかし。血管のあちこちに寄生虫が巣くい血液を吸い上げていると、身体の末端にまで血液が回らなくなり貧血が起こります。十分な血流がないまま壊死しかけている体細胞(人間)が大量に発生している一方で丸々と肥え太った寄生虫が至る所にいるというのは、どう考えてもまともではないと思います。
 しかし、このように寄生虫がお金という血液をポンプのように吸い上げることを、日本の社会が合法的であるとして承認しているというのも事実です。
 したがって、このような寄生虫を駆除していき、身体の隅々にまでお金という血液を環流させる仕組みをつくらない限り、消費は拡大していかないので、いつまでたっても景気はよくならないことになります。そこを無視していくら輸血(定額給付金のばらまきや新たに雇用した企業に対し補助金を給付するなど)を続けても結局は寄生虫が太るだけであり、貧血状態が改善することは期待できそうもありません。それどころか社会保険料と税金の負担を更に増額しようとしているわけですから、これでは壊死しかけている体細胞に引導を渡すようなものであり、まさしく「寝たきりの病人の布団を剥ぐ行為」であるといえます。
 私には、このことは、ちゃんと説明すれば中学生でも理解できる理屈であると思うのですが、どうやら政治家と官僚はもちろん、メディアもそうではないようです。
 彼らが中学生以下の知能しか持ち合わせていないのか、それとも自分だけはいい思いをしたいというセコイ知性の持ち主であるのか、残念ながら私にはわかりません。
 かろうじて私にわかるのは、このままいくと個人の生活レベルでは否応なくダウンサイジングが行われるようになり、ひょっとすると、少子化による人口減少社会(消費と生産とが連鎖的に縮小していく)にいち早く適応することになるのではないか、ということです。
 案外、それも悪くないような気がしています。
by T_am | 2008-12-17 07:03 | 社会との関わり
 人間は誰でも「居場所」を持っています。今まで何回かこの「居場所」についての考察を述べましたが、重複を恐れずに今回も述べてみたいと思います。

 「居場所」とは、人間との繋がりのことをいい、普通、人は複数の「居場所」を持っています。自分の「居場所」がいくつあるかは、次の質問に回答することで簡単に数えることができます。

 過去1ヶ月間(もしくは1年間)に、あなたが面会した人を分類するとそれぞれどのカテゴリーに属しますか?

 ほとんどの人に共通するカテゴリーは「家族」と「仕事」または「学校」となります。要は、これ以外にいくつカテゴリーを数えることができるかであって、その数だけ自分の居場所があることになります。
 ただし、「居場所」には濃密なものと希薄なものとがあり、濃密であればあるほど、その「居場所」を訪れる頻度は高くなり、訪れる頻度が低い「居場所」はそれだけ希薄であるといえ、やがて失われてしまう可能性があります。
 なお、キャバ嬢やホスト、コンビニやマクドナルドのレジ係などは、「面会した人」に数えてはいけません。なぜならば、これらの人たちとは「人間の繋がり」がないからです。こう書くと、「いや、そんなことはない。キャバ嬢のリカちゃんは俺のことが大好きだと言ってるし、俺もリカちゃんに会っていると楽しい。」というようなことを思われる方もいらっしゃるかもしれません。キャバ嬢のリカちゃんが、お金を持っていないあなたに喜んで会ってくれるのであれば、「面会した人」に数えることができるでしょうが、たいていの場合、キャバ嬢はお金を持っていない男を相手にすることはありません。これはお店のレジ係も同様で、お客が支払うお金に愛想を振りまいているのだと、まずは考えるべきです(例外は、お客であるあなたがお金以外のものを「贈った」ときです)。

 「居場所」にはいくつかの特徴があり、以下、それについて述べてみます。

・人間は、自分の「居場所」に対して、それぞれ責任を負っている。
 たとえば、親は「家庭」という「居場所」に対して責任を負っていることはおわかりいただけるでしょう。同様に、子どもも「家庭」に対して、その一員であるという責任を負っており、家族がなすべき務めを放棄した「家庭」はやがて崩壊することになります。

・「居場所」は、外界から隔離された空間に設けられる。
 家庭や職場、学校、部室、道場などは人間にとって典型的な「居場所」ですが、これらは皆外界から隔離されているという特徴があります。同窓会や友達など、固定的な空間を持たない「居場所」もありますが、それらが「居場所」として機能するときは、そこが駅の雑踏の中であっても、必ず外界から隔離されています。

・自分だけの「居場所」というのもある。
 自分の部屋、お風呂、布団の中、トイレ、車の運転席など「自分が一人になれる場所」というのも人間には必要です。夫婦や大家族における子どもなどは、自分だけの部屋を持つことはできませんが、代わりに自分が座る定位置を持っており、そこでは自分一人になるということも可能です。この、自分一人になる(=自分自身と向き合う)というのは、他人と繋がるうえで絶対に必要です。ただし、自分だけの部屋を持つことができない場合でも人間は自分一人になることができるので、子どもには個室を与えてやらなければいけない、ということではありません。実際、結婚すると自分だけの部屋というのは持てなくなるのが普通です。要は、定位置があればいいのです。

・「居場所」は心地よさを与えてくれる。
 ほかの人間と繋がることは本来心地よいことです。子どもが学校へ行くのが楽しいと思うのはここに理由があります(もう一つは「学ぶことの面白さ」を知っている場合)。逆に、学校に自分の「居場所」がなければ、学校へ行くことは苦痛になります。これは職場も同様であり、あらゆる「失われた居場所」に共通していえることです。

・「居場所」は奪われることもあれば、失うこともある。
 いじめは人間の「居場所」を奪う行為です。本人に落ち度のない不当な解雇、事故や殺人も同様です。これらはすべて理不尽で受け容れがたい行為ですが、残念ながら人間の社会からこれらの行為が根絶されることがないのも事実です。というのは、他人の「居場所」を平気で奪える人間は、他人からその「居場所」を奪われても文句をいうことができないことに気づいていないからです(会社で、誰を解雇するかというリストを作成するのは経営者ではなく管理職です。管理職もまた経営者から解雇されることがあります。さらに経営者は会社が潰れることによって、その地位を「追放」されることがあります)。
 また、他人に「贈る」ことをせずに「受け取る」ことだけを期待していると、人との繋がりはしだいに希薄なものになっていきます。それが限界を超えてしまうと、自分の「居場所」が失われてしまいます。これは誤解を招きかねない言い方になるのですが、相手から「受け取る」ものに不満が募ると、その人との関係性は破壊されることになります。友達が友達でなくなったり、つきあっていた人と別れる、夫婦が離婚するというのは、それぞれ我慢の限界を超えたときに起こることであると思います。それが悪いといっているのではありません。また、どちらが悪いというのでもありません。
 「居場所」を奪われたり、失ったりすることはとても辛いことですが、これらのことは誰もが経験することであり、人間はそれを乗り越えなければならない、ということです。

・「居場所」はお金で購うことはできない。
 このことは、お金を持たない子どもでも自分の「居場所」を見つけることができることからもわかります。時間が万人に平等に与えられた資源であるように、「居場所」を手に入れることは万人に平等に与えられた権利なのです(権利である以上、当然義務と責任が伴います)。
 資本主義社会の住人である私たちは、お金を注ぎ込むことで自分の人生が豊かなものになるという意識(このことは、お金がなければ惨めであるという強迫観念に結びついています)に染まっているので、「居場所」についても多くのお金を注ぎ込んだ方がいと思いがちです。親が子どもに対し不自由な思いをさせたくないと考えるのは自然なことですし、友達や恋人に喜んでもらいたいと考えるのも、人間として自然な気持ちの表れであるといえます。お金をかけるというのはそのための手段のひとつに過ぎないのですが、手段と目的を混同するのは、人間が犯しやすい過ちのひとつです。
 人が他者に「贈る」ことができるのは、モノやお金だけではありません。女の人はこの辺をよく心得ていて、好きな人からもらったモノであれば、たとえそれが夜店で買った安物の指輪であっても喜びます。それは、わざわざ自分に買ってくれたという「気持ち」が嬉しいわけです。もっとも、女の人の場合、他の女と比較して自分が負けていると思うと腹が立つという困った面もあるのですが(彼女に、誕生日プレゼントを贈るのとクリスマスプレゼントを贈るのとではどちらにお金をかけるべきかというと、これは断然クリスマスプレゼントの方です。なぜなら、クリスマスプレゼントは彼女の友達がもらったプレゼントと「比較」されるからです)。
 他者に「贈る」ものの中にはお金では換算できない価値がある、ということが忘れられがちになる理由は、既に述べたように、お金をたくさん持っている人の方が充実した人生を送ることができ、お金を持たなければそれだけ惨めになるというイデオロギーが、私たちにとってほとんど血肉化していることにあります。
 しかし、人間の繋がりである「居場所」を手に入れる権利は本来万人に与えられているのですから、各々が自分の「居場所」を大事にすること、そのために自分の義務と責任を果たそうとすることが、お金の有無がすべてを左右するというイデオロギーから私たちを解放してくれることになるのではないか、と思うのです。
by T_am | 2008-12-16 07:05 | 社会との関わり