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カクレ理系のやぶにらみ

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時間のある方はお読みください。軽い気持ちで読み始めると頭が痛くなります。

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 今年はインフルエンザの流行が昨年ほどではなかったようです。
 相変わらず寒い日が続いていますが、どうやらこのまま春を迎えそうな気がしています。

 いつも情報を提供していただき、ありがとうございます。

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 三十余年の喫煙生活のせいか、鼻粘膜が弱くなっているような気がするこの頃です。鼻血が出ることがわりと頻繁に起こるようになりました。また、寒い外気を吸い込むと咳が出るというのも変わりありません。
 夜中に目が覚めると、口の中がからからに乾いて喉が痛いということがあります。このまま風邪を引いてはいかんと思い、うがいをしてから眠るようにしているのですが、喉をを守る方法を最近になって発見しましたので、今日はそれをご報告しようと思います。

 といっても、大げさなことではありません。実に簡単なことです。それは、鼻で呼吸をすること。ただこれだけです。
 口で呼吸をすると乾燥した空気がそのまま喉に送り込まれるので、(たぶん)喉の粘膜が乾くことになり、炎症を起こしやすくなるのだと思います。けれども鼻呼吸することで、鼻孔を通った空気は湿気を与えられることになり、喉の粘膜が乾くことがありません。
 少しくらい喉が痛いときでも、意識して鼻呼吸することで、いつの間にか喉の痛みは消えてしまうことに気がつきました。
 以来、寝るときも鼻で呼吸することを心がけています。寝ているときも鼻で呼吸することを心がける、というのはあり得ないのではないかと思われるかもしれませんが、人間の意志の力というのは偉大なのですね。それほど難しいことではありません。
 寝るときに、鼻で呼吸すると決めて口を閉じて眠る、ただこれだけでいいのです。朝になって目が覚めると、不思議なことにちゃんと口を閉じている自分に気がつきます。
 そのせいか、今年はまだ風邪を引いて寝込んだということがありません。
 もちろん、悪寒がしたときは、風邪薬を飲んで風呂に入って寝るということを心がけています。
 風呂に入るというのも喉に湿気を与える効果があるので、いかにして湿気を喉に与えるかということに注意していれば、風邪を引きにくくなるのではないかと思います。
 他に、ビタミンCを多く含んだ食品をとるように心がけるとか、水分をきちんと補給するとかいうことも心がけています。
 それでも、口の中がからからに乾いて喉が痛くなるということがあったのですが、意識して鼻で呼吸するということを心がけてからは、風邪にかからなくなったような気がします。
 常時口を閉じていると、何となく賢そうに見えるという二次的な効果もあるかもしれません。
 ウィルスは湿気に弱い。
 鼻呼吸することで、呼気に湿気を与えて喉を守るということは案外有効なのではないかと思うのですが、いかがでしょうか?
by t_am | 2008-02-28 21:58 | セイヤさんへの手紙
 イージス艦「あたご」が起こした衝突事故により、案の定石破防衛大臣の辞任を求める動きが野党に出てきました。「石破防衛大臣の責任は重い」というのが理由だそうです。
 軍艦が漁船団の中に突っ込み、衝突して真っ二つにしてしまったあげく、漁船の乗組員二人が行方不明となっているのですから、「自衛隊の犯した罪が重い」のは当然でしょう。
 そのことを直ちに防衛大臣の辞任に結びつける姿勢に、私は疑問を感じます。(別に自民党を擁護するつもりはないのですが、日本人のもつ「あいまいさ」を考えていく上で「責任のとり方、追求の仕方」は避けて通れない問題なので、この事件はそのことを考える格好の題材となったからです。他意はありません。)

 責任という言葉には二通りの意味があります。
 第一に、果たさなければならない任務(職務)という意味。
 第二に、失敗した場合に制裁を受けること、あるいは損失を引き受けることです。

 「責任が重い」「責任を果たす」といういい方は通常は第一の意味で用いられます。このために与えられるのが「権限」です。組織のトップであれば「命令権」「決裁権」「人事権」などの権限が付与されます。責任には権限が伴うのです。
 また、「責任をとる」といういい方をする場合は、二番目の意味で用いています。「自己決定、自己責任」といういい方がありますね。自分で決定することができる代わりに、その結果についてのリスクは自分で負わなければならない、という意味です。
 与えられた責任を(充分に、あるいは全く)果たすことができなかったとき、その人は不利益な扱いを受けます。叱責、減俸、降格、更迭などの制裁を受けることになります。
 このように、辞任する(あるいは辞めさせられる)というのは責任のとり方(とらされ方)の一つでであって、それがすべてではありません。ただし、制裁としては最も重いものになりますが、議員制内閣のもとでは閣僚を辞任しても国会議員の身分は保障されているので、そのダメージはメンツを失うということにとどまります。だから軽々しく辞めろといえるのでしょうか?

 今回の事件は重大であると思いますが、かといって野党が防衛大臣の辞任を求めるというのは、政敵の失点は自分の得点という意識が感じられてなりません。
 防衛庁が省に昇格してまだ1年とちょっとしか経っていません。この間に防衛大臣は3回替わっています。今の石破防衛大臣は4人目の防衛大臣なのです。
 行政を民間企業と比較するのが流行しているようなので、顰みに倣ってそのレトリックを行使ししてみることにしますが、防衛省といえばその規模の大きさ(自衛隊員は25万3千人)からすれば、東証一部上場の大企業にも匹敵すると思います。一部上場の大企業で1年の間に3回もトップが替わった事例を私は知りません。
 これだけ短い期間しかいないのであれば、その人が何か業績を残せるはずがありません。 どう考えてもおかしいことが平然と行われていて、そのことを誰も不思議に思わないという状況はそのままにしておきながら、今また防衛大臣を辞めさせようとしているわけです。(初代防衛大臣である久間さんは自業自得という気もするので、ここでは除外して考えています。念のため。)
 
 こうなると日本においては、大臣となる人に対して、誰も(野党も国民もおそらく任命者である総理大臣も)何も期待していない、というふうに捉えなければこのことは理解できません。さらに論理を進めると、日本の大臣というのは何か問題が起こったとき、辞めさせるために任命される人のことである、ということになります。
 責任と権限を与えておきながら、責任を果たすことは期待しておらず、そのくせ責任をとることばかり要求し、それを当然と思っている、という自己矛盾を私たち日本国民は抱えているのです。
 だから、誰がなっても変わらねーよ、という直感を国民が等しく持っているのですし、投票率が上がらないのも当然といえます。
 マスメディアと野党議員の皆さんは、税金の無駄遣いということを執拗に追求していますが、このような閣僚の任命の仕方も税金の無駄遣いであると思いませんか?
 いいかげん大臣となった人には、きちんと仕事をしてもらうようにしましょうよ。 
 確かに派閥の順送り人事のおかげで、能力もないのに大臣になる人もいるでしょう。けれども大臣の業績のチェックをきちんと行い公表することによって、能力もないのに大臣になった人は、己の無能を満天下に晒すことになるわけですから、メンツを失うことになります。
 こういう状況が定着すれば、大臣のなり手は激減するのではないかと思うのです。

 今回の事故の情報公開について、自衛隊の隠蔽体質というのが疑われています。石破防衛大臣にはこういう体質の改革をしつこく求めるのが理にかなっていると思います。それができなければ、そのときは辞めてもらって代わりの大臣にそれを要求すればいいのです。替わりの人もできないということであれば、そのときはそのような人材しか持たない与党を攻撃する方が、バカの一つ覚えみたいに辞任を求めるよりは、よほど戦術的には優れていると思います。
by t_am | 2008-02-23 23:39 | あいまいな国のあいまいな人々
 前回、論理よりも情緒を優先させる方が人間関係がうまくいくけれども、「あいまいさ」としてわたしたちにつきまとうということを述べました。
 私たちについてまわる「あいまいさ」のひとつに「運用のあいまいさ」というのがあります。

続き
by t_am | 2008-02-22 23:51 | あいまいな国のあいまいな人々
 ビジネスで金銭に絡む交渉をしていると、お互いの主張からそれぞれ歩み寄るために、最後の詰めの段階で、「間をとって○○円にしておきましょ。」といって双方納得する場面が多々あります。これは、こちらの主張が900円で、相手の主張が1,000円のとき、お互いが譲らず物別れに終わっては何も得るところがないので、それならばその間をとって950円にしておきましょう、というものです。

続き
by t_am | 2008-02-21 23:50 | あいまいな国のあいまいな人々
 セクシャルハラスメントには対価型と環境型の2種類があります。
 対価型というのは、女性に対する性的言動を拒否されたことを逆恨みして、当人に対して不利益な扱いをすることをいい、環境型というのは、女性に対する性的言動の結果本人の就業や学業に支障をもたらす場合といいます。
 ここで忘れられがちなのは、男性の方が女性よりも力関係において上位にあり、その力関係を(意図せずとも)利用して、女性に対してその意に反した性的言動をすることがセクハラの出発点となるということです。
 このような力関係というのはどういものがあるかというと、上司と部下、教師と生徒、先輩と後輩、年上と年下、など広範囲に渡ります。
 そもそも、セクハラという概念が導入されたのは、人間関係において弱者である女性を、意に反した性的言動がもたらす苦痛から保護しようという目的があります。
 したがって女性の立場が相対的に弱者である限り、性的言動としてセクハラに該当するかどうかの決定権は常に女性の側にあることになります。つまり、男性が同じことをしても、女性の感じ方によってそれがセクハラになったりジョークになったりするわけです。
 
 現在のところ、セクハラが事件に発展するのは、それが女性の意に反して執拗に繰替えされた場合に限られているようです。しかし、男の側にはたいしたことではないという認識が共通していたように思います。このことはすべてのセクハラに共通することなのでしょう。
 意図しないにもかかわらず相手を傷つけてしまうということは充分あり得ることなので、人間関係において男性の力の方が上位にある場合、故意でなくともセクハラの加害者となってしまう可能性があることを意識した方がいいと思います。
 したがって、そのような男性がセクハラを起こさないようにするには次のことに気をつける必要がある、というのがこの度の結論です。

1.自分の人間性を高める努力を怠らない。
2.女性には常に平等に接する。
by t_am | 2008-02-20 21:24 | 社会との関わり
 この正月に友達2人と会い、3人で酒を酌み交わしました。
 我々3人の共通点は、それぞれ20歳前後の息子を持っていることです。
 席上、一人が「息子に、(女の子とセックスするときは)妊娠させないようコンドームをつけるようにいっている。」と告白すると、もう一人も「実は俺も。」と同意するではありませんか。いやもう、驚いたのなんの。
 「そんなこと恥ずかしくてとてもいえない。」というと、二人して「父親としてちゃんというべきだ。」と口を揃えていうではありませんか。
 彼らにすれば、息子が過ちを犯さないように指導するのは父親の務めだ、という意識があるのでしょう。それは理解できます。
 かくいう私も、二十歳くらいの頃、父親から「遊ぶんだったら、金で解決できる女にしておけ。」といわれたことがあります。
 実は、この両者の間には共通点があります。
 友人たちの場合、その息子にコンドームのつけ方までは教えなかったと思います。私の親父の場合、「金で解決できる女性と知り合えるところ」へは連れて行ってくれませんでした。(当たり前です。)
 つまり、生々しさ(リアリティ)がないことが共通しているのです。
 それはそうでしょう。親子であればこそ、生々しい話は恥ずかしくてできたものではありません。

 私のスタンスは、セックスに関する話題は家族に対しては恥ずかしくてできない、というものです。それを教えてもらう相手は、自分の親じゃないだろうと思うのです。
 友人たちの場合、息子がトラブルを起こさないように導くことの方がずっと大事である、という気持ちの方が、恥ずかしいと思う気持ちよりも強いということなのでしょう。
 どちらがいいかは、私にはわかりません。
 これは一般論としていうのですが、人が他人に対して指導するというのは、その相手が自分のいうことを素直に受け入れるという前提があって初めて成立することです。ところが親というものは、子供は親のいうことを素直に聞くものだという感覚をいつまでも持っているものです。けれども子供が成長するにつれ、いつか親に逆らうときが来るのであって、それを迎えない限り、子供の自立はあり得ないと思います。
 その最初のきっかけは何かというと、自分の親も性行為をしてきた、という事実を知ることにあると思います。その時点で、親は自分(子供)と同じ地平に立つ存在となります。それまで自分とは異なる地平に立つ存在だった親が、実は自分と変わらないということに気づく瞬間でもあります。
 親離れはそのときから始まるのですから、子供に説教をしても、子供はそれほど真剣には聞いてくれないということになりかねない、と思うのです。
 避妊をしなければならないとか金で解決できる女性と遊べ、というのは論理的には間違ってはいません。しかし、それは単なる論理でしかないのです。いっていることは正しいけれども、いうとおりにする気にはなれないということは、世の中いくらでもあります。
 大人になるということは、相手も自分と同じどろどろした部分を抱えている、けれどもそのことはお互いに不問にして接するという知恵を身につけることでもあると思います。そういう心境に至るまでには、人それぞれ、様々な経験を積まないといけません。
 
 高校で避妊の必要性を教えたり、コンドームを女子学生に配布するというのはアメリカのことだったか、あるいは日本のことだったかあいにくよく覚えてはいませんが、教育機関としては自殺行為だと思います。
 そういうことを教える必然性には賛成しますが、何も教師がコンドームを配ることはないだろうと思います。
 思春期の少年少女が大人になるための知恵と知識を教えるコミュニティが、かつての日本には地域の集落ごとにありました。(このコミュニティがどのようなものであったかについては、その功罪も含めて司馬遼太郎さんの「菜の花の沖」に詳しく記されています。興味のある方はお読みください。)
 ないものねだりになりますが、そういう「場」に任せるべきであろうと思うのです。
by t_am | 2008-02-20 00:17 | 心の働き
 相手が子供であれ、後輩であれ、あるいは部下であれ、叱るときにしてはいけないことが一つ(本当はもっとあるのかもしれませんが)あって、それは人と比較することです。

 叱るということは、相手の中に過ちを見つけたときにこれを正そうとして行われる行為です。矯正しようという意識がなければ、それは単なる怒りに過ぎません。
 また矯正しようという意識があっても、そのやり方を間違えると空回りしてしまい、聞いている方には罵詈雑言として受け止められます。
 叱る側は、あの人を見習いなさい、もしくは奮起してほしいという思いから、人と比較することがあります。
 「スズキ君は今月もう10件も契約を取ってきているのに、君はまだ3件じゃないか。」
 「お兄ちゃんがアンタぐらいの歳にはちゃんとできたわよ。」
 「タカハシさんはよく気が利くけど、君も少しは見習った方がいいんじゃないの。」

 いっている側の真意はともかく、これでは叱られる方はうんざりします。
 こういうことが繰替えされると、いわれた方は劣等感を抱き、叱る側に対して反発するようになります。このことは、自分を守るための反応であって、別に珍しいものではありません。

 「あなた、お隣の旦那さんは部長になったんですって。」
 「それをいうなら、お隣の奥さんはお前よりも美人だぞ。」

 他人と比較することが、いかに不毛であるかおわかりいただけるでしょうか?
by t_am | 2008-02-18 22:23 | 心の働き
 新聞・ラジオ・テレビで時々変な言葉を見かけます。
 未だに違和感が抜けないのは、ラジオの道路交通情報で事故があったことを知らせた後で、「この事故の調べがまだ終わっていないため、○○付近では3km渋滞しています」というやつです。
 どうして「現場検証」や「処理」ではいけないのか? ずっと不思議に思っていました。
 これは推測ですが、現場検証という言葉がわからないリスナーがいて、「何だかわけのわかんねーこといってから、もう聞くのやめよーぜ」となるのを恐れているからではないか? あるいは、「現場検証なんていっても、理解できねー奴も聞いてんだから、もっとわかりやすい言葉を使った方がいい」とお上が思ってるのかもしれません。
 「事故の調べ」という日本語は今までありませんでした。これが「事故処理」といってくれると、まだ想像のしようがあるのですが、事故の調べではねぇ。バイオリンの調べ、の方の調べのはずはないし、何か犯罪と関わりがあって警察が捜査でもしてるのか? などと余計な勘ぐりをしてしまいます。単に現場検証をしているというだけのことなんだろうから、まわりくどいいい方をしないでくれればいいのに、と思います。
 きっと誰か偉い人がこうしろ、といって決まったのでしょう。
by t_am | 2008-02-17 17:01 | 言葉
 政治の課題である富の再分配を、日本の戦後体制は特別会計という制度を導入して財源を確保するという手法で行ってきました。
 ところが、50年も経つと流石に経年劣化が目立つようになり、今では、本来の目的よりも制度の存続の方にプライオリティが与えられているように思えてなりません。
 制度が設計された時点で想定していた目的が達成されたならば、その制度は役割を終えたわけですから、新しい制度と交代するというのが自然な考え方でしょう。
 道路特定財源をみると、必要な道路はあらかたできあがっているのですから、今後はその維持補修にウェイトが置かれていくべきだと考えますが、あいかわらず新しい道路が必要だという論理がまかり通っています。
 族議員と官僚は本来その制度を運用・管理する者として振る舞うという使命をを帯びています。まともな管理者であれば、制度が時代に合わなくなってきたら、制度を直すという発想をするのが当然でしょう。少なくとも企業においてはそれが行われています。
 けれども政治の世界においては必ずしもそうではありません。族議員と官僚の跳梁跋扈は目に余るものがありました。(ここは過去形で書いていますが、本当は現在完了進行形で書きたいところです。)
 この思いは日本国民の共通認識でしたし、それを受けて颯爽と登場したのが小泉元総理と安倍晋三前総理です。当初の支持率は信じられないくらい高かったではありませんか。
 このように、日本人が一時的にせよ強い政治家を待望したという事実は確認しておいた方がよいと思います。

続き
by t_am | 2008-02-16 23:59 | 社会との関わり
 テレビのクイズ番組には、いわゆるおバカ系キャラ(10代20代のタレントが多い)が活躍しているものがあります。
 視聴者は、彼らがトンチンカンな回答をするのをみて、「バカだなぁ、コイツ。」と嗤ってるわけです。
 けれども芸能人という職業はバカでは勤まらないと思います。
 この人たちは無知かもしれないけれども、少なくとも知能においてはバカではない。私はこう考えています。

続き
by t_am | 2008-02-15 22:02 | 社会との関わり