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カクレ理系のやぶにらみ

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時間のある方はお読みください。軽い気持ちで読み始めると頭が痛くなります。

カテゴリ:科学もどき( 67 )

 環境問題を取り扱う際に、予防原則という考え方があって、それを放置しておくと重大な危害を及ぼす恐れがあるときは、その因果関係が科学的に証明されていなくても、予防的に規制することを可とする、というものです。

 今回多くのメディアで取り上げられた「美味しんぼ」の表現について、予防原則を持ち出して擁護する意見をいくつか見かけました。
 その主張の背景には、「雁屋哲氏が福島へ行き取材を重ねて得た情報に基づいて発表しているものであるから、鼻血が出たというのは虚偽であるとは考えられない。低線量被爆のリスクはまだ充分解明されていないのだから、そのような環境下で鼻血が出るということは将来他の症状が発症する危険性が否定できない。」という不安と、「福島第一原発の事故の際に、メルトダウンしていたという重大な事実を長い間政府も東電も隠していたのだから、それ以外にも重大な事実を隠しているのではないか。」という不信感があるのだろうと思います。

 このような不安は、震災がれきを持ち込んで焼却するのは許されないと主張する考えと相通じるものがあるように思います。そういえば陸前高田で津波によって倒された松原の松を京都の五山の送り火でたこうとしたところ、苦情が相次いだために中止したということもありました。どちらも福島から遠く離れた宮城や岩手のものですから、放射性物質が付着していたとしてもごく僅かだと思うのですが、どんなに僅かであっても放射性物質が自分たちの住むところに持ち込まれるのを看過するわけにはいかないという思いを感じます。

 放射線に対するこれらの不安や政府・東電に対し不信感を持つことはしかたのないことだとわたしは思います。
 ただし、それはその人の胸にとどめておくべきことであって、「美味しんぼ」のような形で表明するのはいかがなものかという疑問も持っています。
 「美味しんぼ」に対し、予防原則を持ち出して擁護する意見がありました。それらの意見は、具体的にどのような措置を講じるべきなのかということには触れていませんでしたが、推測するに、放射線の被曝による被害には閾値がない以上、低線量被爆であっても危険性は排除できないのだから、予防原則に基づいて福島が危険なところであると警告するのは当然であるということがいいたいのかもしれません。実際に「美味しんぼ」では、前町長や福島大学の教授の、福島が危険なところであるという印象を与える発言を紹介すしてます。
 予防原則をそのような形で扱うのであれば、福島の人と結婚するのは見合わせた方がいいという警告も予防原則に適っていることになります。
 けれども、ここまで言ってしまうとそれは差別になってしまいます。おそらく「美味しんぼ」の原作者にも、「美味しんぼ」を擁護する人たちの間にも差別するつもりはないものと思いますが、結果として、福島は穢れた地であるといっているわけですから、それだけでそこに住んでいる人たちに対する差別になっているということは自覚してもらってもいいのではないかと思います。
by t_am | 2014-05-23 01:01 | 科学もどき
 左肘が痛くなって近所の整形外科に診てもらったけど、いっこうに良くならないので、整骨院に行って診てもらったら一発でよくなりました。身体の衰えと姿勢の悪さが原因とのことでした。歳をとるにつれていろんなところにガタがきているのがわかります。
 姿勢が悪くなる原因はテレビとPCだそうで、多くの人が知らず知らずのうちに、前のめりになって顎だけ突き出すという姿勢に陥っているそうです。いわれてみれば自分もそうだなと思い当たりました。意識して、顎を引きPCやテレビの画面から目を離すといいのだそうですが、オフィスの場合は、椅子に正しく座るのも効果があるのだそうです。

(正しい椅子の坐り方)
 ポイントは2つあります。
 誰でもお尻の両側に骨が尖ったところがあります。椅子に座るときは、この部分が座面に当たるように座るのが1番目のポイントです。前のめりになったり、後ろに反っくり返ったりすると、骨が尖ったところが座面から離れてしまいます。
 2番目のポイントは、両足のくるぶし(内側)から垂直に線を降ろしたときに、そこが床につく感覚で足を置くのだそうです。実際には土踏まずのところなので、ここが床につくということはありませんが、イメージ的にややX脚気味に足を置くといいようです。膝が離れていても構いません。
 ちなみにこの状態で、誰かに肩を押されても、少しの力で踏ん張るだけで姿勢が崩れることはありません。逆に足の置き方を変えると、ちょっと押されただけも踏ん張ることができなくなってしまいます。(疑問に思うか他はお試しください。) つまり、この坐り方は最も安定感のある坐り方で、要するにバランスがとれているわけです。
 そのうえで、PCの画面から目を遠ざけるようにして、顎が前に突き出るのを防ぐように意識して仕事をするのがいいそうです。

(メリット)
 正しい椅子の坐り方を実践すると、姿勢がよくなるので、背中のラインがきれいなS字を描くようになります。女性の場合、ウェストからヒップのラインがきれいに強調されるようになるうえに、バストアップにもつながるので3割増しできれいに見えるようになります。
 「いやだ、これ以上きれいになったらどうしよう?」と思うかもしれませんが、一度試してみてください。

(おまけ)
 姿勢が悪いままだと、肘や膝あるいは股関節が痛くなることがあります。この場合、仰向けに寝て痛みを感じる方の足の膝の裏側を両手で抱えるようにして手前に引き寄せるようにして、その姿勢を数錠秒間維持します。
 また、股関節が痛んだり、O脚を直したい場合は、バレエのレッスンのように、片手を机や壁にあてて身体を支え、内側の足を後ろに跳ね上げるようにします。(勢いをつける必要はありません。ゆっくりでもいいのです。)ただこれだけで、骨盤の歪みが矯正されるので、両膝の間の隙間がぴたりとふさがるようになります。
by t_am | 2014-03-08 00:15 | 科学もどき
 昨日(平成25年1月25日)の朝日新聞デジタルにこんな記事が載っていました。「(ニュースQ3)小学校のかけ算 えっ?順序が違うと『バツ』」

http://news.asahi.com/c/abpCcrjjfmi8gmax

 8人のこどもに6本ずつ鉛筆をあげると全部で鉛筆は何本いるでしょう? というテストの問題があって、答えに「8×6=48」と書いたところ、バツになったという話が紹介されていました。小学2年算数の教科書には、かけ算は「『一つ分の数』×『いくつ分』」と書かれてあって、教科書会社に尋ねたところ、冒頭の問題に当てはめれば「1人あたり6本」×「8人分」、つまり「6×8=48」と書くのが正しい順序なのだと説明されたとのことです。逆に、「『8×6』では1人あたり8本、6人にあげることになる」のだそうで、読んでいて、「へえ、そんなものか」と思いました。
 朝日新聞のたいしたところは、それではそういう指導をしている根拠はどこにあるのかという疑問を持って、文科省に問い合わせをしたことです。念には念を入れてという姿勢ですね。
 ところが、意外なことに、「国として、『正しい順序』を決めてはいない」という回答があり、学習指導要領自体にも「順序」の記述はないとのことだそうです。
 そのうえで、かけ算の順序を教えることについての反対意見も集めているのですから、マスコミの中立性というのはこういうところで発揮されているのですね。反対意見として北海道大学東北大学の数学科の先生(黒木玄助教)は、「冒頭の問題は、鉛筆をトランプのように配れば『1巡あたり8本』×『6巡分』とも説明でき、『8×6=48』をバツにする根拠はない」と述べたうえで、「算数には様々な解き方がある。先生は児童とのコミュニケーションを大事にしてほしい」という意見を述べています。また、「『正しい順序』は分かりやすく教える手段のはずが、目的になってしまっている」という作家の川端裕人さんの指摘も紹介されています。
 たしかに、かけ算にはxy=yxという交換法則が成り立つのですから、順序にこだわりすぎる必要はないといえば、その通りだと思います。そんなことを考えながら読んでいたら、なんとこの問題は41年前の朝日新聞でも取り上げていたのでそうで、当時、同じようにバツをもらってきた小学生の保護者が学校に抗議したという話を紹介した後で、京大の先生による「(こどもの)思考の飛躍、冒険は大切なことで、どんどん生かす指導をしてやらなくてはいけない。親が学校に対し、学習内容などについて発言するのは大いにけっこう。まず担任の先生と率直に話し合って」という意見が掲載されていたのだそうです。
 朝日新聞の記者の結論は、この京大の先生の意見に軍配をあげており、要は、かけ算の順序にこだわる必要はないのではないかということなのでしょう。

 長々と、新聞記事について書いてきたのは、私だったら冒頭の問題をこう解くと思ったからです。

 6本/人 × 8人 = 48本

 あるいは、

 8人 × 6本/人 = 48本 と書いても同じことです。(分母と分子にある「人」が互いに打消し合うから)
 
 6本/人 というのは、1人あたり(鉛筆を)6本という意味で、時速40kmというのを、40km/時 と書くのといっしょです。
 時速40kmで2時間走り続けたときの計算式は、下記の通りとなり、分母と分子にある「時間」が互いに打ち消されるので、最後には「km」という距離の単位だけが残ります。

 40km/時 × 2時間 = 80km

 また、

 2時間 × 40km/時 = 80km と書いても同じです。


 大切なのは、その数字が持っている意味なのであって、単位をつけることで数字の意味をはっきりさせることができるのです。したがって、上の例のように、数字の意味が明らかにすることで、かけ算の順序にこだわる意味はなくなるということがおわかりいただけるとおもいます。

 にもかかわらず、教科書会社がかけ算の順序を指導したがるのはなぜかというと、(これは想像ですが)小学校2年生では分数を習わないので上の例のような考えかたを教えるわけにはいかないという事情もあるのかもしれませんね。

 6×8=48 に意味があるとすれば、つぎのような教え方をする場合です。

  6×8
=6本+6本+6本+6本+6本+6本+6本+6本
=48本

 つまり、かけ算というのは、左側の数(ここでは6)を右側の数の回数(ここでは8回)分足したのと同じだということす。そういえば、小学校のときに、そんな習い方をしたような記憶があります。(定かではありませんが…)
6本の鉛筆を8回足すということであれば、上のように6×8という書き方をすべきでしょうが、その場合「6本」というふうに単位をつけてやった方が親切です。さらにいえば、単位さえつけてやれば、8×6本でも間違いではなくなるのです。
 冒頭のテストでは単位をつけることまで求めていないのですから、6×8でも8×6でも、生徒が「1人あたり6本の鉛筆を8人分用意する」ということを理解して式を組み立てている限り、どちらも正解とすべきでしょう。わかっていないのは、教科書ガイドに書かれてあることを鵜呑みにする先生の方かもしれません。
 

付記
 1人あたり6本の鉛筆というのが、なぜ 6本/人 となるのかについては、次のように考えるとわかりやすいと思います。

 48本の鉛筆を8人のこどもで平等に分けると、1人何本の鉛筆をもらえることになるか?

(答え)
 48本 ÷ 8人 = 48本/8人 = 6本/人


付記2
 積分定数さんから頂戴したコメントにより、黒木玄助教を北海道大学の先生と書いたのは間違いで、東北大学にいらっしゃるというのが正しいということをご教示いただきました。私の不注意により、黒木先生には大変失礼なことをしてしまいました。訂正してお詫び申し上げます。
 なお、積分定数さんが示してくださったリンクには、教師用指導書(教科書ガイドのこと)の見本写真が掲載されています。どういう教育が行われているのかを知る材料になるので、興味のある方はぜひご覧ください。
 指導書の執筆者には申し訳ないのですが、執筆者が意図しているようなことに気づく小学生はたぶんいないと思います。仮に気づいた生徒がいたとして、「だから何なの?」と思ってしまいます。
 学校の先生が全部「指導書」に忠実な授業をしているのではないと思いますが、このような「正しいのは常にひとつ」という考えかたには正直言ってついていけません。ご苦労なことです。
by t_am | 2013-01-26 09:06 | 科学もどき
 毎日暑い日が続いています。それだけにハンカチやタオルが手放せないのですが、間違った使い方をすると不快になることがあります。そこで、今回は涼しいタオルの使い方について申し上げたいと思います。

 結論から申し上げると、タオルは雑巾ではありません。どういうことかというと、雑巾は拭くものですが、タオルは違うということです。(これはハンカチも同じです。)

 では、タオルは何にためにあるのかというと、水分を吸収するための道具になります。水分を吸収すればよいのですから、濡れたところにそっとあてがうという使い方がふさわしいということになります。
 風呂上がりにバスタオルを使うということを考えてみましょう。ほとんどの人がバスタオルで身体を「拭く」ということをしていると思います。でも、それはタオルの濡れた部分を身体にこすりつけるようなものですから、乾きがよいとはいえません。むしろタオルでポンポンと叩くようにして、風を起こしながら身体についている水分を吸収させるようにした方が身体は早く乾きます。

 発汗作用が体温を調節しているといわれるのは、皮膚の表面の水分が蒸発する際にまわりの熱を奪ってくれることを指しています。この場合の水分の蒸発というのは本当に少しずつなので、蒸発するスピード以上に皮膚の表面の水分が増えていく(たとえば汗をだらだらとかいている状態)と体温を下げることができなくなってしまいます。
 こういうときにハンカチやタオルを使って、皮膚の表面の水分を吸収してやると、残ったわずかな水分が蒸発してその分だけ体温が下がることになります。その際に、タオルでポンポンと叩くようにしてやると、風が起こるので水分がそれだけ蒸発しやすくなるわけです。

 風呂に入って汗を流すのはとても気持ちのいいものですが、風呂上がりには髪の毛をよく乾かしておきましょう。髪の毛が濡れたまま(もっとはっきりいうと、少しでもしめった状態)だと、汗が止まらなくなります。特に朝シャンの習慣のある方は、きちんと髪の毛を乾かさないと、そのまま出かけることになるわけですから、だらだらと汗をかくことになります。
 髪の毛を乾かすには、ある程度タオルで水分をとってから、ドライヤー(冷風で)や扇風機で髪の毛を乾かすのが効果的です。風をあてて強制的に水分を蒸発させることで髪の毛の温度も下がるので、その分気持ちよくなります。
 これは、日中扇子や団扇を使う場合にもいえることです。額や首筋は特に汗をかきやすい場所ですが、それというのも髪の毛に接するところだけに皮膚の表面の水分が過剰になりやすいからです。したがって、ハンカチやタオルである程度水分を取り除いてから、あおいでやる方がはるかに涼しくなります。

 これからも暑い日が続きます。ハンカチやタオルを雑巾のように使わない(汗を拭き取らない)ことが、暑さをやわらげるコツだといってよいでしょう。

快適な夏をお過ごしください。
by t_am | 2012-08-01 23:41 | 科学もどき
 毎日暑い日が続いています。熱中症に罹って病院に運ばれる人も後を絶ちませんし、死亡事故も報告されています。
 熱中症による高齢者の死亡事故も多いので、家族の方は十分気をつけてあげていただきたいと思います。そうはいっても歳をとるほど頑固になる人もいるので、容易ではないと思いますが・・・

 高齢者というのは一般に我慢強く、また思いこんだら梃子でも動かないというところがあります。よく耳にするのが、トイレに行きたくなるので水分はなるべくとらないというものです。
 たしかに、暑い中で水分を取り過ぎると、弱っている胃腸に与えるダメージも大きくなってお腹を壊すということもあります。
 また、水分をとればそれだけ汗をかき、またトイレに行きたくなるというのも事実なのですが、見方を変えれば、新陳代謝が正常に行われているということであり、それだけ健康であるということになると思います。つまり、水分をとって汗をかいたり、トイレに行きたくなるというのは身体が健康な証拠であるにもかかわらず、水分の吸収を我慢するということはそれだけ身体(特に心臓)に負担をかけるのだということを高齢者には説明した方がよいと思います。

 身体が暑さを感じると発汗により体温を下げようとします。暑さが厳しくなれば、それだけ体温の上昇を防がなければならないのですから、より多く汗が出るように血管が拡張して、多くの血液を皮膚の近くに送り込むようになります。ですから、ここでいったん血圧が下がることになります。
 ところが湿度が高かったり、周囲の温度があいかわらず高いままだと、どれだけ汗をかいても追いつかないという状態に陥ることがあります。そうなると、身体は心臓や脳にかかる負担を軽減させようとして血管を収縮させるようになります。したがって血圧は上昇することになります。
 高齢者の場合、水分をとるのを嫌がる人が多いので、慢性的な脱水症状を起こしかねませんし、それによって心機能が低下すると危険なことになります。
 したがって、高齢者の場合次のような症状が現れたら気をつけた方がいいと思います。

・暑いにもかかわらず水分や塩分を欲しがらない。
・血圧を測ると普段よりも高くなっている。

 対策として、月並みですが、
・暑いときはエアコンや扇風機をつけて涼しくする。(部屋の風通しがよければそれでもよいと思います。)
・水分をとらせる。(水分を多く含む果物や野菜、氷菓子をとってもよいと思います。)

 なお、熱疲労(めまいや立ちくらみ、脱力、疲労、頭痛、吐き気など)の症状が現れたら危険な状態に踏み込んだということですから、病院に運ばなければいけないとのことです。


付記
 私が30代の頃、暑くなるとよく頭痛がしたものですが、今考えると熱疲労を起こしていたのかもしれません。そんなときは、まめに水分をとるようにしていましたし、腕に水をかけて体温を下げるようにしていたせいか、病院に担ぎ込まれるということはありませんでしたが、それでも夜になっても頭痛が治まらないということもありました。そんなときは、横になって後頭部をアイスノンで冷やすと痛みがスーッと消えたのでたいして気にもとめていなかったのですが、ずいぶん無鉄砲なことをしたものだと思います。
by t_am | 2012-07-29 22:47 | 科学もどき
 今日の朝刊の⒈面に、東電は、福島第一原発において、原発の一般的な寿命と考えられる50年間に、被害を防げる想定の最大5.7mを上回る津波が来る確立を最大約10%、炉心溶融を引き起こす10m超の津波の確立も約1%と見積もり、2006年のフロリダの国際会議で発表した、という記事が載っていました。
 記事の文脈は、このような評価結果が2006年に出されていながら東電がそれを生かしていなかったというものになっています。
 それから5年しか経っていないにもかかわらず、メルトダウンが起こるような津波が発生したわけですから、東電の不作為が責められるのは致し方ないと思います。

 そこで今回は災害発生確率をどう理解したらいいかについて考えて見たいと思います。

 まず確認しておきたいのは、確率というのは本来無時間モデルであるということです。さいころを1個振って1の目が出る確率は6分の1ですが、その場合時間という要素は考慮されていません。無時間モデルとはそういう意味です。
 06年の評価の算出方法は、原発の一般的な寿命である50年間で想定外の津波が発生する確率を求めているわけですから、これも無時間モデルであるといえます。というのは、原発の耐用年数の間に1回でも想定外の津波が発生する確率を計算しているのですから。

 そうなると、10%という確率が高いか低いかという判断になるわけですが、文化系の経営者にとっては100%に対する10%という考え方をしがちです。すなわち、発生しない確率は90%もあるのだから、まずそんなことは起こらないだろうと考えてしまうということです。ところが、技術者にとって10%という数値は看過できる値ではありません。技術者にとってはシステムが正常に稼働するのが当たり前です。したがって、事故や故障によってシステムがダメージを受ける可能性がわずかでもあった場合、なんとかしてそれを排除しようという発想をするのが普通であり、良心的な技術者であるといえます。
 さらにいえば、50年間というのは人間にとってはかなり長い年月であるともいえます。東電に限らず、大きな組織の管理者というのは自分の在職中は問題が起らなければそれでいい、という考え方をするものです。というのは、将来問題が発生するかもしれない要因があることを発見しても、それを解決するためには多くの手間とコストがかかることが明らかな場合、その問題に取り組んでも褒められることはないとわかっているからです。
 大きな組織で働く人間の考え方は、何も問題が起こらないのがベストであり、何か問題が起こった場合、自分には責任がないことを証明することを優先して考えるものです。問題を解決したとしても、関心は、責任の所在はどこにあるかというところにあり、解決したことに対する評価は意外と低いものです。まして、将来起こるかもしれない事故に対して、予防的に取り組んでも誰も評価してくれません。評価の対象はどれだけ収益をあげたかというものですから、進んで貧乏くじを引こうとする人間はよほどのお人好し(というか、はっきりいって「バカ」)であるというふうに思われているのです。
 当時の東電の社内でも同じような風潮があったのだと思います。だから、こういう評価報告が上げられても組織として対応することがなかったのでしょう。どうやら、企業経営もいつの間にか無時間モデル(あるいは近視眼的)になってしまっているようです。大切なのは1年もしくは四半期という単位の中でどれだけ収益を上げたかであって、津波対策のような収益に結びつかない投資は誰もやりたがらないのです。

 既に述べたように、確率は本来無時間モデルの事象を扱うものですが、災害発生確率の場合、地震発生確率でおなじみのように数十年単位での確率として発表されます。実をいうと、一般市民にとってこのような確率には意味がないと私は考えています。
 災害発生確率ではありませんが、降水確率を例に考えて見ましょう。昔の天気予報は晴れか雨か曇りかというシンプルな物でした。それだけに当たらないことがけっこうあったのですが、降水確率という発表のしかたに改めたことによって、天気予報が外れるということは基本的にはなくなってしまいました。というのは、降水確率10%という発表があった場合、雨が降れば10%の範囲にあったということになりますし、雨が降らなければ90%の範囲内ということになるので、降っても降らなくても外れたことにはならないのです。

 これは降水確率が60%であっても同じことです。

 したがって、降水確率とは、雨が降るか降らないかではなく、雨が降りやすいか降りにくいかを判断する目安にすぎないというふうに理解した方がよいと思います。そのうえで、傘を用意して出かけるかどうかは自分で判断しなければなりません。

 それでよいのだと私は思います。

 今日は、はたして雨が降るのかについて、ある程度の材料が提供されていれば自分で判断することができます。他人に判断してもらって、外れたらその人を責めるというのは大人のすることではありません。にもかかわらず、他人の判断を無条件で受け入れるというのは、詐欺に引っかかりやすいタイプの人であるといってよいでしょう。

 冒頭に述べたように、災害発生確率が0%でない場合、技術者にとってそれは見逃すことのできない数値となります。しかし、技術者でもない一般の人にとってはどうしたらよいかわからないという類のものでしかありません。
 地震発生確率(今後30年間で地震が発生する確率)は、日本中のどこにいてもだいたい数パーセントという数値となっています。地震が怖いのは震度6を超えた場合であり、それ以下であれば(普通の家屋の中にいる限りは)たいした被害はおこりません。高層ビルの場合は、長周期振動によりビルが共振することがあるので、危険な場合があります。したがって高層マンションに住んでいる人でもなければ、大事なのは、自分が住んでいる地域で震度6以上の地震が起こるかどうかということなのですが、地震発生確率はその疑問に答えてはくれません。
 一般の人にとって意味がないという理由のもうひとつは、30年や50年というスパンは長すぎるということです。仮に、海沿いに住んでいる人の地域で、今後30年以内に津波が発生する確率が10%以上あるという発表があったとして、高台に引っ越すという人がどれだけいるでしょうか? それよりは、「この地域は過去に千年周期で10メートルを超える津波が発生しており、前回津波が記録されたのは800年前である。ゆえに津波に対する備えをしておくことが望ましい、」といわれた方がより真剣に耳を傾けるのではないでしょうか。

 東日本大震災の後で、家具の転倒防止装置などの地震対策グッズが売れていると聞きます。自分が住んでいる地域の避難先がどこになるのか確認された方もいらっしゃると思います。このような行動は間違っているとは思いません。日本は地震国である以上、どこかで震度6を超える巨大地震が発生する可能性は誰にも否定できません。もしかしたら自分の住んでいる地域では震度4か5くらいで収まるかもしれませんし、そうでないかもしれません。それならば、地震に対する備えは怠らないようにしようと考える方が賢明だと思います。
 今後もなにかの拍子で災害発生確率が発表されることがあると思います。それは、日本のいつかどこかで大きな災害が起こるということであってそれ以上のことはわからないのですから、慌てる必要はないと思います。個人においては、災害時の備えをしておくこと、行政や研究所においては災害発生確率の算出にリソースを費やすよりも、過去に起こった災害で、どこでどれくらいの被害が起きたのかを調査することに費やした方がはるかに有用であると思います。

 災害発生確率を取り上げる際に、浜岡原発に対する菅前総理の停止要請を避けて通ることはできません。その根拠として、今後30年間でマグニチュード8.0の地震が発生する確率が87%である、ということがいわれました。このときは、87%という高い確率の根拠について検証されることはありませんでした。
 東海地震が起こるということはだいぶ前からいわれていました。浜岡原発はその真上にあるわけですから、実際に巨大地震が起こったときに浜岡原発が受ける被害は深刻なものになる恐れがあります。たとえ津波が襲ってこなくても、震度6を超える揺れに襲われると原子炉内部の配管が損傷するということは今回の福島第一原発の事故で明らかになったと思います。したがって浜岡原発が日本で最も危険な原発であるという指摘は間違いではないといえます。
 菅前総理の停止要請は、その懸念を突いたものでした。それゆえに、87%という根拠不明な確率について十分吟味されることもなく、原発の停止が行われたのです。確率が87%でなく、8.7%であったとしても、巨大地震が起きたときに浜岡原発が被害を受けることに変わりはありません。問題点は巨大地震が起こるか起こらないかではなく、日本の原発は巨大地震が起きたときに間違いなく被害を受けるような設計しかされていないというところにあります。そのような説明をせずに、唐突に浜岡原発だけを止めようとしたのが菅前総理でした。さらに悪いのは、中部電力による防潮堤建設を承認したことです。それによって、福島第一原発事故原因は津波によつ全電源喪失であると決めつけることになってしまいました。
 はっきり申し上げますが、このような確率の用い方は邪道であり、人の不安に付け込む霊感商法の教祖と何ら変わりはありません。(原発の危険性を指摘するのであれば、日本中の原発を止めさせるべきでした。)一国の総理大臣という要職にある人間がそれを行ったのですから、管直人という人は戦後最低の総理であったと申し上げなければなりません。

付記
 菅前総理がSPを連れてお遍路に出かけたことに対する非難がありました。いくら戦後最低の総理だったとはいえ、そのような非難は的外れであると思います。法律の規定こそありませんが、総理経験者にはSPがつくことになっています(その代わり家族にまではつかない)。心の傷(総理大臣というのはそれだけ割の合わない仕事です)を癒すためにお遍路に出かける権利まで奪う権利は誰にもありません。
by T_am | 2011-10-19 23:32 | 科学もどき
 前回、電気自動車の盲点について書き込みをしたところ、私の友人たちが次のような指摘をしてくれました。

 電気自動車は、交換バッテリータイプにして、バッテリーの共有化、コンビニ充電したバッテリーと交換できるようなシステムの構築をすれば、安心なのです が・・・
 ガソリンを買うように。
 電気自動車購入者は、予備バッテリーを強制的に購入してもらい、システムの中に預けておく等も必要かな。
 ニワトリが先か、タマゴが先か?
(以上、アラカワさんの指摘)

まったくそのとおりです。
イスラエルで実証実験がスタートしました。
そのシステムはそのとおりのかたちです。
①バッテリーを交換する。
②急速充電する
③観測充電する
の三択から電気供給スタンドで選びます。
スイスとドイツでも始まりました。
日本でもスタートしないかなあ。
(以上、セイヤさんの指摘)
 


 発想の転換ですね。感服しました。
 電気自動車といっても実は電池で動くのであり、電池がなくなれば動かなくなります。だったら電池がなくなる前に「電池ごと交換すればいい」という発想は素晴らしいと思います。
 私のような凡人は、充電しなければ電池は使えないと考えてしまいます。でもスタンドに寄って、あたかもガソリンを給油する感覚で充電済みの電池と交換すれば、そのまま走り続けることができるわけです。すなわち、どれだけ電気を使おうとも気にする必要はないということですから、実現すれば電気自動車の普及に大きく寄与することになると思います。
 その代わり、現在設置が進められている無料の充電スタンドは意味を為さなくなるように思います。というのは、電気自動車の普及率が高まれば高まるほど、無料の充電スタンドは、1時間待ち・2時間待ちといったように不便になるからです。しかも、よく考えてみると、充電スタンドの場合、自分の順番が来るまでの時間待たなければいけませんし、ようやく順番が回ってきたとしても、充電完了までの時間待たなければなりません。
 このような施設は電気自動車のユーザーにとっては不便極まりないといえます。また、充電スタンドが1日に供給できる電気自動車の台数は限られます。ゆえに、ビジネスとしてみたときに、無料の充電スタンドいうのは設備投資とコストの回収が見込めない状況に陥る可能性が高いといえます。
 あとは1回のバッテリーの交換費用と走行距離、すなわち燃費がユーザーにとってメリットがあるかどうか、ということに尽きると思います。
 現在、行政が設置を進めている無料の充電スタンドというのは、いってみれば慈善事業のようなものですから、設置者に無理を強いるようなものです。このようなモデルがいつまでも続くとは思えません。ゆえに、このようなモデルを追求する限り、日本の電気自動車の普及は早晩行き詰まると思われます。
 そういうことを気づかせてくれる、目からウロコのような指摘でした。やはり、持つべき者は友だちであると思いました。
by T_am | 2011-05-24 22:33 | 科学もどき
 自動車はガソリンか軽油で動きます。これに対して電気自動車は電池に蓄えられた電気がエネルギー源となっています。現在のところ、この違いはとても大きなものがあります。

 自動車はガソリンや軽油を爆発的に燃焼させてエンジンを回すことで動きます。エンジンの回転は、車輪だけでなく発電機とコンプレッサーも回します。発電機はバッテリー(始動時のセルモーターを回す電源)を充電するだけでなく、ライトやウィンカー、オーディオといった電装品を動かす電気を供給します。また、コンプレッサーが回ることでエアコンをつけることができますから、夏の暑い日でも快適に走ることができます。さらに、自動車のヒーターはエンジンの排熱を熱源としています。化石燃料というのは、それだけパワーを持ったエネルギー源なのです。

 これに対して電気自動車のエネルギー源は電池に蓄えられた電気だけです。その電気が全部モーターを回すことに使われるのであれば、1回の充電で走ることのできる距離は長くなります。ところが、この電気がライトやヒーター、エアコンなどを動かすエネルギー源として使われることになると、走行距離はその分だけ短くなります。特に冬場のヒーターとなると、電気ストーブ(家庭で使うと電気代が高くなる)で熱した空気を扇風機で車内に送り出すようなものですから、かなり電気を喰うであろうことは容易に想像できます。

 その分だけ走行距離は短くなるのですから、ユーザーはまめに充電しなければならないということになります。

 省エネのためと称して電気自動車を購入した地方自治体がありますが、もしかしたら今頃臍をかむ思いをしているかもしれません。ガソリン車やディーゼル車の感覚で、エアコンやヒーター、オーディオをガンガンかけて走っていると、バッテリーの残量がみるみるうちに減っていくのですから。
 充電スタンドはまだ珍しい方ですから、不幸にしてバッテリー切れで立ち往生するとレッカー車に来て貰わなければなりません。すぐ近くまで行くというのであればともかく、ちょっと遠出をするときは、いつ止まるかわからないという恐怖と背中合わせで運転しなければならないのです。
 かくして、電気自動車に乗るには次の心得が要求されるようになるかもしれません。

・ヒーターはつけない(我慢する)
・エアコンはつけない(我慢する)
・カーステレオやラジオもつけない(我慢する)
・夜間のライト。これは点けないわけにはいきません。その代わり、電気自動車の夜間使用禁止とするところも出てくるかもしれません。
・シガーライター(使用禁止。どうせソケットのみでライターはオプションでしょうから。)
・カーナビ(そもそも装備されているのでしょうか?)

 ここに書いたことは、バッテリーの容量が劇的に改善されれば解決します。技術の進歩というのは侮れないものがありますから、今は世の中に存在していなくても10年単位で見たときに、いつの間にか登場しているということが起こりうるのです。
 そうはいっても、いくらエコだからといって、今すぐ電気自動車に飛びつくのは大変な苦行を強いられるという覚悟が必要であると申せましょう。
 そういうものだと知っていて購入するのと、知らないで買うのとでは天と地ほども違います。
 新製品というのは、出始めの頃は価格も高く性能も劣ります。庶民が手を出すのは、広く普及してからで十分だと思うのですが、いかがでしょうか?
by T_am | 2011-05-23 22:32 | 科学もどき
 ここ一週間ばかり風邪気味の状態が続いています。寒気がする。喉が痛い。いずれも極軽い症状であり、熱も上がらなければ咳も出ないというものなので、身体が温まるものを食べて、風邪薬を呑んで早めに寝るということを続けています。以前であれば、一晩で治ったのですが、なかなか治りません。これも歳をとったということなのでしょうか。
 おかげで、病気になるとはどういうことなのかが少しわかったような気がします。

 人間の身体は絶えず病気の元となる細菌やウィルス、微生物の攻撃に晒されています。それを防いでいるのは私たちが持っている免疫などの防御機能のおかげであり、防御機能の方が優勢であれば病気になることはありません。
 ところが、何かのきっかけで防御機能の方が相対的に劣勢になると、病気が発症することになります。
 したがって、病気になりたくなければ、防御機能を援護することを意識して毎日を過ごすに超したことはありません。すなわち、深酒や夜更かしはしない。その日の疲れは翌日に残さない。きちんと栄養のバランスの取れた食事をする。等々・・・
 
 脳には、ゆっくりと進行する身体の変化を感じ取る能力は低いといえます。たとえば、歳をとって若い頃のようには身体が動かなくなっているにもかかわらず、脳だけはあいかわらず若い頃のように身体を動かそうとします。そうなると、脳の命令に身体がついていけないことになりますから、転んだり途中で息が切れたりするわけです。
 フィギュアスケートの浅田真央選手がこのところ不調に喘いでいますが、その原因は浅田選手の身体が少女から大人に変わりつつあり、脳と身体の同期にずれが生じているのではないかと思うのです。(同じ不調は安藤美姫選手も経験しました。)

 人間の身体の防御機能は常に一定の水準を保っているというわけではありません。その時の体調によっても変化しますし、年齢を重ねるにつれ少しずつ衰えていきます。しかし、脳はそのことに気づかないので、今までと同じ生活スタイルを維持しようとします。それが続くと身体に疲労が少しずつ蓄積されていき、防御機能を低下させることになります。そうして、細菌やウィルスの攻撃力が防御機能を凌駕するようになったときに病気に罹るわけです。
 ここではっきりしていることは、どのように健康に留意していたとしても、人間はいつか死ぬということです。異なるのは、病気で死ぬか、事故で死ぬか、あるいは老衰で死ぬかという死因の違いしかありません。

 それでも、生き延びる可能性があるのであればそれを追求するというのは決して悪いことではないと思っています。

 私たちは、もしかすると、病院というのは病気を治してくれるところであると思っているのかもしれません。たしかに、医者や薬の力を借りなければ助かるものも助からないという病気はいくらでもあります。しかし、よく考えてみると、外科的手術というのは患部を取り除くということであり、薬を服用するというのは病気の元となっているウィルスや細菌、微生物を弱らせるか、あるいは衰えてしまった身体の調節機能を補完する(血糖値や血圧を下げるなど)ことが目的です。それ以上のことはできません。あとは自分自身で治していくしかないのです。
 
 そうすると、病気にかからないようにするのが一番ですが、万一病気に罹ったときは早期発見早期治療というのが重要となります。
 なんだか身体の調子が思わしくなく、何らかの症状が現れているときは迷わずに病院へ行って検査をしてもらった方がいいと思います(検査というのは病気に罹っているかどうかを判断するために行うものであり、病気が見つかった場合、治療を行うということが前提となっています)。現代の医学では、ほとんどの病気は適切なタイミングで適切な治療を行えば治るといっていいのですから、仕事が忙しいとか、私がいないと家族に迷惑をかけるという逡巡はそれだけ時間を失うことにつながります。その間に病気は進行していくのですから。
 検査の結果、病気に罹っていることが明らかになった場合は治療に専念すると割り切るべきでしょう。入院というのは世間から強制的に隔離することで治療に専念してもらおうという手段です。仮に、入院するほどではないと診断されても、病気であることに違いはないのですから、そのことを意識した生活をすることが重要です。
 ところが、そのことを忘れて健康だった頃と同じような生活スタイルを続ける人が多いのですね。結局、病気が進行し、喪わなくてもいい命を喪うことになるのです。

 日本の平均寿命が世界一であるといわれて久しいのですが、最近亡くなる人の年齢をみていると、まだ若いのに、と思う人がけっこういるのも事実です。
 病気治療に専念するということは、それを最優先で行動するということです。治療中でもダイエットを続ける人がいるとは思われませんが、病室に仕事を持ち込むビジネスマンはけっこういるようです。しかし、戦力を一点に集中させ決して分散させないというのは戦争だけでなくビジネス一般にも通用する原則です。治療中、中途半端に家事や仕事をするくらいなら、早く治して復帰する方がよほどマシだと思いませんか?
by T_am | 2010-12-12 09:52 | 科学もどき
 この前の日曜日、長野県伊那市にある分杭峠に行ってきました。中央構造線という相反する磁界を持った地層がぶつかり合うがゆえに、見かけ上エネルギーがゼロになっているけれども実際は2つの強い力が加わっている「ゼロ磁場」といわれるところなのだそうです。パワースポットという言葉は、大地のエネルギーが湧き出ているところという意味のようで、分杭峠のパワースポットということでテレビでも取り上げられたこともあって大勢の人が訪れていました。
 分杭峠までの国道152号線は幅員が狭く、峠には駐車場としての充分なスペースがないにもかかわらず大勢のマイカーが訪れて交通渋滞がひどくなったために、現在は分杭峠の駐車場は一般車両の駐車は禁止されています。このため分杭峠を訪れるには、高遠市街寄りの麓に設けられている専用駐車場(無料)に車をおいて峠までシャトルバスで往復することになります。
 分杭峠には気場と呼ばれるところと水場と呼ばれるところがあり、どちらへ行くにしてもシャトルバスの降車場からちょっとだけ歩かなければなりません。気場の方は急斜面に腰掛けるための角材が何列も埋め込まれており、上の方へ行くためには張ってあるロープにつかまりながら昇っていくことになります。結構な急斜面ですから、雨が降ったときのぬかるみは相当なものがありそうです。
 気場にはちょっと変わった看板が掛けられており、それは「最近、気功師でもなく整体師でもないのに、女性の体にふれようとする男が出没することがあるので気をつけてください」という内容のもので、これを読んだときは思わず笑ってしまいました。
 分杭峠を訪れた人は、最初に気場へ行き(手すりのある坂道を下っていく)、そこでしばらく座って全身に気を浴びた後で水場の方に向かうというコースを辿るようです。水場は、降車場の上にある「これより北高遠領」と書かれた石碑の左側にある砂利道(林道)を歩いていくとあります。そこには沢が流れており、パイプから水がちょろちょろと湧き出ているところもあって、ポリタンクを持参した人はそこで水を汲んでいます。このため水を汲むための行列ができることもあります。
 水場でも人が腰掛けられるようになっており、気場と同じようにリラックスしながら座っていると大地が発する気を取り入れることができると考えられているようです。同行した家人は、ずっと肩こりに悩んでいたのですが、ここへ来て肩こりが楽になったと喜んでいました。
 私はといえば、気を感じる能力がないことが再確認された次第です。しかしながら、気を感じることができないからといって気は存在しないのだと断言するのもどうかと思います。人間は紫外線や赤外線を見ることができませんが、それらはちゃんと存在するように、人間が観測することはできないけれどもちゃんと存在しているという場合もあるのです。ただし、それらはちゃんと存在しているということが立証されなければならないので、私にはゼロ磁場やパワースポットが確かに存在しているかどうかはわからないとしか申し上げることができません。(家人の肩こりが楽になったというのも、単なるプラシーボ効果にすぎないのかもしれません。実際のところはどうなのかわかりませんが。)

分杭峠に関する伊那市のサイト


 ちなみに、ゼロ磁場ということで、iPhoneのコンパスを眺めながらその辺を歩いてみましたが、コンパスは正常に磁北を指していました。ゼロ磁場だからコンパスも狂うだろうというのは私の早とちりで、地球には地磁気があるのですから、コンパスは北を指すのは当たり前です。それが狂うというのは、近くに強い磁気を帯びた物質があるからで、そうだとするとそれはゼロ磁場とはいいません。相反する磁力が衝突して互いに打ち消し合っているのがゼロ磁場なのですから、コンパスが干渉されることはないのです。
 気場で私の他にもコンパスを持った男の人がいて、地元の人らしき人がその人に向かって小石を渡し、コンパスの下に置いたところ針がくるくる回っているのがみえました。どうやら気場には弱いながらも磁力を持った物質があちこちにあるようです。だから、たまたまそういう物質の間に入り込んだときにコンパスの針がくるくる回るようになるというものなのでしょう。

 分杭峠に滞在すること1時間ちょっと。あまり長い間いるのはかえってよくないようなので、シャトルバスで麓に戻り、そのまま152号線を茅野市の方に向かいました。途中、杖突峠で高遠そば(蕎麦つゆに味噌をとかして食べる、いかにも山国らしい食べ物でした。)を食べてから、諏訪大社のうち下諏訪町にある下社秋宮に詣でた後で、すぐ前にある諏訪湖オルゴール博物館奏鳴館に寄りました。

奏鳴館のサイト


 オルゴールといえば、シリンダーがゼンマイ仕掛けで回転するものとばかり思っていましたが、アンティークなディスクオルゴール(ディスクを交換して違う曲を演奏することもできる)やパンチカード式のオルゴール(オルガニート)、さらにはストリートオルガンも展示されており、機械好きにはたまらない場所です。
 毎時30分にはアンティークなディスクオルゴールの演奏が行われ、それはきれいな音色を奏でていました。そのすぐ後で手回し式のストリートオルガンの体験演奏(入館者が順番にハンドルを回す)も行われます。ハンドルを回す早さによって曲のテンポも速くなったり遅くなったりするので、ストリートオルガンの演奏というのはけっこう難しいことが実感できました。

 ここの展示室の圧巻は若月まり子さん制作のジオラマ「夏の夜の夢」が回転式のオルゴールとして展示されていることです(巨大なガラスケースの内側に展示されているので曲を聴くことはできない)。この人のつくる妖精の人形には独特の存在感が漂っており、眺めていると思わずため息がもれてしまいます。

若月まり子さんのオフィシャルサイト



 自動車で朝の7時頃に新潟を出て、戻ってきたのは夜の9時過ぎでした。往復延べ690kmかかり、帰ってから猛烈な睡魔に襲われてそのままぐっすり朝まで寝てしまいました。
 いったいリフレッシュしに行ったのか、それとも疲れに行ったのかよくわからない一日でしたが、充実した一日であったことは間違いありません。


付記
 気場の急斜面はとても滑りやすくなっています。私が行ったときは、ヒールの高い靴を履いた女の人が来ていましたが、あの靴であの急斜面をどうやって登り降りしたのだろうと不思議でなりませんでした。また、ぺったんこのサンダルを履いた女の人、ビーチサンダルを履いたおじさんもいました。普通なら滑って歩けないだろうと思うのですが、パワースポットは超人的な力を授けてくれるのかもしれません。
 そういえば、ヒールの高い靴を履いた若い女の子は、20リットルのでかいポリ缶をキャリーカートに載せて引いていました。その姿から都会でキャリーケースを引いて歩いている女の子を連想したのですが、8割方水の入ったでかいポリ缶を載せたキャリーカートを苦もなく引いて砂利道(ゆるい上り勾配となっている)を帰って行く様はとても人間業とは思えず、何とも場違いでありました。
 パワースポットとは不思議なところですね。
by T_am | 2010-10-05 00:34 | 科学もどき