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カクレ理系のやぶにらみ

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時間のある方はお読みください。軽い気持ちで読み始めると頭が痛くなります。

カテゴリ:科学もどき

  • 災害発生確率と不作為がなぜ起こるのかについて
    [ 2011-10-19 23:32 ]
  • 電気自動車の盲点(2)
    [ 2011-05-24 22:33 ]
  • 電気自動車の盲点
    [ 2011-05-23 22:32 ]
  • 病気になるということ
    [ 2010-12-12 09:52 ]
  • 分杭峠のパワースポット
    [ 2010-10-05 00:34 ]
  • 因果関係と相関関係
    [ 2010-09-29 00:53 ]
  • 女の武器
    [ 2010-09-03 04:56 ]
  • 猛暑の原因
    [ 2010-08-27 21:25 ]
  • ハンカチやタオルの涼しい使い方
    [ 2010-08-11 23:44 ]
  • 「はやぶさ」の偉業
    [ 2010-06-15 21:28 ]
 今日の朝刊の⒈面に、東電は、福島第一原発において、原発の一般的な寿命と考えられる50年間に、被害を防げる想定の最大5.7mを上回る津波が来る確立を最大約10%、炉心溶融を引き起こす10m超の津波の確立も約1%と見積もり、2006年のフロリダの国際会議で発表した、という記事が載っていました。
 記事の文脈は、このような評価結果が2006年に出されていながら東電がそれを生かしていなかったというものになっています。
 それから5年しか経っていないにもかかわらず、メルトダウンが起こるような津波が発生したわけですから、東電の不作為が責められるのは致し方ないと思います。

 そこで今回は災害発生確率をどう理解したらいいかについて考えて見たいと思います。

 まず確認しておきたいのは、確立というのは本来無時間モデルであるということです。さいころを1個振って1の目が出る確率は6分の1ですが、その場合時間という要素は考慮されていません。無時間モデルとはそういう意味です。
 06年の評価の算出方法は、原発の一般的な寿命である50年間で想定外の津波が発生する確率を求めているわけですから、これも無時間モデルであるといえます。というのは、原発の耐用年数の間に1回でも想定外の津波が発生する確率を計算しているのですから。

 そうなると、10%という確立が高いか低いかという判断になるわけですが、文化系の経営者にとっては100%に対する10%という考え方をしがちです。すなわち、発生しない確率は90%もあるのだから、まずそんなことは起こらないだろうと考えてしまうということです。ところが、技術者にとって10%という数値は看過できる値ではありません。技術者にとってはシステムが正常に稼働するのが当たり前です。したがって、事故や故障によってシステムがダメージを受ける可能性がわずかでもあった場合、なんとかしてそれを排除しようという発想をするのが普通であり、良心的な技術者であるといえます。
 さらにいえば、50年間というのは人間にとって長い年月であるともいえます。東電に限らず、大きな組織の管理者というのは自分の在職中は問題が起らなければそれでいい、という考え方をするものです。というのは、将来問題が発生するかもしれない要因があることを発見しても、それを解決するためには多くの手間とコストがかかることが明らかな場合、その問題に取り組んでも褒められないとわかっているからです。
 大きな組織で働く人間の考え方は、何も問題が起こらないのがベストであり、何か問題が起こった場合、自分には責任がないことを証明することを優先して考えるものです。問題を解決したとしても、関心は、責任の所在はどこにあるかというところにあり、解決したことに対する評価は意外と低いものです。まして、将来起こるかもしれない事故に対して、予防的に取り組んでも誰も評価してくれません。評価の対象はどれだけ収益をあげたかというものですから、進んで貧乏くじを引こうとする人間はよほどのお人好し(というか、はっきりいって「バカ」)であるというふうに思われているのです。
 当時の東電の社内でも同じような風潮があったのだと思います。だから、こういう評価報告が上げられても組織として対応することがなかったのでしょう。どうやら、企業経営もいつの間にか無時間モデル(あるいは近視眼的)になってしまっているようです。大切なのは1年もしくは四半期という単位の中でどれだけ収益を上げたかであって、津波対策のような収益に結びつかない投資は誰もやりたがらないのです。

 既に述べたように、確立は本来無時間モデルの事象を扱うものですが、災害発生確率の場合、地震発生確率でおなじみのように数十年単位での確率として発表されます。実をいうと、一般市民にとってこのような確率には意味がないと私は考えています。
 災害発生確率ではありませんが、降水確率を例に考えて見ましょう。昔の天気予報は晴れか雨か曇りかというシンプルな物でした。それだけに当たらないことがけっこうあったのですが、降水確率という発表のしかたに改めたことによって、天気予報が外れるということは基本的にはなくなってしまいました。というのは、降水確率10%という発表があった場合、雨が降れば10%の範囲にあったということになりますし、雨が降らなければ90%の範囲内ということになるので、降っても降らなくても外れたことにはならないのです。

 これは降水確率が60%であっても同じことです。

 したがって、降水確率とは、雨が降るか降らないかではなく、雨が降りやすいか降りにくいかを判断する目安にすぎないというふうに理解した方がよいと思います。そのうえで、傘を用意して出かけるかどうかは自分で判断しなければなりません。

 それでよいのだと私は思います。

 今日ははたして雨が降るのかについて、ある程度の材料が提供されていれば自分で判断することができます。他人に判断してもらって、外れたらその人を責めるというのは大人のすることではありません。にもかかわらず、他人の判断を無条件で受け入れるというのは、詐欺に引っかかりやすいタイプの人であるといってよいでしょう。

 冒頭に述べたように、災害発生確率が0%でない場合、技術者にとってそれは見逃すことのできない数値となります。しかし、技術者でもない一般の人にとってはどうしたらよいかわからないという類のものでしかありません。
 地震発生確率(今後30年間で地震が発生する確率)は、日本中のどこにいてもだいたい数パーセントという数値となっています。地震が怖いのは震度6を超えた場合であり、それ以下であれば(普通の家屋の中にいる限りは)たいした被害はおこりません。高層ビルの場合は、長周期振動によりビルが共振することがあるので、危険な場合があります。したがって高層マンションに住んでいる人でもなければ、大事なのは、自分が住んでいる地域で震度6以上の地震が起こるかどうかということなのですが、地震発生確率はその疑問に答えてはくれません。
 一般の人にとって意味がないという理由のもうひとつは、30年や50年というスパンは長すぎるということです。仮に、海沿いに住んでいる人の地域で、今後30年以内に津波が発生する確率が10%以上あるという発表があったとして、高台に引っ越すという人がどれだけいるでしょうか? それよりは、「この地域は過去に千年周期で10メートルを超える津波が発生しており、前回津波が記録されたのは800年前である。ゆえに津波に対する備えをしておくことが望ましい、」といわれた方がより真剣に耳を傾けるのではないでしょうか。

 東日本大震災の後で、家具の転倒防止装置などの地震対策グッズが売れていると聞きます。自分が住んでいる地域の避難先がどこになるのか確認された方もいらっしゃると思います。このような行動は間違っているとは思いません。日本は地震国である以上、どこかで震度6を超える巨大地震が発生する可能性は誰にも否定できません。もしかしたら自分の住んでいる地域では震度4か5くらいで収まるかもしれませんし、そうでないかもしれません。それならば、地震に対する備えは怠らないようにしようと考える方が賢明だと思います。
 今後もなにかの拍子で災害発生確率が発表されることがあると思います。それは、日本のいつかどこかで大きな災害が起こるということであってそれ以上のことはわからないのですから、慌てる必要はないと思います。個人においては、災害時の備えをしておくこと、行政や研究所においては災害発生確率の算出にリソースを費やすよりも、過去に起こった災害で、どこでどれくらいの被害が起きたのかを調査することに費やした方がはるかに有用であると思います。

 災害発生確率を取り上げる際に、浜岡原発に対する菅前総理の停止要請を避けて通ることはできません。その根拠として、今後30年間でマグニチュード8.0の地震が発生する確率が87%である、ということがいわれました。このときは、87%という高い確率の根拠について検証されることはありませんでした。
 東海地震が起こるということはだいぶ前からいわれていました。浜岡原発はその真上にあるわけですから、実際に巨大地震が起こったときに浜岡原発が受ける被害は深刻なものになる恐れがあります。たとえ津波が襲ってこなくても、震度6を超える揺れに襲われると原子炉内部の配管が損傷するということは今回の福島第一原発の事故で明らかになったと思います。したがって浜岡原発が日本で最も危険な原発であるという指摘は間違いではないといえます。
 菅前総理の停止要請は、その懸念を突いたものでした。それゆえに、87%という根拠不明な確率について十分吟味されることもなく、原発の停止が行われたのです。確率が87%でなく、8.7%であったとしても、巨大地震が起きたときに浜岡原発が被害を受けることに変わりはありません。問題点は巨大地震が起こるか起こらないかではなく、日本の原発は巨大地震が起きたときに間違いなく被害を受けるような設計しかされていないというところにあります。そのような説明をせずに、唐突に浜岡原発だけを止めようとしたのが菅前総理でした。さらに悪いのは、中部電力による防潮堤建設を承認したことです。それによって、福島第一原発事故原因は津波によつ全電源喪失であると決めつけることになってしまいました。
 はっきり申し上げますが、このような確率の用い方は邪道であり、人の不安に付け込む霊感商法の教祖と何ら変わりはありません。(原発の危険性を指摘するのであれば、日本中の原発を止めさせるべきでした。)一国の総理大臣という要職にある人間がそれを行ったのですから、管直人という人は戦後最低の総理であったと申し上げなければなりません。

付記
 菅前総理がSPを連れてお遍路に出かけたことに対する非難がありました。いくら戦後最低の総理だったとはいえ、そのような非難は的外れであると思います。法律の規定こそありませんが、総理経験者にはSPがつくことになっています(その代わり家族にまではつかない)。心の傷(総理大臣というのはそれだけ割の合わない仕事です)を癒すためにお遍路に出かける権利まで奪う権利は誰にもありません。
by T_am | 2011-10-19 23:32 | 科学もどき | Trackback | Comments(0)
 前回、電気自動車の盲点について書き込みをしたところ、私の友人たちが次のような指摘をしてくれました。

 電気自動車は、交換バッテリータイプにして、バッテリーの共有化、コンビニ充電したバッテリーと交換できるようなシステムの構築をすれば、安心なのです が・・・
 ガソリンを買うように。
 電気自動車購入者は、予備バッテリーを強制的に購入してもらい、システムの中に預けておく等も必要かな。
 ニワトリが先か、タマゴが先か?
(以上、アラカワさんの指摘)

まったくそのとおりです。
イスラエルで実証実験がスタートしました。
そのシステムはそのとおりのかたちです。
①バッテリーを交換する。
②急速充電する
③観測充電する
の三択から電気供給スタンドで選びます。
スイスとドイツでも始まりました。
日本でもスタートしないかなあ。
(以上、セイヤさんの指摘)
 


 発想の転換ですね。感服しました。
 電気自動車といっても実は電池で動くのであり、電池がなくなれば動かなくなります。だったら電池がなくなる前に「電池ごと交換すればいい」という発想は素晴らしいと思います。
 私のような凡人は、充電しなければ電池は使えないと考えてしまいます。でもスタンドに寄って、あたかもガソリンを給油する感覚で充電済みの電池と交換すれば、そのまま走り続けることができるわけです。すなわち、どれだけ電気を使おうとも気にする必要はないということですから、実現すれば電気自動車の普及に大きく寄与することになると思います。
 その代わり、現在設置が進められている無料の充電スタンドは意味を為さなくなるように思います。というのは、電気自動車の普及率が高まれば高まるほど、無料の充電スタンドは、1時間待ち・2時間待ちといったように不便になるからです。しかも、よく考えてみると、充電スタンドの場合、自分の順番が来るまでの時間待たなければいけませんし、ようやく順番が回ってきたとしても、充電完了までの時間待たなければなりません。
 このような施設は電気自動車のユーザーにとっては不便極まりないといえます。また、充電スタンドが1日に供給できる電気自動車の台数は限られます。ゆえに、ビジネスとしてみたときに、無料の充電スタンドいうのは設備投資とコストの回収が見込めない状況に陥る可能性が高いといえます。
 あとは1回のバッテリーの交換費用と走行距離、すなわち燃費がユーザーにとってメリットがあるかどうか、ということに尽きると思います。
 現在、行政が設置を進めている無料の充電スタンドというのは、いってみれば慈善事業のようなものですから、設置者に無理を強いるようなものです。このようなモデルがいつまでも続くとは思えません。ゆえに、このようなモデルを追求する限り、日本の電気自動車の普及は早晩行き詰まると思われます。
 そういうことを気づかせてくれる、目からウロコのような指摘でした。やはり、持つべき者は友だちであると思いました。
by T_am | 2011-05-24 22:33 | 科学もどき | Trackback | Comments(0)
 自動車はガソリンか軽油で動きます。これに対して電気自動車は電池に蓄えられた電気がエネルギー源となっています。現在のところ、この違いはとても大きなものがあります。

 自動車はガソリンや軽油を爆発的に燃焼させてエンジンを回すことで動きます。エンジンの回転は、車輪だけでなく発電機とコンプレッサーも回します。発電機はバッテリー(始動時のセルモーターを回す電源)を充電するだけでなく、ライトやウィンカー、オーディオといった電装品を動かす電気を供給します。また、コンプレッサーが回ることでエアコンをつけることができますから、夏の暑い日でも快適に走ることができます。さらに、自動車のヒーターはエンジンの排熱を熱源としています。化石燃料というのは、それだけパワーを持ったエネルギー源なのです。

 これに対して電気自動車のエネルギー源は電池に蓄えられた電気だけです。その電気が全部モーターを回すことに使われるのであれば、1回の充電で走ることのできる距離は長くなります。ところが、この電気がライトやヒーター、エアコンなどを動かすエネルギー源として使われることになると、走行距離はその分だけ短くなります。特に冬場のヒーターとなると、電気ストーブ(家庭で使うと電気代が高くなる)で熱した空気を扇風機で車内に送り出すようなものですから、かなり電気を喰うであろうことは容易に想像できます。

 その分だけ走行距離は短くなるのですから、ユーザーはまめに充電しなければならないということになります。

 省エネのためと称して電気自動車を購入した地方自治体がありますが、もしかしたら今頃臍をかむ思いをしているかもしれません。ガソリン車やディーゼル車の感覚で、エアコンやヒーター、オーディオをガンガンかけて走っていると、バッテリーの残量がみるみるうちに減っていくのですから。
 充電スタンドはまだ珍しい方ですから、不幸にしてバッテリー切れで立ち往生するとレッカー車に来て貰わなければなりません。すぐ近くまで行くというのであればともかく、ちょっと遠出をするときは、いつ止まるかわからないという恐怖と背中合わせで運転しなければならないのです。
 かくして、電気自動車に乗るには次の心得が要求されるようになるかもしれません。

・ヒーターはつけない(我慢する)
・エアコンはつけない(我慢する)
・カーステレオやラジオもつけない(我慢する)
・夜間のライト。これは点けないわけにはいきません。その代わり、電気自動車の夜間使用禁止とするところも出てくるかもしれません。
・シガーライター(使用禁止。どうせソケットのみでライターはオプションでしょうから。)
・カーナビ(そもそも装備されているのでしょうか?)

 ここに書いたことは、バッテリーの容量が劇的に改善されれば解決します。技術の進歩というのは侮れないものがありますから、今は世の中に存在していなくても10年単位で見たときに、いつの間にか登場しているということが起こりうるのです。
 そうはいっても、いくらエコだからといって、今すぐ電気自動車に飛びつくのは大変な苦行を強いられるという覚悟が必要であると申せましょう。
 そういうものだと知っていて購入するのと、知らないで買うのとでは天と地ほども違います。
 新製品というのは、出始めの頃は価格も高く性能も劣ります。庶民が手を出すのは、広く普及してからで十分だと思うのですが、いかがでしょうか?
by T_am | 2011-05-23 22:32 | 科学もどき | Trackback | Comments(0)
 ここ一週間ばかり風邪気味の状態が続いています。寒気がする。喉が痛い。いずれも極軽い症状であり、熱も上がらなければ咳も出ないというものなので、身体が温まるものを食べて、風邪薬を呑んで早めに寝るということを続けています。以前であれば、一晩で治ったのですが、なかなか治りません。これも歳をとったということなのでしょうか。
 おかげで、病気になるとはどういうことなのかが少しわかったような気がします。

 人間の身体は絶えず病気の元となる細菌やウィルス、微生物の攻撃に晒されています。それを防いでいるのは私たちが持っている免疫などの防御機能のおかげであり、防御機能の方が優勢であれば病気になることはありません。
 ところが、何かのきっかけで防御機能の方が相対的に劣勢になると、病気が発症することになります。
 したがって、病気になりたくなければ、防御機能を援護することを意識して毎日を過ごすに超したことはありません。すなわち、深酒や夜更かしはしない。その日の疲れは翌日に残さない。きちんと栄養のバランスの取れた食事をする。等々・・・
 
 脳には、ゆっくりと進行する身体の変化を感じ取る能力は低いといえます。たとえば、歳をとって若い頃のようには身体が動かなくなっているにもかかわらず、脳だけはあいかわらず若い頃のように身体を動かそうとします。そうなると、脳の命令に身体がついていけないことになりますから、転んだり途中で息が切れたりするわけです。
 フィギュアスケートの浅田真央選手がこのところ不調に喘いでいますが、その原因は浅田選手の身体が少女から大人に変わりつつあり、脳と身体の同期にずれが生じているのではないかと思うのです。(同じ不調は安藤美姫選手も経験しました。)

 人間の身体の防御機能は常に一定の水準を保っているというわけではありません。その時の体調によっても変化しますし、年齢を重ねるにつれ少しずつ衰えていきます。しかし、脳はそのことに気づかないので、今までと同じ生活スタイルを維持しようとします。それが続くと身体に疲労が少しずつ蓄積されていき、防御機能を低下させることになります。そうして、細菌やウィルスの攻撃力が防御機能を凌駕するようになったときに病気に罹るわけです。
 ここではっきりしていることは、どのように健康に留意していたとしても、人間はいつか死ぬということです。異なるのは、病気で死ぬか、事故で死ぬか、あるいは老衰で死ぬかという死因の違いしかありません。

 それでも、生き延びる可能性があるのであればそれを追求するというのは決して悪いことではないと思っています。

 私たちは、もしかすると、病院というのは病気を治してくれるところであると思っているのかもしれません。たしかに、医者や薬の力を借りなければ助かるものも助からないという病気はいくらでもあります。しかし、よく考えてみると、外科的手術というのは患部を取り除くということであり、薬を服用するというのは病気の元となっているウィルスや細菌、微生物を弱らせるか、あるいは衰えてしまった身体の調節機能を補完する(血糖値や血圧を下げるなど)ことが目的です。それ以上のことはできません。あとは自分自身で治していくしかないのです。
 
 そうすると、病気にかからないようにするのが一番ですが、万一病気に罹ったときは早期発見早期治療というのが重要となります。
 なんだか身体の調子が思わしくなく、何らかの症状が現れているときは迷わずに病院へ行って検査をしてもらった方がいいと思います(検査というのは病気に罹っているかどうかを判断するために行うものであり、病気が見つかった場合、治療を行うということが前提となっています)。現代の医学では、ほとんどの病気は適切なタイミングで適切な治療を行えば治るといっていいのですから、仕事が忙しいとか、私がいないと家族に迷惑をかけるという逡巡はそれだけ時間を失うことにつながります。その間に病気は進行していくのですから。
 検査の結果、病気に罹っていることが明らかになった場合は治療に専念すると割り切るべきでしょう。入院というのは世間から強制的に隔離することで治療に専念してもらおうという手段です。仮に、入院するほどではないと診断されても、病気であることに違いはないのですから、そのことを意識した生活をすることが重要です。
 ところが、そのことを忘れて健康だった頃と同じような生活スタイルを続ける人が多いのですね。結局、病気が進行し、喪わなくてもいい命を喪うことになるのです。

 日本の平均寿命が世界一であるといわれて久しいのですが、最近亡くなる人の年齢をみていると、まだ若いのに、と思う人がけっこういるのも事実です。
 病気治療に専念するということは、それを最優先で行動するということです。治療中でもダイエットを続ける人がいるとは思われませんが、病室に仕事を持ち込むビジネスマンはけっこういるようです。しかし、戦力を一点に集中させ決して分散させないというのは戦争だけでなくビジネス一般にも通用する原則です。治療中、中途半端に家事や仕事をするくらいなら、早く治して復帰する方がよほどマシだと思いませんか?

by T_am | 2010-12-12 09:52 | 科学もどき | Trackback | Comments(0)
 この前の日曜日、長野県伊那市にある分杭峠に行ってきました。中央構造線という相反する磁界を持った地層がぶつかり合うがゆえに、見かけ上エネルギーがゼロになっているけれども実際は2つの強い力が加わっている「ゼロ磁場」といわれるところなのだそうです。パワースポットという言葉は、大地のエネルギーが湧き出ているところという意味のようで、分杭峠のパワースポットということでテレビでも取り上げられたこともあって大勢の人が訪れていました。
 分杭峠までの国道152号線は幅員が狭く、峠には駐車場としての充分なスペースがないにもかかわらず大勢のマイカーが訪れて交通渋滞がひどくなったために、現在は分杭峠の駐車場は一般車両の駐車は禁止されています。このため分杭峠を訪れるには、高遠市街寄りの麓に設けられている専用駐車場(無料)に車をおいて峠までシャトルバスで往復することになります。
 分杭峠には気場と呼ばれるところと水場と呼ばれるところがあり、どちらへ行くにしてもシャトルバスの降車場からちょっとだけ歩かなければなりません。気場の方は急斜面に腰掛けるための角材が何列も埋め込まれており、上の方へ行くためには張ってあるロープにつかまりながら昇っていくことになります。結構な急斜面ですから、雨が降ったときのぬかるみは相当なものがありそうです。
 気場にはちょっと変わった看板が掛けられており、それは「最近、気功師でもなく整体師でもないのに、女性の体にふれようとする男が出没することがあるので気をつけてください」という内容のもので、これを読んだときは思わず笑ってしまいました。
 分杭峠を訪れた人は、最初に気場へ行き(手すりのある坂道を下っていく)、そこでしばらく座って全身に気を浴びた後で水場の方に向かうというコースを辿るようです。水場は、降車場の上にある「これより北高遠領」と書かれた石碑の左側にある砂利道(林道)を歩いていくとあります。そこには沢が流れており、パイプから水がちょろちょろと湧き出ているところもあって、ポリタンクを持参した人はそこで水を汲んでいます。このため水を汲むための行列ができることもあります。
 水場でも人が腰掛けられるようになっており、気場と同じようにリラックスしながら座っていると大地が発する気を取り入れることができると考えられているようです。同行した家人は、ずっと肩こりに悩んでいたのですが、ここへ来て肩こりが楽になったと喜んでいました。
 私はといえば、気を感じる能力がないことが再確認された次第です。しかしながら、気を感じることができないからといって気は存在しないのだと断言するのもどうかと思います。人間は紫外線や赤外線を見ることができませんが、それらはちゃんと存在するように、人間が観測することはできないけれどもちゃんと存在しているという場合もあるのです。ただし、それらはちゃんと存在しているということが立証されなければならないので、私にはゼロ磁場やパワースポットが確かに存在しているかどうかはわからないとしか申し上げることができません。(家人の肩こりが楽になったというのも、単なるプラシーボ効果にすぎないのかもしれません。実際のところはどうなのかわかりませんが。)

分杭峠に関する伊那市のサイト


 ちなみに、ゼロ磁場ということで、iPhoneのコンパスを眺めながらその辺を歩いてみましたが、コンパスは正常に磁北を指していました。ゼロ磁場だからコンパスも狂うだろうというのは私の早とちりで、地球には地磁気があるのですから、コンパスは北を指すのは当たり前です。それが狂うというのは、近くに強い磁気を帯びた物質があるからで、そうだとするとそれはゼロ磁場とはいいません。相反する磁力が衝突して互いに打ち消し合っているのがゼロ磁場なのですから、コンパスが干渉されることはないのです。
 気場で私の他にもコンパスを持った男の人がいて、地元の人らしき人がその人に向かって小石を渡し、コンパスの下に置いたところ針がくるくる回っているのがみえました。どうやら気場には弱いながらも磁力を持った物質があちこちにあるようです。だから、たまたまそういう物質の間に入り込んだときにコンパスの針がくるくる回るようになるというものなのでしょう。

 分杭峠に滞在すること1時間ちょっと。あまり長い間いるのはかえってよくないようなので、シャトルバスで麓に戻り、そのまま152号線を茅野市の方に向かいました。途中、杖突峠で高遠そば(蕎麦つゆに味噌をとかして食べる、いかにも山国らしい食べ物でした。)を食べてから、諏訪大社のうち下諏訪町にある下社秋宮に詣でた後で、すぐ前にある諏訪湖オルゴール博物館奏鳴館に寄りました。

奏鳴館のサイト


 オルゴールといえば、シリンダーがゼンマイ仕掛けで回転するものとばかり思っていましたが、アンティークなディスクオルゴール(ディスクを交換して違う曲を演奏することもできる)やパンチカード式のオルゴール(オルガニート)、さらにはストリートオルガンも展示されており、機械好きにはたまらない場所です。
 毎時30分にはアンティークなディスクオルゴールの演奏が行われ、それはきれいな音色を奏でていました。そのすぐ後で手回し式のストリートオルガンの体験演奏(入館者が順番にハンドルを回す)も行われます。ハンドルを回す早さによって曲のテンポも速くなったり遅くなったりするので、ストリートオルガンの演奏というのはけっこう難しいことが実感できました。

 ここの展示室の圧巻は若月まり子さん制作のジオラマ「夏の夜の夢」が回転式のオルゴールとして展示されていることです(巨大なガラスケースの内側に展示されているので曲を聴くことはできない)。この人のつくる妖精の人形には独特の存在感が漂っており、眺めていると思わずため息がもれてしまいます。

若月まり子さんのオフィシャルサイト



 自動車で朝の7時頃に新潟を出て、戻ってきたのは夜の9時過ぎでした。往復延べ690kmかかり、帰ってから猛烈な睡魔に襲われてそのままぐっすり朝まで寝てしまいました。
 いったいリフレッシュしに行ったのか、それとも疲れに行ったのかよくわからない一日でしたが、充実した一日であったことは間違いありません。


付記
 気場の急斜面はとても滑りやすくなっています。私が行ったときは、ヒールの高い靴を履いた女の人が来ていましたが、あの靴であの急斜面をどうやって登り降りしたのだろうと不思議でなりませんでした。また、ぺったんこのサンダルを履いた女の人、ビーチサンダルを履いたおじさんもいました。普通なら滑って歩けないだろうと思うのですが、パワースポットは超人的な力を授けてくれるのかもしれません。
 そういえば、ヒールの高い靴を履いた若い女の子は、20リットルのでかいポリ缶をキャリーカートに載せて引いていました。その姿から都会でキャリーケースを引いて歩いている女の子を連想したのですが、8割方水の入ったでかいポリ缶を載せたキャリーカートを苦もなく引いて砂利道(ゆるい上り勾配となっている)を帰って行く様はとても人間業とは思えず、何とも場違いでありました。
 パワースポットとは不思議なところですね。
by T_am | 2010-10-05 00:34 | 科学もどき | Trackback | Comments(0)
 今日のニュースで、受動喫煙によって肺がんや心筋梗塞で死亡する人は年間およそ6800人に上るという報道がされていました。国立がんセンターの研究グループの発表によれば、たばこを吸わずに肺がんや心筋梗塞で死亡した人を「受動喫煙」の有無によって2つのグループに分けて比較したところ、こうした病気で死亡する危険は受動喫煙がある方がない方に比べ1.3倍程度高まることがわかったとのことです。これを国内の統計に当てはめて分析すると、受動喫煙の影響による死亡者数は肺がんでは女性でおよそ1500人、男性でおよそ650人、心筋梗塞では女性でおよそ3100人、男性でおよそ1600人と推計されるということだそうです。これらを合計するとおよそ6850人となりますから、控えめに見ても年間およそ6800人の人が受動喫煙の影響によって肺がんや心筋梗塞で死亡していると推計できるというものです。
 折しも10月1日からたばこの値上げが行われることになっており、まことに「タイムリー」な報道であると申せましょう。

 ところで、こういうニュースでいつも思うのは、メディアは調査の結果だけを伝えますが、どのようにしてその結果が導き出されたかについてはまったく報道しないということです。発表者が国立がんセンターの研究グループだから間違いはないということなのでしょうか? しかし、このような数字は常に推論に過ぎないのですから、その計算方法に誤りはないかを検証するというプロセスがなければなりません。ところがメディアはそのようなプロセスを常に無視しているのですから、これでは情報の垂れ流しであると批判したくなるというものです。
 
 現時点では、肺がんや心筋梗塞で亡くなった人について喫煙習慣の有無を尋ねれば、喫煙者(あるいは過去に喫煙習慣があった人)の方が、そうでない人よりも多い結果になるはずです。というのもかつては喫煙者の方が多かったからです。
 どういうことかというと、あと30年もして同じ調査をすれば、肺がんや心筋梗塞によって死亡した人の中では喫煙習慣のある人の方が少ないという結果が出るはずだからです。なぜならば、既に喫煙者の方がはるかに少なくなっているからです。厚生労働省によれば、平成20年の調査では喫煙率は21,8%にまで下がっています。

http://www.health-net.or.jp/tobacco/product/pd100000.html

 絶対数が減っているのですから、肺がんや心筋梗塞で死亡する人の数もそれだけ減るのは当たり前です。逆に喫煙しない人は78.2%もいるのですから、そのうち肺がんや心筋梗塞によって死亡する人の絶対数は喫煙習慣のある人たちよりも増えるのが当然であるということなのです。
 30年後喫煙者と非喫煙者とでは、非喫煙者の方が肺がんや心筋梗塞で死亡する人の方が多いという結果になったときに、「これはすなわち非喫煙者の方が肺がんや心筋梗塞になりやすいといえるのだから、健康のためにたばこを吸うようにしましょう。」こういう主張も論理的には成立することになります。

 「そんなバカなことはない!」 そう思うでしょ。でもそういう結論を論理的に導き出すことは可能なのですよ。
 今回はそのことを申し上げてみたいと思います。

 このような常識に反する論理が帰結する理由は、因果関係と相関関係を混同しているからです。因果関係というのは、2つの出来事の間に原因と結果の関係がある場合をいいます。たとえば、スイッチを入れたらテレビがついた、というのは因果関係です。この場合、スイッチを入れなければテレビはつかない、といいかえることもできます。
 これに対して、相関関係というのは2つの出来事の間に、片方がもう一方に影響を与えているかのように見える関係をいいます。
 たとえば「夏の気温が上がればビールの販売数量が増える」というのは相関関係です。相関関係というのは見かけの関係ですから、「ビールの販売数量が増えると熱中症患者の数も増える」といっても間違いではありません。

 しかし、2つの出来事の間に相関関係があるからといって、因果関係があると断定することはできません。
 たとえば、次のようなケースはその誤りの典型的な例です。

1.ビールの販売数量が伸びると熱中症患者の数も増える。
2.したがって、ビールが熱中症の原因である。

 この場合では、ビールの販売数量と熱中症患者数の双方に影響を与えている要因として気温の変化があるわけですが、敢えてそれを無視して論理を展開するとこのような暴論がまかり通ることになるのです。
 ただし、これなどは比較的単純な事例ですから、嘘を見破ることは容易なのですが、人間の社会にはもっと複雑な要因が絡み合っているという事例はいくらでもあります。病気もその典型的な事例であって、たばこだけが危険因子というわけではないはずです。危険因子として他に考えられるのは、飲酒、ストレス、運動不足、薬物による副作用、生活習慣などがあげられます。
 医学や生物学では、このような場合他の因子の干渉を排除するために、対照実験といって、ある特定の要素が存在するグループと存在しないグループに分けて、それ以外の要素はまったく同じという状況をつくりだして経過を観察するということを行います。その結果、両方に異なる状況が認められれば、その要素は原因であると考えることができるのです。
 今回の国立がんセンターの発表した内容は、どのような手法に基づいて導き出されたものなのかわからない以上、その当否を検証することは不可能です。それでも対照実験を行ったわけではないらしいということは推測できます。いずれにせよ、検証できない結論を聞かされたときは、「ふーん、そんなもんかね。」と聞き流しておくのがいいのです。誠実な学者であれば、自分の手法を公表して他人が追試できるようにしますから、それによって検証されるのを待っていればいいのです。


追記
 ニュースの中で、「危険がおよそ1.3倍程度高まる」という表現がありました。これを数字で表現すると、受動喫煙の経験のない人の死亡者数割合43.5%、受動喫煙の経験者の死亡者数割合56.5%であるということになります。(0.435×1.3≒0.565)
 その差は13.5ポイントです。単純に割合を提示するよりも、「1.3倍危険」といった方がインパクトが強いのでこのような表現をしたものと思います。修辞法としてはアリかもしれませんが、科学者が用いる表現方法としてはいささか不適切なような気がします。
by T_am | 2010-09-29 00:53 | 科学もどき | Trackback | Comments(0)
 毎朝の化粧を怠る女の人はまずいません。また、太らないように気をつけている人も多いことでしょう。その割にご自分の姿勢に無頓着な女の人が実に多いように思えます。
 中学生の中には歩き方に無頓着な女の子をときどき見かけます。肩を落として猫背のまま足を伸ばさずに疲れ切ったような歩き方をする娘がいるのです。蝶にたとえればまだ青虫といった段階ですから仕方ないのですが、これが高校生になって思いっきり短いスカートを穿くようになると歩き方が変わるのが面白い。猫背は治らないまでも、足を伸ばして歩くようになるので、足がすらっと長く見えるのです。

 以前も申し上げたことがあるのですが、女の人が背筋を伸ばして肩を後ろに引くようにするだけで美しさが2-3割アップします。というのも、バストアップするので胸の形がよくなりますし、背中からヒップにかけてのラインのS字型が強調されてとてもセクシーに見えるからです。

 せっかく太らないように気をつけ、毎朝の化粧にも精を出し、胸の形をよくする高機能ブラをつけているのですから、これで姿勢が悪いままでは九仞の功を一簀に虧く(きゅうじんのこうをいっきにかく。長い間努力を積み重ねてきても最後の詰めを怠ったことで失敗し無駄になってしまうという意味)というものです。実にもったいない。
 女の人が身につけるものは洋服(もちろん下着も含みます)であろうがアクセサリーであろうがすべて共通した目的によってつくられていて、それは「自分をきれいに見せる」ということに尽きます。これらは魔法の呪文といっしょで、一度唱えればその効果が持続するというお手軽さがあります。
 ところが、既にお気づきのように、姿勢をよくするというのは絶えず意識していなければなりません。それだけ難しいことなので、きれいな顔をした人はいくらでもいますが、姿勢がいい女の人というのは本当に少ないのです。ダイエットが長続きしないのと同じで面倒くさいからですね。

 でも、ものは考えようであり、誰もやっていないということは、もしもそれをやる女の人が現れればその人は他の誰よりも有利になるということでもあります。お金儲けをしたければみんなと同じことをやっていてもダメなように、好きな男をゲットするには競争相手がまだやっていないことをした方がアドバンテージは大きいのです。

 動物の雌の中には雄を惹き付けるフェロモンを分泌するものがいます。人間の場合フェロモンがあるかどうかはわかりませんが、視覚が決定的に重要であることは女性の皆さんはどなたも経験的によくご存知のはずです。女の人がきれいになれば、男も女を大事にします。せめて好きな男の前では姿勢をよくするということを心がけたほうがいいと思うのですが、いかがなものでしょうか。
by T_am | 2010-09-03 04:56 | 科学もどき | Trackback | Comments(0)
 猛烈な残暑が続いています。これを地球温暖化の影響であると考える人もいるようですので、今回は今年の猛暑の原因について申し上げたいと思います。

 結論をいってしまうと、猛暑の原因は日本近海の海面水温が平年よりも高くなっていることだといえます。その証拠をお目にかけましょう。この図は気象庁が公表している今年7月の日本近海と北西太平洋の海面水温が平年値とどれだけ乖離しているかを表示したものです。






 ご覧のように九州南部では平年よりもやや低いものの、それ以外の日本近海では軒並み平年以上の海面水温を記録しています。(グレーは陸地。白は平年+1度未満を表しています。)
 その実際の温度はどうだったかを示したものが次の図です。





 日本の南側海上は軒並み真っ赤であることがわかります。これだけ真っ赤なわけですから、暑い夏になるのも当然であると感覚的に理解していただけるのではないかと思います。


 では、なぜ海面水温が高いと気温が上昇するのかといえば、真冬の風呂場が決して寒くないのと同じ理由によるものです。すなわち、浴槽のお湯が風呂場の空気を暖めているので寒さを感じないのです。
 ちなみに、今年五月の海面水温はどうだったかを示したものが次の図です。





 7月のデータとは一転して、日本近海は軒並み平年以下であったことがわかります。実際のところ今年の5月は寒い日が続き、作物の生育が心配されるほどでした。
 このように海面水温が日本の気温に大きな影響を与えることがお分かりいただけると思います。
 
 なぜ海面水温が平年よりも上昇しているかというと、CO2による温室効果が原因ではないことは明らかです。温室効果が原因であるならば5月の日本近海の海面水温が平年以下となるはずがありません。むしろ平年以上にならなければならないのです。
 お風呂を沸かすのに、風呂場にストーブを持ち込んで一生懸命空気を暖めるということは普通しません。風呂釜に火をつけて直接水を暖めたほうが早いからです。
 それでは海面水温を上昇させる最大の要因は何かというと、それは太陽の輻射熱です。何らかの事情で晴天の日が続けば、それだけ海面は暖められるので、水温は上昇します。その結果日本では暑い夏となるのです。

 ちなみに海面水温が高くなれば、それだけ蒸発する水分が増えることになりますから、暖かく湿った空気が日本に流れ込むことになり、各地でゲリラ豪雨を引き起こしていると考えられます。

 今年の猛暑発生の原因は今申し上げた通りですから、地球温暖化とは関係ありません。したがって、CO2の削減に努力しても未来における猛暑の発生を食い止めることはできません。
 同じエネルギー(お金と労力)を費やすのであれば、CO2の削減に努力するよりは災害予防に力を入れた方がよほど社会のためになるというのはそのためです。


追記
 今年の猛暑が平均気温を押し上げることになるのは間違いありません。それを「地球温暖化」と呼んでいるのであり、その原因は何もCO2などによる温室効果だけではないことがお分かりいただけると思います。むしろ海面水温の変動の方が気温に与える影響は大きいのです。
 ついでに申し上げておくと、台風というのは北西太平洋に貯まった熱エネルギーによって発生します。台風もエネルギーの塊(ただし熱エネルギーが風のエネルギーに変換されています)ですから、それが日本を通り過ぎて行くことにより、エネルギーを途中で放出しているといえます。このように地球規模では、偏ったエネルギーの分布を拡散させて均一化させようとするメカニズムが台風であると考えることができます。
 また、台風による風は波を起こします。それによって海面が撹拌され、下のほうにある冷たい海水とかきまぜることになりますから、海面水温はそれだけ下がることになります。
 そうなると気温も少し下がることになり、日本列島はこうして秋を迎えていくことになります。しかし、今年の場合、台風に発生件数が例年に比べて少ないので、この猛暑はまだ当分続くと覚悟した方がよさそうです。



今回引用した図は気象庁のサイトから借用しました。興味のある方はアクセスしてみてください。

http://www.data.kishou.go.jp/db/kaikyo/dbindex.html
by T_am | 2010-08-27 21:25 | 科学もどき | Trackback | Comments(0)
 暑い日が続いています。それだけ汗をかくので、ハンカチやタオルで汗を拭くとすぐぐっしょり濡れてしまうという方もいらっしゃるのではありませんか?
 私も汗かきな方なので、この時期は本当に大変です。そこで、今回は汗を拭くときのハンカチやタオルの涼しい使い方をご紹介します。
 
 「使い方」といっても別に大層なものではありません。ポンポンポンポンとリズミカルに汗を(軽く)叩くというだけのことです。
 ハンカチやタオルといえば汗を拭いたり身体を拭くものというイメージがあり、それは別に間違いではないのですが、ひどく汗をかいたときや風呂上がりのときに「身体を拭く」とすぐにぐっしょりと濡れてしまいます。そうなるともうそれ以上水分を吸収してはくれませんから、拭き残しができて不快の思いをすることになります。
 しかし、ポンポンポンポンと濡れたところを軽く叩くようにすると、それだけ早く身体を乾かすことができるようになります。その理由は、軽く叩くことによって空気が動き、風にふかれるのと同じ効果が生じるからです。
 風に吹かれると身体の表面にある水分の一部が蒸発し、そのとき身体の表面から熱を奪っていきます。その分涼しいと感じるうえに、布地が吸収する水分もそれだけ少なくなります。こうしてハンカチやタオルの濡れ方が少なくなると、その分乾きやすくなるという効果も生まれます。

 汗をかいて、団扇や扇子であおいでいる人をみかけますが、あおぐことで身体の表面の汗を全部蒸発させるのは容易なことではありません。また、汗にはわずかながらも老廃物が含まれているので、やはりハンカチやタオルに吸収させた方がいいように思います。

 ついでながら申し上げると、身体に風を当てて冷やそうとするときに、どこに風を当てるのがいいかといえば、内股、脇の下、首から胸元にかけての3カ所が効果的です。特に効果があるのが首から胸元にかけての範囲です。ここを冷やしてやると、熱を奪われた血液が頭に行くことになるので汗が引きやすくなります。(顔に風を当てるのは汗が乾く反面胴体から熱のこもった血液が頭に送られることに変わりはないので、汗がなかなかひかないということになります。)
 夏になると女の人の着るブラウスやTシャツの襟くりが大きく開いているのは、胸元を解放することで頭に送られる血液の温度を下げる効果があるからです。それに、ちょっと色っぽくなるということもあるようです。

追記
 企業によっては、女子の制服として首にスカーフを巻かせているところがあります。あれは見た目はよいものの、この時期はさぞ暑いだろうなと思ってしまいます(聞いたことはないけど)。せっかくクールビズで男はノーネクタイにしてるのだから、女の人のことも考えてやればいいのに・・・
by T_am | 2010-08-11 23:44 | 科学もどき | Trackback | Comments(0)
 工学実験探査機「はやぶさ」が2592日の航海を終え、無事に地球に帰還しました。といっても、「はやぶさ」の本体は大気圏突入の祭に燃え尽きてしまい、カプセルだけが大地に帰り着いたわけです。
 テレビの映像で、ばらばらになりながら無数の流星となって落下する「はやぶさ」本体を従えて、ひときわ輝く光跡を残しながら、大地に向かって夜空を一直線に駆け下りてくるカプセルが映し出されていました。正直言って、この映像を見て年甲斐もなくどきどきしてしまったのです。
 大気中を動く物体は、その前方にある空気を押しやりながら進んでいきます。ところが、秒速12kmで落下する「はやぶさ」の場合、その移動速度があまりにも速すぎるために、空気が脇にどく暇がありません。そのため「はやぶさ」やカプセルの前方には空気の塊がどんどん溜まり圧縮されていきます。超高圧になった空気はおびただしい熱を持ち、その温度はおよそ1万度にまで達するといわれています。空気抵抗によりばらばらになった本体にもこのような高熱が生じるので、無数の流星となってそのまま燃え尽きるのです。
 カプセルの方は耐熱加工され、さらに重心の設定により、常に同じ面(耐熱加工されている)が地表に向かうように設計されているので、表面温度が1万度になっても内部の温度は50度に保たれるようになっています。こうやって内部にある荷物(小惑星の砂)を保護しようというわけです。用意周到というか、人間の知恵のすばらしさを感じます。

 「はやぶさ」の偉業はこれだけではありません。人類史上初めて月以外の天体を訪れ無事に帰還したこと、しかも、もしかすると小惑星の砂を持ち帰っているかもしれないこと、何度もアクシデントに見舞われながらもその都度問題を解決し、帰還にこぎつけたこと。どれをとってもすばらしいといえます。

 特にすばらしいと思うのが、「はやぶさ」の開発・運用チームが、不測の事態に備えてあらかじめ柔軟なシステムの設計をしていたことであり、そして問題が起こるたびに素早く的確な対応がなされたという行動力です。
 4基あるイオンエンジンがすべて停止したさいに、異なるエンジンのうちまともに動く部品を組み合わせて一つのエンジンとして稼働させるということは、あらかじめそういう事態を想定した設計がされない限り、できるものではありません。まさに危機管理の見本のような設計思想であるといえます。
 「はやぶさ」のすごいところはほかにもあって、3億km離れた小惑星に軟着陸して、砂を採取した上で離脱するというのは、あまりにも遠すぎるゆえに、地上から人間が遠隔操作するわけにはいきません。3億kmの距離を電波が届くまでおよそ1000秒(16分40秒)かかるわけです。「はやぶさ」から発信した電波が地球に届くまで同じ時間がかかるのですから、そのタイムラグを考えると遠隔操作などできるものではありません。したがって「はやぶさ」は自律的に行動しなければならないことになり、そのためのプログラムが用意されなければならないのです。
 何が起こるかわからないところで、あらかじめ決められた動作を組み合わせて、小惑星に軟着陸した上で、砂を採取して離脱する。言葉にするとなんでもないことのようですが、実際には適切に書かれたプログラムとそれを正確に実行する機械の連携が不可欠です。しかも不測の事態が起これば作業を中断し、後でやり直すという選択肢も用意されていなければなりません。
 もちろん機械に任せっぱなしというわけにもいかないので、絶えず人間が監視していなければならないのです。

 今回の「はやぶさ」の帰還は、人間の知恵と努力の賜であるといってもよいでしょう。「はやぶさ」は私たちに、人間の持つ可能性について勇気と希望を与えてくれました。いずれ「はやぶさ」の航海の様子と、それをサポートする地上スタッフの奮闘の記録が公開されるものと思います。それは人類にとっての大きな財産となるのですから、素直に喜びたいと思います。


 
by T_am | 2010-06-15 21:28 | 科学もどき | Trackback | Comments(0)

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