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カクレ理系のやぶにらみ

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時間のある方はお読みください。軽い気持ちで読み始めると頭が痛くなります。

カテゴリ:あいまいな国のあいまいな人々( 67 )

 安倍政権のこれまでの歩みを振り返って、「様々な法律や規則に定めている手続きに則って安保法制案の衆議院での強行採決ということまでやってのけた。これを許したのは、日本の民主主義のシステムのバグによるものだと思う。」と述べた友人がいます。以来、「日本の民主主義のシステムのバグ」という言葉が頭の片隅から離れません。

 システムのバグというのは、普段は潜伏期のウィルスのようにじっと身を潜めていますが、一定の条件が満たされたときに突如として発動し、場合によっては深刻な状況をもたらします。たしかに今の日本の状況にそっくりですよね。

 では、「一定の条件」というのはなんなのでしょうか? そのことを考えると、私は、安倍政権というのは、日本の民主主義の制度疲労が進行する中で生まれるべくして生まれた鬼胎のようなものではないかと思っています。鬼胎というのは、これまでの制度を守りたいという人たちの目には、安倍政権がそのように映っているという意味です。その一方で、安倍晋三を支持する人たちからは英雄のように思われている状況があります。これは安倍晋三および安倍政権をどちらの側に立って眺めるかという違いであって、どちらが正しいというものではありません。

 それでは安倍政権をつくり出したバグとは何でしょうか? それを明らかにするために現行の制度についておさらいしてみましょう。

・小選挙区制
 中選挙区制に比べると選挙区が狭くなるおかげで選挙にかかる費用が低く抑えられる効果があるともともいわれている。デメリットとしては、死に票が多く、投票率によっては3割程度の得票率でも政権党となることができる。また、少数政党ではまず当選者を出すことができない。政権党にとって大勝・大敗が起こりやすい制度。
・政党交付金制度
 派閥の求心力を弱める効果がある反面、金を握るものの権力が強くなる。
・比例代表制
 死に票の発生を抑えることができ、少数政党でも当選者を出すことができる。比例区の名簿の上位に位置できるかどうかで当落が左右される。名簿の決定権を持つ者の権力が強くなる。

 日本で小選挙区比例代表並立制度が導入されたのが1996年ですが、これまで安倍政権のような政権は登場しませんでした。では、これまでとの違いはどこにあるのでしょうか?

1.民主党の失敗をきっかけに、自分の一票を託したいと思える政治家が見当たらないとして政治に対する無関心が急速に広まったこと。
2.自民党の内部で派閥の力が弱まり、さらに党の実力者達が高齢により揃って引退影響力を失った結果、党執行部(総裁)に権力が集中するようになったこと。
3.マスコミに対する干渉と締め付け、そして懐柔を執拗に行ってきていること。
4.領土問題をめぐり国民の間に隣国に対する反感や憎悪という感情がエスカレートしてきていること。
5.前項に関して、ナショナリズムを煽るような言動を繰り返していること。
6.日銀総裁やNHK会長、内閣法制局長官などの要職の人事を徹頭徹尾自分に味方する人物で固めたこと。
7.安倍晋三とその周囲が、自分の考えが法律やルールに反した場合法律やルールを蔑ろにしても構わないと本気で思っている(その代わり結果に対する責任感は皆無である)こと。ときに国会の質問をを軽視する姿勢を見せたというのは小泉純一郎に顕著でした。そして、それ以降小泉を真似る政治家が増えたのも事実です。


 このうち、1と3は外的な要因であり、偶然の産物であるといってよいかもしれません。一方、2、4、5、6は安倍晋三という政治家が意図的に行ってきたことです。これが意味するのは、安倍晋三のような政治家は今後も登場する可能性があるということです。このことの重みを私たちは忘れない方がいいと思います。

 小選挙区制を導入したのは、日本でもアメリカやイギリスのような二大政党制に持っていくべきだと考えられたからです。当時、自民党による長期政権が続いた結果腐敗や汚職が問題視されるようになり、それというのも政権交代がないからだということから二大政党制を実現する切り札として小選挙区制が導入されたのです。その結果、自民党と民主党という二大政党による政権交代が実現するかと思われたのですが、そうはなりませんでした。
 比例代表制を導入したのは、小選挙区制オンリーでは少数政党が議席を確保することができないという理由からですし、政党交付金の導入には企業献金が政治との癒着の原因となっているということから、これを禁止するという前提で税金から政党交付金を捻出する(国民一人当たり年間250円)ようにしたという経緯がありました。(実際には企業献金を禁止することは行われませんでした。ちなみに、共産党は、自分が支持しているわけでもない政党に対し国民の税金が使われるのはおかしいという理由で、政党交付金の受け取りを拒否しています。)

 このように、これらの制度を設けたときにはそれなりの思惑もあったのですが、二十年近く経つうちに事情も変わり、今ではこれらの制度の持つ負の側面が目立つようになってしまいました。
 今の自民党を事実上のワンマン体制にしているのは、かつて行われたこれらの政治改革です。本来であればそうならないような防御機構(あるいは封印といってもいいかもしれません)が内在していたはずなのですが、上記1から7にあげたように、それらは悉く解除されてしまいました。特に影響の大きかったのは1.の政治に対して知らない、知ろうとしない無関心層の増大だったと思います。多くの人が無関心であるのをいいことに、2以下のことを着々と行ってきたのですから、用意周到といってもいいかもしれません。

 こうしてみると安倍政権というのは、日本の民主主義のシステムに生じた綻びを利用して登場したように思います。このような勢力というのは、絶えず機会を窺っていると考えた方がよいでしょう。すなわち、安倍晋三という政治家の登場は時代の必然であって、日本の民主主義は現時点ではこのような政治家に対して無防備であるといえます。もしも、現在全国に広がっている反対運動の結果、安倍政権を倒すことができたならば、私たちはのことを教訓としてシステムの改修に取り組むべきでしょう。

(1)時間をかけてもいいので中選挙区制に戻していくこと
(2)その際に一票の格差を是正すること。具体的には議員定数(総数)を増やして調節するのが現実的。ただし、議員報酬はその分引き下げすることになる。
(3)政治家に託すことと、政治に無関心であることとは違うのだと私たちが自覚すること。さらにいえば、無関心は私たちの次世代に対する責任の放棄であると自覚すること。
by t_am | 2015-07-20 20:46 | あいまいな国のあいまいな人々
 前回は、私たち日本人は国を大家さんだと思い、自分のことは間借り人だと思っているという小田嶋隆さんのご指摘を紹介したうえで、国民がこれといった負担を求められなくて済んでいる日本は天国みたいな国だと申し上げました。
 しかしながら、実際には教育改革・医療改革・財政改革・行政改革・政治改革などさまざまな改革がこの国では必要だといわれていますし、読者の中にもそのことに同意していらっしゃる方も多いのではないかと思います。けれども、よく考えていただきたいのは、これらの改革というのはどれも運営に関する改革の必要性がいわれているのであって、日本という国のあり方の改革が必要だというわけではないということなのです。

 にもかかわらず、日本のあり方そのものを改革する必要があると主張する人たちがいます。それは誰かというと、安倍総理率いる自民党と一部の識者にほかなりません。彼らがが主張している「日本を取り戻す」というスローガンは、今の日本を否定し、かつて存在していたけれども今では失われてしまった日本を復活させようというものです。
 それでは、どのような日本を取り戻したいのかというと、江戸時代以前の日本のはずはないのですから、これはやはり戦前の日本であると考えるべきでしょう。
 実際、彼らの主張を聞いていると、天皇を国家元首に戴き、強力な中央集権国家をつくりたいために、個人の権利が制限されることもやむを得ないという考えかたであることがわかります。自民党も世代交代が進んだおかげで、戦争の悲惨さを身体で感じていた人たちが引退しつつあります。その代わりに、軍事オタクや秀才が空想する理想社会に近づけようという動きが今の自民党の主流派となりつつあります。

 戦前の日本の特徴は、国が強力な権力を持つ一方で個人の権利はかなり制限され、しかも地方では餓えと隣り合わせの毎日を送らなければならないというものでした。そんな劣悪な環境であっても、お国のためであれば兵隊に行くのも厭わないという気持ち(実際には、軍隊に入れば米の飯が腹一杯食べられるという期待感もあったことでしょう)があったことは間違いないと思います。この、お国のためならば戦地に行ってもよいという気持ちは、今の日本人にはかけているのは明かですから、安倍総理は、お国のためならば進んで戦争に行くという日本人の復活を望んでいるのかもしれません。そういえば、自民党での憲法改正案では、個人の権利を大幅に制限したうえで、戦争ができるようにしようということが書かれています。 

 戦前の日本は、たしかに天皇を国家元首とする強力な中央集権国家でした。それは、欧米列強による植民地支配を免れ、独立を保ちたいという目的を実現するためには、この体制がもっとも現実的だったからです。その未来図は非常な苦労を伴いながらも、何とか実現に漕ぎ着けることができ、その頂点が日露戦争だったといえます。
 日露戦争後の日本は、独立を維持するという当初の目的を達成した後の新しい目標として、八紘一宇(大東亜共栄圏はひとつのいえのようなものである、という意味)というスローガンを掲げ、海外で植民地経営を行う国家を目指しました。日本がかつて侵略を行ったというのはこのことを指しているわけです。

 安倍総理をはじめとする「日本を取り戻す」と主張する人たちの考えが今ひとつ理解できないのは、戦後日本のような中央集権国家を復活させてどうするつもりなのか?という疑問が拭えないからです
 おそらく彼らの気持ちの中にあるのは、いつまで経っても中国や韓国から、「日本がかつて侵略を行ったのはけしからん」といわれ続けるのが嫌になってるということなのでしょう。
 たしかに、中国や韓国がこの問題を外交カードとして使っているということもわかります。けれども、中国や韓国にいつまでも同じことをいわせる日本の側にも甘さがあると行ってよいと思います。どういうことかというと、こういう問題が発生したときのお家芸である「トカゲのしっぽ切り」(あるいは「スケープゴート」といってもよいでしょう)が、この問題では一切行われていないからです。本来であれば、「あの戦争への日本をリードしていった一味は既に処罰され、一掃されてしまいました。今後は人心一新して世界の平和に貢献できる国家づくりに邁進して参ります。」といって、過去の日本を切り離したはずだったのです。
 東京裁判によって処刑された人たちを昭和殉難者として昭和53年に靖國神社に合祀し、しかも総理大臣が靖國神社に参拝することによって、いったん切り離したはずの戦前の日本と現代の日本が再びつながったかのように、外国の人々には見えるのでしょう。実際に、「日本を取り戻す」というスローガンは、戦前の日本を否定するのではなく、むしろ積極的に肯定し、再現させようという動きを現しているかのように私には思えます。
 内閣を延命させるためには、平然と閣僚を更迭することにためらいを見せないのに、どうして戦前の日本を否定しようとしないのかよくわからないのですが、ひとつだけこうではないか? という仮説があります。
 それは、敗戦のときに、本来ならば責任をとらなければならなかったはずの「尊きお方」がお咎めなしで終わったからだ、というものです。
 
 「日本人は、国が大家さんで自分の事は間借り人であると思っている。」という指摘はけっこう深い意味があると思います。

 日本人の国なのに外国の軍隊が駐留していて、基地の中は治外法権であるという事実。外国の飛行機が飛ぶときは日本の管制よりも優先して飛ぶことができるという事実。駐留している軍人が日本人に対して危害を加えたとしても日本の警察は逮捕することができませんし、日本の法律で裁くことができません。私たちは、この国杭は日本人のものであって日本人のものではないという矛盾を絶えず感じてきています。それでも、これまでは「米軍が日本に代わって防衛を担ってくれているので、日本は軍事費の支出を抑えることができ、安心して経済活動に専念することができるのだ。今後も日本が経済成長を目指すのならば、日米同盟は不可欠なのだ。」という風に思われていました。というよりも、今でもそうだと思っている人の方が圧倒的に多いはずです。
 けれども、日本の防衛関係費は現在4兆6千億円という巨額の支出となっており、この金額は日本が世界でも有数の軍事大国であることを示しています。さらに、防衛費のうちかなりの部分がアメリカ製の兵器(戦闘機やイージス艦など)の購入費に充てられており、さらには購入後のメンテナンスのための部品の調達費用も決してバカにならない金額になっているものと想像されます。
 このように、アメリカが身銭を切って日本を守っていてくれるというのは今日ではもはや幻想であり、根拠のない思い込みでしかありません。むしろ日米同盟は、アメリカが自国の利益のために日本の国内に基地を保有し、いつでも好きなときに日本の上空や領海を通航できる権利を保持し、同時にアメリカ製の高額な兵器を日本に買わせるために存在していると思った方がよいのかもしれません。

 したがって、安倍総理をはじめとする自民党の幹部たちは、「日本を取り戻す」ためにはいずれアメリカと対決することが(論理的に)避けられないはずなのですが、実際にやっていることを見ると、訪米やTPPへの参加といった「アメリカのご機嫌伺い」のようなことを繰り返しているわけです。
 いったい頭の中がどういう構造になっているとこういう矛盾した行動がとれるのか、わたしにはいくら考えてもわかりません。

 落語で大家さんという場合、長屋の所有者は別にいて、実態は管理人にすぎません。(このことは、住宅ジャーナリストの山本久美子さんのブログに詳しく書かれています。)

(落語「小言幸兵衛」の長屋の大家は、実はオーナーではない?)
http://suumo.jp/journal/2012/08/31/27633/

 日本人が間借り人で国が大家であるという比喩が、落語における間借り人と大家の関係を示すとするならば、日本という国のオーナーは誰になるかという疑問が浮かび上がってきますが、その答えについては私が申し上げるまでもないでしょう。
 自民党は、この国をオーナーと大家と間借り人でできている国にしたいと考えているのでしょうが、オーナーを公然と戴く以上、自らが有能な大家であろうとするならば、間借り人に我が儘な真似を許すわけにはいかないというとは当然の論理です。その思いの現れが自民党の憲法改正案になるのでしょう。
 だからといって、私たちがそれにつきあわなければならない義理はどこにもありません。
by t_am | 2013-07-17 22:08 | あいまいな国のあいまいな人々
 5月21日に行われた、ラジオデイズのトークライブ「ライブ!9条どうでしょう」でコラムニストの小田嶋隆さんが、「日本人は国が大家さんで、自分たちを間借り人だと思ってるんじゃないか」という指摘をされていました。

「ライブ!9条どうでしょう」
http://www.radiodays.jp/item_set/show/660


 かねてから、日本に社会契約論が定着しないのはなぜなのだろうと疑問に思っていたのですが、小田嶋さんのこの指摘を聞いて長年の疑問が氷解したような気がします。
 小田嶋隆さんがおっしゃる「大家さん」というのは、アパートの大家さんのようなものだと考えてよいと思います。
 間借り人は、きちんと家賃(税金)を払い、周囲の迷惑にならない限り自由に振る舞うことができます。その代わり、大家さんに何か注意をされたときは素直に従わなければなりません。もっとも大家さんが注意するということは滅多にないことなので、そう気にする必要はありません。
 このように、大家さんは間借り人がよほどひどいこと(法を犯す行為)をしない限り、間借り人に対し干渉してくるということはありません。ところが、時代の変化に伴って従来は考えられなかった事件(ストーカー事件やいじめや体罰、振り込め詐欺、児童ポルノなど)が起こるようになってきています。ところが、大家さんの動きがどうも鈍いようなので、間借り人にしてみれば歯がゆくてならないときがあります。そこで、大家さんに対し、アパートの規則をもっと厳しくすべきだと訴える間借り人もいれば、アパートの警備をもっと強化すべきだという間借り人も増えてきているようです。(その声に後押しされたのか、今では街の至る処に防犯カメラという名前の監視カメラが目立たないように設置されるようになりました。)
 間借り人である私たちに課せられた義務は、勤労・納税・子どもに教育を受けさせる義務の3つです。他の国と違って兵役の義務はありませんし、この国を維持するための特別な努力が間借り人に対し求められることもありません。
 こうやって書いてみると、日本というのは天国みたいな国だと思います。もっとも、他の国と比較して、という意味ですが。
 また、日本国民に手厚く保障されている権利は、日本人が自分の手で勝ち取ってきたわけではありません。だからなのでしょうね。自分たちの権利を自ら制限しようとしたり、あるいは放棄しようとする執着心のなさは。
by t_am | 2013-07-16 00:38 | あいまいな国のあいまいな人々
 最近は大阪に行ってないので、今度のダブル選挙がどうなっているのかわかりません。政策の解りやすさでいえば橋下候補の方が圧倒的に優勢でしょう。それでも橋下候補の論理には素直に賛同できないところがあって、一体なぜなんだろうと考えていました。
 ようやくわかったのをまとめると次の通りとなります。
1.全体のうちの一部分を取り出して、それが問題であることを指摘する。
2.相手がそれに同意したところで、だから全体を変革する必要があると力説する。
3.変革によってこういうメリットがあると列挙する。

 聞き手としては最初のステップで同意しているので、何か変だと思っても言葉にすることができないもどかしさを抱くことになるようです。

 この論理の展開には、1と2のところに乖離があるという特徴があります。すなわち、部分的な問題を全体の問題に(悪くいえば)すり替えているのです。喩えていえば、この家は雨漏りをしているから、根本的な解決をするために家を建て直しましょうといっているようなものです。
 雨漏りくらいで家を建て直す人はあまりいないはずですが、政治や教育・社会制度といったことになるとなぜか「抜本的な改革」の必要性が主張され、多くの賛同を得ることになっています。
 その理由は2つあって、しょっちゅう問題があると聞かされているので、このままではいけないのではないかという意識が芽生えていることが第一の理由でしょう。
 2番目の理由は、その変革にはどのような副作用を伴うのか誰にもわからないからです。家を建て直すということであれば、大金が必要であることは誰にでもわかります。そのことと雨漏りを我慢する不快さを比較した結果、建て直しという選択はあり得ないという結論を、私たちはほとんど無意識のうちに得ています。
 けれども変革に伴う副作用がわからないと、問題をそのままにしておくべきではないという気持ちの方が優勢になるので、私たちは変革や改革に飛びついてしまうのです。
 それでは変革を主張する人はどうかというと、やはり副作用に対する検証が十分でないという場合が多いように思います。というのは、その人の中で変革や改革を行う自体ことが目的になってしまっているからです。変革や改革は目的を実現させるための方法に過ぎないのですが、いつの間にか本来の目的が忘れ去られてしまっているわけです。だから、人民のための革命軍が治安維持のためと称して、人民に銃を向けたり拘束するということも起こるのです。

 副作用についての議論はきちんとやるべきです。その手続きを省略して中傷合戦に陥ると、どちらが勝っても不幸になる人が増えるような気がします。そういうことを考えると、選挙期間はあまりにも短すぎるといえるでしょう。橋下候補は事前の周知に努めたといえるかもしれませんが、肝心の議論が行われなかったのですからどうにもなりません。その責任は平松市長にもありますが、冒頭に述べたような論理を駆使する橋下候補も責任を免れるものではありません。
by T_am | 2011-11-19 15:54 | あいまいな国のあいまいな人々
 皆さんはご自分がどれだけ税金を払っているかご存知ですか? 
 意地の悪い質問をして申し訳ありません。ご存じないという方に改めてお訊きします。

 ご自分がどんな税金を払っているかご存知ですか?

 実をいうと、私自身いくら税金を払っているか知りません。給料明細を見れば所得税と住民税はわかりますが、自分が払っている税金はそれだけではありません。間接税も多いので、いちいち計算している人はまずいないだろうと思います。今回は、自分が支払っている税金を知らないというのはやはりまずいのではないか? という話しです。

 世の中にどんな税金があるのか、それをすべて知っている人というのはそうはいないと思います。そこで思いつくままに挙げてみました。

1.消費税
 どなたにも馴染みの深い税金です。買い物をすればレシートにちゃんと書いてありますが、いちいち気にしている人は少ないことと思います。

2.所得税・住民税
 サラリーマンの場合源泉徴収されることが多い税金ですから、これもあまり気にする人はいないと思います。恒久減税が廃止されてから年末調整で返ってくる所得税がガクッと減ってしまいました。

3.石油税
 灯油には石油税が課税されています。内税となっているので知っている人はほとんどいません。そのうえで5%の消費税がかかっているわけですから税金の二重取りだと思うのですが、いっこうに改まる気配はありません。

4.ガソリン税・自動車税
 田舎に住んでいると車がないと生きていけません。自動車には毎年自動車税が課税されるのはご存知でしょう。(納付通知書が来るからね。)さらに車検のときには重量税がかかります。またガソリン代にはガソリン税が含まれていますが、そこにも消費税が課税されています。(そういえば、ガソリンスタンドのレシートにはガソリン税の表示があったはずなのに、いつの間にか表示されなくなってしまいました。これは政府による陰謀かもしれません。)

5.固定資産税・都市計画税
 家や土地を持っている人が毎年払う税金です。市街化区域内にある土地や家に対してはさらに都市計画税がかかっています。

6.電源開発促進税
 電気料金に上乗せされて私たちが支払っている税金です。現在の税額は1kW/hあたり37.5銭ですから、たいしたことはないと思うかもしれませんが、塵も積もれば山となるで日本全体では1年間に三千億円以上の税収となっており、これらは特別会計に組み入れられて原発や火力発電所の立地対策に使われています。。

7.たばこ税・酒税
 JTによれば1箱410円のたばこには合計で264円40銭の税金(うち消費税19円52銭)がかかっているそうです。喫煙者は「おれは高額納税者だぞ」ともっと威張ってもいいのではないかと思いますが、どなたも肩身の狭い思いをされているようです。
 酒税もたばこ税に次いで税率の高い税金です。

8.入湯税
 温泉に入るときにかかる税金です。(1人1日150円)

9.ゴルフ場利用税
 ゴルフ場の利用料金の中には1日800円の税金が含まれています。


 これらの税金の中で直接税は2と4だけで、あとはすべて間接税です。間接税は価格の中に含まれているので、税額表示がない限り自分がいくら税金を支払っているかわかりません。したがって、誰もがしだいに気にしなくなります。
 また、直接税である所得税と住民税についても源泉徴収される人が多いので、自分が収めている税額に無関心という人も多いはずです。
 自営業者でもない限り、自分でわざわざ納めに行かなければならない税金は自動車税と固定資産税(都市計画税)くらいですから、日本の徴税システムというのは完璧に近いと思わないわけにはいきません。これは税金の徴収コストを引き下げ、さらに税金に無関心な国民を増やすことに寄与していると思います。

 人間には面倒なことはやりたくない、誰か他の人にやってもらいたいという気持ちがあります。また、自分がやらなくて済むようになると、その問題に対しては関心がなくなるというのも人間の心理です。
 本来ならば、自分が納めるべき税金の額は自分でも確認してから納めに行くというのがあるべき姿なのでしょう。しかしながら現実は源泉徴収制度によって、自分がいくら税金を納めるべきなのか知らないまま給料やボーナスから天引きされているというのが実態です。その結果、政府による税金の使い途に対して無関心な人ばかりとなりました。
 この社会を維持するために必要な仕事というのは確かにあるのですが、自分が生活していくために仕事をするのが精一杯という人ばかりですから、自分たちができないことをやってもらうために政府をつくり、公務員を雇っているわけです。そのための費用として税金を出し合っているというのが、近代国家成立の前提にある考え方です。
 したがって、自分が納めている税金がどのような使われ方をしているのかというところにもっと関心を持つべきだろうと思います。安住財務省がG20で財政再建のために来年度には消費税率を10%とする法案を国会に提出すると発言したとのことです。野田内閣になってから、こういう発言が繰り返し行われ、いつの間にか既定路線になっているという例が目立ちます。震災からの復興費に充てるという名目で増税しようとしている最中に消費税までも上げようというのですから、いい根性をしていると思います。
 もっとも、政治家がこういう発言をするというのも、見方を変えれば私たちがだらしないからだと考えることもできます。私たちが政治や税金の使われ方に無関心であるからこそ、政治家や官僚が好き勝手をするようになるのだと考えることもできます。それを止めさせようと思うのであれば、まず私たちが変わらなければ何も変わらないのだということに気づく必要があると思うのです。
by T_am | 2011-10-17 23:09 | あいまいな国のあいまいな人々
 東京電力管内と東北電力管内で節電の協力要請が電力会社からあり、政府からは電力資料制限令が発令されています。その理由として、電力の供給量に不安があるので電力使用を15%削減してほしいというものです。(関西電力も同じことを要請しています。)

 そこで質問です。

 あなたが15%の節電に協力しなかったらどうなるのか? その場合の責任は誰が負うべきなのか?

 3.11の震災のときに、首都圏では電車が停まり大勢の帰宅難民が発生しました。そのことで鉄道各社が通勤定期の料金の一部を払い戻ししたという話しは聞いたことがありません。また、鉄道の利用者から払い戻し請求が行われたという話しも聞いたことがありません。誰もが「しかたない」と諦めているというのが現実ではないかと思います。

 JRの場合特急電車が2時間以上遅延した場合特急料金を払い戻すという取り決めがありました(今はどうか知りませんが)。これは、利用者に対して定時運行を約束するので、その対価として特急料金を徴収するという契約があるにもかかわらず、それが履行できない場合は特急料金を返還するというものであり、その基準として2時間以上遅延した場合というルールが決められているわけです。
 この場合でも、目的地まで送り届けるという「契約」は履行されているので運賃の払い戻しが発生することはありません。

 3.11の震災当日の場合、鉄道各社は線路の点検を行って列車を走らせても構わないかどうかの確認をするまで運転を見合わせるという判断は妥当であったと思います。その代わり、利用者を目的地まで送り届ける(その対価として定期券の代金を支払っている)という「契約」は履行できないわけですから、法理的にはその分の料金を返還するのが当然ということになります。
 ただし、定期券購入の際に、このような場合には鉄道会社は免責されるという条項が明示されていれば別ですが・・・・・・

 長々と書いてきましたが、同じことは電気料金にもいえるのではないかと思います。私たちが支払っている電気料金(基本料金と使用料)は、いついかなる時でも私たちが必要とするときに電気が供給されるということの対価として支払っているというふうに私は理解していました。
 ところが、震災により原発が停止しているので電力の供給量が減ってしまうので、電気の使用量を15%削減してほしいと電力会社は要請しているわけです。
 利用者かからすれば、それならば基本料金をまず15%割引するのが筋だろうと思うのですが、あなたどう思いますか?

 「電気の供給量がが不足した場合大規模停電が発生します。そうなると皆さん困るでしょう。だから節電に協力してください。」という論理なのですが、なんでそのツケを利用者が払わなければならないのだと思いませんか? 燃料代金がどれだけ高かろうが、あるいは電力会社以外の発電事業者からの電気をかき集めようが、電力の安定供給は電力会社の責任で行うべきであり、そのために私たちは基本料金を支払っているはずだと、私は思うのですが、いかがでしょうか?

 私には、やるべきことの順番が違っていると思えてなりません。つまり、電力会社は契約している家庭や企業に対して電気を供給するという責任を負っているのですから、その責任が果たせない恐れがあるときは、まずできるだけ電気をかき集めて、それでも足りない場合は基本料金の一部をユーザーに返還して節電の協力を求めるというのが筋でしょう。
 ところが、電力が不足するのはお前らが際限なく電気を使うからだといわんばかりの節電要請が行われており、はっきりいってそれは間違っていると思います。そもそも、原発の再稼働ができない状況をもたらしたの責任は誰にあるのか、それをはっきりさせるべきでしょう。
 
 そういう責任の所在を曖昧にしておきながら、家庭と産業界に対して節電要請をするというのはおかしいと思います。
 したがって、ユーザーが電力会社の節電要請などに協力する必要はないのであり、それによって大規模停電が発生した場合、家庭も企業も電力会社に対して損害賠償請求を起こしても構わないとさえ思います。仮に電力会社との契約が、このような場合には免責されるという特約があったとしても、一般ユーザーには他の電力供給事業者を選択する余地はないのですから、優越的地位の濫用であるという解釈が成立する余地は十分あると思います。
 それよりも、電力会社の責任を曖昧にしたまま節電に協力するというのは何のプラスにもならないと思います。ユーザーに対して節電への協力を呼びかけるならば電力会社の経営陣と政府高官は責任をとれと要求しても構わないとさえ思うのです。
 そういう曖昧な部分をそのままにしておくからこそ、原発事故を巡る政府の対応が迷走することになるのだと思います。

(結論)
 電力会社が基本料金の割引をしない以上、ユーザーが節電に協力する必要はない。仮に、大規模停電が発生した場合でも、その責任は電力会社が負うべきである。原発の再稼働ができないのは天災地変・戦争などの不可抗力によるものではないのだから、政府が電力使用制限令を発令しているのは違法である。法がそれを認めているというのでれば、それは悪法である。
 節電要請を社会が受け入れるというのは、電力の供給に対する責任の所在を曖昧なままにしておくことにつながるであって、これでは脱原発も進まない。


付記
 やるべきことをやらなかった。そのことで問題が発生した場合、企業の従業員出れば懲戒処分にかけれられるのが普通です。最悪の場合、その従業員は解雇され退職金ももらえないということになりかねませんが、電力会社の場合はそうではありません。私たちは世界一高い電気料を払っているのですから、もっと文句をいってもいいと思います。(文句をいわれなければ改めようとしないのがこの人たちに共通するものだから。)
by T_am | 2011-07-10 21:08 | あいまいな国のあいまいな人々
 日曜日に行われた名護市長選挙で、普天間飛行場の移転に反対する立場である前市教育長・稲嶺進氏が当選したことによって、この問題がますますこじれることになりました。
 民主党も稲嶺候補を推薦していたのですから自業自得といえるでしょう。

 それにしても鳩山総理は5月末までに結論を出すと明言していますが、これだけの短期間で誰もが納得できる案を提示することができるとは到底思えません。その後には参議院の改選が控えているのですから、現政権がどのような結論を出すかによって参議院選挙に大きな影響を与えることになると予想されます。
 しかも小沢幹事長の政治資金疑惑もあるので、場合によっては鳩山総理と小沢幹事長の辞任(ということは内閣の総辞職となります)による衆参同時選挙も考えられます。こういうのを身から出た錆というのであって、政権党であるための授業料と我慢するしかありません。
 それよりも最悪のケースとしては、小沢一郎氏の疑惑がグレーのまま民主党の幹事長に居座ること、そして鳩山総理が総理の座にしがみつくことです。民主党は、小沢幹事長の権力が強くなりすぎて、まるで独裁政党のようになってしまいました。先の総選挙で民主党が勝ったのは政治改革をしてもらいたいという有権者の思いが強かったからです。
 たしかに「制度改革」は実施されましたが、それは小沢幹事長の権力を強化するためのものでした。有権者が期待している「政治改革」は手つかずといってよいのであり、現在の体制ではそのような改革に取り組むとは思えません。

 ですから、参院選前に党代表と幹事長が辞任するのが、民主党と日本にとってはベストであるといえます。この国では最高権力者は何をしてもよいというものではないのだと、現職の民主党議員が思い知ることが必要だと思うのです。

 それはさておき、普天間飛行場の移設問題について気になっていることを今回は申し上げたいと思います。
 本来であれば軍事基地の設置(移設も含む)という問題は、国の安全保障をどうやって実現するかという観点で企画立案されるべきものです。近代以前の社会では、軍事が最優先で周辺の住民のことなど歯牙にもかけないというのが普通でしたが、現代社会ではそうもいきません。軍事上のメリット・デメリット、軍事基地が周辺に与える影響を考慮して決定しなければ、運用開始後に大きな問題を抱えることになり、結果として軍事目的の遂行の妨げになる恐れも出てきます。

 そのようにして一連の出来事を眺めると、日本の安全保障という観点から移設先をどこにしたらいいか、という視点が完全に欠落していることに気づきます。社民党はあいかわらず「県外、国外」という主張を続けていますが、これはこの政党が日本の安全保障という問題を真面目に考えたことがないという証拠でもあります。もっとも民主党も大同小異であって、だから総選挙のときに鳩山代表が沖縄にいってさんざんリップサービスしてきたのです。
 誤解しないでいただきたいのですが、私はアメリカの主張通りにせよと申し上げているのではありません。アメリカが普天間飛行場の移設先をキャンプシュワブに指定してきたというのはアメリカ軍の事情を最優先に考えた結果であると思います。それは日本の国益に寄与する部分もあるかもしれませんが、それよりもアメリカの国益に重点を置いた思考法から出てきたプランであると思っています。
 ですから、移設先が県外であってもいいのですし、あるいはグァム島のように国外であってもいいのです。その代わり、その場合は日本の安全保障は日本が自ら行うという気概と精密なプランが必要となります。
 そういうプランが5月末までにできあがるとは到底思えません。日米安全保障条約によって日本は自国の防衛ということを考えないでよいという体制がずっと続いてきました。このことは日本の経済成長に大きく寄与しましたが、その反面、自国の安全保障について誰も真面目に考えないようになったという弊害ももたらしました。
 平野官房長官は移設先について「辺野古を削除するという判断には立たずにゼロベースで最適地を探す」と明言していますが、政府内で、有事の場合米軍と連携してどのような作戦行動をとりうるのか、そのためには基地がどこにあるのがベストなのか? という議論があったとは思えません。おそらく既存の基地に吸収することしか考えていないものと思われます。

 米軍基地が抱える問題は大雑把に分けると次のようになると思われます。

1.米軍機の騒音問題(これは沖縄だけの問題ではありません。)
2.住宅地に近接しているので、事故が発生した場合に被害が大きい。
3.兵士による犯罪。

 これらの問題に対する迷惑料として、政府は基地のある自治体に税金を投入してきました。名護市の人口はおよそ6万人いますが、農業と漁業以外にこれといった産業のないところでこれだけの人が住んでいるというのは税金が投入されてきたおかげといえるでしょう。しかし、それは見方を変えれば、わざわざ税金を投入して迷惑を被る人を増やし続けてきたということができます。むしろ、同じお金を投じるのであればこれらの問題を軽減する分野に使うべきだったと考えるべきでしょう。
 たとえば、防音設備のついた集合住宅を建築して住民にはそこに住んでもらう。同時に軍用機の飛行ルート付近に住んでいる住民には立ち退いてもらい、防音設備の完備した集合住宅に移り住んでもらうこともできたと思います。
 また、米軍兵士の犯罪が問題視されるのは、日米地位協定によって罪を犯した兵士を日本の法律で裁くことが大幅に制限されていることが大きいのです。大きな集団ともなれば、必ず犯罪を犯す人間は一定の割合で発生します。これは米軍に限ったことではありません。自衛隊でも不祥事や犯罪は起きていますし、民間企業でも同様です。これらの犯人は警察によって逮捕され、法律によって裁かれます。しかし米軍兵士の場合は、地位協定によって日本の法律が及ばないことがあり、それが日本人の感情を刺激します。つまり、問題の所在は日米地位協定による不平等性にあるのですが、政府はこれを改定することに熱心ではありませんでした。

 こうしてみると、従来行われてきたのは「基地周辺に税金を投入して不満をそらす」というものであり、問題を解消するという発想はなかったことがわかります。問題解決のための最善の手法は基地がなくなることですが、安全保障上どこかに基地を設けなければいけないのですから、基地の設置によって生じる問題を軽減するために資金と人材を投入することも避けて通ることはできないのです。軍隊を持つということは、そのような問題から目を背けずにきちんと向き合わなければならないということでもあります。
 
 しかし、日本人は軍隊ということについてきちんと考えるということをしてきませんでした。それは今でも変わっていません。
 マスメディアや一部の政治家は名護市長選挙の結果から「民意に従うべきだ」という主張を繰り返しています。名護市の住民の中には「米軍には出て行ってほしい」と心底思っている人も大勢いることと思います。それは、今まで税金をばらまくだけで基地問題の解決にきちんと取り組んでこなかったことの結果であると考えるべきです。
 仮に、米軍基地がすべて国外に移転したとすると、日本の安全はどのようにして保証するのでしょうか? その場合、在日米軍に代わるだけの軍事力を自前で持たなければならなくなります。その結果、国内には依然として軍事基地が残ることになり、何の問題解決にならないことになります。
 いや、それよりも友愛外交によって東アジア共同体が実現すれば軍備は不要になるはずだと考える人もいるでしょう。理想はその通りですが、人類の歴史においてそのような理想が実現した例はありません。理想を語るのも結構ですが、力の裏付けのない理想論は無意味です。鳩山総理がオバマ大統領に友愛の船構想を話したときに、まるで相手にされなかったのはそういうことなのです。
 日本が軍についてまともに議論することもできないのは、私たちが誰かに守ってもらうことに慣れきっているからです。けれども誰かが日本を守っている(言い方を変えれば、日本に脅威を及ぼしそうな国に対して睨みをきかせている)ということさえ私たちは意識していません。
 よく言われるように、戦後日本の奇跡的な復興とその後の経済成長は、日本が自分の国の防衛についてきちんと取り組まなくてもよかったからだといえます。結果としてそれはベストの選択であったといえます。しかし、戦後65年も経つとさすがに制度疲労が起こり、矛盾が表面化してきます。そのひとつが普天間基地の移設問題という形で噴出してきているわけですから、従来と同じような思考法(問題から目を背ける)ではこれを解決することはできません。
 社民党はむろん、自民党の中にもこのたびの「民意」に便乗した発言をする国会議員がいます。「民意」におもねるような発言を繰り返してきたことで窮地に立たされているのが鳩山政権であるということが、この人たちには理解できないようです。それだけでも政治家としての資質に欠けるのではないかと思うのですが、どう思います?
by T_am | 2010-01-28 00:05 | あいまいな国のあいまいな人々
 麻生おろしが活発になってきました。山本拓衆議院議員(福井2区)を始めとして自民党総裁選の前倒し求める国会議員が108名いるとのことです。
 政権党にとっては総理大臣は顔のようなものですから、人気のない総理を抱いている自民党の代議士諸氏の心痛を察すると、誠にお気の毒と申し上げざるを得ません。

 しかし、よく考えてみると、人気のない総理の下では選挙を戦えないから交代してもらいたい、というのは何とも情けない話だと思います。だってそうでしょう。比例区はともかくとして、選挙区では有権者は個人に対し投票するわけです。このままでは選挙に勝てないと公言する選挙区の国会議員は、今までたいしたことをしてこなかったということを108名の国会議員たちはカミングアウトしていることになります。
 そういう国会議員は落選した方が国のため、有権者のためにはいいと思います。普段からきちんと政治活動をやっており、その成果を選挙区の有権者に知らせるという努力をしていれば、そのときの総理がどうであろうと有権者の選択がゆらぐことはないはずだからです。
 そのときの情勢で投票行動が変化する人たちを浮動層と呼びます。この人たちは政治家の失政やスキャンダルに敏感に反応するので無視できるものではありませんが、自分の選挙区に浮動層が多いという議員は、普段何をやっているか有権者にはわからないということの証明でもあります。
 麻生総理という人は、戦後最低の総理のうちの一人(最低といっても一人しかいないとは限らないのが日本の不幸)ですが、それでも麻生おろしに費やすエネルギーがあるのなら、自分の選挙区の有権者から信任されるような活動を普段からしておく方が遙かに効果的だと思うのですが、議員諸氏にはそのような発想はないようです。

 比例区という制度は、名簿の上位に名前を連ねていれば、棚からぼた餅式に議員になれるというものです。この人たちに必要とされる能力は名簿の上位に置いてもらうための政治力だけですから、比例区の名簿づくりの実権を握っている人の方を向いて仕事をするということになり、国民は二の次となります。昔は、こういう議員を陳笠と呼んでいました。
 いいかげん比例区という制度はやめてしまって、その分議員定数を減らした方が歳費も減るのですから、国民は全然困りません。
 今回、総裁選の前倒しに賛同している国会議員108名の名簿を見たわけではありませんが、それぞれの思惑があってのことと思います。特に言い出しっぺである山本拓議員の場合は、今後の党内での発言力を確保しようという思惑があるものとみられます。
 しかし、有権者にすればそんなことはどうでもいいことであって、自分たちの暮らしをよくしてくれる政治家がいればその人に一票を投じたいという気持ちに変わりはありません。しかしながら、そういう人はどこを探しても見つからないので、棄権したり、あるいは次善の策として、今いる候補者に投票するしかないと諦めているのです。

 以前、民主党は自民党の代打としてしか国民に認識されていない、ということを申し上げました。というのは、民主党の議員がやっていることは自民党の議員のそれと大差ないからです。
 西松建設の献金問題が事件となったときに、小沢元代表に対する批判の声が高まりました。その理由は、次の選挙で不利になるからというものでした。民主党の議員諸氏もしょせんは自民党議員と同レベルであるということを満天下に晒したわけです。

 日本をおかしくしている原因の大半は官僚制度にあると思いますが、それが止められないのは法律の起案能力のない議員が多すぎることにあります。つまり、国会議員とは名ばかりでまともな法律の立案すらできない議員が多いので、政府がどんどん法律をつくるわけです。
 このたびの108名というのは、中には立派な人格をお持ちの方もいらっしゃるかもしれませんが、そういう人たちであると決めつけて差し支えないと思います。(しかしながら、そういう議員を当選させる有権者にも責任はあると言わざるを得ません。)
 それでも、あえて問います。あなたちは、どこを向いて仕事をしているのですか?
by T_am | 2009-06-23 21:16 | あいまいな国のあいまいな人々
 人間はものごとを理解するときに、善いか悪いかの二元論で捉えがちであるといえます。もっと大胆にいえば、好きか嫌いかといってもいいと思います。
 私たちには、自然界に存在するすべてのものと身の回りで起こるすべてのできごとを、このどちらかに分類して理解しようとする性質があります。
 その代表的なものがマスメディアによる世論調査であり、「あなたは麻生総理を支持しますか?」という質問などは、典型的な二元論に基づく設問です。この設問に対しては、一応「どちらでもない」という選択肢も用意されていますが、回答を集計する際に注意を払われることはまずありません。指示する人の割合がどれだけあるかが常にクローズアップされて取り上げられています。

 以下、余談となりますが、自然界に存在するものと身の回りに起こる出来事(長ったらしいので、以下「事象」と書くことにします。ですから、以後「事象」とあったら、それは「ご自分の身の回りのありとあらゆるものとできごと」であると思ってください)は、本来人間の思惑とは別個に存在し、また発生しています。人間はそれらの事象について、自分にとって都合のいいもの「善い」とか「好き」というグループに括り、都合の悪いものを「悪い」とか「嫌い」というグループに括る傾向があるのです。
 微生物によって有機物が分解されることを腐敗といいます。どこかの国では政治家や官僚に対する悪口として使われる場合もありますが、この用法は本来の意味ではありません。
 微生物によっては有害物質をつくるものもおり、この場合腐敗は食中毒の原因となります。また、有機物が分解されて悪臭を発する物質(硫化水素やアンモニア)が生成されて腐敗臭を放つこともあります。このように、腐敗というのは人間にとって都合の悪いことが多いのですが、微生物による分解がチーズや納豆など人間にとって都合のいい物質をつくる場合は発酵と呼んでいます。その場合、いくら臭くても「発酵臭」ということになります。
 腐敗も発酵も、微生物が有機物を分解するという作用に変わりはなく、人間にとって都合がいいか悪いかによって言葉を使い分けているに過ぎません。

 事象を二元論で分類することは、人間にとって世界をわかりやすいものにします。なんだかよくわからないものを、いつまでもそのままにしておくのは私たちにとって落ち着かないものであり、それよりも白黒をつけてすっきりしたいという欲求は誰にでもあります。

 すべての事象にはプラスの面とマイナスの面とがあり、それは人間の都合とは無関係に発現し、ときには人間を弄ぶかのように振る舞います。
 たとえば、雨がまったく降らずに干害ということになれば、飲料水や農業・工業用水が不足してしまいます。毎年のように報道される四国の早明浦ダムの貯水率は水不足の象徴のように扱われています。
 適度に降る雨は、人間にとって恵みの雨となりますが、狭い範囲で短時間に大量に降ると今度は洪水をもたらすことになります。
 雨の降り方は人間の思惑とは無関係に決定されますし、また人間がどうこうできるものではありません。

 ところが、人間が制御できると思われている悪い自然現象があります。
 そのひとつは紫外線です。紫外線はシミやそばかす、皮膚ガンの原因にもなりますが、微生物に対する殺菌作用があります。このように、紫外線は人間にとって有用でもありますが、ときとして害を及ぼすものであります。そこで、文明国の人間は紫外線をカットする道具を発明し、商業ベースで流通させています。試みに「UVカット」というキーワードでネット検索をしてみると、実に多くの商品があることがわかります。
 これだけ多くの商品があるということは、それを購入する人がいるということでもあります。つまり、そういう商品を使うことで、私たちは自分の皮膚に到達する紫外線量を減らすことができると考えているということの証左であるといえます。もちろん、中には気休めに過ぎないという場合もあるのですが。

 二番目の悪い自然現象は地球温暖化です。その主な要因は大気中の二酸化炭素ガス濃度の増加であると考えられているために、今後これが増加すると今よりも地球の温暖化が進行すると考えられています。
 そのため、日本では官民を挙げて、二酸化炭素ガスの排出を抑制しようという呼びかけがなされています。今年になって、二酸化炭素ガスの排出を従来よりも抑制すると政府が認めた製品については、その購入(というよりも買い換え)にあたり補助金を支給するという施策がとられました。エコカーの購入に対して減税を行い、なおかつ補助金も支給するというのがそうですし、エコとして認定された家電製品を購入するとエコポイントがもらえることになりました。エコポイントというのは、その点数に見合う他の商品や有価証券と交換できるというものです。
 これらの施策は、二酸化炭素ガスの排出削減に貢献するという理由をつけて大手企業を業績不振から救済することが目的ではないのかとすら思えます。というのは、これらの製品が本当に二酸化炭素ガスの排出削減に効果があるのであれば、政府は企業に対し、そうでない製品をつくった場合は罰金を科すという選択肢だってあったはずだからです。世の中に流通する製品がずべて二酸化炭素ガスの排出に効果があるのであれば、何もせずにいても二酸化炭素ガスの排出は減っていくことは小学生でもわかる理屈です。ところが、政府は経済対策のために、エコカーやエコ家電の買い換えを促進する目的で、これらの購入者に対して補助金(エコポイントも同様です)を支給することにしました。その財源は、未来の私たちが収める税金です。今日借金をしてお金を使うのは政府ですが、その借金の返済金は私たちが収める税金が充てられます。もしも返済に支障をきたすようであれば、当然税金を上げて財源確保が行われることになります。
 つまり、自分が買ってもいない自動車や家電製品の購入に対して支払われた補助金やエコポイントのために、税金を負担するというのが今回成立した補正予算の実態です。
 でも誰もそのことに文句をいいません。
 なぜかというと、日本では二酸化炭素の排出は悪であるということになっているからであり、目先の儲け話につい目が眩むという人間心理も大きいと思います。

 先週の土曜日、NHKで「SAVE THE FUTURE」という番組があり、その中の公開討論コーナーに斉藤鉄夫環境大臣が出席していました。その中で、日本がなぜこれほどまでに高い目標を掲げて二酸化炭素ガスの排出削減に取り組んでいるかという大臣の発言があり、その要旨は「経済成長の著しい中国に対し二酸化炭素の排出削減を促すと、『日本は今までさんざん二酸化炭素を排出したきたのだから、まず率先して削減したらどうか』といわれるので、まず率先垂範しないと中国に対していうことができない」という意味の発言がありました。
 斉藤大臣のこの発言は、二酸化炭素の削減は科学的必然性に基づく人類の課題ではなくて、実は政治問題であるということをあらわしています。
 地球温暖化が進んだときに、その影響をどの国がどれだけ受けるかというと、中国の国土面積は日本の25倍であり、人口は10倍あるので、中国は日本に比べてそれだけ多くの被害を受けることになります。にもかかわらず、中国では二酸化炭素の削減よりも経済成長の方を優先させているのですから、国土も狭く人口も少ない日本が中国の心配をするのは余計なお世話であると思います。
 現実に進行しつつある地球温暖化を阻止するのであれば、二酸化炭素の排出を無条件で現在の水準よりも減らさなければなりません。しかし、現実はそうではありません。2005年の段階で世界に占める日本の二酸化炭素の排出割合は4.7%に過ぎません。一方中国は19.0%を占めており、実に日本の4倍の二酸化炭素を排出しています。ということは、日本が8%の削減を実行しても、中国で二酸化炭素が2%増加すれば、日本の努力は水の泡となってしまうということです。

http://www.jccca.org/content/view/1040/781/

 しかし、斉藤大臣の発言はそうではありません。日本は今までさんざん二酸化炭素を排出してきたのだから、中国に理解してもらうためには、日本が率先して削減する必要があるということをいっています。しかし、現実には中国の二酸化炭素の排出量はすでに日本のそれをはるかに凌駕しています。中国の十年は日本の四十年に相当するのですから、日本が過去にさんざん排出してきた二酸化炭素の量に、既に中国は追いついている可能性が極めて高いのです。しかもその差は今後広がる一方であることは容易に想像できます。にもかかわらず、大臣はそのことにはひと言も触れていません。

 失礼ですが、あなたは本当に日本国の大臣なのですか?

 したがって、政治家にとって二酸化炭素の排出削減というのは、科学的必然性に基づく人類の課題であるとは思われていないということがわかるのです。
 誤解しないで頂きたいのですが、二酸化炭素の排出を政治的に扱うことがけしからんと申し上げているのではありません。むしろ、その排出量を政治的に扱うことは必然であるとさえ思っています。
 そのことは、二酸化炭素の排出量という言葉を「世界の富」という言葉に置き換えて考えてみればわかります。
 世界中の富の総量は有限ですから、それをどの国がどれだけ手に入れるかという問題に置き換わります。事実、帝国主義の時代は、まず強い国から順番に富を手にしていくというものでした。現在は、それが武力ではなく経済力という力に変わっているだけのことです。
 二酸化炭素の排出量に総量規制をかけようとすれば、どの国がどれだけ排出できるかという問題になってしまいます。排出可能な総量は現在の実績値よりも少ないことが感覚的にわかっているのですから、それは言い換えれば、どの国がどれだけ削減するかということになります。この難題を解決するのは政治しかありえません。したがって、二酸化炭素の排出削減という問題は政治問題であるということになるのです。
 私が卑劣であると思うのは、そのようなことには口をつぐんでおきながら、国民に対して二酸化炭素を削減しましょうと呼びかける政治家と官僚たちです。その片棒を担いでいるマスメディアは、国際感覚と政治感覚が欠落しているかあるいはよほどあくどいかのどちらかであると思います。
 その際に用いられている論理が、二酸化炭素の排出は悪いことであり、それを削減することは善いことだという二元論なのです。

 二元論は、なにしろ善いか悪いかのどちらかしかないのですから、誰でも善い方を選ばないわけにはいきません。国家権力が二元論を利用するときは、必ずロクでもない結果を招いており、そのツケを払わされるのは常に国民です。今年の例でいえば、自分が買いもしないエコカーやエコ家電製品を他人が購入するための補助金を捻出するために、税金を負担しなければならない、という状況になってしまいました。そのために、何年後かには消費税率が引き上げられる可能性もあるのです。
 しかしながら、国民である私たちが二元論による思考に囚われている限り、自らの運命を変えるのは相当難しいと言わざるを得ません。

 では、「善い」か「悪い」かに囚われない考え方とは何かというと、ひとつ最近の事例をご紹介しておきます。

 6月16日の読売新聞に、村上春樹さんのインタビューが掲載されていました。その中で村上さんはこう述べていました。

「今年2月、僕がエルサレム賞を受賞した際も、インターネットで反発が盛り上がったようだ。でもそれは僕が受賞するか拒否するかという白か黒かの二元論でしかなく、現地に行って何ができるかと一歩つっこんだところで議論されることはほとんどなかった。」
http://www.yomiuri.co.jp/book/news/20090616bk02.htm

 エルサレム賞を受賞するべきか拒否するべきかという二元論に囚われる限り、村上さんがやったように、現地へ行ってその国の人々にメッセージを述べるという選択肢はうまれません。そして、そのことに思い至ることがないというのが私たちの現実でもあります。
 村上さんの姿勢は、意見が対立したときに両方のメンツを潰さないところで落としどころをみつけて手を打つ、という日本人の得意芸とは異なる次元のものです。そのような発想こそが、私たちを「システム」の蹂躙から救う蜘蛛の糸であると思うのですが、それが欠けているからといって悲観することはありません。
 今日できなくても、明日か明後日にはできるようになっていればいいのです。
 そのためには、まず自分の等身大の姿を見つめることから始まるのではないかと思っています。
by T_am | 2009-06-22 23:30 | あいまいな国のあいまいな人々
 鳩山総務大臣が辞任したことが大きく報道されています。
 おそらく激励の電話やメール、ファックスが多く寄せられたことでしょう。この後で総選挙があるのですから、今大臣を辞めることで失うものは何もないばかりか、やめて得るものは大きいと思います。

 辞表提出後のぶら下がり取材の様子が報道されています。

http://mainichi.jp/select/seiji/news/20090612mog00m010019000c.html

 「大臣はどのような気持ちで辞表を出されましたか。」という記者の質問に対し、「世の中、正しいことが通らない時があるんだなと、今はそういう思いですね。どんなに不透明で悪事を働いていても、私がそのことをはっきりと説明を世の中に対してもしてきましたが、今の政治は正しいことを言っても認められないことがあると。」と答え、さらに「まあいずれ、歴史が私の正しさを証明してくれると。歴史と言っても50年、100年先じゃなくて、1年以内にも証明は出るのではないでしょうか。」とも述べています。

 笑止千万という四字熟語の見本のような発言ですが、極めつけは「自分だっていっぱい失敗してきた人間ですが、汚れたことをやる人間は許せない、それを許したのでは政治にはならない、というのが私の信念だから。」という発言です。
 今問題にされている「国営マンガ喫茶」という施設を百億円以上の金をかけてつくろうとするのは、「国民の財産をかすめ取ろう」とする行為ではないというのでしょうか。今回成立した補正予算には、各省庁がどさくさに紛れて盛り込んだ無駄遣いが実に多いのです。その財源は赤字国債なわけですから、自分たちの利権利得のために国民にその借財を払わせよう(消費税率は12%にすべきだという声も出てきています)としています。その補正予算を通した内閣の総務大臣だった人が、この鳩山邦夫という人です。

 結局、この人はカッコいいことをいっていますが、それは自分の人気取りのためであって、自己の信念に基づいているわけではないと判断せざるを得ません。
 こういう手合いが現場のやることにいちいち口出しすると、現場が混乱してしまい、何一つ実現できなくなってしまいます。責任をとる覚悟もないくせに、現場に対してああしろこうしろと介入するのは卑怯です。こういうことがあると現場で真面目に働いている人間の士気が著しく低下してしまいます。

 今回の一連の動きを見ていると、表面には現れませんが郵政に対し影響力を維持したい官僚と自己の利益に結びつけようとする政治家が組んで起こしたどドタバタ劇であるといってよいと思います。
 この件に関して、色々な政治家が発言していますが、どれもそれぞれの思惑があることがわかり、百鬼夜行という感じがします。こういうときに、その人が高潔な人であるか、あるいはさもしい人であるかがよくわかります。誰がどのような発言をしていたか、よく記憶しておきたいと思います。
by T_am | 2009-06-12 22:01 | あいまいな国のあいまいな人々