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カクレ理系のやぶにらみ

tamm.exblog.jp

時間のある方はお読みください。軽い気持ちで読み始めると頭が痛くなります。

カテゴリ:社会との関わり( 103 )

 今回は以前申し上げた教師の役割についての追加させていただきます。

(教師の役割1)
http://tamm.exblog.jp/10236377/

(教師の役割2)
http://tamm.exblog.jp/10243891/


 勤務時間の終了後会社の若手社員を対象に Excel の勉強会を行っているのですが、時折「おお!」という声が湧き起こります。何かというと、ExcelはもとよりWindows について系統だった教育を受けておらず、自己流でパソコンの操作を覚えた人ばかりなので、きちんと教えてやると、「え、こんなことができるの?!」と驚き、「おお!」という声になるわけです。
 彼らを見ていて思ったのは、教育には驚きと発見が必要なのだということです。驚きというのは感動を伴いますし、発見は面白さを感じさせるようになります。そもそも人がなぜ勉強をするのかといえば、勉強することが面白いからです。逆に、強制された勉強は苦痛をともないますから、いずれ飽きてしまいます。
 驚きを感じ、発見をする主体はあくまでも生徒の方ですから、個人差があります。それでも教師は、驚きと発見のための仕掛けを用意することができます。それがすべての生徒に有効であるとは限りませんが、それでも生徒が感動し、目を輝かせているのを見るのは教師にとってこの上ない喜びであるといえます。
 もしも教師に適性があるとしたら、そのような生徒の姿を見て喜びを感じられることであろうと思います。
by t_am | 2013-07-18 22:27 | 社会との関わり
 今回は年寄りの愚痴になるので文体を変えて書きます。

 経済成長とは畢竟個人消費の拡大によって支えられる。個人消費は、一人あたり消費額×人口に分解できる。一人あたり消費額が増えなくとも人口が増えれば個人消費は伸びてゆく。また、人口が伸び悩んでも一人あたり消費額が増えれば個人消費は伸びることになる。景気を刺激するにはいずれかを増やすことを必要である。
 物があふれている時代に一人あたり消費額を増やしていくということは、極論すれば、まだ使える物をドブに捨てて新しい物に買い換えるというビジネスモデルを構築することである。そんなことはできっこないと思われるかもしれないが、既にビジネスモデルとして確立されている業界がある。
 ソフトウェアの業界がそうである。
 Windows95が発売されてから、OSはこれまでに「98」「Me」「2000」「XP」「Vista」とバージョンアップを続けてきた。私は従順な人間であるから、「2000」以外OSがバージョンアップされるたびに買い換えて来た。なんとなくその方がいいように思えたからである。
 ところがOSがバージョンアップされると、それまで使っていたハードウェアが使えなくなることが多い。機能が強化されているために、ハードウェアに対してもそれに見合うスペックが要求されるからである。こうして、OSが変わるとハードウェアも変えた方がいいということになる。
 なにもそんなに無理をして変えなくてもいいではないかと思われるかもしれない。しかし、OSが変わるとアプリケーションもそれに合わせて変わっていく上に、古いソフトは新しいOSでは満足に動かないことがあるのである。
 たとえば「サクラ大戦2」というゲームがあって、一世を風靡した名作であるけれども、これをWindows Vistaにインストールしても、起動しようとすると「D3drm.dllファイルが見つかりません。」というメッセージが表示されてそこでストップしてしまう。Vistaがサポートしていないからである。幸いなことに、「D3drm.dll」ファイルをネットからダウンロードして、Windowsフォルダの中にあるSystem32フォルダにコピーしたところきちんと起動したので事なきを得たが、そうでなければ捨てなければならないところであった。(ただしこれは、この方法でたまたまうまくいった、というだけのことであって一般的な解決策ではないのでご注意いただきたい。)
 
 OSやアプリケーションがバージョンアップされるとたしかに機能が強化されて便利になっていることは事実である。しかし、以前のものよりも便利になりました、という理由で新しい冷蔵庫が発売されるたびに買い換える主婦がいるだろうか? モデルチェンジされるたびに車を買い換えるユーザーがいるだろうか?(こちらの方は、もしかしたらそういうマニアがいるかもしれない・・・。たぶんいるんじゃないか?)

 ユーザーがOSやアプリケーションのバージョンアップに対応するのは、古い製品のサポートが打ち切られるからである。たとえば年賀状作成ソフトでNo1の普及率を誇る「筆まめ」では発売から2年経つと最新の郵便番号辞書が提供されなくなる。したがって最新の郵便番号辞書を使いたいユーザーは最低でも2年ごとに買い換えなければならないことになる。
 アプリケーションであれば、気に入らなければ使わないという選択肢も残されているが、OSの場合はそうもいかない。セキュリティ上の問題点が発見されてもOSが古ければ何の対応もしてもらえないので、そのままほったらかしである。心配ならば最新の製品に買い換えてくださいということであり、それが嫌であれば自己責任(嫌な言葉である)で使い続けるしかない。実際には、そんなことはできるわけがないので、ユーザーは新しい製品に買い換えなければならないようになっている。
 幸いなことにWindows XPのセキュリティ更新プログラムの提供は2014年まで継続されるので、ユーザーは急いで買い換える必要はない。(その代わり、何らかの不具合が見つかってもセキュリティ上問題がなければ修正プログラムが提供されない。また、新たに登場した技術-つまり新しいソフト-をXPで使おうとした場合正常に動作しないことがあってもマイクロソフト社は責任を負わない。つまり何もしないということである。)

 こうして、パソコンを使い続ける限り、少なくとも数年に一度はソフトを買い換えなければならないというビジネスモデルが確立されている。他の業界から見れば、さぞうらやましいことであろう。今使っている製品が壊れない限り買い換えてもらえないのが普通である。かといってすぐ壊れる製品をつくったのでは世間の信用を失い、他社にシェアを奪われてしまうのは目に見えている。したがって、メーカーとしてはほどよいところで壊れる製品づくりをしておく、ということになる。
 壊れた場合、高額品ほど修理して使い続ける傾向が高いが、そうでない場合新しいものを買った方が安いことの方が多い。
 糟糠の妻という言葉があるように、世の中には古くなってかえって愛着がわくという場合がある(無論そうでない場合も多い)。ものを大切にするということは、消費を抑制するということであるから、景気が停滞することにつながっていく。そのことはわかっているのだが、ものを大切にするという正論を否定するわけに行かないので、メーカーはメディアを使って人間の欲を刺激する、あるいは不安を煽るという方法をとっている。
 そのような時代に求められる人間像というのは、あまり深くものごとを考えず付和雷同しやすいというタイプである。OSが新しくなるたびに購入してしまうという私のような人間がそれにあたる。これからの教育には英会話が重視されると聞いて、我が子を英会話教室に通わせようかと思う親も同様である。レジ袋削減といわれて、わざわざマイバッグを購入した人もそうである。
 日本経済の行く末はこういう善良でおっちょこちょいの人たちにかかっているといえる。ただし、そのような資質は個人の幸福とは何の関係もないことはいうまでもない。
by T_am | 2009-04-10 07:00 | 社会との関わり
 芸能人の子どもが覚醒剤取締法違反で逮捕されるという事件が起きると、決まって親による記者会見が開かれます。二十歳をとうに過ぎた一人の大人が起こした事件についてその親がなぜ謝罪しなければならないのか、不思議でなりません。そう思いませんか?
 このような事件が起こると、報道の見出しは「○○の息子が逮捕」となることに決まっています。もっとも親よりも本人の方が有名であれば「○○が逮捕」となります。このあたりの見出しの使い分けが非常にいやらしいと思います。
 といっても、私たちの方でもこういうニュースを見るとつい好奇心をかき立てられるのですから、私たちも共犯者であるといってもいいと思います。つまり、事件とは無関係なはずの親を会見の場に引きずり出すという圧力に私たちも荷担しているというわけです。
 これが芸能人でなければ、「二十歳過ぎて責任能力のある大人が何をしようと自分には関係ない」と知らん顔を決め込むこともできるかと思います。しかし、芸能人の場合はそういうことをすると「なんだあの野郎」と反感を買うのがわかっているので、記者会見の場で晒し者になることも甘受しなければなりません。当然、そこでのどのような態度をとるかということも決まってきます。対応を誤ると自分にも飛び火してくるからです。
 それにしても、自分がしたわけでもないことに親が謝罪し、それを当然のこととして受け止める視聴者というのはどう考えても間違っています。
 親が子どもを甘やかしていたのではないか? という疑いを持たれることもあります。それが事実だとしても、それは家庭内の躾の失敗であって、そのことを社会に対して謝罪しなければならないという理屈は成り立ちません。子どもの躾に失敗した親は釈迦に対し謝罪しなければならないというのであれば、日本中の親は謝罪し続けなければなりません。しかし、現実にはそんなことをする親はいません。いるとすれば、マスコミによって引きずり出された場合に限られます。そして、それをみたいと望んでいるのは私たちなのです。

 縁坐とは、罪を犯した本人だけでなく、その家族にまで刑罰を加えるというものです。その始まりは律令にあるということですから、ずいぶんと古い刑罰であることがわかります。といっても、縁坐が適用されるのは謀反(君主に対する反逆)、大逆(天皇、皇后、皇太子などに危害を加えること。未遂も含む)、謀叛(外国と通じて国家に反逆すること)、私鋳銭(偽金づくり)の四つに限られていたそうです。いずれも国の体制を覆しかねない重罪ということになります。
 このほかに、私刑として行われる縁坐があります。犯罪者の家族に対して嫌がらせをするというのは今日でも行われており、たいていの場合いたたまれなくなって引っ越していきますが、甚だしい場合は一家無理心中するということもあります。
 このような、大勢による無形の暴力は「いじめ」と何ら変わるところがありません。このたびの中村雅俊の涙をみて溜飲を下げた人は、自分がいつでも「いじめ」の加害者になり得ることを自覚すべきです。
 ただし、その素質は誰にでもあり、私たちは理性によってのみそれを封じ込めることができるということも申し上げておきます。
by T_am | 2009-04-08 07:17 | 社会との関わり
 就職する際に自動車運転免許を持っていることが当たり前ですが、今ではさらにパソコンが使えることも必須となっています。オフィスの中では、一人1台のパソコンが支給されていることも普通に見られるようになりました。
 その結果どういうことが起こっているかというと、ソフトの機能を充分に使いこなせないまま不便な思いをしている人が増えています。一例を挙げると、ワープロソフトには必ず差し込み印刷という機能がついています。展示会の案内状を大勢の人に宛てて発送するときに、宛名を各位とするよりも、相手の名前を書いた方がインパクトが強くなります。案内状の内容は宛名以外皆同じですから、差し込み印刷という機能を使うと簡単に作成できるのですが、これを知らないと宛先の人数分文書を作らなければならないことになります。できあがった文書をコピーして宛名の名前を変え、さらにコピーして名前を変える、これを延々と繰り返さなければなりません。その手間は大変ですし、時間もかかりますから生産性は低くなります。
 どうしてこういうことが起こるのかというと、理由は二つあります。
 一つは、ソフトの使い方についてきちんと教育していないことです。凡庸なシステム担当者はパソコンを与えておけばいいだろうと思いがちであり、自分の会社で行われている業務上従業員がどういう機能を使いこなせた方がいいのかという検証を怠っているからです。
 といっても、このような指摘は「景気が悪いのは政府のせいだ」というのと同じで、言っても無駄だという気がします。できている企業はとっくにやっていることですし、できていない企業はいつまで経ってもできるようにならないからです。
 二番目の理由は、自分がやっている仕事を面倒くさいと思いながら諾々と繰り返している従業員自身の中にあり、これを問題意識の欠落といいます。自分がやっていることが不便で面倒くさいと思ったならば、どうすればそれを改善できるのか考えることは決して無駄なことではありませんが、そちらの方がはるかに手間がかかるので、大半の人は真剣に取り組もうとはしません。
 毎度毎度手間をかけて案内状をつくっているので何とかならないかという思いを持つことで、その人はいずれワープロソフトには差し込み印刷という機能があることに辿り着きます。不思議なことにその人の思いが強ければ、ふと開いた雑誌に載っていたとか、親切な人が教えてくれたとかいうきっかけが必ず与えられます。それさえ見逃さなければ必ず辿り着くのです。
 こうしてワープロソフトソフトのこととして書いていますが、勘の鋭い読者は、このことは仕事全般についていえることだとお気づきのことと思います。
 今やっていることのここがおかしい。あるいは、今やっているやり方では、こういう場合に対応ができない。ではどうすればいいのか? このような問題意識を持つことに慣れてくると、自分で色々と勉強することが当たり前となっていきます。ネットで調べる、本を読む、知っている人の話を聞く、等々。そうやって自分の問題意識を形のあるものにしていく行為が有用であることは、あらゆる仕事に共通しています。
 
 問題意識にもレベルがあり、簡単に解決できるものと一筋縄ではいかないものがあります。簡単に解決できるものには誰でも取り組みますが、そうでないものに対しては諦めてしまう人が多いようです。その場合、作業をすること自体がその人の目的となっていることがあります。私の仕事はこれ、と決めつけているので、手間がかかってもある程度時間がかかってくれた(残業しなくて済むくらい)方がいいわけです。こうなると、これを改善しようとは思わなくなります。
 生産性の低い職場、活気のない職場ではこのような空気が横行しています。そういうところへ行くと、この人たちは自分がやっていることを後生大事に抱えて、これからもやっていくんだろうなあ、と思うことがあります。その人たちに対して責任を負っているわけではないので私は黙っていますが。
 なお、問題意識というのは仕事の改善だけに関係するのではありません。今までやっていなかった新しい課題に取り組むというのも問題意識と根気が必要です。問題意識を持つことができる人とそうでない人とでは、その差が次第に広がっていくのは言うまでもありません。
by T_am | 2009-03-29 09:01 | 社会との関わり
 この間、政府高官の発言が物議を醸したと思ったら、今度は北朝鮮のミサイル迎撃に関する「政府筋の発言」が報道されました。ちなみに、政府高官も政府筋もともに官房副長官のことを指すのだそうです。前回の政府高官は漆間官房副長官でしたが、今回わざわざ「政府筋」と異なる表現をしているのは発言者が前回とは異なるということを示唆しているのかもしれません。
 北朝鮮が発射したミサイルを本当に迎撃できるかどうかは「やってみないとわからない」と見るのが正しいと思います。実験と実戦は違いますから、実験で成功しているからといって実戦でも成功するという保証はどこにもありません。
 したがって、この政府筋の発言はどなたのものかはわかりませんが、ことさら取り上げるほどのものではないと思います。むしろ、こういう発言をマスコミに対し行うというのは何か思惑があって話しているか、単なるバカかのどちらかです。前回の「政府高官」殿はどちらかというと思慮の浅い御仁であることがその後の報道で伝えられていました。トップがトップならば、幹部もそれに似てくるようです。このたびの「政府筋」殿がどちらのタイプなのかはまだわかりませんが、何らかの思惑があって発言したのではないかと勘ぐりたくなります。

 北朝鮮がミサイルを発射して、その迎撃に成功すれば、「わが国のこれまでの防衛方針に間違いはなかった。すぐ隣に何をしでかすかわからない危険な国があるのだから、今後の備えを万全にしておくに越したことはない」という声が興ってくることは確実です。仮に、失敗した場合でも「このように何をしでかすかわからない国がすぐ隣にあるのだから、より実効性の高い迎撃システムを構築しなければわが国の安全保障は望めない」とかなんとか理屈をこねて防衛費予算を増額させようとする動きが出てくることは容易に想像できます。どう転んでも軍事力の増強に結びつくことになると思います。
 NHKのニュースは次のように伝えています。
 http://www.nhk.or.jp/news/k10014927381000.html#

(前略)日本がミサイル防衛システムを作動させたとしても迎撃は不可能だという認識を示しました。そのうえで、この政府筋は「石破農林水産大臣が防衛大臣をしているときに、『ミサイル防衛システムは当たるのか』と聞いたら、『当たると思う』と答えたが、私は『当たらないだろ』と言った。憲法の解釈がどうなるとか、そういうことを延々やって、実際のことを何もやってこなかった、過去50年を反省するしかない。口を開けてみているしかない」と述べました。

 「政府筋」殿は、このことが言いたかったわけです(新聞記事はこの部分をカットしていました)。つまり、この人は、日本の軍事力を実効性のあるものにするために、今回のミサイル迎撃が失敗すればいいと強く望んでいるのです。自分の意見の正当性を立証したいと願うあまり、事態がより危機的な方向に推移することを願うというのはその人の人間性に欠陥があることを現しています。自分の職務に誠実な人であれば危機的状況に陥るのを何とかして回避しようと考えるのが当然だからです。率直に言って、この人は大久保彦左衛門みたいな人であると思いました。もっとも江戸時代の大久保彦左衛門は何の実権も持たない老人に過ぎなかったので、それだけ無害だったといえます。その点、現代の大久保彦左衛門氏はどうでしょうか?
 ついこの間、日本テレビの社長が辞任したばかりだというのに、あいかわらずこの国のマスコミは個人の発言をロクに吟味もせずに一斉に垂れ流すということを行っています。政府要人の発言ともなれば、確かに無視するわけにはいかないのでしょうが、新聞のように最後の部分をカットした報道の仕方では、どういう思惑で発言しているのかがよくわかりません。やはりニュースというのは色々と比較してみないとわからないものであるということが改めてわかりました。

 思うに、このオフレコ発言というのは、しょっちゅう行われているのでしょうね。マスコミはそれをニュースとして報道するかどうか判断して、たいていのものは没にしていると思われます。大スクープになる発言がいつもあるわけじゃなし、大半はたわいもない内容ではないか。 
 実をいうと、オフレコと称して、政府要人の発言を匿名で報道することに何の意味があるのか、私には未だに理解できません。個人の本音を聞き出しても、相手の思惑に乗せられるのがオチです(亡くなった金丸元自民党副総裁はこの名人でした)。ときには失言を引き出すこともあるでしょうが、それは揚げ足取りの材料になるだけです。敵の失点は自分の得点というのがわが国の政治家に共通した信念であり、議論よりも非難をした方が大衆受けするということをよく知っています。これではいつまで経ってもまともな議論の展開は望めません。
 政治の場合、政治家個人の感想よりも、責任のある立場の人としてどう判断しているのか、どう行動していくのかを伝えてもらった方がよほど有益です。記者の方が質問をする際には、それはなぜですか? ということを何度も繰り返していただきたい。そうすると深く考えていない政治家はたちどころに馬脚を現します。満天下に恥をさらすわけですから、そうならないよう緊張感が生まれることになります。
 仲良しクラブみたいな取材環境でつくられたニュースは退屈でなりません。
by T_am | 2009-03-25 06:05 | 社会との関わり
 私用での手紙を滅多に書かなくなりました。理由は電話が普及したから。ちょっとした用件であれば、わざわざ手紙を書かなくとも電話をかければ済むからです。
 現代は、ちょっとした用件をメールでやりとりするらしい。この場合のメールとは携帯電話のメールであり、「らしい」と書いたのは私がそれを使っていないからです。
 商業文を手紙で書いたり、電子メール(この場合はパソコン。以後も「電子メール」と書いた場合はパソコンで発信するメールと思ってください。)でやりとりするということは頻繁に行っています。コミュニケーションを文書でとるか、それとも会話でとった方がいいのかを使い分けています。

 若い人たちで、手紙を書いたことのない人は大勢いると思います。ゆえに、この人たちは手紙を書く際のマナーというか感覚がわからない。携帯のメールしか使っていなければそれも当然でしょう。
 ごくたまに、携帯からメールが送られてくることがあります。そこで困るのが差出人の名前が書かれていないことです。メールソフトのアドレス帳に登録してあれば送信者が誰かわかるのですが、そうでない場合誰が送ってきたのかわからないままとなります。
 もっとも、たいした用件ではないのが多いので実害はないのですが・・・

 手紙の場合、末尾に日付と相手の名前と自分の名前を書きます。これは商業文でも変わりません。そのときに、差出人の名前を名字しか書いていないものがあり、受取人であるこちらの名前がフルネームで書いてあると横柄な感じがします。私の感覚では、相手の名前をフルネームで書くのは、それだけあらたまった手紙であるということであり、それだけに差出人の名前が名字だけというのは失礼であると思うのです。
 これは携帯のメールとは無関係です。そもそもそういう大事な文章を携帯のメールで送るということがありえないのですから、気にする必要はありません。

 若い人の中には、ラブレターを書いたこともなければもらったこともない人が大勢いるのではないかと思います。そんな必要はないといわれればそれまでなのですが、なんだか寂しいような気がします。
 余計なお世話ついでにもうひとつ書いておくと、メールで使われる顔文字は遊び感覚で使われているのだろうと思えばどうということもないのですが、これに頼るのもどうかと思います。それよりも文章に自分の気持ちを込める工夫をし、送られてきた文章の行間を読み取ることを心がけた方がいいように思います。ブログで多用される(笑)というのもそうですね。これを雑誌などの活字媒体で見かけると情けなくなります。一応文章を書くプロが書いているはずの記事なのに、あまりにも芸がないと呆れてしまうのです。
by T_am | 2009-03-23 13:00 | 社会との関わり
 テレビ局と新聞社による世論調査が毎月行われています。毎月、「麻生内閣の支持率が○○%に下落しました」と報道される、あれです。今月もこの前、調査結果が仰々しく報道されていました。覚えておいででしょうか。
 この調査手法は電話調査と呼ばれているもので、コンピュータが無作為に表示した電話番号にかけて、アンケートに答えてもらうというものです。全国民にアンケートをとればいちばんいいのですが、それだと時間と費用がかかりすぎるので、このように無作為抽出した人たちにアンケートに答えてもらうことで全体の傾向を把握しようというわけです。
 このような調査手法を標本調査といい、世論調査ではおおむね千件程度の回答が得られるように電話をかけて調査をしています。
 千件程度の標本数で日本国民の意識がわかるのか疑問に思われる方もいらっしゃると思います。理論的には、これくらいでもいいらしいのですが、標本調査を実施する際には注意しなければならないことがいくつかあります。
 第一に、調査対象(標本)に偏りがないこと。つまり、男性だけに偏ったり、標本が特定の地域・年代に集中しては、結果も偏ったものになってしまいます。
 実は、電話調査というのは固定電話に対してかけるのですから、携帯電話しかもっていない人にはかかってきません。IP電話も同様です。携帯電話しか持っていない世帯というのは独身世帯(社員寮に入っている人を含む)がそうですし、学生もそうです。逆に、固定電話を持っている人というのは、ある程度年齢がいっている人たちです。そうしてみると、マスコミが行っている世論調査というのは、実は固定電話をもっている層に対する調査であることがわかります。その意味では「世論」調査という名称はちょっと問題があるようです。
 けれども、携帯電話しか持っていない人たちが新聞やテレビのニュース番組にきちんと目を通しているかというと、そういう人は少ないと思われます。ですから、世論調査の結果が大々的に発表されても、その結果にそれほど違和感を感じないのは、ニュースをご覧になるあなたが固定電話を持っている層に含まれるからです。
 二番目の注意点は、質問の内容を吟味することです。
 世論調査の中でこんな設問があります。「あなたは、麻生太郎氏と小沢一郎氏とでは、どちらが内閣総理大臣にふさわしいと思いますか?」
 この質問の仕方は二者択一を迫るものであり、他の回答を選択することができないところに問題があります。回答した人の中には積極的に麻生氏(もしくは小沢氏)を信任するという人もいるでしょう。しかし、中には「俺は与謝野さんの方がいいと思うだけどなあ」とか「あたしは岡田さんの方がいいと思うわ」という人がいても、二人のうちどちらかを選ばなければならないという制約が加えられています。そういう人はどのように判断するかというと、「どちらの方がまだましか?」という考え方によって回答することが考えられます。しかし、回答者のそのような心理状態は調査結果には反映されません。
 この回答状況は次の通りです。
 日本テレビ 回答数613  麻生太郎氏27.7%  小沢一郎氏21.7% わからない50.6%
 読売新聞  回答数1065  麻生太郎氏26.4%   小沢一郎氏35.3%  わからない38.3%
 産経・FNN 回答数1000  麻生太郎氏23.2%   小沢一郎氏31%  わからない47%
 朝日新聞  回答数1126  麻生太郎氏22%    小沢一郎氏32%  

 気になるのは日本テレビの調査だけが他の調査と逆の結果になっていることです。標本数が他の調査に比べて少ないので、その分誤差が大きいのかもしれません。
 または、調査主体のイメージが標本を偏ったものにしているということも考えられます。マスコミは不偏不党を謳っていますが、会社によってそのポジションが異なることは周知の事実です。読売や産経は保守的、朝日や毎日はその逆、というイメージができあがっています。ですから回答者によっては、たとえば朝日新聞の調査だったら答えたくないという人もいるのです。逆に、朝日新聞のファンであれば積極的に協力するでしょう。こうしたことが調査標本を偏ったものにしていくことも考えられます。
 日本テレビ1社だけが他の調査結果と異なっているというのはなぜなのか、その原因はわかりません。来月以降の調査結果も継続的にみないとこの結果が意味することについて判断できないと思います。
 それよりも、この調査結果を見る限りでは、「麻生さんよりも小沢さんの方がまだましと思っている人たちの方が多い。それ以上にどちらも総理にふさわしくないのではないかと疑問を持っている人の方が多い」ということだけはわかります。その点、「わからない、無回答」を朝日新聞が無視しているのは理解できません。どうしても白黒つけたいということなのかもしれませんが、それ以外の考えを持っている人たちがいるということをきちんと掲載すべきです。
 各調査の数値がすべて異なっているのは、誤差がつきものであり一致するはずがないからです。ですから、たとえば読売新聞が、「麻生氏の方がふさわしいと応えた人は26.4%いるが、小沢氏の方がふさわしいと応えた人は31%いた」と発表したとしても、その数字には、誤差が含まれているので、あまり意味がないと判断する方が無難です。
 それでも、麻生さんを選んだ人と小沢さんを選んだ人とではどちらの方が多いか? ということについては信頼していいと思います。けれども、麻生さん(あるいは小沢さん)を積極的に信任するという人が世の中にどれだけいるかということについては、この調査からはわからないのです。
 
 むしろ世論調査の読み方としては、数字が前回の調査と比較してどのように変化したか? にウェイトを置くべきでしょう。
 朝日新聞の1月の調査では、小沢さんの方がふさわしいと答えた人は45%いたとのことです。2ヶ月の間に、その割合は減ってしまっています。この間に西松建設の違法献金疑惑が持ち上がり、小沢さんの秘書が逮捕されたということが影響しているからです。

 世論調査の結果というのは、マスコミ各社が仰々しく報道していますが、鵜呑みにすることはできません。調査結果について信頼していいのは、どちらの方が高いか(あるいは少ないか)という比較と、前回の調査と比較して数字がどのように変化したかというトレンドだけです。
 それも固定電話を持っている層に対する調査ですから、固定電話を持たない層がどのように思っているかというのは、調査結果には現れてきません。ですから、○○%という数字にはあまり意味がありません。
 そういうのを「世論調査」と称するのは、羊頭を掲げて狗肉を売るようなものではないかと思います。
 それだけに「世論調査」が世論誘導の道具として使われる可能性もあります。現に、「アナウンス効果」というものがあることが指摘されており、これは特定の政党や政治家に対する報道が有権者の投票行動に影響を及ぼすことがあるというものです。
 今回の調査の中に、献金疑惑に対する小沢代表の説明について「納得しているかどうか?」という質問がありました。さらに「小沢代表は責任をとり代表を辞任すべきだと思うか?」という質問もありました。
 これらの質問は、世論誘導につながりかねない危険性を孕んでいると思います。
 というのは、これらの質問が「小沢代表はクロだ」という前提に立っているからです。確かに、この国では、疑惑を持たれた政治家が国民を納得させるだけの説明をしたというのは過去に一度もありません。中には自殺した政治家もいます。そういうことがあるので、政治家に対するお金の疑惑が報道されると、こいつはクロじゃないかという目で見てしまいがちになります。ですから、「納得していない」と回答した人は小沢代表はクロであると思っているということであって、小沢代表の記者会見の様子を見ているとは限らないということがいえます。仮に見ていたとしてもダイジェスト版でしょう。
 したがって小沢代表の説明に納得しているか? という調査を行ったことによって、同氏がクロであるというイメージ付けが改めてなされたと思います。
 また、責任をとり代表を辞任すべきかどうか、という質問もおかしな質問です。本人が事件に関与していたことが明らかになれば、その責任をとるとすれば国会議員を辞職する以外ありません。国会議員でなくなれば民主党の代表も辞めなければなりません。民主党の代表というポストは違法献金とは関係ないのです。にもかかわらず、代表を辞めるべきだと思うか? という質問はいささか短絡的過ぎると思います。にもかかわらずそのような質問を設けるというのは、本人がクロだという前提に立っているからでしょう。
 そのような先入観に基づいて行われる調査結果を公表することは、国民に対しアナウンス効果をもたらすことが懸念されます。現在、選挙が直ちに行われるというわけではありませんが、政治家や政党に対するイメージはこのようなマスコミの報道によって少しずつ変わっていっているというのが事実です。それだけの力をマスコミは持っているのです。

 日本は議院内閣制ですから、与党第一党の党首が総理大臣となります。したがって、麻生さんと小沢さんと比較して、どちらが首相にふさわしいと思うかという調査をすることは論理的に間違いではないといえます。
 それにしても、政党の党首というのは、自分のあずかり知らぬところで他人と比較されて、その結果を世論調査でございますといって大々的に公表されるのですから、普通の神経の持ち主であればプライドがずたずたになっても不思議ではありません。しかもそのことについて文句も言えないのです。
 ですから、総理大臣というのは割の合わないポストであり、相当強靱な精神の持ち主でなければ勤まらないと思います。だから安倍さん、福田さんは途中で放り出すようにして辞めてしまったわけです。また過去においては在任中に亡くなった人もいます。
 麻生さんの神経が図太いことは周知の事実ですが、小沢さんも相当図太そうですね。
by T_am | 2009-03-16 07:10 | 社会との関わり
 今年のバレンタインデーは、勤務先の女子一同からということでチョコレートをいただきました。
 義理を欠いてはならぬので、ホワイトデーには一人一人にお返しをしましたが、同時に、「来年のバレンタインデーは、みなさんの『チョコレートをあげなければいけないオジサンのリスト』から僕の名前を削っておいてくれませんか。」とお願いしておきました。

 仕事柄出張が多いので、気が向くと事務所の女性たちにお土産を買ってくることがあります。行った地方のお菓子を買ってきて、「これをみんなで分けてね。」と渡すのです。
 これは、自分がそうしたいからしているのであって、何か見返りを期待しているわけではありません。もしも、見返りを期待するのであれば、もっと集中的積極的に贈り物をしなければならず、八方美人的に行動したのでは何の効果も望めないということを、たいていの男は経験によって学習済みです。

 バレンタインデーの義理チョコは、世の女性(おばさんも含めて)の遊び心を掴まえたことから広がりました。チョコレートを贈ってみたいけれどもそんな相手はいないという女性でも、「これは義理チョコです」ということであれば堂々と参加できるようになったのです。
 このようにして定着したバレンタインデーというのは、「遊び」からスタートした風習でした。ところが、誰もが参加するようになったことで誰でもチョコレートをもらえるようになった結果、バレンタインデーというのは身の回りの男にチョコレートをあげなければならない日であるというふうに変化してしまいました。「義理チョコ」が「義務チョコ」になったのです。
 こうなったのは、バレンタインデーは身近な女性からチョコレートをもらえるものだと思い込んでしまっている我々男にも責任があります。それは、「俺にもくれ」という無言のプレッシャーとして、女性には感じられます。プレゼントを誰に贈るかという選択は本来贈る側の自由意志に委ねられるというのが大前提であるにもかかわらず、バレンタインデーに関してはそれが崩れてしまっているのです。(このあたり、まわりと同じでなければなんとなく落ち着かないという国民性が現れているように思います。)
 私がもらった「女子一同から」というのはそのような状況の産物であり、「どうせあげなきゃいけないんだから、もらえない人が出るとかわいそうだわ。でも、今までみたいに、女の子が別々にあげてたんではお金がかかってしかたないから、みんなで一緒にあげた方が経済的よね。」という博愛精神と経済的合理主義によって、職場のおじさんたちに分け隔てなくチョコレートが贈られたというわけです。

 ここで、ちょっと考えてみましょう。
 職場に100人の女子社員がいて、一人千円ずつ出して千円のチョコレートを買うと100個買うことができます。それを職場にいる100人の男性社員に贈ったとしたら、もらった側はどのような行動をとるでしょうか?
 気の弱い男は、100人の女子社員に1個ずつお返しをするでしょうが、合理的に考えるならば、男の方もみんなでお金を出し合って女子社員に1個ずつお返しをするという行動をとることになります。
 このように考えると、バレンタインデーもホワイトデーも大事なのはプレゼントを分け隔てなくあげた(あるいはもらった)という事実であって、あげる側の本音としては、その中身や手法など実はどうでもいいと思っていることがわかります。
 けれども、上司や先輩にチョコレートをあげておかないと後で意地悪をされるんじゃないかしら、と心配される方も中にはいらっしゃることでしょう。事実、そういうこともあると思います。こうなると、たかがチョコレートといいながら、もはや年貢や税金と同じであるといえます。あるいはお中元お歳暮と変わらないといってもいいと思います。
 ですから、女性のみなさんが上司や先輩、おじさんたちにチョコレートを義務的に贈るというのは充分理解できることです。私は、「もうやめようよ。」といいたいのですが、そうもいかないのだろうな、ということもわかります。

 「あげなければならない」という気持ちが露骨にわかる贈り物をもらうと、もらった方は「お返しをしなければならない」という債務を背負うことになります。贈る側がそういう気持ちでいることは何となくわかるものなのです。
 ホワイトデーが登場したことで、バレンタインデーにチョコレートを贈るのと引き替えに見返りを期待しても構わないということになりました。すなわちバレンタインデーというのは女の人にとっては債権を手にする日であり、ホワイトデーは男にとって債務の履行を迫られる日であるといえます。このような人間関係はどこかおかしいと思いませんか?
 私の場合、他人に何か贈り物をするのは自分がそれをしたいと思うからなので、債務を返済するために贈り物をするというのは好みません。そこで、「来年のバレンタインデーは、みなさんの『チョコレートをあげなければいけないオジサンのリスト』から僕の名前を削っておいてくれませんか。」と申し出た次第です。
 こういうことを言うから偏屈オヤジだと思われるのですが、仕方ありません。

 「いいですか、これは義理であげるんですからね。変な誤解をしないでくださいね。」
「あたしがあげないと、誰からもチョコレートをもらえないんでしょ。だからあたしに感謝しなさい。」

 こんなふうにチョコレートをもらったら喜んでお返しをするのですが、世の中思うようにはいかないようです。
by T_am | 2009-03-14 22:01 | 社会との関わり
 前回申し上げたようにシステムを生物としてイメージすると、システムには寿命があったり、自分保存を優先させるために他のものを犠牲にすることがあるということがわかるかと思います。
 システムは本質的には、特定の何かを実現するための手段であるということができると思います。エレベーターの昇降システムのように完全に機械化されているシステムもありますが、世の中の大部分のシステムは人間が運営しています。システムが生物であるかのように振る舞うというのは、それを運営する人間を反映しているといえます。

 このようなことを考えたのは、村上春樹さんがエルサレム賞を受賞した際に行ったスピーチがきっかけです。”Always on the side of the egg”と題されたこのスピーチは、その全文と翻訳がいろんなサイトに掲載されています。そのひとつをご紹介しますので、興味のある方はご覧ください。

http://finalvent.cocolog-nifty.com/fareastblog/2009/02/post-1345.html

 システムが個人に対して行う理不尽な仕打ち(差別や搾取、暴力、抑圧など)は、それが人間によって運営されることに由来します。だからこそ、村上春樹さんのように、自分の思いを他者に対して語りかけることが意味を持ってくるわけです。

 システムを運営する人たちが皆、人格者であり賢明であれば何も問題はありません。しかし、実際はそうではなく、どこかに欠点を持った人がシステムに携わっているのが普通です。これは組織のトップだけに当てはまることではありません。組織の中のあらゆる階層にいえることです。
 人間が運営するあらゆるシステムには、過失、蒙昧、不作為、意趣返し、悪意、そして善意が存在しています。これらは、いずれも人間が持っている性質によるものですから、防ぎようがありません。ただし、組織の末端に近くなるほどその影響力は小さくなり、トップに近づくほど影響力は大きくなっていきます。しかも、誰でも一度手にした権益を手放すのは嫌なものであり、これも人間が持っている性質であるといえます。

 なぜこんなことを書いているかというと、私自身が欠点の多い人間だからです(決して大きな権力を持っているわけではありません)。
 自分でわかっている欠点は外に出ないよう気をつけることができますが、自分が意識していない欠点はダイレクトに現れてしまいます。その結果、周囲の人を傷つけたり、不快な思いをさせていることに気づくことがあります。けれどもそれは、周囲の人の反応を見て初めて気づくことであり、そのときはもう手遅れなのです。
 周囲の人を気づけたり不愉快にさせないために、自分からは積極的に他人に関わらないという(そして関わって欲しくないと思う)スタンスもあるでしょう。その代わり、社会の中でそれなりの役割しか与えてもらえないようになってしまいます。冷たい言い方をすれば、いてもいなくても一緒とみなされるようになるのがオチです。
 ではどうするかというと、こうはなりたくないと思うことをあらかじめ整理しておき、それについて気をつけるというやり方があると思うのです。先に挙げた「蒙昧」「不作為」「意趣返し」「悪意」などは、気をつけていないと簡単に陥ることになるということが自分でもわかっています。
 ですから、こうはなりたくないということとこうありたいと思うことを常々考えるようにしておこうということで、こんなことを書いているわけです。
 それでも、すべての人から好かれるということがあり得ないように、どうしても自分とは相容れないという人も出てきます。それはもう割り切るしかないとも思っています。

 あだし事はさておき、人間が運営する以上、システムにはそこに携わる者の人間性が反映されます。それだけに、システムのあらゆる階層、あらゆる局面において、それに携わる人の何割かが善意の持ち主でなければ社会は機能しなくなってしまいます。あるいは、「きれいごと」や「建前」を信じることのできる人、といってもいいでしょう。
 会社には「社是」があります(ない会社もあるけど)。これらは、その会社の従業員が判断に困ったときの拠り所となるものです。
 したがって、どの会社も「社是」にはきれいごとが書いてあります。「自分さえよければ他人はどーでもいいんだもんね」とか「金儲けのためにこの会社はある」とか「勝った方が正しい」などという社是を掲げている会社はいくらなんでもないでしょうが、そういう社風の会社(つまり、経営者が普段どんなに立派なことを行っていても本音ではこのように思っている会社)は遅かれ早かれ潰れてしまいます。なぜならば、そのためには何をしてもいい、と宣言しているに等しいからです。「悪意」や「不作為」、「意趣返し」という意識は自分だけのものではなく、他人が自分に対して抱くこともあるということを忘れてはなりません。

 人間は善悪の間を揺れ動く振り子のような生き物です。善意の大切さを理解している人は多いのですが、そのような人でも(一時的に)悪意に染まることがあります。
 悪意を持ってシステムを運営することの弊害は枚挙に暇がありません。蒙昧や不作為も同様です。それらは、システムに相対する人を理不尽な目に遭わせるだけでなく、ときにはシステムの内側にいる人を搾取することがあります。システムを運営する人にとって、システムの内側にいる人は細胞と同じであり、基本的に取り替えが効くからです。したがって、運営者にとってこの人たちは「コスト(人件費)」という記号で認識されます。
 システムが個人に対して酷薄な仕打ちをするときは、個人は固有名詞で呼ばれずに普通名詞(記号)で認識されます。すなわち、「愚図」「不良」「劣等生」「客」「申請者」「債務者」などという普通名詞がそれに当たり、他人を記号として認識する限り、人間はいくらでも冷酷に接することができるのです。
 
 そのようなことはしたくないという人はどうすればいいかというと、専ら自分の想像力を磨くことをお奨めします。想像力というのは、こういうことをされれば人は痛いと思うだろうとか、こういうことをされれば悲しいだろうというように、結果をあらかじめ想像できる力のことをいいます。
 自分が殴られれば痛いと感じるように、他人も殴られれば痛いと感じます。自分がお金を奪われれば生活が苦しくなるように、他人だってお金を奪われれば生活が苦しくなります。そのように想像力を働かせると、むやみに人を殴ったり金品を奪ったりすることは躊躇われるようになります。

 人間が持っているこの想像力を刺激するために、小説家は虚構の物語を書こうとするわけです。

 かくいう私も善悪の間を揺れ動く振り子です。
 ときには善意に基づいて私が属しているシステムに携わることもありますが、そうでないこともあります。それでも、この社会のどこかで誰かが自らの良心に従ってシステムに携わっている。それは闇夜に光る蛍のように、あちこちで点いたり消えたりしています。いったん光が消えても、またいつか光ることがあるように、そうやって常に全体の一部が誰かの善意によって運営されていることが、この社会をいくらかでもましなものにしているのだと思います。
by T_am | 2009-03-10 06:50 | 社会との関わり
 本日のニュースで全国の政令市と東京23区の合計40市区での1月の生活保護申請件数が前年同月に対し62%増加したと報道されました。ご覧になった方も多いかと思います。

http://www.yomiuri.co.jp/national/news/20090303-OYT1T00015.htm

 生活保護申請といえば、社会保障費予算の抑制のために、北九州市のように生活保護申請をさせない受け付けないという状況があることが知られています。未だにそれはあるようですが、失業者が申請する際に人権団体の人が付き添ったりすることで、徐々にですが窓口での理不尽な対応は少なくなっているようです。申請件数が大幅に増加したのは、もちろん失業者が増えたからですが、窓口での応対に変化があったことも寄与しているのではないかと思います。

 
 困っている人を救うために生活保護という制度が設けられていると思うのですが、困っている人を門前払いするというのは不思議でなりません。しかも、年金制度のように機能不全に陥りつつあるシステムもあることも思うと、システムというのはあたかも生命体であるかのように見えます。
 システムは、人間が人間のためにつくったにもかかわらず、人に冷たく接することがあります。また、人を傷つけたり、ときには命を奪うこともあります。これはいったいどういうことなのかを考えてみたいと思います。
 ただし、ここで考察するシステムというのは漠然とした概念であり、制度や組織、体系といった広い意味をもっていますが、その中で個人と対立する場合があるものを想定しています。どちらかというと巨大な生命体をイメージしていただきたいと思います。

 社会には様々なシステムが入り組んでおり、その最大のものは国というシステムです。それらはすべて人がつくったものです。
 それゆえにシステムには寿命があります。というのは、それが設計された当時の環境がいつまでも続くわけではないからです。システムを擬似的生物としてイメージすると、環境に適応したシステムは成長を続けますが、環境が変化し、これに適応できなくなったシステムは衰退していくことがわかります。
 国というシステムをみれば、そこには寿命があることがよくわかります。日本の歴史をみるだけでも、時代によって統治形態は異なっています。
 大化の改新によって天皇親政が実現したときは、土地はすべて国のものでした。しかし、開墾を奨励するために土地の私有を認めたことによって、天皇の権力は次第に弱まっていき、藤原氏に代表される貴族がこれに取って代わり、次いで武士による統治システムが設けられました。
 ただし、幕府体制は二度にわたってシステムの再構築が行われました。鎌倉幕府から室町幕府へ代わり、室町幕府が機能不全に陥ってからしばらく経った後で徳川幕府が登場したことは歴史の授業でご存じのことと思います。
 ここで徳川幕府という名称を用いたのは、幕藩体制が徳川家を守るということを目的としていたからです。法的には、徳川家というのは全国の大名の中で最大の勢力であり、その頭領という位置づけに過ぎないのですが、他の大名家の勢力を削ぐということを目的に様々な制度が設計されました。同時に、自らの郎党(旗本・御家人)を維持するということも行われましたが、これは年月が経過するうちに無力化していき、肝心なときに機能しませんでした。結局、この統治システムは徳川家のためのものだったのです。
 明治維新は、欧米列強による侵略を防ぐために徳川家による幕藩体制を否定するというものでしたから、新たに将軍家を戴くというわけにはいかず、天皇を担ぎ出すことになりました。しかし、明治政府が時点では成立した時点では国家のグランドデザインはできあがっておらず、岩倉使節団が欧米を視察した結果、天皇に強力な権力を持たせた立憲君主制をめざすことになったのです。
 明治時代というのは、極東の何の資源も持たない島国が列強の侵略を免れるためにはどうしたらいいかということを懸命に模索した時代です。そのことは日露戦争を乗り切ったことで見事に結実しました。しかし、超大国だったロシアを追い返したということで、その後の日本に自分の実力を過大評価する傾向が続いたことは否定できません。それは、統帥権という明治憲法の弱点を突く形で軍部の勢力を増大させ、ついには軍部に国全体が引きずられるようにして前の戦争に突入し、昭和二十年八月日本は占領下に置かれました。
 その後の日本が独立を回復したのは、当時の人たちの懸命な努力もありますが、列強のパワーオブランスの産物といっていいと思います。その証拠に、現在でも日本は(議会制民主主義というシステムを採用していますが)アメリカの属国といわれてもしかたない部分を残しています。
 
 大急ぎで日本の歴史を振り返ってみたところ、どのシステムも、設計され実際に動き始めた当初は順調に機能しているのですが、環境が変わるうちに矛盾を呈してくるようになっています。どのシステムも自らを存続させるという本能を内包しています。環境が変わってシステムの矛盾が露呈してくると、自己保存の本能が他の目的よりも優先するようになります。(繰り返しますが、幕藩体制は徳川家を守るということを最大の目的として設計されたシステムです。)
 前の戦争の末期でも、ポツダム宣言を受諾する以外ないという状況にまで追い込まれましたが、その時点でも政府首脳の関心は国体護持(天皇の生命の保証)にありました。また、軍部が一億玉砕を唱えていたのも、降伏することは自らを否定することになるからです。国を、国民を守るはずの軍隊が自らを否定することを厭うあまり、国民に死ねとというのは、現代の視点に立てば本末転倒です。しかし、当時はそれが当然というのが社会の雰囲気だったのです。

 あらゆる生物には自己保存本能があります。これは自分の生命を守るということを意味するのですが、人間の場合は自分の地位や力を守るということも含まれます。そのためには、他のものを犠牲にすることもあります。
 システムも生物のように振る舞いますから、自己保存本能が他の何よりも優先するという状況を呈することがあります。
 現代におけるその典型的な例が我が国の総理大臣閣下であり、自民党に象徴される戦後体制(もう少し正確に言うと、田中角栄によって確立された「税金を投入して需要をつくり出すという体制」)です。あるいは行政改革に抵抗する人事院の姿を重ねることも可能です。
 システムの自己保存本能というのは弊害をもたらしますが、誰にもどうすることもできないので、そういうものだと思う以外ありません。唯一の対策は、システムそのものを壊して新しいシステムを導入することです。(「自民党をぶっ壊す」といって首相になった人がいましたが、結局壊すことはありませんでした。システムの内側にいる人なのですから当然といえば当然です。したがって、この人が、自分は引退するけれども息子に後を継がせたいと発言したことも別に驚くに値しません。)

(今回のまとめ)
・システムは生物のように振る舞う
・システムには寿命がある。
・システムには自己保存本能があり、それが最優先とされることがある。
by T_am | 2009-03-05 07:59 | 社会との関わり