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カクレ理系のやぶにらみ

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時間のある方はお読みください。軽い気持ちで読み始めると頭が痛くなります。

カテゴリ:心の働き( 77 )

 今回は、釈迦が発見した人を苦しめる主な原因について述べて見たいと思います。


人を苦しめる「貪欲(とんよく)」
 仏教では過剰な欲望のことを貪欲と呼ぶそうです。なぜ貪欲が人間を苦しめるのかというと歯止めが利かなくなるからです。あれは韓国だったでしょうか、美容整形手術の盛んな国でもっと美しくなりたいと整形手術を繰り返した結果かつての面影を全くなくしてしまった女性がかつてテレビで取り上げられていたことがあります。それだけ整形手術を繰り返したのだから本人は満足しているかというとそうではありません。むしろ手術をすればするほど、今度はここをこうしたい、あそこをこうしたいと不満が募る一方であり、であるがゆえに何度も整形手術を繰り返すことになるわけです。
 実をいうと、この人の顔は度重なる整形手術に耐えきれずにとうに崩れてしまっているのですが、本人はそのことにまったく気づいていません。むしろ瞼は二重の方が美しく見えるとか鼻は高い方がいいとか、個々のパーツを手直しすることにばかり目を向けていて、その結果総合的にどのように見えるのかということにはまるで目を向けようとしないのです。ここにも、妄想は合理性・整合性を欠き、訂正を受け入れようとはしないという典型的な症状が現れていることにお気づきでしょう。


人がものを認識する仕組み
 よくいわれることですが、人は「自分が見たいと思うものを見て、聞きたいと思うことを耳に入れる」という性質を持っています。つまり、わたしたちが認識している世の中の姿とは、ありのままの姿ではなくて、自分自身の価値観によってフィルターがかけられ編集された姿であるということになります。
 そのいい例がFacebookやツイッターです。Facebookをやっている方はご自分のウォールをもう一度ご覧になってください。そこに載っている投稿は、そのほとんどがあなたの好みに合ったものに限られているのではありませんか? なぜならば、あなたが友達として承認したのには理由(というかある種の基準)があるからです。つまり、その基準に合致しない情報はあなたのウォールに載ってくることはありません。

 これはツイッターでもほぼ同じです。
 
 ネトウヨと呼ばれる人のタイムラインは似たようなツイートで溢れているものですし、これは左翼と呼ばれる人も同様です。

 そして苦しみから逃れるためには、自分自身がこれまで気づいてきた価値観の枠組みをいったん外して、世の中のありのままの姿を見るように心がけるということが重要になります。その際にポイントとなるのは「こだわらない」ということです。つまり、いつでも自分を相対化できるようにしておくということですね。


自分自身を抑えきれない心「瞋恚(しんに)」
 瞋恚というのはどちらも怒りという意味です。同じ意味の感じを二つ並べることで以下入りの様子がただごとではないことを示しています。
 しょっちゅう怒っている人がいるとして、その人自身はどうでしょうか? おそらくは血圧は高くなっているでしょうし、すぐ激高するので他人には敬遠されているかもしれません。あまり好かれるタイプとはいえないでしょうね。本人も、他人がそのような目で自分を観ているということに薄々でも気づいているでしょうから、当然愉快であるはずがありません。そうするとますます怒りっぽくなるという悪循環が生まれることになります。
 また、怒りっぽい人が陥りやすい罠として、他人がバカに見えるというのがあります。しょっちゅう起こっているということはそれだけ自分を正当化しているわけですから、自尊心が肥大していくわけです。その結果、自分以外の他人はみんなが愚図でのろまで分からず屋であるということになってしまいます。

 本稿をお読みの皆様の中には、いったいなぜ怒ることが苦しみの原因になるのだと不思議に感じる方もいらっしゃるかもしれません。
 怒るというのはものごとに囚われるということですから、それだけ自分自身を相対化することができなくなってしまいますし、客観的に自分を見つめるということなどできるはずがありません。ですから、妄想に囚われやすいタイプの人には、(それほど多くの人を知っているわけではありませんが)もしかするといつも文句をいっているタイプが多いのではないかという気がしています。

 ところで仏教では、怒りから自分を解放する方法も研究されています。
 その最初のステップは呼吸を整えること。具体的にいうと吐く息を長くし、吸う息を短くするというものです。起こっている状態というのは、呼吸が激しく短くなっているので、呼吸を整えることで興奮状態を鎮めることができるというわけです。そして、思考や感情、心の動きを意識的にストップしてしまいます。それができたら、次は自分の心の動きを観察します。そうすることで自分自身を「腹が立つ」という感情が支配するのではなく、「わたしは今、腹が立つという現象に直面している」と認識するのです。これは、それほど難しいことではないので、何度か試してみていただきたいと思います。慣れてくると、人間関係が楽になってくるはずですから。



わからないことから生じる「苦しみ」(愚痴)
 ここでいう愚痴というのは、いわゆる愚痴をこぼす(いっても仕方のないことをいってしまう)方の愚痴ではなくて、愚かであること、ものごとを正しく認識できないこと、無知であることを指します。
 これまで述べてきた貪欲(とんよく)、瞋恚(しんに)にこの愚痴を加えたものを仏教では三毒と呼び、人間に苦しみをもたらす最も根源的な三つの煩悩であるとしています。なぜ無知であることが苦しみをもたらすのかというと、無知であるがゆえの誤解や思い込みという場合があるからです。
 また、ものごとの本質がわからなかったりすることが原因で苦しんだり、右往左往することがあります。「この人はなぜわたしに辛くあたるのだろう?」とか、「どうしたらこの人は満足してくれるのだろう?」とかいうケースは結構あるのではないかと思います。それらもひっくるめて愚痴(愚かであること)というのは酷であるかもしれませんが、ものごとの本質がわかるとぐっと楽になるということが往々にしてあるものです。
 このように、正しく知ろうとする気持ちを持つことは思い込みを排除することにつながり、苦しみを相対化して客観的に理解することにもつながります。
 ただ、それも度が過ぎると理屈っぽい奴だと敬遠されることがあるかもしれないので、ほどほどにしておいた方がいいと思います。


 これまで、仏教の教えについて述べてきました。けれども人間は誰もが釈迦のように賢くもなければ意志も強いわけではありません。それではそういう人は救われないのかというと、そうでもないと私は思っています。
 そこで、次回は人間に備わっている苦しみを軽減するメカニズムについて述べて見たいと思います。
by t_am | 2015-03-07 19:55 | 心の働き
 前回は、負の感情が人を捕らえて離さないのは、人間が本来持っている心と体のメカニズムが暴走しているのだということを申し上げました。
 今回は、そのような状態に陥らないようにするにはどうしたらいいかについて考察してみたいと思います。

 実をいうと、今からおよそ二千五百年ほども前に、この問題に取り組んだ人がいました。その人の名前を釈迦といいます。釈迦が導き出した悟りは仏教として今日まで伝わっているので、冒頭で取り上げた問題への解答は仏教の教えからの受け売りということになります(ただし、わたし自身の言葉で書いています)。そのつもりでお読みください。


 前回申し上げた負の感情は、ブラックホールのようなものです。といっても最初からブラックホールなのではなく、いったん人の心の中で生まれると少しずつ成長していくのだと考えた方が妥当でしょう。その核となるのは、その人の心の中にある不満や不安などです。これらが負の感情を捕まえては次々と取り込んでいきます。そしてそれらがある閾値を超えると制御不能のブラックホールになってしまい、本人の心を蝕むようになります。 いったんそうなってしまうと、自分自身でもどうにもならないという状態に陥ってしまいます。ですから、そうなる前にそこから逃れることを考えなければなりません。
 ポイントは、負の感情の虜になるというのは決して他人事ではなく、もしかしたら自分の身にも起こりうることなのかもしれないという認識を持つことです。他人事だと思っていると、この後に申し上げることが伝わらないからです。


 最初にすべきことは、自分自身の負の感情の芽は何から生まれているのか、その原因を見つめることです。負の感情は自分の心の中の働きであり、そこには必ず何かしらの原因があります。人によってそれは異なるのですが、それが何かをまず見つける(意識する)ことから始まります。
その次に、その原因がなぜこれほどまでに自分を苦しめるのだろうということについて考えてみることが欠かせません。というのは、原因という出来事は同じでも、人によってそこから受ける苦しみはまるで異なるからであって、それはなぜなのかに目を向けることが必要なのです。
 この過程は結構難易度が高いので、結論を先に述べてしまうと、自分がこれだけ苦しんでいるのは苦しいと思う自分がいるからだということに気づけるかどうかがポイントになります。つまり、自分を苦しめている原因はあるけれども、苦しいと思う自分がいるからこそ自分は苦しいと感じるのだという事実に気づくと、では苦しいと感じる自分とは何者なのだというところにに目が向くことになります。そうやって自分自身を見つめ直していくと、自分自身を形づくっている檻のようなものがあることに気づきます。
 今、わたしはこれを檻と呼びましたが、むしろその人の「価値観」といった方がイメージ的には近いように思います。損か得か、美しいか醜いか、心地よいか不快か、欲しいと思うか思わないか、効率的かそれとも無駄が多いのか、などその人の価値観を測る物差しはいくつもあり、また目盛りの刻まれ方も人によって異なります。こういう価値観の物差しがいくつも集まってその人らしさを形作っているというこをはおわかりいただけると思います。このことは、見方を変えれば、その人の価値観という物差しが集まってできあがったもの(枠組み)が、ときとしてその人を縛る檻にもなるということを意味します。たとえば、「こどもたちを家に縛りつけるようなことはしたくない」といういい方をすることがありますよね。そこから類推していたければ、自分が持っている価値観の集合体である枠組みが自分自身を縛っているということがおわかりいただけるかと思います。

 このように自分自身を縛る檻のことを仏教では「執着(しゅうじゃく)」というそうです。

 ここで、誤解しないでいただきたいのは、このような枠組みはわたしたちが社会生活に適応するために必要であって、それらを無視した方がよいと主張しているのではないということです。この枠組みは生きていく上で必要不可欠のものですが、ほどほどにしておかないと自分自身を縛る檻にもなりかねないということを理解していただきたいと思います。

 話は変わりますが、わたしは学生時代に部活で禅寺へ行って修行のまねごとをしたことがあります。そこでは早朝4時に起きて読経した後に座禅を組み、その後は掃除と食事・練習の後に昼食、午後からはまた練習があってその後夕食。夕食後に銭湯へ出かけるのですがこれが唯一の息抜きでした。帰ってからはミーティングがあって10時就寝。翌朝4時になると修行僧がチリンチリンと鈴を鳴らして起床時間が来たことを知らせます。うつらうつらとしている中で聞こえる鈴の音は地獄の鈴であるかのように思えたものです。
 昔話を長々としてしまいましたが、なぜ禅寺ではこのような非日常的な生活をしているのかというと、そうやってその人が持っている価値観をいったん壊すことが目的なのだそうです。といっても全て壊してしまうと人間は野獣と変わらなくなりますから、最低限必要なものだけは残すわけです。そうやって、無我夢中で毎日を過ごしているうちに、かつてあれほど自分が苦しいと思っていたことがすっかり失せているということに気づくのです。

 このように、自分を縛る「執着」から自分自身をいったん解放してやることで、苦しみから解放されるわけです。では、そういうことは禅寺へ行って厳しい修行をしなければできないのかというと、そういうわけではないと思います。
 「諸行無常」という言葉を聞いたことがおありでしょうか。この世にあるものはすべて変化し、いつまでも同じ形をとどめていることはできないのだという意味です。人間というのは不思議なもので、今のこの状態がいつまでも続くものだとなんの根拠もないのに思い込んでしまう生き物です。ですから、変化する(というよりも変化を強いられる)のをものすごく嫌がるという性質を持っています。これも「執着」の一種ですね。そういう自分自身の姿に気づくことが執着から解放されることにつながるのだといってよいでしょう。
 ですから、なにも禅寺へ籠もって厳しい修行をするばかりが能ではありません。毎日の暮らしの中で他人の言葉に素直に耳を傾け、周囲の出来事を虚心に見つめることの繰り返しの中からでも、自分が持っている価値観の枠組みが実は相対的なものに過ぎないのだと気づくことは可能だと思います。

 次回では、仏教が教える苦しみの原因についていくつか述べてみたいと思います。それがわかれば、苦しみもいくらか軽減されるはずだからです。
by t_am | 2015-03-07 19:50 | 心の働き
 前回に続いて、負の感情が働くメカニズムについて考えてみる第2回目となります。

(被害妄想)
 他人に対するカン違いがきっかけとなって、その人が自分に害を加えようとしていると思い込んでしまうことは誰にでも起こりうることです。ほとんどの場合、些細なことで済んでしまうのですが、ごく稀にエスカレートしてしまう人がいて、そういう心の状態を被害妄想と呼んでいるようです。
 既に申し上げたように、妄想の特徴は合理性・整合性を欠いていること、そして他人の意見を聞こうとしない(訂正を受け入れようとしない)ところにあります。傍で見ているとわかるのですが、なんでこんなことにこだわるのだろうと不思議に思うくらい「囚われている」ことに気づきます。何に囚われているのかは人によって違うのですが、そこには囚われるだけの理由があるようにわたしには思われます。
 嫉妬が妄想に結びついていく条件として「何かしら不満を感じている」ということを申し上げましたが、被害妄想の場合も、同じように「何かしら罪悪感(もしくは不満)を抱えている」ことが、妄想を生み出す要因となっているのではないかという気がしています。
 「罪悪感」というのは、何か失敗を犯したときに、自分が叱責されたり処罰されたりするのではないかと不安に思うことに由来するのではないかとと思います。人は不安を感じているとき、センサーが過敏になっているので、ちょっとしたことであっても自分が心配に思っていることと結びつけて考えがちになります。周囲の人からみれば、そんなの考えすぎだよ、と思うようなことでも本人にとっては無視することができないのです。
 困ったことに、このような「関連づけ」がいったん成立してしまうと、似たような「関連づけが」次から次へと行われるようになってしまいます。こうなると、考えたくないと思ってもつい考えてしまうという制御不能の状態に陥ってしまいます。何かのきっかけで他のことに注意が向いて気が紛れたとしても、それは一時的なものであり、またすぐに妄想の迷宮に立ち戻ってしまいます。このような負のスパイラル(連鎖)が続くと心身ともに疲弊し、本当に病気になってしまうことがあるので、周囲は心配することになります。


(強迫観念)
 出かけた後や車を降りた後で「そういえば鍵をかけただろうか?」と何度も気にしたりすることはありませんか。このようなとき、最も有効な解決策は「確認する」ということに尽きるのですが、それができない場合もあります。そうなるといつまでも不安は消えずに残ります。何か他のことに集中していったんは忘れたとしても、またすぐに思い出して囚われてしまうことになりかねません。
 これまでの例と同じように、ごく軽微な強迫観念というのは誰にでも起こりうる現象です。ところが、それが笑い話で終わってしまう(つまりたいして気にしないでいられる)人がいる一方で、次第にエスカレートしていく人がいることも想像に難くありません。
 たとえば、ジンクスを異常に気にするセールスマンがいるとします。その人には以前得意先を訪問する前にたまたまカツカレーを食べたところ商談が大成功になったという経験から、大事な商談の前には必ずカツカレーを食べるというジンクスをかついでいると思ってください。運良くカツカレーを食べることができれば、このセールスマン氏はリラックスして商談に臨むことができとんとん拍子に話が進む可能性が高くなるといえます。ところが逆に、カツカレーを食べることができなかったとき、このセールスマンの気持ちの中には「もしかしたらうまくいかなくないではないか?」という不安が生まれることになります。不安は余計な緊張をもたらしますから、些細なミスを招きやすくなります。そうするとさらに緊張感は増してしまうので、一層ミスを犯しやすくなるといえます。
 こういう経験が何度か繰り返されることによって、セールスマン氏の中で「商談前にカツカレーを食べると成功する」というジンクスはますます強固なものになっていくわけです。

 ごく軽微な強迫観念は誰にでも起こりうるものですが、それが重度のものに発展していくには「本人の自信のなさ」というのも影響している場合があるのではないかと思います。(もちろん例外もあるでしょう。むしろそうでないケースの方が多いかもしれません。このように例外が常に存在すると思えることが心の健康を保つ上で重要だと思っていただいてよいのです。)
 人間にはいろんな人がいて、中には自信過剰というか根拠のない自信の凝り固まりという人もいます。そういう人は強迫観念とは無縁であろうと思います。

 それでは逆に、他人によって自信を奪われた人はどうなるのでしょうか? よくいわれるのがパワハラというやつです。これは、自分が優越的な地位にあることを利用して、自分よりもより弱い者に対していじめや嫌がらせをするというもので、相手の人格を否定するということも行われます。
 パワハラの被害者が強迫観念の虜になるであろうことは容易に想像できます。たしかにパワハラは物理的に外傷を負わせるわけではありませんが、被害者の心に傷を負わせるという点で加害行為であることに疑いはありません。心の傷によって体調を崩し、病気になったり最悪の場合自らの命を絶つということも起こるわけです。(ただし、心の傷とパワハラとの因果関係を立証するのは困難ですが・・・)

 他人によるいじめやパワハラげ原因で起こる心の傷の進行をくい止めるには、原因となっているパワハラやいじめを止めることが一番の解決策になります。ところが、そうはいっても口でいっていうことをきくような相手であれば何も苦労するはずはないのであって、加害者から身を隠すというのも有効だと思います。
 

(負の感情はなぜ連鎖するのか)
 既に申し上げたように、負の感情は脳内にドーパミンのような物質を分泌させるのではないかとわたしは考えています(根拠はありませんが)。そして、これらの脳内物質は習慣性・依存性・耽溺性をもたらすものと思われます。
 ではいったいなぜ、負の感情が脳内物質の分泌を促すのかというと、これも憶測に過ぎないのですが、「そのほうが個体としての生存に有利だから」と考えた方がいいように思っています。
 なぜかというと、これまで述べてきたような負の感情の連鎖というのは、条件さえ満たせば誰にでも起こりうることであって、その理由は「わたしたちの中にはそのようなメカニズムがあらかじめ組み込まれている」と考えた方が説明がつくからです。自然淘汰の原則からいえば、そのようなメカニズムをもった人間がメカニズムを持たない人間よりも生存競争上有利であったがために、メカニズムを持たない人間が子孫を残すことができず、メカニズムを持った人間の子孫が増えてきたのだと考えることができます。

 このように考えると、負の感情があたかもブラックホールであるかのように人の心を虜にし、捕らえて放さないというのは、人間が本来持っている心と身体のメカニズムが暴走しているのだと解釈することができます。

 そのことがわかれば、では負の感情に囚われないようにするにはどうしたらいいいか?ということが次の問題になるわけです。
 そこで、次回は負の感情から自分を解放するにはどうしたらいいかについて考察してみたいと思います。
by t_am | 2015-03-07 19:48 | 心の働き
 ドメスティックバイオレンス(DV)という言葉を聞いたことがあると思います。広辞苑によれば「夫や恋人などの親密な関係にある男性から、女性が加えられる暴力」と説明されていますが、逆の場合もあるような気がします。また、交際中のカップルの場合、デートDVという言葉もあるくらいですから、割と頻繁に起きていることなのだろうと思われます。

 DVは次第にエスカレートしていく特徴があるようで、こういういい方が適当かどうかはわかりませんが、習慣性と耽溺性があるような気がします。なんだか麻薬みたいですね。

 タイトルにあるように、負の感情(嫉妬、妬み、憎悪、不安、恐怖、自虐など)に囚われた人がなぜそこからなかなか抜け出せないのかを、本稿では考察するものです。そのうえで、負の感情から逃れるにはどうしたらいいのか、ということも考察してみたいと思います。

 いわゆる負の感情とは反対の「明るい感情」(嬉しい、楽しい、心地よい、感動、など)は、負の感情とは違って一過性のものであり、長続きするということはないようです。たとえば、交際中のカップルを例にあげると、好きな人と一緒にいる間楽しいと思っても、いっしょに暮らしているわけではないので、夜になれば家に帰らなければなりません。一人になった後しばらくは余韻を楽しむこともあるかもしれませんが、それまで感じていた楽しさを感じることはなくなります。これは、「嬉しい」「心地よい」「感動」といった他の「明るい感情」にもいえることです。

 そこで不思議に思うのは、なぜこれらの「明るい感情」は長続きしないのか?ということです。

 これは仮説に過ぎないのですが、これらの感情がわき上がるにはエネルギーというか燃料のようなものが必要だというのがわたしなりの回答です。つまり、好きな人と一緒にいるという行為がエネルギーとなって注がれ、楽しいという感情を維持するのだということです。「嬉しい」「心地よい」「感動」といった感情も同様であることはおわかりいただけると思います。

 このことは、人間は自分一人の力では「明るい感情」をつくり出すことができない、ということを意味します。

 かねてより申し上げていることに「幸せか不幸せかというのは、そのときの心の状態を現す言葉であって、その人が置かれた境遇を示すものではない」というのがあります。ですからこうすれば間違いないなく幸福になれるという処方箋は存在しません。意中の人から「好きです」と告白されて「やったー!」と叫びたくなるときもあれば、「えー? ごめんなさい、ちょっとパス」といいたくなる場会だってあるかもしれません。あるいは、高学歴高収入高身長の男性と首尾良く結婚できたとして、一生幸せでいられるかどうかは別問題であるというのはどなたにもおわかりのことと思います。
 ここでいう「心の状態」というのは、自分に対して影響を及ぼす何かの出来事があってそれに自分の心が反応したのだ、ということを意味します。「明るい感情」というのは、まさにこの過程を経て生まれるものなのでしょう。何もないところに、感情を生むことはできないのです。

 とはいうものの、記憶を呼び覚ますことによって、かつて味わった「明るい感情」を再体験することは可能です。一般に「想い出」といわれるこれらの記憶は人を幸せな気分にしてくれますが、時間の経過によってかつての記憶が次第に淡いものになっていくのは避けられません。この「忘れる」ということは、一見都合のわるいことのように思われますが、人間にとってなくてはならない能力であると思っています。(その理由は後で述べます。)

 感情の生成は、私たちの心に影響を及ぼす出来事によってもたらされるのですが、冒頭にあげた「負の感情」は、「明るい感情」とは違ってどうやら自燃性を持っているようにわたしには思われます。これはいい方を変えて、「人間は妄想という思い込みによって負の感情を育てることがある」とした方がわかりやすかもしれません。

(ドメスティックバイオレンスについて)
 一つの例として、嫉妬という感情を取り上げてみましょう。相思相愛のカップルがいたとして、傍から見ると幸せそうな二人に見えるものですが、愛情は相手を独占したいという思いにつながることがあります。好きな相手が誰か他の異性と楽しそうに話しているのを見て嫉妬を覚えるというのは、たぶん誰もが経験しているのではないかと思います。ここで興味深いのは、「嫉妬の感情はなぜか女の人に対して向けられる」ということです。男であれば、自分の彼女に対して「なんでそんな奴と楽しそうに話してるんだ」という思いを持ちますし、女の人であれば「何よ、この女」と、自分の彼氏と楽しそうに話している女の人に対して思うのです。不思議だと思いませんか?

 嫉妬というのは他愛のない誤解に基づくのですが、ある条件の下でそういうことが二度三度続くと習慣性を帯びていきます。すなわち嫉妬が妄想に結びついていくのですが、その条件というのは「何かしら不満を感じている場合」のことです。恋愛関係に何も不満がなければ、おそらく嫉妬という感情も起こらないものと思います。
 ところが、常々何かしら不満を感じている場合、それは嫉妬の炎を燃やす酸素の役割を果たします。確証はありませんが、もしかしたら脳の中でドーパミンのような物質が分泌されているのかもしれません。
 そのように考えると、嫉妬が重なるとその感情の激しさが次第にエスカレートしていくというのも頷けるような気がします。なぜならドーパミンは快をもたらす物質なので、習慣性があったり、より強い刺激を求めるようになるという可能性も否定できないからです。
 暴力や虐待が快楽をもたらすということに異論のある方はいらっしゃらないと思いますので、嫉妬がDVに結びつきやすいということもご理解いただけるものと思います。
 こうして嫉妬という感情がDVという行動にまで発展してしまうと、その人にとっての最大の目的はDVを継続することになってしまいます。もともとあった「何かしらの不満」が解消されない限り、嫉妬や攻撃衝動によってそれを紛らわせるということが続きます。問題は、その「何かしらの不満」が本人の人格の未成熟(相手の気持ちを理解し、思いやることが出来ない。あるいは相手を支配したがる。)によるものである場合、それがもたらす妄想は合理性・整合性を欠き、訂正を受け入れなくなる(他人の話を聞こうとしない)という状態に陥ります。そうなってしまうと、相手を虐待すること、虐待する自分と虐待の対象としての相手という関係を維持することが最大の目的になってしまうのではないかと思っています。
 したがって、DVの加害者が時折見せる見せかけの「優しさ」は、その関係を維持するための演技にほかなりません。相手に逃げられては元も子もなくなるからです。

 今回のテーマはかなり大きいので、本文もそれだけ長くなってしまいました。
そこで、2回に分けることにし、次回は「被害妄想」と「強迫観念」について考察したうえで、負の感情はなぜ連鎖するのかについても考えてみたいと思います。
by t_am | 2015-03-07 19:45 | 心の働き

 他人を支配し服従させるには少なくとも二つの方法があります。一つは他人に対し、物理的な暴力を加え続けること。痛みと恐怖を与え続けることで、反抗する気力を削いでいくやりかたですが、違法であることはいうまでもありません。
 二番目のやり方は、言葉による攻撃を浴びせ続けることです。このときのコツはどのように答えても怒られるという質問を重ねて、相手のストレスを高めていくことにあります。どのように答えても怒られる質問の典型的な例として、相手のミスを見つけ出しては「なぜそんなことをしたんだ!(なぜこうしなかったんだ!でもよい)」という質問があります。「自分が不注意でした」といってくれば、「そんなことでいいと思っているのか!」と怒鳴ることができますし、あるいは「全然気がつきませんでした」といってくれば「お前は何年この仕事をやっているんだ!」と怒鳴ることができます。いずれの場合も、相手はエンドレスで怒られることになります。
 これを毎日のように繰り返していくうちに、相手は、怒られたくないばかりにこちらの顔色を伺い、怒られないようにするにはどういう行動をすればいいのか、どのような判断基準を持てばいいのかを考えるようになります。
 ブラック企業の管理職といわれる人にはこういうタイプが多いように思います。言葉による攻撃を絶え間なく浴びせられることにより、いつの間にかトップの分身のようになってしまい、他人の痛みにはまるで鈍感な人間ができあがってしまいます。この種の人の陥りやすい罠は、「できないのは要するにやる気がないからだ」という思い込みに陥ってしまうということです。管理職に求められる課題は、どうすれば部下が働きやすい環境をつくりあげることができるか?ということのはずですが、実際には、部下に対し精神論を振りかざし、肉体的な努力を要求するだけしかできないという無能人間が量産されていきます。
 ブラック企業は、従業員を消耗させ、その気力と体力を吸血鬼のように吸い上げることで収益をあげる組織ですから、従業員にとってメリットはなく、またどれだけ在籍してもスキルアップにもならないので、さっさと見切りをつけて辞めてしまうのが一番いいのですが、もしもあなたがブラック企業の中で生きのびたいと考えるのであれば、あなた自身がブラックに染まる以外にありません。
by t_am | 2013-12-20 21:19 | 心の働き
 昨日行われた姪の結婚式で乾杯の発声をせよと仰せつかったので、以下のようなスピーチをしてきました。

 新郎新婦のお二人、またご両家の皆様、本日はまことにおめでとうございます。ご指名により僭越ではありますが乾杯の音頭をとらせていただくにあたり、ひと言ごあいさつを申し上げます。
 実は、私来年で結婚してから三十年となります。結婚生活を三十年も続けておりますと、いろいろなことを学習いたします。今日はそのうちのひとつを申し上げたいと思います。
 それは、しあわせ・ふしあわせというのは、その時その場のその人の心の様子を現す言葉であるということです。心の様子を現すわけですから、同じ状況にあっても人によってしあわせであると感じる人もいればそうでない人もいます。
 たしかに、これが手に入れば私はしあわせになれる、これをしてもらえれば私はしあわせになれるということもあるでしょう。けれでもそれがすべてではありません。言い換えれば、これが手に入らないから私はしあわせになれない、これをして貰えない私は不幸だということになってしまい、そういうことばかり考えていると人生少しも楽しくならないのです。
 ですから、しあわせであると感じられるように心の中のハードルを少し下げましょうということが今日私が申し上げたいことでございます。具体的に申しますと、ささいなことでもありがたいと感謝することができる心、わずかなことでも嬉しいと喜びを感じる心、そのような心を持って新郎新婦のお二人にはこれから新しい家庭を築いていっていただきたいと思います。
 今日のよき日を記念し、また新郎新婦のお二人、ご両家の皆様、そして今日お集まりいただいたすべての皆様のご多幸とご健勝を祈念して乾杯いたします。皆様どうぞ声高らかにご唱和ください。乾杯!
by t_am | 2013-12-01 18:05 | 心の働き
 11月25日、高浜原発2号機が定期検査のため運転を停止することになりました。続報がない限り、予定通り停止するはずです。
 福島第一原発の事故以来脱原発の声が大きくなったのを背景に、定期検査のため停止した原発の再稼働はハードルが高くなっています。脱原発を主張する人の中には、このまま再稼働を認めずにすべての原発を廃炉にすべきだと主張する人もいるようです。

 原子炉の運転を停止したからといって、原発事故のリスクが解消されるわけではありません。福島第一原発の4号機は定期検査のため運転を停止していましたが、水素爆発により原子炉建屋が爆発してしまいました。
 また、原発関連のニュースの中でよく耳にする「冷温停止」という言葉がありますが、「冷温停止」状態になればひとまず危険は去ったという解釈、あるいは稼働中の原子炉を停止させればそれだけ安全になったという理解が広まっているようです。そこで、今回は「冷温停止」という言葉について整理してみたいと思います。

 まず「停止」という意味ですが、これは臨界(連鎖的核分裂)状態から脱したということを意味します。核燃料として使われているウラン235は半減期が7億380万年と非常にゆっくりと崩壊していきます。ウラン235の原子核が崩壊する際に放出される2~3個の中性子は、近くにウラン235があれば、その原子核を崩壊させます。そこでも中性が放出されるので、崩壊するウラン235の数は指数関数的に増えていくことになります。これを臨界と呼ぶわけです。
 核分裂の際に原子核は極僅かですが質量を失い、失われた質量は熱エネルギーに変換されます。したがって、核分裂を一気に起こせば、極めて大量の熱エネルギーが発生することになり、これを実現させたのが原爆です。
 原子炉では、核燃料となるウラン235の濃度が低く抑えられており、さらに中性子を吸収する性質を持った制御棒と減速材となる水を組み合わせて、核分裂のスピードを低く抑えるように設計されているので、原子炉が原爆になることはありません。その代わり、大量の熱が発生することになるので、水を冷却剤として用い、そこで発生した水蒸気でタービンを回して発電するというのが原発の仕組みです。(その後水蒸気は2次冷却水によって冷やされて元の水に戻ります。)

 原子炉の運転を停止するというのは、臨界状態から脱するということを意味しますが、それまでの間に行われた核分裂によって燃料棒の中には新たな放射性物質が生まれています。これらの物質も原子核が崩壊する際に熱を放出しています(これを崩壊熱といいます)。 臨界の場合、核分裂が継続して起きているわけですから、熱を発する元が次々とつくられていることになります。一方、臨界を脱すると新たな放射性物質が生成されることはありません。
 それでも、崩壊熱が発生することに変わりはないので、燃料棒を絶えず冷却してやらないと、高温となった燃料棒は容れ物である被覆菅を溶かし、いわゆるメルトダウンという状態に陥ります。
 既に述べたように、核燃料の冷却には水が使われているので、核燃料全体が水で覆われている状態が維持されていればメルトダウンはまず起こりません。その目安として、水が沸騰しない温度である95℃以下にまで温度を下げることが求められており、これを「冷温」状態と呼んでいます。というのは、冷却水が沸騰してしまえば、発生する水蒸気によって水位が押し下げられ、燃料棒が露出してしまう危険性があるからです。

 したがって、稼働中の原子炉を止めるには、まず「冷温停止」状態にすることが必要です。その状態が維持されるうちに冷却水の温度はさらに下がっていくので、充分温度が下がったところで、燃料棒を原子炉から取りだして燃料貯蔵ブールに移し替えるわけです。
 この燃料貯蔵プールに入れられた燃料棒は引き続き冷却してやらなければなりません。そうでないと、燃料棒内部の温度が再び上昇し、最悪の場合は被覆菅を溶かしてしまうからです。福島第一原発の事故の際に、自衛隊や消防が決死の作業で放水したのは燃料棒の温度を上げないようにするためであり、その目的は燃料棒の損傷を防ぐことでした。

 このように、「冷温停止」が意味を持つのは燃料棒を損傷させないというためです。さらにいえば、燃料棒を損傷させてはならないのはなぜかというと、放射性物質を原子炉の外部に拡散させたないためなのです。
 ところが福島第一原発の場合、メルトスルー(高温となった核燃料が原子炉圧力容器を溶かして格納容器の下部にこぼれ落ちている状態)を起こしており、大量の放射性物質をまき散らしてしまっている(しかも現在もそれが続いている)のですから、「冷温停止」だからといって安心してよいわけではありません。もっとも、それまではいつ何時破滅的状況に陥るか知れたものではなかったのですが、「冷温停止」によって油断しなければ破滅的状況に陥ることはなくなったということはできると思います。
 福島第一原発の次の課題は、放射性物質の外部への放出を止めることです。事故直後に比べれば放射性物質の放出はかなり減ったとはいえ、ゼロになったわけではありません。外部への放出を止めない限り事故による被害が収束することはないのです。
 ここまでの工程は、いってみれば応急処置のようなものです。根本的な事故処理策としては溶けてしまったものも含めて核燃料を回収し、完璧に管理できるところに移すことです。(廃炉はその後の作業になります。)
 しかしながら、燃料の回収には十年以上かかると見られているわけですから、それまでの間ずっと「冷温停止」状態を維持させなければならないのです。

 自動車のエンジンであれば、スイッチを切ればエンジンを止めることができ、後は何もしなくてもよいのですが、原子炉は違います。運転を停止したと思って、そのまま何もしないでおくとエンジンが焼き切れてしまい、環境を汚染することになります。したがって、絶えず人が監視し、冷却システムを動かし続けなければならないという厄介さがつきまとうのです。

 運転を停止している原子炉の再稼働に向けてどのように考えたらよいかということについて大前研一さんが興味深い意見を述べています。

(福島原発事故に何を学び、何を生かすべきか)
http://www.nikkeibp.co.jp/article/column/20111115/290563/?ST=rebuild

 それを要約すると、原発がいかなる災害に見舞われようとも電源がすべて喪失するという事態を避けるための設計・設備が必要であるというものです。防潮堤を建設する計画もありますが、いかなる災害が起ころうとも冷却システムが何らかの形で動き続けるようにする方が優先度は高いといえます。
 ただし、冷却水を循環させるポンプの電源が確保されても、冷却水の配管が破断したのでは意味がありませんから、その対策も同時に進めるべきだと思います。福島第一原発の事故は全電源喪失という事態により原子炉の冷却システムが止まったことによると思われていますが、地震による配管の破断もあったのではないかという疑いも晴れていません。したがって、電源の確保にだけ目を向けるのは危険だと思うからです。
 そこで、現在停止中の原子炉の再稼働を認める条件として、いかなる災害に襲われようとも電源が喪失しないこと、および配管が破断しないよう対策を義務づけるのが合理的であるといえます。(はっきりいって、既に行われている非常用電源の手配だけでは不十分です。)

 政府も東電も、福島第一原発の事故は津波という天災によるものだということにしたいのでしょう。というのも、人災ということになれば責任を追及されるからです。そのため、冷静に考えれば優先度は低いとしか思われない防潮堤の建設などという対策を打ち出しているわけです。大津波に耐える防潮堤を建設するとしても、それが完成するまでにはまだ何年もかかります。その間、今回と同じような大津波が襲ってきたら、同じことが繰り返されてしまいます。それよりも、今回と同じような大津波が襲ってきても大丈夫なようにすることの方が先だと思いませんか?

 実をいうと、金に糸目をつけなければ、放射性物質の外部への放出という事故を起こさない原発の実現は可能だろうと思っています。機械を動かすわけですから、原発の内部での事故をゼロにするのは事実上不可能だろうと思います。それでも、放射性物質を外部に出さないようにすることは可能だと思っています。それがちゃんとできていると検証された原子炉から再稼働を認めるというのがもっとも現実に即した考え方であろうと思うのです。

 だからといって原発をこのまま続けていいいかというとそうは思いません。なぜなら、核廃棄物の中でもっともやっかいなプルトニウムが無害化されるまで二十数万年という歳月が必要であり、その間人類が核廃物を管理し続けることができるとは思えないからです。(低レベル核廃棄物でも三百年間の保管が必要です。)
 したがって、これ以上核廃棄物を増やす行為はやめるべきだと思いますが、すべての原発をただちに廃炉にすることは大変な混乱を招き、大きな負担(電気代が数倍に跳ね上がる)を国民に強いることは容易に想像できます。そこで、原発に替わる発電方式が軌道に乗るまでの間、既存の原発を稼働させる方が現実的だと思うのです。

 原発の事故で本当に怖いのは、外部に放射性物質が漏れることです。原発の内部で何が起ころうともそれだけは絶対に避けなければなりません。福島第一原発のような事故がもう一度起これば日本は潰れてしまうという懸念はどなたも持っているはずです。

 政府が、今回の事故は人災ではなく天災だということにしたいために、対策の優先順位を組み替えているのであれば、この大事故から何も学び取らなかったということなります。
もしもそうだとすれば無責任ということになりますし、そうでないとすれば無能であるということになります。私たちは辞めさせる相手を間違ったのかもしれません。
by T_am | 2011-11-27 01:26 | 心の働き
 人間の他人に対する心の状態(印象)には3段階あって、好意的である場合と否定的である場合、そのどちらでもない場合が挙げられます。
 このことは、縦でも横でもいいので、直線的なメーターを想像していただくといいでしょう。
 メーターの左側(あるいは下側)が否定的なゾーンであり、ここは嫌悪や不信といった悪い感情をあらわします。それに対し右側(あるいは上側)は肯定的なゾーンであり、好意や信頼といったよい感情をあらわします。
 中央はそのどちらでもないというニュートラルなゾーンであり、普通の人のメーターはデフォルトでこのゾーンに針があります。つまり初対面の人に会うときは白紙の状態であり、その人に対し偏った感情を抱いているわけではありません。
 しかし、極端に猜疑心が強い人ではデフォルトで針の位置が偏っているということがあります。こういう人は針が左側(あるいは下側)にぶれやすいといえます。
 誰でも他人に対する印象のメーターを何種類も持っていますが、私たちはそのことをあまり意識せずに使っています。「あの人はいい人なんだけど、ちょっと口が軽いのよね。」とか「○○さんは約束したことはちゃんと守るんだけど、あたしのことをいやらしい目で見るときがあるの。」というふうに。

 男と女では、どちらかというと女の方がこのメーターに対して敏感であるといえます。もちろん例外的にケツの穴の小さい男もいるのですが、以下はあくまでも一般論としてお読みください。

 たとえば、セックスに対して、男はやりたいと感じることが出発点にあります(やりたいと思ってもいつでもどこでも誰とでもというわけにいかないので、実行に移さない場合の方がはるかに多いのです)が、女は嫌か嫌じゃないかが出発点となります。だから、女の人を口説いたときに、「イヤよ」といわれたら素直に引き下がらなければならない(「ごめんなさい」とか「いいです」とか「パス」というのも意味は同じです)けれども、「ダメよ」といわれたときは諦めてはいけない、と昔教わったことがあります。
 実際、女の人が「ダメ」というときは意味が何通りもあって、

・まだダメよ。
・今はダメよ。
・ここではダメよ。
・今日はダメよ。
・赤ちゃんができるからそういうことをしてはダメよ。
・もうすぐ家の人が帰ってくるからダメよ。
・音が聞こえるからダメよ。
・人目があるからダメよ。
・ちゃんと避妊しなきゃダメよ。
・シャワーを浴びてからでないとダメよ。

など、数え上げればキリがありません。
 その一方で、キャバ嬢を口説いても彼女たちは「イヤ!」とか「ごめんなさい」ということはまずありません(試したことはないけど)ので気をつける必要があります。彼女たちは次も指名してもらいたい一心で、あなたが太腿を撫でても、必ず「ダ~メ」という気を持たせた断り方をするはずですから、その辺は割り引いて考える必要があります。(そういえば、「腿尻3年、胸8年」という吉行淳之介さんの名言がありました。これはホステスさんの身体を触っても嫌がられないようになるためには、それだけの「修行」が必要であるということをあらわしたものです。ただし、素人の女性の場合、たとえ千年修行しても胸やおしりを触れば嫌がられることに変わりはありません。しつこいと痴漢として訴えられるので、くれぐれも勘違いしないようにしましょう。)

 既に肉体関係にある男女の場合、男はやりたいと思えば見境が尽きませんが、女の場合、たとえ好きな男であっても嫌なときはイヤなのです。うちの女房は俺がやりたいと思ったときはいつもおとなしくやらせてくれるぞ、こう思われるかもしれませんが、それは奥さんが我慢しているというだけのことです。だから夫婦間であってもレイプが成立することだってあるのです。

 思わぬ脱線をしてしまったので、話を元に戻します。
 自分の心の中で他人の印象というメーターの針が動くのは何かがあったときです。何も起こらなければ針は動きません。何かが起こるからその人に対する印象が変わるのですが、同じことがあっても針の動き方は人によって全く異なります。総じて相性のいい人どうしでは針がプラスの方向に動きやすいということができますし、相性が悪い人の場合、針がマイナスの方向に動きやすいものです。または、全く動かないということも起こりえます。
 したがって、誰でも他人からよく思われたいという気持ちはありますが、こうすれば必ず好かれるというマニュアルやノウハウがあるわけではありません。

 仮に、ほれ薬とその中和剤という二種類の薬が密かに発明されたとします。ほれ薬を飲んだ異性は例外なくあなたのことを好きになり、中和剤は、それまでどんなに好きな人であってもそれを飲めば直ちに熱が冷めてしまうという便利な薬です。この二つの薬があれば、あとくされなく好きなだけ恋愛ができるわけですから、人類にとって夢のような薬だといえます。。
 あなたが運良くそれらを入手できたと仮定しましょう。
 誰かにその薬を試してみたくなるはずです。薬を飲まされた方も、飲んだ瞬間にハッピーになれる(あなたはその人のことを好きだから薬を飲ませたわけです。つまり、相思相愛のカップルを瞬時に誕生させてくれる)というところがこの薬の画期的なところですから、あなたが罪悪感を抱く必要はありません。万一、好きだという気持ちが冷めてしまった場合、中和剤を飲ませればあなたに対する気持ちも冷めてしまうので、きれいに分かれることができるのです。どうです? 便利な薬でしょう?
 その便利な薬を一人の異性にだけ使うのか、複数の相手に使うのかともかくとして、このような薬を使ったとしても、そのうちにこの薬そのものが疎ましくなってくるのではないかという気がしてなりません。
 絶対に勝てるギャンブルの方法というものがあるとすれば、それに飛びつく人は多いはずですが、そうやって勝ち続けたとしてもだんだん嬉しくなくなってくると思います。勝つとわかりきっているギャンブルはもはやギャンブルではなく、ルーチンワークに過ぎません。金を稼ぐ手段であると割り切ることができない限り、実に味気なくつまらないものになるはずです。ギャンブルが面白いのは、もちろん勝つからなのですが、それは負けることがあるからです。連戦連敗はもちろんですが、常勝無敗でもだんだん嫌になってくるのです。
 男女の間も一緒です。自分の欲望(性欲や虚栄心)を処理するというふうに割り切れればほれ薬を使い続けることもできるでしょうが、そうでなければしだいに孤独を感じるようになるはずです。

 昔々、ある国に黄金が大好きな王様がいました。この王様は既にたくさんの黄金を持っていましたが、もっと多くの黄金を手に入れたいと思い、神様にお願いして、「自分の手に触れるものはすべて黄金に変わる」という力を授けてもらいました。有頂天になった王様は手当たり次第に黄金に変えて大喜びしていたのですが、やがてお腹がすいてパンを食べようとしたところ、パンも黄金に変わってしまい、結局食べることができませんでした。さらに王様はついうっかり愛娘に手を触れてしまい、黄金像に変えてしまうという過ちを犯してしまいました。こうして王様は国中のものを黄金に変えてしまい、話し相手も食べるものもなくして、一人寂しく飢え死にしていきましたとさ。

 これはギリシャ神話の中のマイダス王の寓話を私が勝手に書き換えたものですが、願いが何でも叶うということはどういうことかを教えてくれる話です。
 思い通りにならないことがあるからこそ思いが叶ったときの喜びも大きく、また、手に入らないものがあるからこそ手にしたときの嬉しさは格別なものがあります。それで満足できれば人間は充分幸せになれるのですから、過大な欲望は不幸の始まりであることに、人類はそろそろ気づいてもいいのではないかと思います。
by T_am | 2009-05-09 07:12 | 心の働き
 自動車を運転する方はご存じのように、ハンドル・ブレーキ・アクセルにはそれぞれ「遊び」が設けられています。アクセルでいえば、ある程度ペダルを踏み込まないとエンジンの回転数が増加しないというのが「遊び」です。遊びが少ない車では、アクセルペダルをほんのわずか踏んだだけで自動車が加速してしまうことになります。これでは車庫入れや徐行運転のときに不便ですし、危険でもあります。遊びという不作動範囲を入力装置に持たせることによって、操作ミスを防ぐことができるようになります。
 
 人間の心にもこのような「遊び」があった方がいいと思っています。
 人間の感情は絶えず変化しています。いことがあれば嬉しくなったり楽しいと思いますし、逆に嫌なことがあれば傷ついたり怒ったりするのが普通です。
 ところがこの社会はストレスに満ちているので、細かいことにまでいちち目くじらを立てていては疲れますし、身が持ちません。もちろん、他人のミスを絶対に許せないという人はいます。また、鋭角の多い人というのもいます。そういう人たちを見ていると、きっと気の強い人なのだろうけれども家族は大変だろうなあ、とつい思ってしまうのです。
 以下、気の強い人には無縁のことを書きます。

 些細なことでも気になって態度や表情に出てしまうというのは、自分が傷つくか他人を傷つけるかどちらかの事態を招きます。このときに弱い立場の方が傷つくことになっているので、大人よりも子どもの方が傷つきやすくなります。
 人を傷つけたり自分が傷つくのが嫌だという人にとって、他人とは深く関わらないようにしようという考え方やニヒリズムが魅力的であることは知っています。その代わり、他者との間にコミュニケーションが成立したときの充足感を得ることはできなくなります。
 この充足感はそうやたらと感じられるものではありませんが、この人ともっと話をしていたい、このままもうちょっと一緒にいたいと思うのは結構いいものであることは保証します。
 人間は意図せずに他人を傷つけてしまうことがあるので、人を絶対に傷つけないというのは不可能です。ただし、そのことを知っているのと知らないのとではまるで違うということも事実です。友達にするならばどちらの方がいいかといえば、知っている人の方がいいに決まっています。
 ネガティブな感情に対して「遊び」を設けるというのは、嫌なことがあっても見ないふり、気づかないふりをすることで可能となっていきます。日本人はネガティブな感情に対してもともと淡泊な民族ですから、そのうちに「水に流した方がいい」と思ったり、あるいは忘れてしまったりすることができるものです。狭い世間で暮らしているので、些細なことであれば目くじらをたてない方がいいということが経験的にわかっているのではないかと思います。
 けれども誤解しないでいただきたいのですが、理不尽な仕打ちを受けても我慢すべきだというのではありません。私の場合、そういうときは断固戦うことにしています。その分世間が狭くなることもありますが。
by T_am | 2009-03-27 06:58 | 心の働き
 黄砂のせいで鼻水が止まらない。事務所の中にいればそれほどでもないのだけれども、出張に出ているのでもろに黄砂を吸い込むことになるようだ。
 喉が痛むうえに悪寒がするところをみると風邪のひき始めらしい。ドラッグストアに飛び込んで風邪薬を買って呑む。風邪かなと思ったらすぐパブロン、じゃなくてすぐ薬を呑むことにしている。市販薬でも効果がなければ、かかりつけの医者にいって薬をもらう。風邪はひき始めが肝心。なんだか薬の宣伝文句ばかりだけれども、本当にそうなのです。ひき始めの対応如何で風邪はこじれもし、また、すぐ直りもします。
 それにしても、悪寒がするときに、駅で女子高校生の短いスカートを見ると寒気が倍増しますね。今年はストッキング(黒が流行しているらしい)を履いている娘が多いけれども、数年前は生足の娘が多かった。もろに木枯らしを受けて足を真っ赤にしているのを見ると、そこまでして自分をかわいく見せたいかと嘆息したものです。

 「『オシャレしようと思ったら、少しくらい寒くても我慢しなさい』ってお母さんにいわれたの。」
 
 これは、高校生の頃デートしたときにガールフレンドが言ってた言葉です。初冬なのに薄手のセーター一枚だったので、「寒くない?」と聞いたところ、こう答えたのです。ガールフレンドにこう言われると、なんていぢらしい、と思うから不思議です。多少の我慢をしても自分をかわいらしく見せたいという心理は同じでも、自分のガールフレンドだと可憐だと思うのですが、赤の他人だと、こいつらどうかしてるんじゃないか? と思ってしまいます。
 矯正下着もそうですね。胸を形よく見せるブラすっかり定着しました。値段が高めなので、普段は安物の下着をつけていても、デートのときは必須アイテムとなっています。女の子はパンツだけで勝負すると思ったら大間違いです。デートのときは素直に褒めてあげましょう。「今日はとても可愛いよ。」
 そうすると女の子は本当に可愛くなっていきます。

 女の人はいくつになっても、可愛いと言われると嬉しいようです。それも、どうでもいい男から言われるよりは好きな男から言われ方がはるかに嬉しいようですね。だから、お父さん方もたまにはご自分の奥さんを褒めてあげてください。
「今日はなんだか可愛いね。」
 もしかすると、夕ご飯のおかずがいつもより一品多くなるかもしれません。ただし、お父さんの日頃の言動によっては、「何よ。何か下心があるんじゃないの?」と疑われかねませんのでご注意を。
by T_am | 2009-03-19 07:01 | 心の働き