ブログトップ

カクレ理系のやぶにらみ

tamm.exblog.jp

時間のある方はお読みください。軽い気持ちで読み始めると頭が痛くなります。

カテゴリ:セイヤさんへの手紙( 43 )

セイヤさんへの手紙   沖縄戦の日に思う身体感覚の欠落

 お元気でお過ごしのことと思います。 前回セイヤさんに手紙を書いてから、随分経ちましたが、その間日本の国がおかしな方向に向かっていると思うのは私だけではないはずです。
 昨年成立した特定秘密保護法を皮切りに、安倍政権は、集団的自衛権の行使が容認されるという閣議決定を行うことで解釈改憲を強行しようとしています。政府のそのような動きに対し反対する人たちもいる一方で、賛成する人たちがいることも否定できない事実です。
 見ていると、賛成者は大きく2つに分けられるように思います。
 第一のグループは、日米同盟を堅持し強化することが、アメリカを中心とする国際秩序体制を持続させることになるので、これが日本の経済成長を担保する唯一の方法であると確信している人たちです。僕も昔は同じように考えていたこともあって、あまり大きなことはいえないのですが、正直言って見果てぬ夢であると今では思うようになりました。なぜならば、バブル崩壊後の日本が、経済成長を維持するために払った代償を考えてみると、総額一千兆円にも及ぶ赤字国債、毎年三万人を超える自殺者、非正規雇用の増大という現象が進行しています。さらに、企業の内部留保は増加しましたが可処分所得は目減りしていることを思うと、経済成長というのはいったい誰のためにあるのだろうと疑問に思うのです。
 安倍政権を支持する第二のグループは、隣国である韓国や中国、北朝鮮に対して腹立たしく思っている人たちです。総理大臣が替わるたびに、先の大戦に対するお詫びと反省を表明させられた挙げ句に、少しでも気に入らないことがあると遠慮なく避難してくる国柄に辟易しているというのは私にも理解できます。けれども、そのような状態を日本に押し付けているのはいったい誰なのかが追求されることはありません。中国や韓国を批判することは、そのような体制をつくりあげた連合国を非難することにつながるのですが、そういう意識は日本人の中にはないようです。わずかに大阪市の橋下市長が指摘していますが、戦争に負けるということはそういうことも受け入れざるを得ないのだということを忘れていると思います。極端なことをいえば、そういう汚名を返上したいのであれば、もう一度戦争をしかけて、今度は戦勝国の側になる以外に方法はないと思います。勝てば官軍という言葉もあるのですから。

 この2つのグループを見ていると、人間というのは自分に都合のいいところだけを見て、都合の悪いところからは目を背ける生き物なのだということに気づきます。
 集団的自衛権とは、他国から武力攻撃を受けた国に対し、国連の安全保障理事会による措置が行われるまでの間、第三国が被害国に荷担する権利のことをいいます。誤解されているようですが、集団的自衛権は権利であって義務ではありませんから、攻撃を受けている国に加勢するかどうかは第三国の独自の判断に基づきます。よって手段的自衛権が行使できるというようになっても、仮想敵国に対する抑止力にはなりません。抑止力に結びつけたいのであれば、集団安全保障体制を構築(安全保障条約の締結)する必要がありますが、これは憲法9条によって禁止されているので、憲法98条に違反してしまいます。そこでこのような条約を締結するには、解釈改憲ではダメで、憲法改正手続きをとらなければなりません。
 今の日本人の中には、限定的であれば憲法を改正することはむしろ時代の変化に合致すると考えている人も多くなっているように思いますが、安倍総理をはじめとする政府首脳は官報改正に時間と労力をかけるのが嫌いのようです。その理由として考えられるのは、自分の任期中に改憲を成立させたいと考えているか、もしくは自民党が作成した憲法改正案がとても通る代物ではないと自覚しているかのどちらかでしょう。

 集団的自衛権の行使を容認するというのは、近い将来行使するということがあらかじめ織り込み済みということでもあります。そのことは日本が、紛争の片一方の国とともに参戦するということを意味していますから、これらの国からは敵国というレッテルを貼られてしまうことにつながります。そうなれば、日本の同盟国(はっきりいえばアメリカ)に敵対する国や勢力からは、自分たちの敵であると認識されてしまうことになります。その場合、アメリカで起きた911のような大事件が日本で発生するリスクを真剣に見当しなければならないようになると思われます。

 今、日本の政治経済の第一線から戦前生まれ戦中生まれの人たちが引退しつつあります。これらの人たちには従軍経験こそないものの、空襲や食糧の配給を経験している人たちなので、もう二度と戦争はしないし、させない、という強い信念をもってこれまで取り組んできました。それも戦争がもたらした悲惨さを身体感覚として記憶しているからです。
 翻って、現在政治経済の第一線に躍り出ている人たちは昭和二十年代から三十年代の生まれですから当然戦争経験はありません。
 実をいうと、セイヤさんにも僕にも戦争体験はありません。したがって、その悲惨さを僕らが身体感覚として知っているかというとそうではないということになるのですが、その代わり、セイヤさんや僕には、僕らに戦争の悲惨さを伝えてくれた人たちが経験した苦しさ・切なさ・悲しみを想像し共感する感性はあると思っています。他人の痛みを感じることはできないけれども、その痛みがもたらす苦痛を理解することはできるはずです。

 今の政権が閣議決定により集団的自衛権の行使は可能であるとした場合、これから先日本と日本人が失うものの重さをあの人たちは考えたことがあるのかといえば、たぶん一顧だにしていないのだろうと思います。

 今日は6月23日。かつて多くの命が失われたのはなぜかを考え、同じ過ちを繰り返さないような社会をこどもや孫の世代に残してやるのが僕らの使命であると思っています。かつてセイヤさんのお父さんお母さん、お祖父さんお祖母さんがセイヤさんに伝えることで、あなたに託そうとしたように。
by t_am | 2014-06-24 21:57 | セイヤさんへの手紙
 セイヤさんに手紙を書くのもずいぶんご無沙汰してるような気がします。僕がこのブログを書くのは、世間でまことしやかにいわれていることについて、本当にそうなのだろうか? もっと別な見方があるのではないか、と思うからです。そういう諸々の出来事の中で、セイヤさんを思い浮かべながら書くのが、この「セイヤさんへの手紙」というカテゴリーの文章です。他のカテゴリーとの違いは、思いの強さの違いなのかなと自分では考えています。
 例によって、突然このような手紙を送りつけるご無礼をお許しください。


 福島第一原発の事故以来、僕たちはそれまであまり自覚することのなかった「結論を出したがる病」(これはカオル先生のご指摘だそうですね)に犯されているということに気づかされました。何が何だかよくわからないままという状態は人間を不安にさせるので、自分の中で納得できる論理を見つけたいという衝動にかられるのだろうと思います。むろん僕も例外ではないので、その点反省しなければならないとも思います。

 
 今回取り上げるのは、現在除名騒動の渦中にある桐生市議会の庭山由紀議員のブログです。著作権の問題がある(というよりは引用するのが面倒くさい)ので、リンクを掲載しておきます。どうかご覧になってください。

(むらさきつゆくさの会のおしらせ)
http://niwayamayuki.cocolog-nifty.com/blog/2012/06/post-c9e8.html

 このサイトには、市民会議 「むらさきつゆ草の会」というところが作成した講演会のビラの写しが掲載されています。(ブログのタイトルと団体の名称が微妙に異なるところがご愛敬ですね。)このビラには次のように書かれています。


普通「青色」の花を咲かせるムラサキツユクサが、微量の放射線の影響で突然変異を起こし「ピンク色」の花になります。微量なら安全・無視できると化学的根拠もなしに世間を支配していた放射線の危険性が明らかになりました。
桐生市内の各地でピンクのムラサキツユクサが観察されています。


 最初これを読んだときには、ムラサキツユクサの突然変異のことなどまったく知りませんでしたから、これは調べてみようと思ったのです。
 そこで辿り着いたのが以下のサイトです。


A(科学技術の「発達」を考え直す必要性がある
インタビュー: 原水爆禁止日本国民会議 市川 定夫議長)
http://www.gensuikin.org/gnskn_nws/0707_1.htm

B(放射能から内部被ばくを警告〜現地報告:ムラサキツユクサの雄しべの毛、突然変異を鋭敏に検出 [⑻放射能汚染を防ぐ、低学年のゆったり食事とレシピ])
http://38sera.blog.so-net.ne.jp/2012-05-16-1

C(ホットスポット、放射能の真実:100ミリシーベルト以下でも、危ないです! (その1)2.5ミリシーベルトでも突然変異)
http://onndannka.cocolog-nifty.com/blog/2011/09/post-74cc.html


 この3つのサイトに共通して書かれているのは、「ムラサキツユクサのおしべの毛が放射線によって突然変異を起こし、色が青からピンクに変わる(ことがある)」というものです。最初のブログに掲載されているビラを読むと、おしべの毛の色とは書いてありません。むしろ花の色が変わるのだと解釈するような書き方がしてあります。
 特にBのサイトには次のように具体的に書かれています。

 蕾にX線を当てると、突然変異で青色の遺伝子が障害を受け、ピンク色になることがあります。
 その蕾を11~15日後に顕微鏡で観察すると、雄しべの毛の一部がピンク色になり、突然変異したことが分かります。

 
 さらには、

 約96万本の雄しべの毛を調べ、820個の突然変異を見つけています。
 100ミリシーベルトどころか、2.5ミリシーベルトでも、突然変異が起こることが分かります。



 これを読むと、最初のブログに掲載されているビラに書かれていることと全然違うということがわかります。
 すなわち、

1)突然変異によって色が変わるのは花の色ではなく、おしべの毛の色である。
2)それもおしべの毛の色がすべて変わるわけではなく、ごく一部が変わる。
3)色の変化を確実に観察するには顕微鏡が必要である。

 ちなみに、X線の線量と突然変異率の間には正の相関関係がみられるグラフが掲載されていて、突然発生率が0.001(この数値が、パーセントなのかそれとも単に割っただけの数字なのかはわかりません。つまり突然変異の発生率が千分の1なのかそれとも千分の1パーセントなのかよくわからないのです。820÷96万から推測するとたぶんパーセントだと思うのですが・・・。こういう単位の扱い方は無神経だといわざるを得ません。)を超えるのはX線の線量が20ミリシーベルトの少し手前です。

 もっとも、これらのサイトが主張したいのは、自然に発生する突然変異を除外すると、線量が2.5ミリシーベルトのときに突然変異が発生するということのようです。(詳しく知りたい方はぜひ上記サイトをご覧ください。グラフが掲載されています。)ただし、そのときの突然変異の発生率がいくらであるかはよくわかりません。(不親切ですね。)

 こういうことを長々と書いても、読むのは疲れるでしょうし、書いている僕自身嫌になってきました。そこで、結論を書くことにします。

(結論)
 この実験でわかることは、ムラサキツユクサにX線を照射すると突然変異を起こすことがあり、その結果はおしべの毛の色の変化という形で現れる。


 AからCのサイトを読んで、確実にわかったことがこれです。これ以上でもこれ以下でもありません。
 思うに、ビラを書いた人もAからCのサイトを書いた人も「突然変異」という言葉の持つ悪いイメージを利用したいのでしょうね。しかも、ビラに至っては、放射線を受けたムラサキツユクサはすべて花の色が変わるかのような書き方をしています。もともとムラサキツユクサには花の色が青いものとピンクのもの、さらには白いものが存在するそうですから、ピンクの花が見つかったからといって放射線の影響であると決めつけることはできません。
 おしべの毛の色がピンクに変わることがあるという実験の結果が、どうやったら、放射線の影響を受けたムラサキツユクサは花の色がピンクに変わるということになるのか、僕には全然理解できません。
 たぶん、桐生市ではそれだけ多くの放射線が飛び交っているんだといいたいのでしょうが、それならば線量計を使って毎日計測したデータを地道に公表した方がよほど信頼性があると思います。もしかすると、突然変異を起こしているのは、このビラを書いた人の論理性の方なのかもしれませんね。


付記
 この実験で明らかにされている突然変異の発生率が高いかどうかといえば、まあ、こんなもんじゃないかというのが正直な感想です。突然変異が起こって、それが生物の身体に悪影響を及ぼすようなものであれば、免疫系による攻撃の対象となります。その攻撃を逃れたものだけが、たとえばガンになっていくわけであり、その可能性は(免疫系がきちんと作用していれば)かなり低いと考えてよいと思います。すなわち、突然変異=致命的なダメージというのは考え過ぎであるということです。
 ちなみに、人間の身体の中では、毎日およそ50個程度のガン細胞ができているそうですが、それらが必ずガンになるというわけではありません。

 
by t_am | 2012-06-13 23:39 | セイヤさんへの手紙
 セイヤ様 毎日暑いですね。でも、お元気でお過ごしのことと思います。
 この間のニュースで、民主党の次期代表選に出馬予定の野田佳彦財務大臣が、平成17年10月17日に小泉総理大臣(当時)に出した「『戦犯』に対する認識と内閣総理大臣の靖国神社参拝に関する質問主意書」における見解について報じられていました。
 簡単に抜粋すると、野田氏の見解というのは、「極東国際軍事裁判に言及したサンフランシスコ講和条約第十一条ならびにそれに基づいて行われた衆参合わせ四回に及ぶ国会決議と関係諸国の対応によって、A級・B級・C級すべての『戦犯』の名誉は法的に回復されている。すなわち、『A級戦犯』と呼ばれた人たちは戦争犯罪人ではないのであって、戦争犯罪人が合祀されていることを理由に内閣総理大臣の靖国神社参拝に反対する論理はすでに破綻していると解釈できる。」というものです。この考えは今も変わっていないということが報道されたわけです。すなわち、A級戦犯が合祀されているという理由で、総理大臣による靖国神社参拝を否定する意見には根拠がないということを指摘しているものだといえます。


(野田氏の質問主意書)
http://www.shugiin.go.jp/itdb_shitsumon.nsf/html/shitsumon/a163021.htm


(上記質問に対する小泉総理の回答書)
http://www.shugiin.go.jp/itdb_shitsumon.nsf/html/shitsumon/b163021.htm


 あれから6年経った今日、この問題をもう一度考えてみると、「A級戦犯」という言葉を使うのはもうやめたらどうかと思うのです。
 セイヤさんの方が詳しいと思いますが、戦争犯罪人の定義は「極東国際軍事裁判所条例」第5条第2項に記載されています。ちょっと長くなりますが、その日本語訳を引用してみます。

第五条 人並ニ犯罪ニ関スル管轄
本裁判所ハ、平和ニ対スル罪ヲ包含セル犯罪ニ付個人トシテ又ハ団体員トシテ訴追セラレタル極東戦争犯罪人ヲ審理シ処罰スルノ権限ヲ有ス。
左ニ掲グル一又ハ数個ノ行為ハ個人責任アルモノトシ本裁判所ノ管轄ニ属スル犯罪トス。
(イ)平和ニ対スル罪 即チ、宣戦ヲ布告セル又ハ布告セザル侵略戦争、若ハ国際法、条約、協定又ハ誓約ニ違反セル戦争ノ計画、準備、開始、又ハ遂行、若ハ右諸行為ノ何レカヲ達成スル為メノ共通ノ計画又ハ共同謀議ヘノ参加。
(ロ)通例ノ戦争犯罪 即チ、戦争ノ法規又ハ慣例ノ違反。
(ハ)人道ニ対スル罪 即チ、戦前又ハ戦時中為サレタル殺人、殲滅、奴隷的虐使、追放、其ノ他ノ非人道的行為、若ハ犯行地ノ国内法違反タルト否トヲ問ハズ、本裁判所ノ管轄ニ属スル犯罪ノ遂行トシテ又ハ之ニ関連シテ為サレタル政治的又ハ人種的理由ニ基ク迫害行為。

 ここに記載されているうちの(イ)平和に対する罪に問われたのが、いわゆるA級戦犯です。以下、(ロ)通例の戦争犯罪 に該当するのがB級戦犯であり、(ハ)人道に対する罪 に該当するのがC級戦犯です。こうしてみると、これらは戦争犯罪の分類に過ぎないのですから、それにA級B級C級というあたかも格付けを連想させる訳を充てたのは間違いであると思います。仮に、バカ正直に(イ)号戦争犯罪人、(ロ)号戦争犯罪人、(ハ)号戦争犯罪人という呼称を与えていたら、今日のような混乱は起こらなかったのではないかとさえ思います。

 スポーツ新聞などで、「この大事な一戦であるにもかかわらず○○が負けた。フォアボールを連発した某投手がA級戦犯である。」という書き方をするときがあります。この用例からもわかるように、A級戦犯という言葉には「悪いことをしでかした張本人」というイメージがあるように思います。したがってB級戦犯、C級戦犯というのは、それよりも罪が軽い人々というふうに思われがちです。(僕自身、昔はそのように思い込んでいました。)実際にはA級戦犯で死刑判決を受けたのは7人ですが、BC級戦犯で死刑判決を受けたのは(後に減刑された人を含めて)約千人にものぼるといわれています。

 そういうことを考えると、A級戦犯については日本人全体が思い込みの上に思考を展開しているのではないかと思います。

 でも、こう書くと、A級戦犯の定義である「平和に対する罪」すなわち戦争の計画、準備、開始に関わったのだから戦争の張本人であることは間違いないという反論がかえって来そうです。
 たしかにその通りなのですが、でも、よく考えてみると「戦争の計画、準備、開始」というのは戦争の当事者であれば戦勝国であっても敗戦国であっても同じように行われていたはずであることに気づきます。国際関係が、今にも戦争が起こりそうなほど緊張しているのであれば、どの国であろうとも仮想敵国を想定し、実際に戦争になった場合どのように戦闘をすすめるのがいいかくらいの研究はしているのが当たり前です。
 けれども戦争に勝った側は免責され、負けた側だけが訴追されたというのが極東裁判の実態です。このことは(ハ)人道に対する罪を考えればより明らかになります。
 アメリカでは戦時中国内にいた日系人を強制収容所に入れました。これだって「人道に対する罪」でしょう。さらに、昭和20年3月10日(東京大空襲)、6月23日(沖縄戦の終結日)、8月6日(広島への原爆投下)、8月9日(長崎への原爆投下)という一連の非戦闘員(一般市民)に対する大量虐殺も「人道に対する罪」以外の何者でもありません。

 でも、アメリカ軍が訴追されることはありませんでした。

 戦争の当事者であるうちの一方だけが罪に問われる。その違いは何によるのかというと、結局のところ戦争に勝ったか負けたかの違いによるものだということになります。すなわち極東国際軍事裁判というのは戦勝国による戦後処理の一部であると理解するのが妥当だと思うのです。(裁判が行われた当時ですら、「平和に対する罪」というのは事後法であるからこれを遡って適用させるのは法の不遡及原則に反するという意見がありました。) 戦勝国による敗戦国に対する戦後処理(戦争犯罪人の処罰、領土の割譲、多額の賠償金の賦課など)の是非についてはとやかく言っても始まりません。戦争に負けるというのはそういうことなのだ、ということを理解していればそれでよいと思います。
 しかし、戦後処理にも潮時というものがあります。それがあるからこそ、後になって戦争犯罪人として刑が確定した人たちに対し赦免という措置(野田氏がいう名誉回復)がとられたわけです。
 このことからわかるのは、戦勝国にとって、日本における戦後処理というのはとっくに終わっているということです。

 けれども、当の日本人がA級戦犯(=日本を戦争に引きずり込んだ張本人であり極悪人)という特定のイメージに染まった言葉をいつまでも使うことによって、未だに戦後処理を終わらせようとはしていないのが実情です。したがって、野田佳彦氏が閣僚の靖国神社参拝を正当化するために「A級戦犯の名誉は回復されている」という論理を展開しても、A級戦犯という言葉を使った時点で論理は破綻しているのです。
 韓国や中国が閣僚の靖国神社参拝を批判するのは、日本人がこのようにいつまでも戦争を引きずっていることに気づいているからです。

 A級戦犯という用語を発明した人が誰か僕は知りませんが、よほど狡知に長けた人ではなかったかと思います。A級戦犯というレッテルを貼ることによって、戦争責任を一手に押しつけることに成功したわけですから。
 それも戦争という巨大な出来事に対する清算の一手法であったのかもしれません。誰かに責任を負わせないと次に進めないという悪癖を僕たちは有しています。そうやって誰かを悪者にして、自分たちは無関係であるというふうにしないと精神の平安が保てないからです。
 でも、それは戦争について清算したことにはなりません。単に目を背けているだけに過ぎないからです。
 といっても、あの時代に人々に対し、戦争に突入した責任の一端は日本国民のひとりであるあなたたちにもあるのだといってもしかたないと思います。(現代の高みから過去を批判するのは無意味です。)その代わり、日本人はA級戦犯という言葉がいつまでも横行するように、あの戦争をうやむやにしてしまい、そのためにいつまでも清算することができないようになってしまいました。

 戦争が終わって、戦勝国によって当時の軍人・政治家・実業家たちが戦争犯罪人として裁かれました。ただし、その裁きは戦勝国による一方的な押しつけであるという側面を忘れることはできません。事実、戦犯として刑が確定した人の中には、後日赦免された人たちもいます。それは、戦勝国の関心が報復から日本を復興させることから得られる利益の方にシフトしたと考えられます。敗戦国である日本がこれらの戦後処理に異議を唱えるとはできない相談でした。ただひとついえるのは、戦争犯罪人たちが赦免された時点で戦勝国による戦後処理は完了したということになるのですから、日本がいつまでも戦争責任は誰にあるのかということを引きずる必要はないのです。
 もっとも、現代的な解釈をすれば、大小の程度の差はありますが戦争責任というのはその時代の国民のすべてが負うものであるといえます。このことは911からイラク戦争に突入していったアメリカの姿を見ていれば頷けると思います。当時のアメリカ世論は戦争支持が圧倒的多数を占めていました。
 だからといって、あの時代の日本人を非難してもしかたないと思います。というのは現代の高みから過去を批判するのは無意味ですし、卑怯でもあるからです。
 それよりも、これからどうするかを考えた方がよほど建設的だと思いませんか? 未来を見つめるためには、A級戦犯という人を惑わす言葉を使わないこと、そこから始まるのではないかと思うのです。
by t_am | 2011-08-18 23:28 | セイヤさんへの手紙
セイヤさんへの手紙    経済成長は本当によいことなのだろうか?

 セイヤさん こんにちは。

 時々新聞やテレビでGDPの伸び率について報道されることがあります。GDPの伸び率=経済成長率であり、過去の推移をみると、西暦2000年から2007年まではGDPは少しずつですが伸びて来ていました。その割に景気がよかったという印象がないのは不思議です。
 単純かつ素朴に考えれば、経済が成長すればそれだけ国内で回るお金が増えるわけですから、それまで貧しかった人もその恩恵の一部を蒙ることができるはずです。かつての高度成長時代がそうでした。
 GDPというのは、一言でいえば、消費と企業による投資と政府による支出の総和です。したがって、消費が前年よりも下回っても、投資や政府による支出の伸びがそれを上回れば、総和であるGDPは伸びることになります。
 緩やかではあるが景気は回復しているといわれても実感がともなわなかったのは、ここに由来します。そういう意味で、経済成長と景気とは必ずしも一致しなくなったといえるでしょう。
 その理由の最大のものは、グローバリズムというアメリカ式会計基準の導入でしょう。企業が財務体質を強化するために内部留保の拡大に励んだ結果、利益を計上していながら給料が上がらないという状態が何年も続きました。消費者にすれば、支出にまわすことのできるお金が増えない(ということは、企業にとっては売上げが上がらないということになります)ので、景気がよくならないという思いがつきまとうことになるわけです。

 それでは、給料を増やしてやれば支出が増えるのだから、景気は自然と回復するのではないか、という考えが出てくるのは当然です。
 しかし、日本の社会においては、企業は人件費を増やさないという選択肢をとらざるをえないようになっています。というのは、これからまだ何年もの間、社会保険料が段階的に上がっていくことが決まっているからです。
 ご存知のように、社会保険料は本人が負担するほか企業も負担することになっています。このため、今後数年間企業の人件費はイヤでも増大することが決まっているのです。そこで、企業は正社員の人数を減らし、その分を非正規雇用の労働者を増やすことで人件費の軽減を図っています。非正規雇用の労働者は正社員に比べれば給料も安く抑えられていますから、非正規雇用が増えれば、日本全体では消費支出に回せるお金が減ることになります。まして、一昨年の金融危機のように、業績が悪化すれば非正規雇用の労働者は簡単に解雇することができるわけで、それが如実に表れたのが一昨年末の「年越し派遣村」という現象でした。

 先に、GDP=消費支出+企業による投資+政府による支出 であると申しました。見方を変えれば、企業が投資するお金はエンドユーザーに対する売上げがその原資であることがわかります。また、政府による支出は税金が原資ですから、これも一般の市民が負担していることになります。法人税や事業所税は違うとおっしゃるかもしれませんが、それらの企業が支払う税金も、元を辿れば、エンドユーザーに対する売上げなのです。
 ところが雇傭が先細りになって、所得が増えない、あるいは所得が減るというのが今の時代であり、ここに少子化という現象(昨年1年間で日本の人口はおよそ18万人減ったというニュースがありました)が加わるのですから、国民の購買力は衰える一方です。
 そこで、経済成長はよいことだと考える人たちは、なんとかして消費支出を増やそうということを考えるわけです。
 その結果打ち出されたのが、エコカー減税やマイカー買い換えの補助金支給策であり、エコポイント制度です。高速道路が土日千円で乗り放題というのもこの方針に沿ったものであると考えられます。太陽光発電装置に対して自治体や国が補助金を出すのもそうです。今年から始まるこども手当や高校の授業料無償化もそうです。
 けれども、ちょっと考えてみると、それらの原資はすべて税金(もしくは赤字国債)であって、結局、補助金や手当とは関係のない人たちが広く薄く負担するということになるのです。
 エコポイント制度によって昨年家電業界の売上げは伸びたようですが、財政赤字の立て直しのために、消費税率を上げるべきだという声も次第に大きくなってきています。消費を刺激するために財政赤字が拡大するというのは、極めて危険なことではないのでしょうか。
 たとえていえば、こどもの生活を応援するために親が借金を繰り返すようなものです。その借金は親が返しきれなければ結局こどもが返していかなければなりません。となれば、こどもに金を与え続けるよりも、自立できるように支援する方がよほど健全といえるのではないでしょうか?

 消費支出を増やすといっても、生活者の実感は、こどもの養育費や教育費、ガソリン代などどうしても必要な支出がどんどん高くなっていっているというものであり、それらを払いきれないのではないかという不安がつきまとっています(現実に払いきれないという人たちも大勢出ています)。
 それは収入が増えていないということに由来しています。
 収入が増えないので結婚できないという人たちもいる一方で、すでに結婚していても、二人目三人目のこどもをつくりたいと思っても現実がそれを許さないという夫婦もいます。このような状況下では少子化とそれに伴う需要の減少が進むのも当然といえます。
 
 こうしてみると、日本の社会は悪い方へと転がっていくようなしくみになってしまったというふうに思えてなりません。
 それを解決するためには経済成長率が大事なのだと政治家や経済の専門家はいうのですが、GDPが伸びてもそれは企業の内部留保と国の借金が増えるだけであり、いったい何のための経済成長なのかと疑問に思ってしまいます。

 経済成長は本当によいことなのでしょうか?
by T_am | 2010-04-17 08:06 | セイヤさんへの手紙
 日米間の密約に関する考察の続きです。

 以下は、昨日のasahi.com からの引用です。


 衆院外務委員会(鈴木宗男委員長)は10日の理事懇談会で、日米間の密約問題を調査するため、19日に参考人質疑を行うことを決めた。外務省元事務次官の斉藤邦彦氏と元条約局長の東郷和彦氏、元運輸相の森田一氏、元毎日新聞記者の西山太吉氏の4人から3時間にわたって話を聞く。

 また、民主、社民、国民新党の与党3党の国対委員長は10日、国会内で会談し、密約問題で、歴代の首相、外相経験者を衆院外務委員会などに参考人招致することで一致した。

 斉藤氏は1987年から2年間、密約を知り得る立場である条約局長を務めた。東郷氏も98年から1年間の条約局長時代、持ち込み密約関連の資料を整理したと朝日新聞の取材に証言している。

 森田氏は旧大蔵省の課長補佐時代に、沖縄返還に際して米側が本来支払うはずの土地の原状回復費400万ドルの負担にかかわったと証言。西山氏は、この沖縄返還時の密約に関する機密電文を特報した記者だ。

 歴代首相、外相経験者の参考人招致を決めた民主党の山岡賢次国対委員長は「真相を究明して国民にもお知らせしていく」と述べた。必要があれば元職の首相、外相経験者も参考人として呼ぶ考えも示した。また、国対委員長会談では、外交文書の保存や公表のルールについて国会で議論していくことも決めた。

http://www.asahi.com/politics/update/0310/TKY201003100331.html


 長くなって恐縮ですが、もうひとつ引用します。こちらは本日のasahi.com からの引用です。


 外務省の政務三役が与党議員から意見を聞く外務省政策会議が11日開かれ、日米間の密約問題が議論された。岡田克也外相は、19日に衆院外務委員会の参考人質疑に立つ元外務官僚の守秘義務の解除について、「委員会として要請された時点で考えたい」と述べ、検討する意向を示した。

 外務委は斉藤邦彦・元事務次官、東郷和彦・元条約局長への質疑を予定しているが、公務員は退職後も、職務で知り得た秘密を明らかにしてはならない守秘義務が課せられている。ただ、国家公務員法は大臣が許可した場合は公表できると規定しており、外務委員長の鈴木宗男氏が「国民に真実を明らかにするため」として許可を求めた。

 また岡田氏は、密約が政権交代後も効力があるかどうかを問われ、「政府と政府の約束なので直ちに失効するわけではない」と述べ、政権交代が密約の効力を失わせるわけではないとの認識を示した。

 核を搭載する米艦船や航空機の日本への寄港・領海通過の可能性についても取り上げられた。岡田氏の「90年代の米国の政策変更で(核が)持ち込まれることはなくなった」との説明に対し、出席議員からは「納得がいかない」との意見も出された。

 さらに、「自民党政権下でうその政府答弁の起案にかかわった外務官僚を処分すべきだ」との指摘も出たが、岡田氏は「悪いのは外務大臣や総理大臣だ」として、処分しない考えを示した。

http://www.asahi.com/politics/update/0311/TKY201003110256.html


 最初のニュースと後のニュースを続けて読むと、参考人質疑に呼ぶ外務省OBに関しては守秘義務を解除し、さらに、密約があったという事実を認めたとしても免責するつもりでおり、「だから、本当のことを言ってもいいんだよ。」というメッセージを送っていることがわかります。
今回招致が決まった四人は出席の意向を示しているそうですから、密約の存在が事実であったと証言するつもりでいるものと思われます。
 これは推測ですが、外務省OBの三人は、密約がありながら嘘をつかなければならなかった状況の方がおかしいと考えており、事実をはっきり証言することによって、この国の姿を正常なものにするきっかけにしたいと考えているように思います。
 また、元毎日新聞記者である西山氏を招致する理由はどこにあるのかを考えると、西山氏を被害者としてクローズアップさせたいのかな、とも思います。外務省機密漏洩事件として裁判になったこの事件は、西山氏が不倫関係を利用して機密文書のコピーを入手したことが暴露されたことによって、密約の存在から取材方法が不適切であったというところに問題がすり替わってしまい、密約の追求がうやむやになったという経緯があります。その点西山氏は政府と検察の陰謀の被害者となったわけですから、外務委員会はそのことを取り上げるつもりなのかな、とも思います。

与党の狙いはその後に予定している歴代総理大臣と外務大臣経験者の参考人招致です。これは「お前、嘘をついていただろう! けしからんじゃないか!」という図式をつくりあげるためのイベントであって、参議院の選挙前に自民党を叩いておくことが真意でしょう。

外務省OBが密約の存在を認め、過去の核持ち込みに関する政府の答弁が嘘であったことを認める。
西山氏は政府による隠蔽工作の被害者である。

こういうお膳立てをしておいて、歴代総理と外務大臣経験者を呼びつけるわけですから、これは魔女裁判と同じです。というのは、彼らを有罪にするつもりで呼びつけるからです。

しかし、情報公開の趣旨からいって、こういうことを政治家がしてはいけません。なぜなら、外交文書の公開とは、政府には国民に明らかにできない機密があるという前提で設けられる制度だからです。今は明らかにすることができないけれども、時間が経ってその機密が過去のものになったときに公開してその評価を後世に委ねるというのがこの制度の趣旨です。そのときに評価するのは政治家の役割ではありません。第三者が公平な目で評価し、議論する中で、しだいに一定の方向に評価が固まっていくだろうというものです。政治家は、それを参考に以後の政策立案に活かしていくというのが筋であって、政治家が評価する作業に荷担したのでは党利党略に利用されるからです。

機密というのは存在そのものを明かすことはできないわけですから、「こういう機密があるということですが間違いありませんか?」と質問されたら「お答えできません」と回答するわけにはいきません。「答えられない」と言った瞬間に機密があることを認めたことになるからです。したがって、「そのようなものはございません」としらを切るのが唯一許された回答になります。
それを後になって、「お前、あのとき嘘をついていたじゃないか! けしからん!」ということを許したのでは、機密など維持できないことになります。

既に密約があることが有識者委員会の報告書で明らかになっているのですから、これ以上「真相を究明して」何をするつもりなのでしょうか?
それよりも、当時密約を結んだことが妥当であったかどうかを議論すべきでしょう。それによって、日米同盟を維持するのか、それとも強化するのか、あるいは解消に向けて舵を切るのか議論するきっかけにすべきです。
岡田外相は「90年代のアメリカの政策変更で核が持ち込まれることはなくなった」と述べていますが、それは単なる憶測に基づく詭弁です。
歴代総理大臣と外務大臣を嘘つき呼ばわりするのであれば、その前に、アメリカ政府に対し「日本は今後も非核三原則を堅持していくので、かつての約定(密約のこと)は破棄する。いかなる理由があろうと日本に核を持ち込んでもらっては困る。」と通告すればいいのに、そういう気配はありません。
つまり、アメリカの手前今更密約を破棄することもできないので、時代が変わってもはや実効性を失っているということにしてこのままうやむやにしてしまおうというのが民主党政府の考え(有識者委員会の結論もそうでした)であると想像できるのです。ところが、せっかくの機会だからこの際徹底的に自民党を叩いておこうということから、今まで自民党は嘘をついていた、という一点に問題を絞ろうとしているようです。

他人がついた嘘には容赦しないけれども身内の嘘には見て見ぬふりをするというのがこの政党の特徴です。こういうのを欧米人はダブル・スタンダード(二枚舌)と呼ぶのではありませんか?

「アメリカによる事前通告がない以上、核の持ち込みはなかったものと考えられる」という答弁を行ってきた自民党は、(ほかにも理由がありますが)最終的に国民から信用されなくなりました。
民主党も、票目当ての工作にうつつを抜かしているといずれ信用されなくなってしまいます。すでにその兆候があらわれていることは世論調査から伺えるのですから、とっとと「今やるべきこと」に取り組んだらどうかと思うのですが、そういうことには気が回らないようです。
by T_am | 2010-03-12 01:04 | セイヤさんへの手紙
ああ、やっぱりね・・・

 率直にいうと、こういう感想を持ちました。核兵器の持ち込みはずっと「公然の秘密」でしたから。

それよりも、この問題は整理して考える必要があると思います。
どういうことが問題として考えられるかというと、


1.アメリカ軍によって日本に核が持ち込まれていた。
2.アメリカ軍による核兵器の持込みを日本は拒否することができない立場にある。
3.2の状況があるにもかかわらず、政府は口をつぐんでおり、さらに国民に対し嘘をついていた。それも「事前通告がないのだから持込みはないものと考える」という二重の嘘を。
4.歴代の首相が密約の存在を知りながら国民を騙していた。特に故佐藤栄作元首相は密約の当事者でありながら「非核三原則」を打ち出すということをしており、きわめて悪質である。
5.外務省では、意図的に文書を廃棄した形跡がある。


 さて、マスコミや左翼の皆様は一体どれが問題と考えているのでしょうか?

 社民党は非核三原則の法制化を考えているようですが、この政党には学習しようという意欲と能力がないと改めて思いました。
 今回公表されたのは「密約が存在したかどうかという事実に対する調査結果」にすぎません。それをどのように評価するのかはこれから議論していかなければなりません。
 そういうプロセスをまるっきり無視して、非核三原則を法制化すれば問題はすべて解決すると思っているかのようです。そういう発想法には、自分は何の努力もしないくせに他人に守ってもらうのが当然と考えている自己中心的な性格が伺え、とても国の大事を任せようとは思いません。

 かつての安保闘争の闘志の皆様には申し訳ないのですが、僕は、密約が結ばれたという背景には国を挙げての「思考停止」があったように思います。

 「思考停止」というのは、その中身を議論することなしにスローガンに飛びついては後生大事にそれを守ろうとする姿勢のことを指します。最近の例でいえば、「コンプライアンス」「個人情報」「食品の偽装表示」「CO2削減」「天下り」などがあり、ちょっと前には「痛みを伴う構造改革」というのもありました。

 「思考停止」に共通する現象は、いったい何のためにそれをやるのかが忘れられてしまい、それをやること自体が目的となってしまっている、というものです。

 たとえば、

・郵政や道路公団の民営化によっていったいどんなプラスがあったのでしょうか?
・CO2を25%削減するという目標を掲げて、それで地球のCO2濃度がどれだけ減少するというのでしょうか? それも定かでないのに、排出権取引やカーボン・オフセットを初めてどうするつもりなのでしょうか? さらに温暖化対策税という増税策を実施しようとしているのですから悪質です。温暖化対策税の導入後10年経っても効果がないとわかったら、関係者は責任をとる覚悟でやっているのかというと、そんなはずはありません。失政の責任をとって官僚が辞めたとか、議員辞職した政治家がいたとか、あるいは私財をもって償ったという事例を僕は知りません。


 こういう本末転倒な現象が容易に起こりうるところが「思考停止」の弊害です。また、誰もが「わかったような気になる」巧妙なスローガンを掲げるために、これに飛びつく人が多いというのもやっかいなところです。

 今回の事例でいえば「非核三原則」というのが、日本人を思考停止に陥れるスローガンであると思います。

 「非核三原則」が高邁な理想であることは否定しませんが、外交と防衛上のあらゆる選択肢を考慮した結果として非核三原則を採用するのであればいいのですが、現状はそうではありません。

 アメリカの軍事力によって守ってもらうという選択が今の日本の政策です。そのアメリカが核保有国である以上、非核三原則と矛盾することは自明の理です。したがって、日本が非核三原則を貫こうとするのであれば、アメリカによる軍事的庇護を断って、自分たちの力で防衛を行うということをしなければなりません。

 しかし、このような考え方は本末転倒です。

 日本の安全保障をどのようにして実現していくのか? 日米同盟を堅持するのか、それとも自衛隊を軍隊に昇格させて自分たちで日本を守ろうとするのか。そのような議論の延長で非核三原則をするのかどうかが決められるべきだと思いませんか?


 日本では、政治家は信用できない、というのが「公然の秘密」です。そう思いながら、そういう政治家を当選させる有権者もどうかと思いますが、ここ数年空気が変わってきいます。
 というのも、「信用できない政治家」を自民党的体質として拒否しようという動きが出てきているように思うのです。
 今回行われた世論調査で鳩山内閣と民主党の支持率がまた下落しましたが、その分自民党の支持率が伸びているかというとそうではありません。自民党の支持率は横ばいですが、民主党が落ちてきているので、あまり差がないようになってきました。
 その理由として、鳩山代表率いる民主党政権に自民党的体質を嗅ぎ取った人が嫌になってきている、ということがひとつ。
 もうひとつは、民主党に改革は期待できないという失望感の広がりでしょう。

 民主党が、というよりもまともな考え方をする政治家であれば、今回の調査結果を教訓として情報公開法の改正に取り組むべきです。

 どこの国の政府にもリアルタイムで国民に公表できない暗部を抱えているはずです(見たことはありませんが)。それをリアルタイムで公表せよ、というふうにするとかえって国益を損なうという場合もあると思います。今回の密約の件がそうですね。
 時間が経過して、もはや「過去」と呼んでもいいようになった頃にそれを公開する制度を設ける。そのために、機密文書の保管は公文書図書館のような施設を設けて、そこで行うということにし、そこに行けば誰でも閲覧ができるというものにすべきだと思うのです。

 そのような仕組みをつくっておくことで、現在の選択の是非を後世の評価に委ねるということになります。また、自分の決断が後世の評価に晒されるという認識は政治家と官僚の行動に制約を加えることになります。

 まともな国づくりというのは、そのような地道な努力の積み重ねによって実現すると思いますが、いかがでしょうか?


付記
 読売新聞の速報によれば、与党三党の国対委員長は日米間の密約に関する有識者委員下院報告が公表されたことを受けて、歴代の首相と外務大臣経験者を衆参外務委員会に参考人として招致することを決めた、とのことです。
 別に自民党の政治家を擁護するつもりはありませんが、これは稀代の愚策であるといえます。過去に遡って問責するということが行われるのであれば、今後不都合な文書は片っ端から廃棄され、すべてなかったことにされることになります。
 民主党の山岡委員長は、今後外交文書の保管のしかたや公開のしかたについて議論する必要があると発言していますが、それは建前であって、本音は夏の選挙前に自民党に大ダメージを与えたいという目論見が見え見えです。
 自分たちは、小沢幹事長の参考人招致に頑として応じないくせに、数の力を頼んで政敵を攻撃するというのは卑怯千万です。こんな政党に日本の舵取りを任せるわけにはいかないと改めて考えさせられました。
by T_am | 2010-03-10 22:35 | セイヤさんへの手紙
2015年には自動車保有台数が1.7倍になりますか。うーん。
現在我が家では、自動車が3台あります。といっても長男は栃木にいますが。
2015年には次男も就職しているでしょうから、自動車を持つことになるでしょう。
そうすると、家族5人のうち4人が車を持つことになります。
1.7倍というのもうなずけるように思います。

今後ガソリンの価格は、じりじりと上がり続けるだろうと思っています。
リッター200円時代がいずれやってくるのは避けられそうもありません。

そうなると、地球温暖化問題が吹っ飛んでしまうというのも理解できます。
この間試算したのを紹介します。

現在の太陽光発電パネルの性能は1㎡あたりおよそ166ワットです。
太陽の光エネルギーは1㎡あたり1kWですから、およそ16%という効率です。

これを使って標準的な家庭で使用する電力(30kW)を発電するためにはどれだけのパネルがいるかというと、
およそ20㎡(6畳の部屋が2つ分)あればいいということになります。

ところが、雨が降ったり曇ったりすると発電量はおよそ10分の1にまで低下してしまいますから、
200㎡分のパネルがないと電力を賄うことができないことになります。

さらに、日が沈んでいる間は発電できないのですから、日中の間に夜間に使用する電力を蓄えておくことも必要です。
そうなると、日照時間を1日に2分の1と仮定して、およそ400㎡のパネルが必要となります。

400㎡(約121坪)というと、一戸建ての敷地面積(平均40~50坪)を遙かに超える値です。
そういう設備をいったいどこに設置できるのか、はなはだ疑問に思います。

設置できるとすれば、人が住んでいない砂漠くらいのものでしょう。日本にはありません。
そうなると、解決策としては宇宙空間に設置するということくらいですが、そのためのコストは莫大なものになりそうです。

発電効率が仮に現在の2倍になったとしても、必要な面積は200㎡です。
つまり、自分の家で使う電気を太陽光発電で賄うことは不可能だということがわかるのです。

現代は石油文明の時代であるといえます。
石油はエネルギー源でもありますが、同時に医薬品や化学肥料、プラスチックなどの原料でもあります。
日本だけでなく、世界の農業は化学肥料によって支えられています。
石油の価格が高騰するということは、これらの産業に与える影響も大きいということです。

農業生産物の販売価格よりも化学肥料の購入価格の方が大きければ、農業は成り立たなくなります。
レジ袋削減などと見当違いの議論をしている場合ではありません。

オイルサンド
オイルシェル
石炭の液化

これらの資源は石油よりも扱いにくいために、ほとんど手をつけられずに放置されて来ていましたが、
今後はこれらの資源を活用するための技術の確立が必要となってきます。

CO2の排出量を25%削減しますなどという前に、石油に代わる資源の開発が喫緊の課題です。
石油というと、どうもエネルギー問題だけにとらわれがちですが、原料問題でもあることを忘れてはなりません。

太陽光発電は効率が悪すぎると思います。
バイオエタノールも原料となる植物を化学肥料を使って栽培するわけでしょう。
石油が不足して化学肥料が高騰すればバイオエタノールの価格も高くなってしまいます。
風力発電と潮力発電はできる地域が限られています。
地熱発電は技術的な課題が多すぎます。
水力発電は環境破壊が目立つようになってきました。
原発は住民の間にアレルギーが強すぎます。
それというのも、きちんと説明せずに、アメをばらまいて不満を封じ込めるという政策をとってきたからです。
技術的には十分クリアできる段階にあると僕は思っていますから、きちんと説明して理解を得る努力をすること、
それが必要だろうと思います。

現在のマスコミは報道機関というよりも煽動機関であるといえます。
マスコミが世論を合理的な方向にリードするということはとても期待できそうもないだけに、
マスメディアの凋落というのは好ましいと思っています。

ネットで誰もが活発に自分の意見を述べて、その結果として世論が収斂していくというのが
今後の理想的な形なのかもしれませんね。


(付記)
 仮に200㎡の太陽子発電パネルを設置する場合、その角度を考慮しなければなりません。一番効率よく発電できるのは太陽に対して直角に設置することですが、そのためには時刻と季節によって向日葵のようにパネルの向きと角度を変える必要があります。
 まあ、単純に考えて10m×20m(=200㎡)のパネルを45度の角度で設置したときの、垂直投影図の大きさは、10m×14.14m(20m÷√2)となります。これは約42坪程度の面積となりますから、なんとか自分の家の敷地内で収まりそうです。そのかわり、自分の家の高さを14m高くするのと同じことになりますから、奥の家の日照はその分遮られることになります。もしかすると日照権をめぐる争いが起こるかもしれません。
 一戸建てでもこれくらいの影響があるのですから、これが高層マンションとなると、その電力需要を満たすだけの太陽光発電パネルを設置する場所などどこにもないことがおわかりいただけると思います。
 郊外の田んぼや畑の上に設けますか? それでは農作物は育ちません。また、山の斜面に設ければ森林を破壊することになります。結局日本の電力需要を太陽光発電で賄うことは、宇宙空間にでも設置しないことには不可能であることがわかります。それもずいぶんとコストのかかる話ですから、実現性は低いと考えてよいでしょう。
by T_am | 2010-03-01 15:08 | セイヤさんへの手紙
 セイヤさんから指摘された憲法改正手続に関する法律(いわゆる国民投票法)が今年5月18日に施行されるということについては、実をいうとすっかり失念していました。もともとこの法律が通ったのは阿部内閣のとき(2007年5月)であり、この内閣があまりにエネルギッシュにいろんな法改正を行なったものですから、国民の間に警戒心が生まれて同年7月の参議院選挙で自民党が惨敗し、その挙げ句に安倍総理が辞任したという記憶の方が鮮明に残っています。
あらためて総務省のサイトで確認すると、この法律の施行日は公布日から3年を経過した日となっていました。


http://www.soumu.go.jp/senkyo/kokumin_touhyou/kijitsu.html


 その趣旨は、国民に周知するための期間として3年を要するということのように思いますが、実際にはその間毎年のように総理が交代し、ついには民主党が政権党となるなどの出来事があったわけですから、国民投票制度について国民に周知をする余裕がなかったといえるでしょう。僕も忘れていたくらいですから。
 ところで、なぜ国民投票法という法律を設けたのかと考えると、憲法改正のための手続きをはっきりさせておきたかったのだろうと思っています。憲法を改正したい。けれどもどのように改正するかについては異論があってまだ合意が形成されていない。改正にはまだまだ時間がかかるけれども、せめて改正の手続きだけでもきちんとした制度をつくっておきたい。こういうことだったと理解しています。
 ですから、憲法改正のための手続きが制度化されても、どのように改正するのかという案がまとまるにはまだ時間がかかると思います。

 セイヤさんが指摘しているように、憲法を改正するということは国の進路に変更を加えるということであり、その結果国の未来は変わっていきます。だから、部分的なことだけを捉えて憲法改正を行ってはいけませんし、初めから改正ありきで取り組んでもいけないのです。

 憲法改正論者がよく口にするのは、「日本国憲法はアメリカによって押しつけられた憲法である」ということです。事実として間違いではありませんが、それをいうなら現在の民主主義の形だってアメリカに押しつけられたものではありませんか。どちらもアメリカによって押しつけられたものですが、憲法は駄目で民主主義は構わないという理屈は説得力を持ちません。
 類似した主張として「日本は独立した国家なのだから自前の憲法を持つべきだ」という声を聴くこともあります。それは実にごもっとも、と申し上げる以外にないのですが、「だから憲法を改正すべきだ」というには論理の飛躍があります。本来ならば、

 自前の憲法を持つべきだということに国民が納得する
     ↓
 今後日本はこのような国を目指していこうという合意が成立する
     ↓
 だから憲法のこの部分を改正しようという手続きに入る

 このような議論がなされるべきだと思いませんか? もっとも大事なのは、真ん中の「今後日本はこのような国を目指していこう」という部分なのですが、それがまるっきり抜けていて、いきなり改正の話をしているというのが3年前までの姿でした。今、憲法改正の議論をしても同じことになると思います。なぜかというと、現在の姿の問題点と対比させる形でしかこの国の進路を語ることしかできないからです。
 ちなみに、民主党の「憲法提言」にはこのように書いてあります。

 
(今求められていることは)現在の日本国憲法が掲げる基本理念を踏まえて、それらをいかに深化・発展させるかということであり、新たな時代にふさわしい「新しい国のかたち」を国民と共有することに他ならない。

 なんだか広告代理店のプレゼンみたいな文章だと思いませんか? 僕も文系ですが、文系の人が書く文章の限界を感じます。言葉の持つイメージを積み重ねて論理を展開していくという手法がここでもとられていますが、イメージに頼るだけで、それを突き詰めて考えることはしないという傾向があり、そのために中にはこじつけとなっている部分もあります。
 ひとつ例をあげましょう。


「人間の尊厳」を尊重するとは、自然を守り、命あるものを守り、他者の自由な主体性をも守ることである。


 どうして、「自然を守り、命あるものを守り」が「人間の尊厳」を尊重することになるのか僕には理解できません。きっとこう書いておいた方がなんだかカッコイイからなのでしょう。「命あるもの」とは人間以外の動物のことでしょうか? 植物も含むのでしょうか? あるいは微生物も含むのでしょうか? また、「命あるものを守る」とはどういうことをするのでしょうか? 他の生き物の命を奪ってはいけないのだということになると、生物が生きていくためには他の生物を食べなければならない、という現実と矛盾します。
 また、「他者の自由な主体性を守ることである」というのは、民主党新人議員に対する扱い方をみている限り、明らかにこれがないがしろにされていわなければなりません。この政党はカッコいいことをいうのが好きですが、あまり真面目に考えていないということがわかるのです。
 
 民主党の「憲法提言」というのは、イメージのよい言葉を深く考えもせずに並べ立ててつくりあげたものですから、このように揚げ足をとろうと思えばいくらでもできるのです。 この傾向は政府が作成する広報用のパンフレットにもみられることであり、なんだかカッコイイ言葉が並んでいる割には、いっこうに成果が上がっていないというのが実情です。
 民主党が政治主導という割には、発想が官僚と同じですから、どれだけのことができるのやら疑問が残ります。

 民主党だけでは公平性を欠くと思いますので、自民党の「新憲法草案」についてもみることにします。以下は、その前文です。



 日本国民は、自らの意思と決意に基づき、主権者として、ここに新しい憲法を制定する。

 象徴天皇制は、これを維持する。また、国民主権と民主主義、自由主義と基本的人権の尊重及び平和主義と国際協調主義の基本原則は、不変の価値として継承する。

 日本国民は、帰属する国や社会を愛情と責任感と気概をもって自ら支え守る責務を共有し、自由かつ公正で活力ある社会の発展と国民福祉の充実を図り、教育の振興と文化の創造及び地方自治の発展を重視する。

 日本国民は、正義と秩序を基調とする国際平和を誠実に願い、他国とともにその実現のため、協力し合う。国際社会において、価値観の多様性を認めつつ、圧政や人権侵害を根絶させるため、不断の努力を行う。

 日本国民は、自然との共生を信条に、自国のみならずかけがえのない地球の環境を守るため、力を尽くす。



 日本国憲法の前文と比較すると、失礼ながらだいぶ見劣りするといわなければなりません。大部分が日本国憲法前文の書き直しです。
 日本国憲法の前文を理解するためには、それがつくられた時代背景を考慮するべきです。当時の日本は、自ら起こした戦争によって多くの人命と財産を失い、空襲により焼け野原となったうえに原爆まで落とされたところから再出発するしかありませんでした。そのような過去があったからこそ、日本国憲法の前文が生まれたのであって、そこには過去に対する悔いと新たな日本をつくりあげていこうという決意が伺えます。
 しかし自民党の草案からは、そのような決意のようなものは一切感じられません。「日本国民は」という主語を用いていますが、この草案を自民党の誰かが国民に向かって直接説明したということは、僕の知る限りでは一度もありません。そういう意味で、「上からの押しつけ」であるといえます。さらには、後になって都合のいい解釈ができるように文言が追加されているのが気になります。
 すなわち、「日本国民は、帰属する国や社会を愛情と責任感と気概をもって自ら支え守る責務を共有し」とありますが、ここには、汚職を繰り返し特定の団体と結びついた政策をとり続けてきたことによって、自分が帰属する国や社会に愛情も責任感も気概も持てないようにしたのは一体誰だったのか? と思わず突っ込みたくなるようなことが書かれています。にもかかわらず、このような文章を入れたというのはやはり憲法第9条2項を改正した後のことを考えているからなのだと勘ぐってしまいます。その傍証として、「正義と秩序を基調とする国際平和を誠実に願い、他国とともにその実現のため、協力し合う」とあるのは、多国籍軍に参加する可能性も確保しておくためだと考えられます。

 自民党草案を見る限り、自民党の政治家たちは日本の進路を「現状の延長であるが部分的に修正したい」と考えているものと思われます。
 でも、それでいいのでしょうか? 
 日本の近代史をみると、およそ40年で時代の区切りがついているようにみえます。明治維新後近代国家に生まれ変わるべく努力を重ね、40年経ったときに日露戦争がありました。それからの日本は帝国主義国家を目指し、やはり40年後に原爆を投下され降伏するという事態に追い込まれました。戦後は驚異的な経済成長を遂げることができましたが、およそ45年後にバブル景気が崩壊してしまいました。
 現在はそれからおよそ20年が経とうとしています。この間に明らかになったことは、出生率が低下する一方で平均寿命が延びたことにより日本の人口構成グラフが逆ピラミッド型になってしまったこと、石油の埋蔵量に翳りが見え始めたにもかかわらず世界の石油の消費が伸び続けていること、ロシアが衰退した代わりに日本のすぐ隣に中国という超大国が出現しつつあること。この三つです。(地球温暖化問題はいずれエネルギー問題に置き換わってしまうと僕は思っています。なぜならCO2削減の取り組みは絶対に成果が上がらないからです。)
 今後の日本の進路を考えるときに、この三つの要因というのは無視することはできません。日本が経済大国となった40年間の夢を今後も見続けたいと思う気持ちは理解しますが、今までそういうことをやってきた結果、800兆円を超える国の借金ができてしまったわけです。今後も同じことを続けるのであれば、国と地方の借金はさらに拡大していくことになります。
 それというのも、時代の流れが明らかに変わってしまったからなのです。時代の流れを押し戻すことはできませんし、抗っても多大の手間とコストを無駄に費やすだけに終わります。そのことを意識せずに、夢よもう一度、とやってきたのが今日の姿であるといえます。

 5月18日に国民投票法が施行されるということは、日本という国の進路をもう一度考え直す機会としてとらえたいと思っています。そういう議論が国内で起こりやがて一つのかたちに収斂する、かどうかはわかりませんが、決して無駄なことではないと思います。その結果、憲法を改正した方がいいというのであれば素直にそれに従うつもりでいます。
 しかしながら、3年前までの情勢はそうではありませんでした。
 はっきりした時期は覚えていませんが、小泉内閣の頃です。このままでは日本に徴兵制度が復活するのではないかと心配したことがあります。それからしばらくして吉永小百合さんが反戦のメッセージを訴えるようになり、その動きにブレーキがかかったように記憶しています。
 誰かが明白なメッセージを訴えないと、この国はずるずると流されていってしまいます。
 憲法改正を既成の方針であるということにさせないためには、まずこの国の進路について議論を尽くすことが必要なのだろうと思います。
 そこで、これからしばらくの間、このことについて考えることにしたいと思っています。
by T_am | 2010-02-21 15:28 | セイヤさんへの手紙
 この間セイヤさんからもらったメールの中にとても興味深い一節がありました。

 ストーリーで、判り易いことが歴史に残っている。どんなに理論的に正しいことでも、ストーリーがつまらないと消えていきます。三国志はストーリーであって、歴史書ではないが、呼んだことが無い人でも知っているし、全巻読んだことにある人には会ったことが無いです。解釈理解解説が不全であっても、ストーリー中の解り易い部分がストーリー全体のイメージを作るのでしょうね。


 この「ストーリー中の解り易い部分がストーリー全体のイメージをつくる」というのは僕にも身に覚えのあることで、それが問題の原因となっている場合もあると思います。

 小泉元首相が「痛みを伴う構造改革」とぶちあげたときに、大勢の人が「構造改革」という言葉を自分に都合のいいように解釈して、小泉元総理に大きな期待をかけました。ところが現在では「小泉改革」を完成させようという動きは主流から外れてしまっています。
 また、昨年の政権交代は「政治改革」を期待した有権者たちが民主党に投票することで実現したものですが、「政治改革」をどのように解釈するかという合意が国民の間に形成されたわけではありません。したがって、鳩山総理のやり方によっては、「自分たちが期待する政治改革が進んでいない」と失望して内閣支持率が下がる可能性がきわめて高いといえるのです。そういうことを考えると、政党政治家はマーケットリサーチということについて、もう少し関心を持ってもいいのではないかとも思います。
 勢力を持った特定の組織や団体に利益を与える代わりに選挙では投票してもらうという手法は自民党のお家芸でした。そのやり方にNo を突きつけたのが前回の総選挙だったわけですが、政権交代後も小沢幹事長の行動をみていると自民党政権の手法をそっくり踏襲するものであるといえます。むろん自民党時代とは組む相手が異なっているのですが、やっていることは同じです。(小沢幹事長の特徴は、自分と対立する人間を平気で貶めることができるというところにあります。来日した中国首脳を天皇に面会させたときも、「宮内庁の何とかいう役人が」という言い方をしていました。こういうものの言い方は石原都知事にも通じるものがあります。)

 民主党のミスは選挙にかけては小沢幹事長の右に出るものはいないと思いこんでおり、参議院選挙は小沢幹事長抜きでは勝てないと考えているところにあります。組織票が物を言うのは投票率が下がったときのことであって、先の総選挙のときは民主党が浮動層の票を取り込むことができたから勝てたのだということを忘れているように思われます。民主党が浮動層を取り込むことができたのはなぜなのか? このことを忘れると、この夏の参議院議員選挙では苦汁をなめることになりそうです。

 群盲象をなでる、という格言があります。目の見えない人たち象を触わり、象とはどのようなものかをそれぞれ述べたところ、触った場所によってまるで異なった感想を述べるというものです。脚を触った人は「象とは大木のように太くて丸いものだ」と延べ、鼻を触った人は「いや、象とは太い綱のようなものだ」と延べ、耳を触った人は「象とは団扇のように広く薄いものだ」と述べるわけですが、どれも象の一部分でしかありません。
 人間の認識や理解というのは、このように目の見えない人が象を触るようなものであり、全体を知らずに自分の考えを持ち、意見を述べていることが多いと思います。まるで自分のことをいわれているようで冷や汗ものなのですが、こういう自覚だけは持っていた方がいいように思うのです。
 最近そのことを強く感じたのは日中両国の有識者による歴史共同研究委員会による報告の概要が報道されたときでした。日中の研究者の見解が大きく異なるという内容の報告書が提出されたとのことで、さもありなんと思います。
 「歴史の中の事実」は研究や調査によって発見することができるかもしれませんが、「正しい歴史」というのはどこにもありません。あるのは歴史の中の事実をどのように解釈するかという視点です。
 司馬遼太郎さんの著作が人気を集め、国民作家といわれているのはいわゆる司馬史観に共鳴する人が多いからです。僕自身影響を受けているけれども司馬さんの作品で外国語に翻訳されたのは少ないのだそうです。このことからわかるのは、司馬史観といえども歴史に対する視点のひとつにすぎないということであり、海外で受け入れられるだけの普遍性を備えているわけではないということです。
 司馬さんの歴史観の根底にあるのはご自分の戦争体験ですから、その点で司馬史観というのは時代の産物であるといえます。
 歴史学者の視点というのも時代から離れることはできないのですから、自分の思想信条や体験が大きく左右することは否めません。マルクス主義が盛んな頃は、唯物史観に基づいて日本史を解釈するということが流行していましたが、現在では廃れてしまいました。
 このように考えると歴史の解釈とは、歴史の中の一部をピックアップして他の部分は切り捨てるという作業の上に成り立つものであることがわかります。したがって日中の研究者の見解が異なるというのは至極当然のことであり、その溝を埋めて歴史の統一見解を打ち立てようというのはどだい無理な注文なのです。

 社会科学の弱点は実験によって仮説を検証することができないというところにあります。そもそも仮説とは目の前にある事実をうまく説明するための論理のことをいうのですから、うまく説明できるのであればどのような理論を展開してもいいということになります。
 科学においては、たとえどのような仮説であろうとそれが間違っていると実証されない限りは仮説として一応尊重しておきましょう、という姿勢をとらなければなりません。ここで忘れられやすいのは、誰の理論であろうと、またどのような理論であろうとも、仮説として等しく扱われなければならないということです。ところが実際には検証不能であるにもかかわらず、自分の仮説を真実として扱おうとする(すなわち、対立する仮説を誤りだといって攻撃する)傾向が強いのも事実です。
 ところが、あらゆる事実をうまく説明できる歴史の解釈など所詮は存在し得ないのですから、どちらが正しくてどちらが間違っているという論争ほど不毛なものはありません。まして政府が歴史の解釈に介入するなど言語道断です。どうせ現政権に都合のいい解釈をするに決まっているのですから。
 もっとも、今回の報告の概要を見る限りでは、両国の研究者たちは冷静に対応しているようにもみえます。双方の研究成果がまったく異なるものでありながらそれを併記するというのがその証左です。議論がどうしてもかみ合わないときに、両論併記という手法は決裂から回避するための有効な手法なのですから。

 科学的な思考法を身につけるということをもう少し教育の中に取り入れるようにした方がいいように思います。科学的な思考法とは、目の前の事実(出来事)を観察し解釈する力であり、同時にそれが真実であると立証されるまでは仮説にすぎないと割り切ることができることでもあります。さらには、仮説が真実であるかどうかを検証する際には誠実さが求められるということも重要です。
 このような誠実さはなにも科学者だけに要求されるというものではありません。需要予測を過大なものに見積もってその事業が十分採算のとれるものであるとして実施された巨大プロジェクトはいくらでもあります。アクアラインや本四連絡架橋がそうですし、全国各地で廃墟となりつつあるテーマパークもそうです。また、無理につくった地方空港も日航が事業立て直しのために就航路線を減らせばそのあおりをまともにくらうことになるのですから、今後ますます経営が苦しくなるはずです。
 これらの事業の失敗は巨額のツケを後生に負担させるだけにその責任は重大ですが、事業計画書を作成した人たちが責任をとったという話は聞いたことがありません。これらの事業の実施を決定したときに重要視されたのは、科学的な思考法ではなく、その事業がバラ色のものであることを示すプレゼンテーションの能力だったといってよいでしょう。
 政府を始め日本中の自治体がプレゼンテーションという一種の詐術に乗っかって虎の子の金を注ぎ込んだものの事業が失敗して借金だけが残った、というのが現在の姿です。それを可能にしたのが、事業の決定に至る議論が公開されないという政治の閉鎖性です。議会は行政の決定を追認するだけの機関にすぎません。
 事業仕分けという手法が有効なのは議論が公開されているからです。大勢の目にさらされれば詐術も通用しなくなります。議論が公開されたときに説得力を持つのが科学的な思考法に基づく論理です。同時に公開された議論を監視する立場にある我々も科学的な施行法を身につけておく必要があります。
 数学や物理の問題の解き方をいくら覚えても科学的な思考法が身につくというものではありませんが、現実には問題の解き方をより多く覚えた学生が受験で有利になっているという現実は変わりません。

 縦割り行政という言葉があります。それぞれの分野で専門的な知識と能力が要求されるのですから官僚が縦割りになるのはやむを得ないといえます。そのかわり、官僚という群網がそれぞれの分野で象をなでて政策を立案するわけですから、国家全体ではちくはぐなことをやっているということになりかねないという危険性も否定できません。そのために政治家がいるのであり、より高い次元で全体を俯瞰したうえで政策を決定していくというのがあるべき姿でしょう。
 そう考えると能力のない政治家が多すぎると思います。特に民主党の新人議員は存在感がまるでありません。それは議員定数が多すぎるということが原因なのですから、いっそのこと百人くらいに絞り込んだ方がいいというのは僕の持論です。そして、議会も公開するのであれば一般人が傍聴しやすいように週末や夜間に開催するくらいのことをやってもいいと思います。
 目的は議論の内容を大勢の人の目にさらすことによって誤りを防ぐということにあります。毎日だらだらやれば労働強化になってしまい、事務方はたまったものではありませんが、短期間に集中してやればそれほど問題にはならないはずです。
 特に、財政再建団体に転落しそうな自治体では市民が議会を傍聴しやすいように運営に配慮すべきです。平日の昼間に議会が開かれていては、勤め人は聴きに行くことができないというのはこどもでもわかる理屈です。そういうこともせずに、閉鎖された場所ですべて行ってきたから現在の窮状に陥っているということにいい加減気づくべきでしょう。

 ひとりひとりが科学的な思考法を身につけること、そういう人たちが議論を監視できる場を設けること。そういう取り組みがこの国には必要なのだ思います。
by T_am | 2010-02-14 09:07 | セイヤさんへの手紙
 セイヤさん こんにちは。
 先週の日曜日(H22.1.31)古町十字路にあった北光社が閉店しました。セイヤさんに会ったその日です。オリジナルのブックカバーをもらっておこうと、北光社で文庫本を1冊買ったのですが、最終日ということで店内は大勢のお客が押し寄せていました。その大半が中高年の人たちでしたから、古町通りというのは集客力を失っているのだと改めて感じた次第です。
 渋谷でも新宿でも活気のある商業地域には若い人たちが大勢押し寄せています。もちろん中高年の人たちもいるのですが、圧倒的に若い人たちが多いのです。かつての自分たちがそうであったように、この年代は何か面白そうなことがあるところに出かけていくという習性のようなものがあります。今の新潟市では万代のあたりがそうなるのでしょうか?
 そういえば6月には大和百貨店の閉店も決まっています。かつての中心商店街もそのシンボルを失うことで、衰退がますます進むだろうと誰もが感じていることだと思います。

 中心商店街が衰退する理由として、交通アクセスの不便さ、郊外大型店との競合をあげられますが、まさにその通りであって、一言で言ってしまえば「そこで買い物をしたいと思うような店」がないから人が行かなくなるのだということです。
 このことは逆の言い方をすれば、人は「買いたいと思えばどこへでも行く」ということでもあります。僕もこどもたちの学生服を買ったときは、わざわざ本町通(古町通商店街の近く)の専門店まで出かけたくらいです。

 中心商店街の店の多くがそのような魅力を失っているのは、大半が個人商店であり、集客力を維持し続けるだけの投資をするだけの体力がないことが原因であると思います。個々の店舗の敷地は思いの外狭いものですから建て替えてもたかがしれています。そうかといって何件もの店がいっしょになって再開発するというのも非常な困難が伴います。そうこうしているうちに時間だけは経っていきますから、客足は遠のいているけれども手の打ちようがない、という状況に陥っているといえます。

 いっそのこと考え方を変えてしまったらどうでしょう? すなわち「中心商店街」であろうとすることを諦めて、周辺に住む人たちの商店街であることを目指す、というものです。
 商業の立地というのは人が集まるところとイコールですから、その地域の交通体系に左右されます。すなわち、鉄道が主役のところでは駅前が商業立地になりますし、自家用車が主役のところでは校外の幹線道路と生活道路沿いが商業立地となります。新潟市の場合も他の地方都市と同様交通体系の主役は自家用車なのですから、校外に大型店が出店するのは避けられません。それは時代の流れともいうべきものですから、これを変えようというのはたとえば信濃川の流れを変えようとするようなものです。つまり、それだけ多くの資金と労力を必要とするということですが、新しく設けた河川が理にかなわないものであれば、水が溢れたりあるいは澱んだりしてせっかく投入した資金と労力が無駄になることだってあります。
 中心市街地を活性化させるというのは、地方都市にとっては共通の課題です。しかし、そのために郊外での大型店の出店を規制すれば、大型店は規制のない隣の市町村に出店することになりますから、今度は人が流出していくという状況を招きかねません。また、商店街を覆うアーケードやカラー歩道、地下駐車場の設置などが効果がないことも既に立証されています。
 既に述べたように、商店街の店舗の大半が個人商店であり新規投資するだけの体力がなく、仮にそれをクリアしたとしても共同開発という高いハードルに阻まれるという現実があります。
 これらの問題を解決しない限り中心商店街の活性化というのは絵に描いた餅に終わるのですから、それならばいっそのこと「中心商店街」であることを諦めた方がいいのではないかということです。

 中心市街地が抱える問題はもう一つあって、それは人口の減少(都市の中の過疎化)という問題です。それを顕著に示すのが小中学校の生徒数であり、学年ごとのクラス数で計ることができます。例をあげると寄居中学校のクラス数は全体で8クラス、舟栄中は9クラス、二葉中に至っては4クラスしかありません。


(新潟市の小中学校の学級数別一覧表)


 このような現象は全国的に見られることであり、かつての大勢の人口を抱えていた住宅地ではこどもが大きくなって親元を離れていったために、現在は年寄りが目立つ街になりつつあります。
 では、どういうところが人口が増えているのかをみると、マンションが建築されている地域です。先ほどの新潟市の小中学校の学級数別一覧表をみると上位2校(小針中と鳥屋野中)のある地域がそうですね。これらの地域では県外から転勤で来た家族が多く見られる地域でもあります。つまりそれだけ住居の受け皿が揃っていて、しかも買い物にもそこそこ便利である地域に現在は人口が集中しつつある、といってよいと思います。

 以上述べた来たことから、行政が中心市街地を活性化させたいのであれば、それは商業問題、交通問題というよりもむしろ住宅問題として理解した方がいいのではないかと思います。マンションが1棟できるとそれで小学校のクラスが増えるという現象が起こります。
 人が増えればそれだけ消費も増えるわけですから、商業もその恩恵を蒙ることになります。ということは、中心市街地ではどうやって定住人口を増やしていくかを考えた方が効果が高いということになります。
 そのためには土地や建物の売買を活性化する必要がありますから、不動産取得税や不動産の譲渡益課税の減免、これらの地域でマンションを購入した場合住宅減税を他の地域よりも優遇するなどの措置があってもよいと思います。さらに、乳幼児のための保育施設も必要となるでしょう。
 また中心市街地には金融機関の顧客も多いはずですからこれらの地域が賑わうことは金融機関にとってもメリットがあることになります。これらの地域でマンションを購入する場合は金利を優遇した商品を開発するなどのことも必要でしょう。

 商業とこどもは街に活気を与えてくれます。中心市街地のマンションを誘致して人口を集中させる。人が集まるところでは、商業も工夫して消費者に認められるような店づくりを行うものです。そういった状況を実現するためには新たな住民の受け入れ体勢を整えなければなりませんが、中心市街地を大型の商業施設で再開発するよりはよほど効果が大きいように思えます。
 市町村の都市計画マスタープランでは、エリアわけして「商業ゾーン」「住宅ゾーン」「工業ゾーン」のように分けるのが通例ですが、経済は人間がつくった机上のプランに従ってくれるわけではありません。というのは、都市計画マスタープランも縦割り行政によってまるで実効性のないものになっているからです。用途地域を指定して道路を整備しても他の公共サービスをどうやって提供するかを考慮していないのですからその通りに進まないのは当然といえるでしょう。

 自公政権下で中心市街地活性化のためにまちづくり三法が改正されたことに伴い、都市計画法と建築基準法も改正されて、特定大規模集客施設(床面積1万㎡超の建物)は事実上商業地域と近隣商業地域にしか建築できないことになりました(準工業地域でも条例を制定すれば特定大規模集客施設の建築を制限することが可能です)。
しかし、小売業がなぜ郊外で出店するのかといえば、都心部に出店するよりも設備投資を節約できるからであり、それに見合う効果が見込めるからです。都心部での出店は割に合わないと思っているわけですが、政治家というのはそういうことがわからないのですね。郊外での出店を規制すれば中心部に店をつくらざるを得ないだろうと考えたのか、それとも商店街に住む人たちの票目当てだったのかは知りませんが、とにかく郊外での大型店の出店が抑制されたことは事実です。それでも北光社は閉店しましたし、大和百貨店も新潟から撤退することになりました。
 このように効果がどれだけあるのか疑問符がつく法改正ですが、民主党政権でそれが見直しされるかというと、彼らも商店街の票を敵に回すことはしないはずですから、その可能性はきわめて低いと思います。
 日本の政治の特徴は、効果がないとわかっていてもいったん決まったことはなかなか軌道修正ができないというところにあります。その間どれだけの税金が注ぎ込まれるのか計算のしようもないのでわかりませんが、無視できない金額であることに間違いはないでしょう。
 行政が見当違いなことをやっているのであれば民間が知恵を出すしかない。そんなことをこの頃思うようになりました。
by T_am | 2010-02-07 10:23 | セイヤさんへの手紙