ブログトップ

カクレ理系のやぶにらみ

tamm.exblog.jp

時間のある方はお読みください。軽い気持ちで読み始めると頭が痛くなります。

カテゴリ:ジュンコさんへの手紙( 2 )

 辻村深月さんが直木賞を受賞しましたね。今回が三度目の正直になるのでしょうか。好きな作家だけにとても嬉しく思います。

 辻村深月さんの受賞作はまだ読んでないのでなんともいえませんが、この人の作風というか、意識の底には「人間を信じたい」という思いがあるような気がします。だから、同じ思いを持つ人は辻村さんの作品に惹き付けられていくのでしょう。いい方を変えれば、こういう時代だからこそファンが多いのだろうと思います。

 この「人間を信じたい」という思いは、大野更紗さんやこうの史代さんにも通じるような気がします。
 男という生き物は、自分の主張を押し通すために議論から逃れられない生き物です。大阪のあの人のように、たぶん死ぬまで議論してるのではないかと思う人も世の中にはいます。
 それはそれでいいのですが、議論というのは、ともすれば相手の主張の否定が目的となってしまいます。本当は、自分と相手の異なる主張の中で妥協点を見いだすという共同作業が議論なのですが、そうは思わずに勝ち負けでしか理解できない人が多いのも事実です。

 ここにあげた三人の女性の作品に共通するのは、いずれも否定ではなく肯定する文体で書かれているということです。機会がありましたら、ぜひ読んでみてください。お声がかかれば、可及的すみやかに三人の作品を持参することもやぶさかではありません。

 また時間をつくってゆっくりとお話できるといいですね。その日を愉しみにしています。
by t_am | 2012-07-18 22:15 | ジュンコさんへの手紙
 一昨日岩手に行ってきました。岩手ではようやく桜が散り始めていました。3.11からやがて2ヶ月。新緑がここにも新しい季節の到来を告げているようです。人々の悲しみや苦しみとは関係のないところで時間は流れてゆく。だからこそ人は救われるのかもしれない。そんなことを思いました。あのときのまま、いつまでも時間が止まったままではやりきれない。そう思いませんか?

 さて、僕が文章を書くときは、特定の誰かに向かって語りかけるつもりで書いているので、その中でジュンコさんを思い浮かべて書いた文章に「ジュンコさんへの手紙」というタイトルをつけることにしました。不定期でお送りさせていただきますので、どうぞよろしくお願いします。

 今回は、「もてなす」という言葉について思ったことを述べてみたいと思います。

 マスコミや広告代理店が多用することで言葉に手垢がついてしまう場合があります。とりあえず「ふれあい」とか「元気をもらう」などのいい方が思い出されたのですが、ひどいものだと思います。たぶん日本の至る処で「ふれあいの里」だとか「ふれあいセンター」だとかいう薄気味の悪い施設があるのだと思います。また、「元気をもらう」といういい方がなぜひどいのかは今回お話する内容に関係あります。

 このようなひどい日本語として、最近引っかかっているのが「もてなす」という言葉です。どうも「ワンランクもツーランクも上のサービス」という感覚で安易に使われているように感じています。
 たしかに、主婦が時間をかけて手料理を用意するとか、ご馳走やいい酒を出すという場合に「もてなす」という言い方をしますから、「ワンランク上のサービス」という意味での使い方は間違いではないと思います。
 しかし、テレビなどで、しきりに「おもてなし」と強調するのを聞いていると、「それならばもっと次元の異なることを取り上げたらどうなのか?」と呟きたくなります。豪華な料理を高価な器に盛って、誰にでも同じように提供することが「もてなす」ことだと思っているのならば、精神があまりにも貧しいといわざるを得ません。

 「もてなす」ということを取り上げると、よく茶道が引き合いに出されます。それは、茶道が、客を招いて茶菓をもてなす行為を中核とした総合文化だからです。(正式な茶事になると食事と酒も出され、その後に二種類のお茶が点てられます。僕は呼ばれたことがありませんが。)
 それでは茶道におけるもてなしとは何かといえば、その根底にあるものは「察する」という感覚だと僕は考えています。客のプロファイル(趣味嗜好など)や様子(心情や体調など)を推察して、その人のための応対をすること。これが茶道におけるもてなしの基本であるといってよいと思います。
 茶室の中では原則として余計なことは喋らないことになっています(様式美としてのお手前が洗練されるほどこの傾向は強くなります)から、言葉に頼らない意志疎通が必要になります。その点、現代人は相手の言葉に囚われ、右往左往する傾向が強いように思います。そういう人の話を聞いていると要領を得ないことが多く、「この人、いったい何を聞いてきたんだろう?」と思うこともしばしばあるのです。
 茶道は総合芸術であると先ほど述べました。茶会を催す亭主は趣向を凝らし、それに基づいた演出を行います。また、お手前や作法は様式美を追求することで総合芸術としての茶道の完成に深く関わっています。茶会は、主催者(亭主)だけでなく、客も参加して初めて現実のものになる時空間ですから、余計なお喋りが入り込む余地はないようにつくられています。それでも亭主と客という関係は動かせないので、亭主は客のために何をすればいいか? という命題が頭から離れることはありません。
 亭主が客の様子に応じて臨機応変に振舞うことを心がける以上、そのもてなしの内容は相手によって変わりますし、同じ相手であっても時と場合に応じてその中身は変わっていくことになります。このことが背景にあって「一期一会」(この瞬間は生涯で一度きりである)という考え方があるのだろうとも思っています。
 したがって、もてなすという行為はマニュアル化することができません。そもそも二度とできないものをマニュアル化するのは無意味です。ただし、記録として残しておいて、その記録の集大成の中で「もてなす」ということについてアプローチするというのは意味があると思います。マニュアル化できるのは、誰に対しても同じサービスを提供するという目的で決められた作業や動作そのもの(お辞儀の角度や「いらっしゃいませ。○○様」と言わせる、など)に限られます。そうやって提供されたサービスに対して、客が感心することはあっても感動することはありません。
 「もてなす」ということとマニュアル化されたサービスの違いを比喩的に述べると、オートクチュール(注文服)とプレタポルテ(既製服)の違いのようなものということになると思います。どんなにすばらしいオートクチュールでも、体型の違う人に着せることはできませんよね。その人だけのためにつくられた服だからこそ価値があるわけです。

 最近テレビで「もてなす」という言葉が安易に使われているのを聞いて、自分なりに考えを整理してみました。
 こうして自分の考えを文字にしてみると、プレタポルテ(誰にでも同じ水準のサービスを提供すること)は大事であると思いますが、その上でその人ために自分は何をするかという思いの強さによって「もてなす」ということが実現するのだということが改めてわかりました。何度も言うようにそれはオートクチュールですから、同じことを他の人に対して行おうとしても、それは押しつけにしかならないと思います。テレビでよく使われる「もてなす」という語法に対する違和感が何だったのかがわかったように思います。
by T_am | 2011-05-08 09:18 | ジュンコさんへの手紙