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カクレ理系のやぶにらみ

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時間のある方はお読みください。軽い気持ちで読み始めると頭が痛くなります。

カテゴリ:その他( 453 )

 米山候補に当確が出ましたね。これで当分柏崎刈羽原発の再稼働はなくなったということになります。
 それで一安心という人も多いかもしれないので、敢えて書いておきますが、原発はその運転を停止しているからと言ってリスクがゼロであると言い切れるかというとそうではありません。というのも、原子炉建屋内には使用済み核燃料が冷却プールに保管されているからです。使用済み核燃料といっても臨界状態にないだけで、放射性物質の核崩壊は相変わらず起きているので、その熱を冷やしてやる必要があります。(福島第一原発では緊急停止にはせいこうしたもののこの冷却が途絶えたためにあれだけの事故になったことを思い出してください。)
 したがって、原子炉が再稼働していなくても何らかの事故が起こり、使用済み核燃料の冷却ができなくなってしまった場合、福島第一原発と同様の事故が起こる可能性が否定できないのです。
 このことを考えると、原発については即廃炉というのが合理的な判断であるといえるでしょう。これから県知事となる人が県民の安全を確保するというのなら尚更です。

 泉田知事が口癖のように言っていて、米山候補もそれを受け継いだ「原発事故の検証がなされない限り再稼働を認めるわけにはいかない。」という発言は実に巧妙な発言であるといえます。というのは、原発事故の検証を行った結果これならば事故を防ぐことができると認められれば再稼働に同意するという意味になるわけですが、現実問題として未だに原子炉の内部に入ることができないわけですから、事故の検証などいったいいつになったらできるのか誰にもわからないわけです。したがって、このような言い回しをすることで、事実上原発の再稼働を認めないという判断しているにもかかわらず、その責任は自分にあるのではないということにしているわけです。
 政治家は強大な権限を持つだけに、その決定に対して責任を負ってもらわなければなりません。責任を負うべき人が責任を負わないで権限だけをふるうとどうなるか? その典型的な事例が豊洲市場への移転を巡る混乱ですし、もしかすると東京オリンピックもそうなるかも知れないのです。

 そうはいっても、実際問題として柏崎原発の再稼働を阻止しているのだからそれでいいじゃないか、という意見もあるかもしれません。しかし、それでは自分が主張する結果に導くためにはどのような手段をとっても構わないということになってしまいます。それがエスカレートしていくと、再稼働を阻止するためにはデマを流しても構わないということなります。
 現政権が、集団的自衛権のための安保法制を成立させたときに、それが必要な理由としておよそあり得ないケースが挙げられていました。その挙げ句に、国会の特別委員会に他の委員会の委員たちが乱入してきて議事を混乱させた中で無理矢理可決されたことにしてしまいました。(後日その時の議事録は書き換えられてしまいました。)
 大事なのは結果であってその過程はどうでもいいのだ、というのであれば、安保法制を可決させたようなことがこれからも起こりうるということになります。国政だけでなく、地方自治の場でもそのようなことが横行するようになったとき、この国は滅びの途を進むことになるのだといわざるを得ません。
by t_am | 2016-10-16 23:01 | その他
 今回は第十三条と第十四条について考えてみたいと思います。

1.わかりにくい13条の変更
(日本国憲法)
第十三条
 すべて国民は、個人として尊重される。生命、自由及び幸福追求に対する国民の権利については、公共の福祉に反しない限り、立法その他の国政の上で、最大の尊重を必要とする

(草案)
第十三条(人としての尊重)
  全て国民は、人として尊重される。生命、自由及び幸福追求に対する国民の権利については、公益及び公の秩序に反しない限り、立法その他の国政の上で、最大限に尊重されなければならない

 ここで変更されているのは、「個人として」が「人として」になっていること、および「最大の尊重を必要とする」が「最大限に尊重されなければならない」に変わっていることです。
 これらの変更は、前回も申し上げたように、国民を上から見下ろすことによって人権を制限するという立場で書かれたものです。「個人」が「人」に変わるからといって、何が変わるんだと思われるかもしれませんが、それはこういうことです。
 「個人」というのは独立した人間のことですが、これを「人」と言い換えることによって、「家族の一員としての人」や「組織の一員としての人」というふうに扱い、これを憲法で規定することができるようになります。

 ポイントは、憲法を改正する内容によっては、それまで制定することができなかった法律が制定できるようになるということです。このことは、後に出てくる第二十四条(家族、婚姻等に関する基本原則)で明らかになっていきます。

 次に「最大」と「最大限」の違いですが、これは限度を設けるかどうかの違いになります。つまり、限度を設けた中でのぎりぎり目一杯が「最大限」ということになります。その場合、誰が限度を設けるかについては、法律を作る人たちであることはいうまでもありません。
 一方「最大」というのは限度がないのですから、理想を追求することも可能です。本来憲法は政治権力に対し制約を加える一方で、理想社会を実現するための道程標とでもいうべき役割を担っています。これは、今は実現されていないけれどもわたしたち国民の「不断の努力」によって実現するのだということを意味します。例を挙げるならば、貧困の解消や社会的弱者に対する偏見や差別の撤廃、女性の社会進出などがあります。
 けれども、「最大限に尊重」とすることによって、あらかじめ限度を設けてしまい、その範囲内で法律や政令・通達をつくることができるようになるわけです。たとえば、生活保護を受けている人が酒を飲んだりパチンコをした場合は生活保護の支給を打ち切るとか、エアコンのある建物に住んでいる人は生活保護の申請ができないようにする、といったことも可能になるわけです。

2.さりげない変更が怖い
(日本国憲法)
第十四条
すべて国民は、法の下に平等であつて、人種、信条、性別、社会的身分又は門地により、政治的、経済的又は社会的関係において、差別されない。
②華族その他の貴族の制度は、これを認めない。
③栄誉、勲章その他の栄典の授与は、いかなる特権も伴はない。栄典の授与は、現にこれを有し、又は将来これを受ける者の一代に限り、その効力を有する。

(草案)
第十四条(法の下の平等)
全て国民は、法の下に平等であって、人種、信条、性別、障害の有無、社会的身分又は門地により、政治的、経済的又は社会的関係において、差別されない。
2華族その他の貴族の制度は、認めない。
3栄誉、勲章その他の栄典の授与は、現にこれを有し、又は将来これを受ける者の一代に限り、その効力を有する。

 第十四条では、第一項に「障害の有無」という文言が追加されています。素直に読めば障害者を差別してはいけないということになるみたいですから、歓迎すべき変更なのかもしれませんが、はたしてそうでしょうか?
 この文言を追加することによって、障害を理由に国民の義務を免除もしくは軽減されるようなことはないのだ(それが法の下の平等なのだから)というふうにすることもできるということは覚えておいた方がいいと思います。

 もう一つの変更は、「栄誉、勲章その他の栄典の授与は、いかなる特権も伴はない。」という文章を削除しているということです。これは、叙勲者には特権を与えることが可能になるということを意味します。そうなると、政府を支持することを条件に叙勲するということも行われるようになるわけですから、いったい誰のための国なのだということになってしまいます。まさに、時代と世界の趨勢に逆行する憲法草案であるといえるでしょう。
by t_am | 2016-09-04 23:18 | その他
 天皇が自分の考えをメッセージとして公表したことに対し、天皇の退位を認めるべきだと考える人が大部分を占めていることが世論調査によって明らかになりました。もっとも中には、天皇の退位を憲法改正と結びつけて世論調査を行っているメディアもあって、忠義面をした輩が実は天皇を利用することしか考えていないということも改めてはっきりしたことだと思います。

 余談になりますが、「生前退位」という屋上屋を重ねる言葉が用いられるようになったのは、2013年2月にローマ法王ベネディクト16世が退位を表明したときに遡るようです。退位と崩御は違うのだから、わざわざ「生前」などという言葉をつけなくてもよさそうなものですが、一度定着した言葉というのは強いですね。今では猫も杓子も「生前退位」という言葉を使っています。

 さて、天皇皇后を筆頭に現在の皇室がこれだけ国民から敬愛されているのは、天皇自身が述べていたように「公務に全身全霊をかけて取り組んで」きたからに他なりません。摂政だった頃から数えるとおよそ三十年間、公人としてこれだけ誠実に己の職務に取り組んで来た人は他にいません。
 今上天皇と皇后の偉いところは、この三十年間絶えず己の人格を磨き続けて来たという点にあります。凡人があの地位にいれば、三十年の間に驕慢に陥っても不思議ではないのですが、そのような堕落とは一切無縁に過ごしてきたわけですから、その精神力の強さはなかなか真似のできるものではありません。

 その辺の嘘つき政治家とは人間の器が違うといってよいのですが、そのような輩に利用されかねないというのが天皇制が抱えている弱点です。その弊害をもっとも薄める工夫が今の象徴天皇制であるといえます。

 天皇は象徴であるがゆえに天皇なので、象徴であることに伴う職務(国事行為)ができなくなったときにどうするのかを考えてほしいというのが、今回天皇が発したメッセージです。ごく普通に考えれば、退位を可能にするよう皇室典範を改正すれば済むことであり、多くの国民がこれに同意するであろうことは明かです。

 一方政府の動きはどうかというと、どうやら今上天皇一代限りの特別立法でお茶を濁す可能性が出てきたようです。なぜかというと、皇室典範を改正するよりも特別立法の方が手間も時間もかからないからです。

 悠仁(ひさひと)親王が生まれる前は、皇位継承者が皇太子と秋篠宮しかいなかったために、このままでは皇室の血統が絶えてしまうということが懸念されていました。そのため愛子内親王の即位を念頭においた女性天皇の可能性の検討がなされたものの、悠仁親王が生まれた途端にこの議論は終息してしまいました。難易度が高く手間がかかる問題だけに、先送りにされたわけです。

 今回の特別立法で対応できないかというのも、面倒なことは先送りしたいという気持ちによるものでしょう。その一方で、はるかに難易度の高い憲法改正に取り組もうとしているのは、要するにやる気がないとみなしてよいと思います。安倍総理が改正論議のベースにしたいと考えている自民党の改正憲法草案では、天皇を元首にすることになっています。その割には天皇の意向を蔑ろにしていると思います。これを機会に、将来再燃するかもしれない皇位継承問題にも手を打っておくというのがあるべき姿だと思うのですが、政府首脳にはそういうつもりはないようです。
by t_am | 2016-08-16 19:42 | その他
 8月15日日本武道館で行われた戦没者追悼式での安倍総理の式辞に次の言葉があったのが気になりました。

 あの、苛烈を極めた先の大戦において、祖国を思い、家族を案じつつ、戦場に倒れられたみ霊、戦禍に遭われ、あるいは戦後、はるかな異境に亡くなられたみ霊、皆さまの尊い犠牲の上に、私たちが享受する平和と繁栄があることを、片時も忘れません。

 この前の戦争で命を落とした人たちの犠牲の上に今の日本の繁栄があるのだといういい方が戦死者の遺族にとって慰めになっているであろうことは私にもわかります。だが、それでいいのか?という思いが拭えないのです。

 犠牲という言葉には二種類の意味があって、ひとつ目は戦争の犠牲者という意味です。これは空襲で命を奪われた人たち、外地から日本に引き揚げる途中で命を失った人たちを意味します。二番目は、目的を達成するために身をなげうって尽くすという意味であり、戦死した軍人や軍属が該当します。「貴い犠牲の上に平和と繁栄がある」といういい方は、二番目の意味(すなわち戦死した軍人や軍属)を意識していると思ってよいでしょう。(神戸に行って、「今日の神戸の反映は阪神大震災で亡くなった方々の犠牲の上にあるのです」といい方をする人はいないでしょう。)
 では、彼らが出征し、あるいは従軍したのは何のためだったかといえば、家族を護り日本を護るためだったというのが広くいわれていることです。(実際には、喜んで行った人もいれば、嫌々行った人もいるはずであり、人によって異なるはずです。)
 それでは、家族や日本を護るという目的が達成されたのかといえば、答えは否です。空襲や原爆、沖縄戦で亡くなった民間人は八十万人に及ぶとされています。これだけ多くの犠牲者を出したうえに、ポツダム宣言を受諾することによって日本は主権を失い、進駐軍が統治することになったからです。(沖縄と小笠原がいったん日本から切り離されたことも忘れてはなりません。)

 ゆえに、あの戦争で戦死した軍人や軍属を「犠牲」として位置づけるのは誤りです。
 
 「貴い犠牲の上に」といういい方は遺族を慰めるものですが、同時にあの戦争の責任についてすべてをうやむやにする言葉でもあります。
 はっきり言うと、戦争で亡くなった民間人も含め、戦死者の中にも「死ななくてもよかった」人は相当数いるのではないかと思います。実際、戦死した理由として餓死や傷病が含まれているのですから、当時の日本軍が組織として機能せず、指導者が無能無策無責任であったことの証左であるといってよいでしょう。

 近隣諸国からの脅威に対し、抑止力を高めるために日本には軍隊が必要だという主張をする人が増えているようです。そのように考えるのであれば、先の戦争において「なぜあれだけ大勢の人が死ななければならなかったのか?」という検証を先にすべきだと私は思います。それもせずに軍備を拡張し、憲法を改正すると、また大勢の「死ななくてもよかった人たち」を生み出すことになると思うからです。
 そういう姿勢が現政権には微塵も見られないので、私は安保法制はもちろん憲法改正にも反対するのです。戦争はアニメや映画とは違うのですから。


 参考までに、同じ戦没者追悼式で天皇はどのように述べたかを引用しておきます。

 終戦以来71年、国民のたゆみない努力により、今日のわが国の平和と繁栄が築き上げられましたが、苦難に満ちた往時をしのぶとき、感慨は今なお尽きることがありません。

by t_am | 2016-08-16 09:10 | その他
 ツイッターのTLで傑作だと評判になっているシン・ゴジラを観てきましたた。もう一回観に行ってもいいかなというのが感想です。

 ゴジラが街を破壊するシーンは時間にして全体の1割ちょっとくらいでしょうか、人間がゴジラに戦いを挑むシーンを含めても全体の三割にも満たないのではないかと思います。では残りは何かというと、政治家と官僚による会議、意見交換(石原さとみが登場するシーンもここに含まれます)が大部分を占めていように思います。そんな映画が面白いのか?と思うかもしれませんが、これが面白くてたまらないのですね。

 1%の嘘を信じ込ませるためには、99%の真実の中にその嘘を織り交ぜなければなりません。ゴジラというフィクションを観客に受け入れさせるには、残りすべてが緻密に計算されたリアリティに徹していなければならないのです。シン・ゴジラはそれを成し遂げることができたので、とても面白い仕上がりになっています。

 わたしのTL上で、ある人は、この映画の中で延々と続く会議(その中には的外れと思われる議論もあります)と自衛隊の隊員や防衛大臣(余貴美子が光ってました)が攻撃許可を求める手続きのくどさに民主主義のお手本を見いだしていました。
 映画館を出てから気づいたのですが、この映画にはバカな政治家と上司の顔色を伺う無責任な官僚がまるで出てこないのです。登場する政治家と官僚たちはそれぞれ使命感と責任感をもって私生活を省みることもせずに、己の仕事に取り組むという壮大なフィクションが描かれています。バカ、無責任、欲張りが一人も登場しないからこそこの映画は面白いものになっているのですが、冷静に考えるとちょっとありそうもないことですね。
 ただし、この映画に出てくる人物たちの行動は、観客が無意識のうちに望んでいる姿の投影であることも事実です。実際にはあり得ないかもしれませんが、大衆が好ましいと思う人物たちが描かれているというのもこの映画を面白くしている要因のひとつなのだと思います。

追記
 リアリティには2つあって、いかにもありそうな話のほかに、こうあって欲しいという願望が込められたリアリティがあるようです。後者は結婚詐欺師になぜ騙されるのかを理解する際に必須の要素であるといえます。庵野監督を結婚詐欺師に喩えるわけではありませんが、観客が心地よく物語に没入できるためにも、バカな政治家と無責任な官僚を排除するというのは必要であったといえるのです。
by t_am | 2016-08-09 21:24 | その他
 相模原市の知的障碍者施設で7月26日に起きた殺傷事件についてずっと考えていました。たった一人の人間が、19人の命を奪い、26人を負傷させるという事件をどう受け止めたらいいのかわからなかったのです。
 ニュース番組で映される犯人の写真は、どれも不気味に笑っているものであり、犯人の異常性を強調したものになっていると思います。さらに、今年2月には犯行の予告をしたためた大島衆議院議長宛の手紙を議長公邸に持参したこと、施設の同僚に向かって重度の障碍者の安楽死を容認する発言をしたこと、これを受けて施設が警察に通報した結果緊急入院という措置を受けていたこと、さらに大麻の陽性反応があったことなどの一連の常識とはかけはなれた行動が明らかにされています。

 こうしてみると、一人の精神異常者による犯行という見方も成り立つようですが、それで片付けていいのか?という疑問を感じています。
 
 「犯人の植松某は大麻の常習者であり、精神に異常をきたしていたのであるから、あのような残虐な犯罪を犯したのも頷ける」という論理は、精神障害者は犯罪を犯すものだと主張しているのに等しいといえます。この論理は、さらに、「精神障害者は責任能力がないとみなされ、罪を犯しても無罪とされることもあるので、罪を犯す前に拘束したり隔離するなどの予防的措置も許される」という考え方につながっていくと思いますが、これは精神障害者に対する差別を合法化するものです。ここでいう「予防的措置」を「殺害」と言い換えれば、それはまさしく今回の犯人が行ったことにほかなりません。

 今回の犯人の行動をみれば、計画的な犯行であることは明白です。そして被害者は皆犯人よりも弱い人たちであることを考えると、自分に手向かう恐れのない弱者だけを狙った卑怯千万な犯行であるといえます。このような輩は人間の屑であると断定して構わないと思います。
 犯人がどのような供述をしようとも、このような輩に命を襲われた被害者の驚きと恐怖、そしてそのご家族の悲しみと無念さを思うと言葉を失ってしまいます。せめて自分にできることは何かないのか考えると、この事件をどのように理解し、どのような姿勢で臨むのがを整理することが先だろうと思ったので、本稿を書いています。

 犯人の植松某について、卑怯者であり人間の屑であると書きました。それでも、植松某を裁くのは法でなければなりません。このような残虐な事件を起こした犯人を極刑にせよと求めるのは自然な感情でしょうが、裁くのはわたしたちではありません。そこを間違うと、わたしたち自身が植松某と同じになってしまうと思います。

 114,171。
 
 この数字は、7月31日に行われた東京都知事選で桜井誠候補が獲得した票の数です。桜井誠氏は「在日特権を許さない会の初代会長」であり、在日朝鮮人に対するヘイトスピーチで有名になった人物です。
 人が罪に問われることがあるとすれば、それはその人の行いを咎めているのであって、その人の存在そのものを罪に問うということはできません。にもかかわらず、その人の存在そのものを問題視し、排除しても構わないのだと主張しているのが植松某であり、桜井誠氏です。これがこの二人の共通項なのですが、今回桜井誠候補に投票した114,171人の有権者にも通じるようにも思います。

 実際には投票に行かなかった人の中にも桜井誠氏に同調する人はいることでしょう。そして、東京都の人口が日本全体のおよそ1割であることを考えると、桜井誠氏と同じような考えを持つ人は全国で百万人を優に超えるかもしれないということになります。

 他人に対し、その存在が罪であるからこれを断罪してもよいという考え方は、わかりやすくひと言でいえば「魔女狩り」そのものです。魔女狩りに加わった人たちには、自分たちの行いに対し責任をとるという意識が皆無だったという特徴があります。自分たちは正義なのだと思っているの当然なのかもしれません。けれどもその矛先がもしかして将来自分に向けられるかもしれないということまでは気がつかないという特徴もあります。自分が同じ立場になったとしても、一切文句は言わないという誓約書に署名しているに等しいのですが、そういう認識もないようです。

 たぶん、このような人たちは今後ますます増えていくものと思われます。そしてこの現象は日本だけのものではないということは、もうお気づきのことと思います。
by t_am | 2016-08-02 23:20 | その他
 この章には、これを書いた人たちが特権意識の持ち主であることを感じさせる文章が並んでいます。以前も述べた、国民と元首である天皇の間にいる人たちが、上から見下ろす視点で書かれたものが多いのです。こんなものを読むのはばからしいのですが、我慢して読んでいます。
 この草案で新たに追加または変更された文言について、順番に見ていきましょう。今回はその1回目です。

1,第十一条の一部をさりげなく変更
(日本国憲法) 
 国民は、すべての基本的人権の享有を妨げられない。この憲法が国民に保障する基本的人権は、侵すことのできない永久の権利として、現在及び将来の国民に与へられる。

(草案)
 国民は、全ての基本的人権を享有する。この憲法が国民に保障する基本的人権は、侵すことのできない永久の権利である


 下線部が変更されているところです。一見すると、たいした違いはないようですが、日本国憲法では、「享有を妨げられない」とあるのを、草案では「享有する」とかなり弱い表現になっています。これは、享有するけど制限される場合もある、といいいたいからでしょう。
 2番目のポイントは、日本国憲法にある「現在及び将来の国民に与えられる」という文言が削られているところです。「将来の国民に与えられる」というのがポイントで、これを字義通りに解釈すると、基本的人権に関する憲法の規定は、これをなくしたり弱めたりするような改正をすることはできないという意味になります。
 一方、草案では「現在及び将来の国民に与えられる」という文言をとってしまっているので、その憲法に書かれているものが基本的人権であって、これを侵すことはできないという解釈が成り立ちます。すなわち憲法改正によって、基本的人権も変わってくるということになるのです。
 けっこう、大事な問題がさらりと変更されていることがおわかりいただけることと思います。


2.第十二条の一部を訂正
(日本国憲法)
 この憲法が国民に保障する自由及び権利は、国民の不断の努力によつて、これを保持しなければならない。又、国民は、これを濫用してはならないのであつて、常に公共の福祉のためにこれを利用する責任を負ふ。

(草案)
 この憲法が国民に保障する自由及び権利は、国民の不断の努力により、保持されなければならない。国民は、これを濫用してはならず、自由及び権利には責任及び義務が伴うことを自覚し、常に公益及び公の秩序に反してはならない


 下線部が訂正されたところですが、ポイントは2つあります。

(1)国民に対し、自由及び権利には責任及び義務が伴うことを自覚せよと明記したこと(2)自由及び権利は、公益及び公の秩序に反する場合制限されると規定したこと


 まず、(1)の自由及び権利には責任及び義務が伴うという規定ですが、一般的な権利(というよりは取引)と基本的人権とを混同しているのではないかと思います。
 通常、ものを買うときは、自分が欲しいものを受け取る権利が発生しますが、それに見合う対価を支払う義務が生じます。売り手は、代金を受け取る権利が発生しますが、ものを引き渡す義務だけでなく、その品質に対する責任を負うことになります。
 行きすぎた権利意識といわれることがありますが、それは買い手が横暴に振る舞う場合(クレーマーもこの類です)や、公的なサービスの受け手が自分はお客さまであると勘違いするケース(学校や教師に対するモンスター・ペアレントがそうです)を指しているのではないかと思います。

 一方、基本的人権の代表例でである生存権(健康で文化的な最低限度の生活を営む権利、憲法二十五条)について考えてみると、生存権にどんな責任や義務が伴うというのでしょう? 学問の自由(憲法二十三条)や思想・良心の自由(憲法十九条)、参政権(憲法十五条)も同様です。
 どうやらこの変更は、なんとなくわかったような文言を並べることで、国民に対し、基本的人権を制限する場合があることを認めさせようとするものではないかと思います。
 このように、まるで見当違いのことを持ち出して、あたかもそうであるかのように説明するという手法は安倍総理が得意とするものであり、自民党が発行している改憲のPRマンガにも見られます。


http://jimin.ncss.nifty.com/pdf/pamphlet/kenoukaisei_manga_pamphlet.pdf


 ちなみに、日本国憲法が第三章で定めている国民の義務とは、子女に対し教育を受けさせる義務(こどもに労働させることの禁止)、勤労の義務、納税の義務の3つです。

 (2)について、日本国憲法では、誰もが自分の権利を無制限に主張した場合必ず衝突が起こるという考えから、権利の衝突を調整するために公共の福祉という概念を定めているものです。たとえば表現の自由とプライバシー権の侵害という問題がこれに該当しますが、実際には判例によって何が公共の福祉になるのかが示されるので、わかりにくいという欠点があります。
 一方、草案に書かれている公益及び公の秩序は公共の福祉とは異なる概念です。公益を別な言葉で表現すると「全体の利益」となります。昔の中学校の教育では、公共の福祉=みんなの利益なのだから我が儘をいうな、みたいなことが教えられていました。
 そのような記憶のある人にとって、草案に書かれていることに違和感を感じることはないようですが、全体の利益が個人の権利に優先するとはどういうことかについて、考えてみましょう。
 たとえば、東京オリンピックのための競技場を新たに建設するために、建設予定地にある住宅や学校、病院を移転させることが決まっても個人は反対することができず、大人しく従わなければならないということです。北京オリンピックのときに、競技場を建設するためにその予定地に住んでいる住民が強制的に移転させられているというニュースが入ってきて、いかにも中国らしいという反応がありましたが、どうやら日本も中国と同じようにしたいというのが自民党のセンセイ方のお考えのようです。
 オリンピックの競技場というのを、原子力発電所、放射性廃棄物保管施設と言い換えても同じことであす。民主的な手続きに則って決まったことなのだから文句をいうな。そんな時代がそこまで来ているように感じます。

 公共の福祉と公益というのは、一見よく似た言葉ですが、その意味することはまるで異なるということは知っておく必要がああります。

 次に公の秩序という文言ですが、これは解釈によっては、デモを取り締まる口実になりかねません。デモを行う際は警察に事前に相談に行き、許可を得てから実施するわけですが、いったん許可を受けたデモであったとしても、公の秩序を乱すと判断された場合は警察が介入することになり、逮捕者が出ることも考えられます。また、デモが大規模なものである場合、治安出動のために国防軍が出動することもありうるというのが、自民党の草案です。

 問題は、何が公益にかなうことなのか、あるいは何が公の秩序に反することなのかが、かなり恣意的に判断されるのではないかということです。
 沖縄県東村高江で起きていること(本土ではほとんど報道されていませんが)を思うと、杞憂ではないように思います。
by t_am | 2016-07-27 20:50 | その他
 今回は改憲草案のポイントのひとつである「第二章 安全保障」を読むことにします。
 せっかくですから、全部を引用してみましょう。

(平和主義)
第九条 日本国民は、正義と秩序を基調とする国際平和を誠実に希求し、国権の発動としての戦争を放棄し、武力による威嚇及び武力の行使は、国際紛争を解決する手段としては用いない。
2 前項の規定は、自衛権の発動を妨げるものではない。

(国防軍)
第九条の二 我が国の平和と独立並びに国及び国民の安全を確保するため、内閣総理大臣を最高指揮官とする国防軍を保持する。
2 国防軍は、前項の規定による任務を遂行する際は、法律の定めるところにより、国会の承認その他の統制に服する。
3 国防軍は、第一項に規定する任務を遂行するための活動のほか、法律の定めるところにより、国際社会の平和と安全を確保するために国際的に協調して行われる活動及び公の秩序を維持し、又は国民の生命若しくは自由を守るための活動を行うことができる。
4 前二項に定めるもののほか、国防軍の組織、統制及び機密の保持に関する事項は、法律で定める。
5 国防軍に属する軍人その他の公務員がその職務の実施に伴う罪又は国防軍の機密に関する罪を犯した場合の裁判を行うため、法律の定めるところにより、国防軍に審判所を置く。この場合においては、被告人が裁判所へ上訴する権利は、保障されなければならない。

(領土等の保全等)
第九条の三 国は、主権と独立を守るため、国民と協力して、領土、領海及び領空を保全し、その資源を確保しなければならない。


 注目すべきは、九条二項で自衛権(当然集団的自衛権も含まれます)を有すると宣言しているのに加え、九条の二第三項で国際的な制裁措置(「国際社会の平和と安全を確保するために国際的に協調して行われる活動」)に参加できると明記していることです。さらに、「公の秩序を維持し、又は国民の生命若しくは自由を守るための活動」として治安出動も可能にしている点も見逃せません。
 これらを整理すると、国防軍の任務は次のようになります。

(1)個別的自衛権の行使
(2)集団的自衛権の行使
(3)国際的な制裁措置への参加
(4)治安出動

 こうしてみると、現行憲法に比べると、かなり範囲が広がっていることがわかります。国防軍という名前をつけていますが、単に軍といった方がいいように思います。
 なお、治安出動に関しては、自衛隊法78条(命令による治安出動)と同81条(要請による治安出動)にその規定があり、一般の警察力では治安が維持できない場合に、自衛隊を出動させるというものです。もっともこれまで治安出動が行われたことは一度もないのですが、今後もそうだと断言できると保証するものは何もありません。自衛隊法がどのように改正されるのかを注意する必要があるでしょう。

 さて、第二章の中で最大の懸念材料は九条の三です。「国は、主権と独立を守るため、国民と協力して、領土、領海及び領空を保全し、その資源を確保しなければならない。」と書かれていますが、普通に読めばこれは徴兵制を念頭に置いている文言であると解釈できます。
 自民党が出している憲法改正草案Q&Aには「現在の政府解釈は、徴兵制を違憲とし、その論拠の一つとして憲法 18 条を挙げていますが、これは、徴兵制度が、現行憲法 18 条後段の「その意に反する苦役」に当たると考えているからです。」(14ページ)と書かれていますが、わたしたちは、これまでの政府解釈が簡単にひっくり返されたという実例を目の当たりにしたばかりなので、あまり信用できません。


http://constitution.jimin.jp/faq/


 また、安倍総理も、2015年7月30日の参議院特別委員会で「(徴兵制は)明確な憲法違反で、導入は全くありえない。」と答弁していますが、安倍総理のこの発言が未来の日本の総理大臣たちを拘束するものではありませんから、鵜呑みにしない方がよいと思います。徴兵制に手をつける前に、経済的徴兵という手段もあるわけですし。

 草案の第二章に書かれていることは、軍隊を持つ国であればごく普通の規定であるといわれるかもしれません。それはその通りかもしれませんが、わが国がアメリカの属国的立場にある以上、イラク戦争のときのような過ちを犯す可能性が極めて高いと思います。せめて、イラク戦争に荷担した是非について独自に検証しようというのであればいいのですが、政府にはそういう気持ちはないようです。つまり、責任を取りたくないからなのでしょう。
 責任をとろうとしない人たちに武力行使の決定権を与えるのは極めて危険です。国民がどれだけ死のうと指導者たちは責任を一切とらないのですから。
by t_am | 2016-07-19 23:23 | その他
 今回は、第一章のおさらいです。
 草案第一章の特徴は次の3点であるといってよいでしょう。


1.天皇を元首として規定していること
2.国民にも義務を課していること
3.総理大臣の衆議院解散権を明記していること

 日本国憲法前文の主語はすべて日本国民とそれを示す「われら」です。したがって、日本国憲法は日本国民が自らつくりあげた憲法であるということになります。
 一方、草案の前文に書かれている主語は、大別すると日本国と日本国民の2種類です。念のため、以下に引用しておきます。

(前文)
 日本国は、長い歴史と固有の文化を持ち、国民統合の象徴である天皇を戴いただく国家であって、国民主権の下、立法、行政及び司法の三権分立に基づいて統治される。
 我が国は、先の大戦による荒廃や幾多の大災害を乗り越えて発展し、今や国際社会において重要な地位を占めており、平和主義の下、諸外国との友好関係を増進し、世界の平和と繁栄に貢献する。
 日本国民は、国と郷土を誇りと気概を持って自ら守り、基本的人権を尊重するとともに、和を尊び、家族や社会全体が互いに助け合って国家を形成する。
 我々は、自由と規律を重んじ、美しい国土と自然環境を守りつつ、教育や科学技術を振興し、活力ある経済活動を通じて国を成長させる。
 日本国民は、良き伝統と我々の国家を末永く子孫に継承するため、ここに、この憲法を制定する。
 
 既に申し上げたように、3番目の段落は「日本国民」の意思というよりは、日本国民に対しこうしなければならないと定めているかのような印象が拭えません。また4番目の段落を読むと日本国民の存在理由が国を成長させることであるかのようにも受け取れます。その考え方の延長が5番目の段落であり、国歌を末永く継承するために憲法を制定すると書かれています。つまり、この草案は国歌を成長させ、末永く存続させるために憲法を定めると明記しているわけであり、国民はそのために存在しているのだということになるのです。

 このような記述をするのは、少なくとも日本国民と同じ位置に立っている人ではありません。むしろ上からの視点でこの草案をつくっているということに気づきます。その人たちは、元首である天皇と国民の間にいる人たちであり、天皇を神聖視し、自分が率先して天皇をあがめ奉ることで、自分自身の権威を高めていくことができるということを知り尽くしている人たちです。
 その人たちが次に何をするかというと、国民に義務を課し、その権利を制限することに着手するということです。既に、第一章では国旗と国歌を尊重する義務を国民に対して課すことにしています。
 かれらが国民に課す義務と、制限しようとする権利がどのようなものであるのかは、今後草案を読んでいく中で次第に明らかになっていくことでしょう。
by t_am | 2016-07-18 21:34 | その他
 今回は自民党の憲法改正草案(以下「草案」)のうち「第一章 天皇」について読んでみます。草案の第一章は現行憲法の上書きといったイメージですが、新たに追加された条項もあります。

(日本国憲法との違い)
1.天皇を元首であると規定していること(第一条)
2.国旗を日章旗とし、国歌を君が代と定めたうえで、国民にこれを尊重する義務を課していること(第三条)
3.元号は、皇位の継承があったときに定めるという規定を設けたこと(第四条)
4.天皇が行う国事行為については内閣の進言(日本国憲法では助言と承認)を必要とするとさだめたこと。(第六条4講)
5.衆議院の解散は総理大臣の進言によると明文化したこと(第六条4項)
6.天皇は国事行為の他、国や地方自治体その他の公共団体が主催する式典に出席すること、および公的な行為を行うと定めたこと(日本国憲法にはこの規定はなく、国事行為のみを行うという規定があります)

(天皇を元首として定めることについて)
 日本国憲法には、天皇は日本国民統合の象徴であるという規定はあるものの元首であると明確に規定しているわけではありません。そもそも元首とは国を代表する資格を持つわけで、外交儀礼上、現状でも天皇が元首である解釈することは可能です。さらに、日本国憲法憲法第七条に定める天皇の国事行為はまさに元首がなすべきことですから、案の第一条だけを読むと、天皇が元首であると明文化することは妥当であるかのように思われます。けれども第六条4項のように、天皇の権限が強化されそうな文言が入っているところが気になります。

第六条4項 天皇の国事に関する全ての行為には、内閣の進言を必要とし、内閣がその責任を負う。ただし、衆議院の解散については、内閣総理大臣の進言による。

 草案の第六条4項では、進言の伴わない国事行為はできないと解釈できますが、進言という言葉は天皇が拒否することもできるという解釈も成り立つように思います。(実際に天皇が拒否することは可能であるかどうかは別の問題です。)そのうえで天皇が下した判断は「聖断」であって何人も批判してはならないと言い張ることも可能になると思います。それで誰が得をするのかというと、天皇に進言することができる地位にいる人であることはいうまでもありません。


(国旗と国歌の尊重義務)
 日本には既に国旗と国歌に関する法律があります。そのうえ国旗と国歌を憲法で定める必要があるのでしょうか? 憲法でもこれを規定する理由は、国民に国旗と国歌を尊重する義務を課すことだと考えられます。現状では公務員が国歌斉唱の際に起立しなかった場合、条例によって処罰されることがありますが、この草案の通りになると、一般の国民も処罰の対象になっても不思議ではなくなります。すなわち、思想信条の自由が制限されることにつながっていく可能性を秘めた規定であるといえます。

(元号規定について)
 草案の文言は、「元号は、法律の定めるところにより、皇位の継承があったときに制定する」です。実は元号法というべき法律が既に制定されていて、その条文は次の通りです。

1  元号は、政令で定める。
2 元号は、皇位の継承があつた場合に限り改める。

 既に元号法がある以上憲法に書き加える必要があるのかと思いますが、憲法に元号を書き込むことによって、「元号の廃止が簡単にはできないようになる」という面はあります。現行の法体制では元号をなくすには号法を廃止すればよいのですが、憲法に書き込むと、憲法改正をしなければ元号が廃止できなくなるからです。
 もしかすると、草案をつくった人たちには、日本の元号は645年の大化から始まり、以来千四百年弱続いてきた制度であって、日本の文化と深く結びついているものであるから、これを憲法に盛り込むことは当然であると考えているのかもしれません。その可能性は極めて高いと思いますが、そこには、憲法を金科玉条のように思っている一方で、日本国憲法を蔑ろにしているという矛盾が感じられます。そういうと、「いや、あれはGHQに押し付けられた憲法だから本当の意味での日本の憲法とはいえないのだ」と反論されるかもしれません。憲法改正を主張する皆さんが心からそう思っているのであれば、日本をアメリカの属国のように位置づけている日米地位協定の改定を主張してもよさそうなものですが、残念ながらそういう主張はなされていないようです。

(衆議院の解散権について)
 日本国憲法に定める衆議院の解散の規定は、第六十九条「内閣は、衆議院で不信任の決議案を可決し、又は信任の決議案を否決したときは、十日以内に衆議院が解散されない限り、総辞職をしなければならない。」と天皇の国事行為を定めた第七条のうち第三号「衆議院を解散すること」の2つです。七条の規定は、天皇は内閣の決定を追認するというものですから、第七条三号の規定は、総理大臣に対し、任意に衆議院を解散できる権限を与えていると考えられているようです。
 にもかかわらず、草案では「衆議院の解散は、内閣総理大臣が決定する」(第五十四条)という規定を新たに設け、さらに第六条4項ただし書きとして「衆議院の解散については、内閣総理大臣の進言による。」という文言を追加しています。
 なぜこういう文言を追加するのかというと、現行の規定のままでは、総理大臣の解散権があまりにも曖昧であるからです。普通に考えれば、憲法の中で衆議院の解散について書かれているのは第六十九条の「衆議院で不信任の決議案を可決し、又は信任の決議案を否決したとき」だけですから、これ以外に衆議院を解散してもよいと考えるのは乱暴な気がします。衆議院議員も総選挙によってその地位を得た人たちなのですから、内閣総理大臣の気持ちひとつでその地位を奪ってよいものか甚だ疑問に思います。
 総理大臣は国会が指名した人であることを考えれば、総理大臣も衆議院議員も国民の信託を受けた人と解釈することができます。その衆議院と総理大臣(内閣)の間でが対立が生じ、容易に解決できそうもないとき(不信任決議が可決されたとき)の解決策として内閣が総辞職するか衆議院を解散するかどちらかを選ぶとしているわけです。
 要はそれ以外に衆議院を解散する必要がどこにあるのか、ということです。総選挙を1回やればその間政治的な空白が生じますし、選挙に世する費用は税金の負担も候補者の負担もそれぞれ大きなものになります。
 とはいうものの、小泉元総理が行った郵政解散のように、総理大臣が自らの政策の信を国民に問うという意味での解散まで否定できるかというと、そうではないようにも思われます。
 したがって現実的な考え方としては、総理による解散権は認めつつも、解散ができるのはこのようなときと法律で定めることで解散権を制限するというのが妥当だと思います。

 ところが、草案の第五十四条には「衆議院の解散は、内閣総理大臣が決定する」とあり、しかも「法律の定めるところにより」という文言もない以上、総理大臣に対し任意に解散権を行使することをはっきりと認めることになるといっても差し支えないと思います。


(公的な行為を行うという規定について)
 ここでいう公的な行為というのは地方公共団体が主催する公的な式典や国会の開会式で「おことば」を述べることなどが想定されているようです。(「日本国憲法改正草案Q&A」自由民主党 P8 より)

https://jimin.ncss.nifty.com/pdf/pamphlet/kenpou_qa.pdf 

 したがって、これらの公的行為を憲法によって合法化するのは一見もっともなようにも思われますが、ここにも「法律の定めるところにより」という文言がありません。この文言があれば、天皇が出席する式典や公的行為が何なのかが明白になるのですが、それがないということは、何が公的行為にあたるのかという判断、および天皇がどの式典に出席するかという判断は内閣に委ねられるということになります。たとえば、将来全国戦没者追悼式を靖国神社で行うと内閣が決めた場合(昭和39年の追悼式は靖国神社で行われた)、当然天皇も出席を求められるでしょう。政教分離の原則を持ち出して靖国神社での開催を批判しても、過去に実施したことがあるという前例を持ち出され、うやむやのうちに強行されるものと推測されます。なぜならば、国家元首である天皇が靖国神社に詣でるという事実こそが、この草案をつくり支持する人たちが願ってやまないことだからです。


 本稿で述べたことは穿ったものであると思われるかもしれません。しかし、現政権のこれまでやり方をみると、想定されるあらゆるケースを検討しておくことは決して無駄ではないように思えてなりません。
by t_am | 2016-07-18 12:20 | その他