ANA国内線【PR】

カクレ理系のやぶにらみ

tamm.exblog.jp

時間のある方はお読みください。軽い気持ちで読み始めると頭が痛くなります。

カテゴリ:その他

  • 河本某の騒動について思うこと(2)  ハイエナのような政治家たち
    [ 2012-05-27 09:14 ]
  • 河本某の騒動について思うこと(1)
    [ 2012-05-27 09:13 ]
  • 市長の憎悪と限界
    [ 2012-05-21 06:40 ]
  • 無理のある職務命令(2)
    [ 2012-05-08 21:43 ]
  • 個人情報とデータベース
    [ 2012-05-06 18:41 ]
  • 否定する文脈
    [ 2012-05-03 23:15 ]
  • 「日本政府の40分」で浮かび上がったこと
    [ 2012-04-15 00:41 ]
  • なぜ失敗が続くのか
    [ 2012-04-14 06:55 ]
  • どこにでも存在する放射性物質
    [ 2012-03-30 08:36 ]
  • 国家公務員の人員整理
    [ 2012-03-24 07:58 ]
 河本某の母親の生活保護の受給について、自民党の片山さつきが国会で追及し、厚生労働大臣である小宮山洋子が答弁していました。
 5月26日の片山さつきのブログには、「政府は消費税増税や年金額切り下げなど、国民に痛みを強いる改革を進めており、生活保護制度に不公平感が高まりつつあるために、生活保護費も聖域化しないと判断。自民党は10パーセントの引き下げを求めている。小宮山大臣は、夜、生活保護受給者の親族が扶養できないなら、扶養が困難な理由の証明責任を親族側に課す法改正、これは私が会見で18日にも主張したことの一つですが、検討を表明しました!」と書かれています。
 また、小宮山洋子厚生労働大臣は25日、衆議院の社会保障と税の一体改革特別委員会で「生活保護費の支給水準引き下げを検討する」考えを表明し、さらに、生活保護の受給開始後、親族が扶養できると判明した場合は積極的に返還を求める意向であることも述べました。

 生活保護という制度ができたのは戦後(1946年)のことです。戦後の混乱期に、生活の糧を得ることができない生活困窮世帯を救済する目的でつくられたのですが、その対象は主に都市労働者であったと思われます。
 農家の次男三男が都会に出て行き労働者となるというのは江戸時代からあった現象ですが、日本が近代化するにあたり、農村から都会への人口移動が政策的に進められるようになりました。それは、言い換えれば大家族を解体させ、核家族をつくっていくというものでした。大家族制のもとでは歳をとれば家族に面倒をみてもらうことができますが、核家族ではそうもいきません。そこで、老後の生活を支援するという目的で1960年に年金制度が設けられました。
 経済不況と少子高齢化により、年金財政が危うくなっており、将来自分が年金をもらえるのだろうかと不安に思っている方も多いと思います。

 核家族化という政策を進めてきたのは自民党です。その場合のセーフティネットとして生活保護が設けられているのですが、財政難を理由に「自民党は10パーセントの引き下げを求めている」というのはあまりにも無責任であると思います。そもそも、現在の財政難を招いたのは自民党の政策(とそれを支持した国民)によるものです。それでも景気が上向けば税収も増えますから、借金も返済しやすくなるのですが、財政出動を繰り返しながらいっこうに景気はよくならなかったわけです。

 そういう過去からの文脈に頬被りをして、国民感情につけ込んで、あたかも自分が正義の味方であるかのように振る舞うという片山さつきには品性の卑しさを感じ、怒りすら覚えます。

 また、小宮山洋子の「生活保護費の支給水準引き下げを検討する」を聞いたときは、この人は厚生労働大臣としての資質を欠いた人であると思ってしまいました。政治家である以上、優先的に取り組むことは「生活保護を受給しなければならない世帯を減らしていく」ということであると思います。しかしながら、バブル崩壊後は生活保護の受給世帯は増加を続けているというのが現実であり、この点で歴代の内閣が有効な手を打つことができなかったことは明白です。
 普通の神経の持ち主であれば、今まで自分たちがやってきたことは何の効果もあげることができなかったと反省するところでしょうが、片山さつきも小宮山洋子もそういう反省とは無縁のようです。(別にこの二人に限ったことではないのですが。)
 厚生労働省という官庁の存在意義は、病気になったり生活に困ったりして、支援を受けなければならないようになった人に対する支援が必要十分な水準となるようにするというところにあると思うのですが、小宮山洋子は自らそれを否定して見せたわけです。そういう発言が出るということは、邪推になるかもしれませんが、企業でいえば課長や部長クラスの意識しか持たないことの証左であるといえます。コスト削減を立案し実行するのは部課長の役目であり、経営者はもっと高い次元でものごとを判断するのが仕事です。国政を預かる政治家が部長や課長クラスの意識しか持っていないというのは情けないことですよね。

 子供が親の面倒を見るのが当然という考えかたを小宮山洋子はしているようですが、親の面倒を見る子供の数が増えればそれだけ支援が容易になるというのは誰にでもわかる理屈です。自民党や民主党が今まで、それと逆のことをしてきたからこそ、こうして悪口を書いているわけです。
 そういえば、この人は少子化担当大臣も兼務しているはずですが、そちらの方での実績を上げてからこういう発言をされたらいかがなものでしょうか。

付記
 私の場合、人の名前を書くときは、基本的にはさんづけをするのですが、例外として心底軽蔑する人物に対してはフルネームで呼び捨てにするということにしています。
by t_am | 2012-05-27 09:14 | その他 | Trackback | Comments(0)
 人気お笑い芸人である次長課長の河本某の母親が生活保護を受給していたという一連の報道は、本人による謝罪の記者会見でピークに達したようです。ハイエナのようにめざとい政治家がこの問題を取り上げたりして大きな騒動に発展したのですが、私には、自分の親の面倒を見るかどうかについては所詮は個々の家庭の事情にすぎないと思えます。

 河本某を責める人たちは、金を持っているくせに母親に生活保護を受けさせるのはけしからんという気持ちを持っているようです。そう思うのは当然だと思いますが、それを口にするかどうかはまた別の問題でしょう。「河本某はああいうことをしたけども、自分はそんなマネはしないでおこう」と考えるのは潔いといえますが、だから責めても構わないのだというのは違います。あなたがたは、この国を、「他人の財布に手を突っ込んでその使い途を監視しても構わないのだ」という国にしたいのですか?

 親の面倒を見るのが当然という考えかたがあります。だからといって、他人に対し、お前が親の面倒を見ないのはけしからん、と口にするようなことではないでしょう。それを言っていいのは、当人の親戚や家族に限られます。けれども、よく考えていただきたいのは、そういう家族や親戚からの干渉を息苦しいと感じたからこそ、大学進学や就職を口実にして親元を離れた人が多いのではないでしょうか? それが悪いと申し上げているのではありません。自分が息苦しいと感じたことを、他人に押し付けることはどうなのかと申し上げているのです。

 また、金を持っているくせに生活保護という税金を受け取るのはけしからんという思いもあるようです。これも一見もっともな考えかたのようですが、よく考えるとおかしいと思います。というのは、私たちが払っている税金はこの社会を維持するために必要な資金として払っているのであって、日本の社会のシステムがもたらす恩恵は誰もが平等に受けています。普段あまり意識しませんが、医療や教育、治安、食糧供給など国民生活を支えるために税金は使われているのであり、そういう意味で、私たちは平等に税金の恩恵を被っているといえるのです。
 さらに、さまざまな補助金や助成金という制度もあって、個人を対象にしたものと企業を対象にしたものとがあります。個人レベルでは公的機関による職業(技能)訓練もそれに該当します。これらの助成制度は、受益者が金持ちであるか(企業であれば利益を出しているか)どうかは問いません。つまり、貧乏人が税金による庇護を受けるのは構わないけれども、金持ちは税金の恩恵を受けてはならないという理屈は成り立たないのです。

 このように書くと、生活保護は支援してくれる人もなく自立できない人の生活を支えるための制度なのだから、子供が親を扶養できるだけの収入をもっていれば生活保護を受給するのはおかしい、という反論を受けると思います。これに対しては、河本某の家庭の事情ではなく一般論で申し上げるのですが、子供が親を扶養する義務と親がそれを受け入れるかどうかはまったく別の問題だと考えるべきでしょう。親の中には、歳をとれば子供に面倒を見てもらうのは当然と考える人もいますし、逆に、子供に迷惑をかけるわけにはいかないので自分の事は自分でなんとかすると考えている親もいます。したがって、親の面倒を見るかどうかは、個々の家庭によって事情が異なるのですから当人同士で話し合って決めればよいことであって、他人がこうでなければならないと決めつけるのはおかしいと思うのです。
 くどいようですが、そういう親や親戚からの干渉を息苦しいと感じて親元を離れた人も多いはずであり、そのことを忘れて河本某を非難するというのは矛盾しています。

 話が飛躍するようですが、親の面倒を見るという行為の中には、さらに介護という要素が入り込んでくるのは避けられません。介護経験のある人から、その負担(経済的な負担と精神的な負担)がいかに大きいものであるかを聞いたことがあります。けれども現行の制度では、介護する家族を支援する仕組みはまだまだ貧弱です。そういう現実に目を背けて、子供が親の面倒を見るのは当然と決めつけていいのかということもあります。

 次稿で述べますが、生活保護の支給水準を引き下げようという目論んでいる政治家たちにそういう世論が利用されかけています。河本某を責めて溜飲を下げるという気持ちも理解できないわけではありませんが、そのことが社会の弱者の切り捨てにつながっていくということも知っておいたほうがいいと思うのです。
  
by t_am | 2012-05-27 09:13 | その他 | Trackback | Comments(0)
日本国内に限ってですが、野田総理よりも存在感のある政治家が二人います。一人は石原都知事であり、もう一人が橋下市長であることはいうまでもありません。この二人には、自分の価値観と異なるものは認めないという共通点がありますが、石原都知事には橋下市長ほどの攻撃性と執拗さはありません。その違いはどこからくるかというと、橋下市長にある憎悪が石原都知事にはないように思われます。

たとえば、怒りは人間にエネルギーを与えますが、あくまでも一時的なものであり持続させるのは困難です。ところが、憎悪はそれ以上のエネルギーを持続的に人に与えます。そのように考えると、市長の攻撃性と執拗さが理解できるように思えるのです。

橋下市長の憎悪が何に対して向けられているのかといえば、具体的には教師であり公務員です。もう少し正確にいうと、不逞教師であり不逞公務員ということであり、きちんとやるべきことをやらないで特権や既得権益にあぐらをかいている連中であるということになります。そして、大阪の庶民の間にもその連中に対して、快く思っていないという感情があります(大阪庶民の間にあるその感情は、東京などに比べるとかなり強いというのは小田嶋隆さんが指摘されています)から、市長が彼らを攻撃すると庶民が喝采を浴びせるという構図ができあがるわけです。

 既得権益をめぐる利害関係者の集団を非難することと、今後それを解体して新しい形をどのようにしてつくっていくかという「改革」はまったく異なる性質のものです。問題意識を持つことは重要ですが、問題意識を持ったから改革に成功するとは必ずしもいえません。失敗することもありますし、かえって悪くなったということもあるわけです。

 政治的なリーダーを選ぶ際に、自分が共感できる人物を選ぶというのは至極もっとも選択だと思います。ただ、橋下市長には、その根底に憎悪があるだろうと推測できる一方で、それほど単純な人ではないとも思ってしまうのです。喧嘩に勝つためには何をすればいいかという勘の良さは超一流ですし、反対意見を封じ込めるロジックの展開も見事だと思います。

 そういう能力に恵まれた人が人気を集め、権力を手にしたときに何をしでかすか分からない、という不安を持つ人は、橋下市長を独裁者と結びつけて考えるのではないかという気がしています。そういう不安も理解できますが、実際のところ、今後大阪では混乱は生じるでしょうが、破滅的な状況に陥るとは思いません。(その代わり、混乱から回復するのに長い時間を要すると思います。)
 というのは、独裁者というのはそれをさせる組織があって初めて成立するものなのですが、橋下市長はまだ組織を持っていないからです。大阪維新の会は組織じゃないのかといわれるかもしれませんが、あれは今のところ政治勢力であってまだ組織にはなっていないといえると思います。
 たしかに、次期国政選挙を視野に入れて、候補者を養成するための政治塾を開設するなど、その影響力がさらに大きくなると予想されていますが、それもあくまでも橋下徹市長個人の人気に負うところが大きいわけで、たとえていえば、一人のスーパー・プレイヤーが率いるスポーツチームのようなものです。チームとしての力がどの程度のものなのかはまったく未知数であるといえます。
 そういう視点で、この間発表された家庭教育支援条例案を巡る騒動を眺めてみると、やっていることがあまりにもお粗末です。このことは、大阪維新の会がまだ組織としてかたまっていないことを示す思いますし、今後、政治塾が本格的に稼働し、議員の数が今よりも大幅に増えたときにどうなるかを考えると、維新の会が政治をリードする組織になっていく可能性は極めて低いと思われます。

毎日新聞「大阪維新の会:家庭教育支援条例案を白紙撤回 抗議受け」5月7日
http://mainichi.jp/select/news/20120508k0000m010085000c.html


 憎悪が目指すのはとりあえず破壊ですから、「グレートリセット」というスローガンが設けられるの当然といえるでしょう。それよりも問題はリセットした後どのようなものをつくっていくのかということの方です。
 橋下市長のブレーンとしてきら星のごとく人材が集まっていますが、肝心の組織がないところにスタッフがいくら集まっても「船頭多くして船、山に登る」という諺どおりの結果になるのではないかという気がしてなりません。また、そのスタッフも、経済成長というところに力点を置いた価値観の持ち主が揃っているようです。少子高齢化による総需要が減衰している局面の中で経済成長を謳うのは、今後給料が目減りしていくのがわかっていながらこれまで以上に豊かな生活をおくりましょうといっているようなものです。誰でも今の生活水準を下げたくないと思っているのは事実であり、たとえばギリシャの状況をみれば、経済成長がなければ国は危機に瀕するといわれればそうだろうなと思ってしまいます。
 その代わり、そうやって成長戦略を進めていくことは格差を拡大させ、しかも固定化させていくという副作用を伴うことにそろそろ気づいてもいいのではないかと思ってなりません。
by t_am | 2012-05-21 06:40 | その他 | Trackback | Comments(0)
 連休中の橋本市長のツイートを拝見していたところ、大阪府教育委員会の景山委員長に対し、君が代斉唱を職務命令として発令したのは教育委員会なのだから、大阪府立和泉高校の中原校長が批判されたときに、なぜ教育委員会として擁護しなかったのかという趣旨のコメントが繰り返し披露されていました。

 論理として、橋本市長の発言は全く正しいと思います。そもそも職務命令というのは、命令の遂行状況の報告と上司による承認を経て完了します。命令→実行→報告→承認というプロセスをたどるわけです。
 自分の職務に忠実な人であれば報告をおろそかにするようなことはしませんから、中原校長が教師の口元チェックを部下にに指示したというのは当然のことであるといえます。そういう忠実な人材を見捨てるようなことをしてはいけないという橋本市長の指摘は至極まともであると私も思います。

 とはいうものの、世の中には、正しいことをしていても他人から批判されるという場合があります。そういう場合に、人の上に立つ者としては部下を庇うということも大切ですが、部下が非難されないようにあらかじめ手を打っておくということの方がはるかに人としての器が大きいといえます。

 そのように考えると、ここはやはり監視カメラを大阪府下の全公立学校に設置するというのがベストの選択でしょう。橋本市長には、景山委員長を責めるはこれくらいにして、来年からはこのような不幸な事態が起こらないようにするために、せめて大阪市の公立学校には監視カメラを設置するという予算を計上された方がいいのではないか、また、大阪維新の会の議員の皆様にはその予算化に一肌脱いでいただく方が、有能な人材に思う存分手腕を発揮してもらうことにつながるはずだと、老婆心ながらお勧めする次第です。
by t_am | 2012-05-08 21:43 | その他 | Trackback | Comments(0)
 武雄市(佐賀県)が、市立図書館の管理業者に「TSUTAYA」を運営するカルチュア・コンビニエンス・クラブ(以下「CCC」)が決定し、同社との間で合意文書を交わしたとのことです。

(5月5日付西日本新聞より)
http://www.nishinippon.co.jp/nnp/item/300562

 武雄市の発表によれば、CCCのノウハウを活かし、利用者サービスをアップを図るとのことで、具体的には開館時刻を現行午前10時~午後6時を拡大して午前9時~午後9時にし、さらに年間30日ある休館日をなくし年中無休にしたうえで、飲食のできる喫茶店を設け、また雑誌やオリジナル文具の販売も計画しているそうです。書棚を増設して蔵書を現在の2倍半の約20万冊にすることも計画しているそうですから、利用者の視点に立った図書館となることも期待できそうです。

 武雄市の樋渡啓祐市長(2期目)は、これまでも武雄市民病院の民間移譲を行うだけでなく、フェイスブックやツイッターを市政に活用してきていることでも知られています。そういう人だけに、民間のすぐれたサービスを取り入れることに何のためらいもないのでしょう。
 また、武雄市の財政としても、現在年間1億4500万円かかっている図書館の運営費を約1割削減することを見込んでいるそうですから、実務家としての手腕も持ち合わせた人なのだろうと思います。

 CCCとの運営提携は、今後の市議会の承認を経て現実のものとなっていき、来年度からスタートしたいとのことです。市立図書館の運営がうまくいけば、同様の取組みが全国に広がっていくことになるでしょう。そういう意味では、今回の武雄市の動きはテストケースとなるので、今後どのようになっていくのか注目したいところです。

 図書館を民間企業が運営することについての、私の基本的な考えは以上の通りですが、実をいうと懸念されることがいくつかあります。ここではそのひとつだけを申し上げることにします。
 上記の西日本新聞のニュースにも記載されていましたが、「図書館の利用カードは、全国で約3900万人が加入するCCCのポイントカード「Tカード」に切り替え、本を借りると、CCCの提携企業の店舗で使えるポイントがたまる仕組みにする。」とのことです。これはちょっとみると、利用者にとってお得なようですが、見方を変えると個人の情報がデータベース化されることに公的機関が与するということになるのです。

 図書館の貸し出しカードがTポイントカードになることで、誰がどんな本を借りたかという情報がCCCに供給されることについて、樋渡市長は、「何を借りたかというのがなんで個人情報になるんだと疑問に思っている。」と記者会見の席上で答えていたそうです。もっとも「市民の同意が必要だが。」とフォローしていたそうですから、ヤバイと思ったのかもしれません。

 実をいうと、図書館で誰が何を借りたかという情報は、それほど価値のあるものではありません。価値が増すのは、そのような情報がいくつも組み合わさったときです。ポイントカードは小売業各社が発行しているので、持っておられる方も多いことと思いますが、それらはしょせん自社の店舗での買い物が情報として記録されるだけのカードにすぎません。また、企業によって情報の活用能力に差があるので、収集された買い物情報が社会問題化することもまずないといってよいでしょう。
 ところが、Tポイントカードは、たぶん加盟店が日本でもっとも多いカードなので、傘下の加盟店で収集された買い物情報を集めると巨大なデータベースができることになります。それはいいかえれば、それまで点に過ぎなかった個人の買い物情報が線になり、しかも今後さらに緻密なものになっていくということにもつながるのです。

 すでにネット通販では、利用者に対し、次の商品を勧めるというプッシュ型のマーケティングが当たり前になっています。たとえば、本を買った人には、その著者の新刊の案内が送られるということが行われていて、これも個人の買い物情報を「活用」してるからこそ、このようなマーケティングが可能となるわけです。

 Tポイントカードは、個人の買い物情報をはるかに幅広く収集することができる可能性を持っています。極端ないい方をすれば、その人が、いつ、どこへ行って、どの店で、何を買ったか(あるいは借りたか)という情報が次第に蓄積されていくということにつながるのです。

(参考)T会員規約
http://www.ccc.co.jp/fileupload/pdf/member/20111001_Tmember.pdf

 個人情報というと、その人が誰か特定できる情報という意味で使われていますが、それがデータベースの中に組み入れられるようになると、個人の趣味や嗜好といった属性の情報が第三者に対して明らかになっていきますし、さらには行動の履歴までもが記録されることになっていきます。
 その店でしか使えないポイントカードよりは、どの店でも使えるポイントカードの方が利用者にとって便利であることは間違いありません。そうやって利用者が増えれば増えるほど、加盟店も増えていくことになるので、データベースはますます巨大化していきます。

 データベースの価値は、蓄積されている情報量に比例して高まっていきます。ということはその情報を欲しがる人や企業・組織がそれだけ増えていくということになり、自分の知らないところで自分に関するデータがやりとりされるケースが増えていくということを意味します。

 もっとも、個人の買い物情報がデータベース化されるといっても、当面はダイレクトメールが送られてくるくらいでしょうから、興味がなければ無視するか消去すればいいだけのことですから、自分の情報が知らないところで蓄積されていっても、構わないというひともいることでしょう。それが嫌だという人は、ポイントカードを使わないで買い物をするという選択肢も残されています。
 けれども、今回の武雄市の図書館の場合は、貸出しカードをTカードにするという構想のようですから、Tカードを持ちたくないという人は図書館で本を借りることができないということになりかねません。

 おそらく、実際の運営が始まるまでには、図書館の利用者はTカードを使うかそうでないかを選択できるようになることと思います。しかし、運営する企業としてはTカードの会員数を増やしたいでしょうから、もしかするとTカードの有無によって受けられるサービスのレベルに差がつくようになるかもしれません。市立図書館として、それでいいのかという疑問と、市が一企業の便宜を図るような枠組みをつくることに対する懸念が残るのですが、今後の議論の進展がどうなるか興味深いところです。

 図書館の運営を民間企業に委託して、それでサービスレベルが向上するというのは市民にとって歓迎すべきことなのでしょうが、個人情報の取り扱いということに関して、もう少し神経を使ってもいいのではないか、そんなことを考えさせられたニュースでした。
by t_am | 2012-05-06 18:41 | その他 | Trackback | Comments(0)
誰でも(その中には私も含みます)ブログやツイッターを自由に使えるようになったおかげで、自分の意見を忌憚なく表明することができるようになりました。これはかつてないことであり、とても貴重なツールであるといえます。なぜ貴重なのかは別な機会に申し上げることにして、本稿では、ブログやツイッターというツールが私たちの心の中のある部分を無防備に開放するということについて書いてみたいと思います。

私たちは、自分の好みに合うツイートをフォローするように、ブログも自分の好みに合うもをお気に入りに登録する傾向があることは同意していただけると思います。それは人間の性癖にすぎないので、いいも悪いもありません。ただし、そのような言葉に絶えず接していると、次第に自分の思いも共鳴してその振幅が大きくなっていくということは知っておいた方がよいと思います。

既に何度も申し上げているように、人間は自分が見たいと思うものを見るのであり、聞きたいと思うことに耳を傾ける生き物です。半ば無意識のうちに情報の取捨選択を行っているうちに、自分の思いは偏った方向に進化を遂げる場合があることは、ツイッターのタイムラインや特定の個人に対するメンションを見ていればわかることです。

興味深いのは、そのようにして発達した思いというのは、まずは自分と異なる意見を否定したあげくに、自分と異なる意見の持ち主の人格を否定する方向に作用するということです。恥ずかしながら、これは経験則として申し上げているので、中にはこれがあてはまらないという方もいらっしゃるかもしれません。もしくは、だからどーした、と思われる方もいらっしゃるかもしれません。(もっともそういう方は、こんなブログに眼を通すなどという悠長なことはしていないと思うのですが…)

前置きばかり長いのもどうかと思うので、そろそろ結論を申し上げると、自分と相容れない意見はまだしも、その人の人格までも否定するようになると、そこから先は不毛の世界のみ待ち受けているということです。
不思議なことに、自分と異なる意見に対し黙ってはいられないと思うようになると、その行きつく先には他人の人格を否定したいという欲望が待ち受けている場合が多いのです。(いつもそうだというわけではありません。)

たぶん、思いの強さを与えるエネルギー源の一つに感情があるのでしょう。そのような感情には、正義感や善意というものも含まれます。それらは決して悪いことではありませんが、自分の感情という燃料を燃やし続けると、いつしか火の手を制御することができなくなる場合があるということを申し上げているのです。

たとえば、上杉隆さんという「元ジャーナリスト」がいます。この人をデマ野郎と呼ぶ人もいれば、この人の行動を支持する人が多くいることも事実です。その際立った違いは福島第一原発の事故後の、この人が伝えた報道によるものだと思いますが、私には、どちらの意見も間違いではないと思われますし、どちらの意見も十分に正しいとは思えないのです。
上杉隆さんが伝える報道は、私のような素人が読んでも、人びとを煽動しようとしていると思える節があって、この部分を取り上げてデマ野郎と呼ぶ人もいるわけであり、それはその通りだと思いますが、だからといって、全人格をデマ野郎というひと言で片付けることには与しません。また、氏の放射線の危険性を訴えるいう姿勢に共感するという正義感は理解しますが、事実と異なる情報までも事実として鵜呑みにするというのもどうかと思います。

念のため、お断りしておくのですが、その人を信用しないというのと人格を否定するというのは同じように見えて実は違うということを申し上げておきます。

こうして、事実の一部分だけを拡大鏡を見るようにして見つめた人たちが、ツイッターやブログで発言するわけです。(もっとも、そうでない人の方がはるかに多いということも指摘しておきます。念のため。)

ブログやツイッターというのは、そういう(他人の意見や人格を否定する)点と相性のいいツールなのだと思っています。これに対して、フェイスブックというのは基本的には他人の意見や存在を肯定することによって発展していくツールだと思います。ブログやツイッターにもそういう面はあるのですが、そうでない面もあって、ときとして歯止めがきかなくなるということがあるのです。私は、これを否定する文脈と呼んでいます。

否定する文脈の目的はただひとつ、自分と異なる意見の否定にあります。ゆえに、否定する文脈の応酬が発展的に新しいものを生み出すということはありません。生み出すものがあるとすれば、それは悪意、もしくは無視、無関心ということになります。


 僕には君が何を考えているかがわからない。
 たぶん君も僕が何を考えているのかわからないと思う。


これは以前書いたブログの一節です。
人間は複雑であり、他人を理解する(他人に理解してもらう)のは本当に難しいということは同意していただけるのではないかと思います。

だから僕たちは一緒にはいられない、と思うのか、でも僕たちは一緒にいることができる、と思うのかによってその人の人生はまるで違ったものになると思います。どちらを選ぶのかはその人が決めることなので、どちらの方がよいと申し上げることは無意味でしょう。
けれども、他人を無視する、あるいは無関心でいられるというのは、自分も他人から無視されでもかまわない、関心を持たれなくても構わないという強さがなければとうてい続くものではありませんし、そういう強さを持った人を私はこれまで見たことがないということだけは申し上げておきたいと思います。
by t_am | 2012-05-03 23:15 | その他 | Trackback | Comments(0)
4月13日に行われた北朝鮮の「ロケット」の打ち上げがについて、日本政府の発表が、午前7時38分に行われた打ち上げの45分後である午前8時23分となったことが批判されています。韓国国防省の発表が午前8時頃だったそうで、それと比較すると遅すぎるというものです。

同日行われた藤村官房長官の会見の要約は次の通りです。(NHK News Webより)

(1)午前7時40分ごろ、防衛省に、アメリカ軍の早期警戒衛星を通じて、「北朝鮮から何らかの飛翔体が発射された」という情報が入り、藤村官房長官には、7時42分に報告された。

(2)日本は、レーダーで飛翔体の軌道の探知を始めていたが、1分ほどで軌道を見失った。同じころ、アメリカ側からも「北朝鮮から発射された飛翔体の軌道を見失った」という情報がもたらされた。

(3)日本政府は、アメリカの早期警戒衛星が誤って探知した可能性も捨てきれず、さらなる確認が必要だったことに加え、レーダーから飛翔体が消え、日本の領域に被害を及ぼす可能性はないと判断したことから、この段階では発射の発表は見送った

(4)誤まった情報を出さないために、必ずダブルチェックをするというのが当初からの対処方針だった。レーダーなどあらゆる情報手段を活用して、もう一つのルートを確認していた。

(5)Em-Netによる自治体・報道機関向けの午前8時3分の通知
北朝鮮が、人工衛星と称するミサイルを発射したとの一部報道があるが、我が国としては、発射を確認していません。(これと同じものが8時6分に首相官邸からツイートされました。

(6)午前8時23分に行われた田中直樹防衛大臣の会見の要約
何らかの飛翔体が発射されたという情報があり、1分以上飛行し、洋上に落下した模様だ。わが国の領域への影響は一切ない


政府発表が遅れた理由として、このような経緯があったことを説明した上で(4)のダブルチェックをしたうえで発表するという方針によるものだと述べているわけです。しかしながら、こうして並べてみると、(2)では日本も「飛翔体の軌道の探知を始めていたが、1分ほどで軌道を見失った」と述べているのですから、ダブルチェックができたいたことがわかります。しかも探知後1分ほどで軌道を見失ったことまでアメリカからの通報と一致しているわけです。
にもかかわらず、(3)において、「アメリカの早期警戒衛星が誤って探知した可能性も捨てきれ」ないと述べているのはなぜでしょうか? 日本のレーダーとアメリカの衛星が同じ出来事を探知しているのに、なぜアメリカの衛星の探知ミスを心配する必要があるのでしょうか?
さらに、(3)で、アメリカの衛星の探知ミスの可能性に触れておきながら、レーダーから飛翔体が消えたという出来事を無条件で信用しているのも不思議です。存在しないものが表示される恐れがあるのならば、存在するものが表示されなくなるという可能性も否定できないはずだと思うのですが・・・・

もう一度藤村官房長官の会見を読みかえしてみると、(2)がなければ、一連の流れは辻褄が合うように思われます。すなわち、日本のレーダーが起動の探知を始めていたという部分が事実と違うのではないかということであり、言い換えれば、日本のレーダーは北朝鮮の「ロケット」を探知できないまま終わったのではないかということです。

日本のレーダーが探知していたというのであれば、午前8時3分のEm-Netの通報(我が国としては、発射を確認していません)は事実と異なります。

以下は推測となりますが、日本では北朝鮮の「ロケット」の打ち上げから墜落までをレーダーで探知することはできず、アメリカからの情報しか得ることができなかったのでしょう。また、2009年の打ち上げの際に、誤報を犯し責められたことから、今回は誤報だけは避けたいと考えたのではないかと思われます。そのため政府の発表が遅れるうちに韓国国防省が発表し、さらにマスコミもニュースとして流し始めたことで、政府は慌てたのでしょう。発射を追認すれば、今まで何をしていたのだと言われるのは目に見えていますし、かといって現在確認中ですと発表しても、何をもたもたしているのだと非難されるだけです。そんなみっともないことはできないので、「我が国としては、確認していません」という言葉になったのだと思います。こうしておけば、後で「ダブルチェックをしないうちは軽々しく発表できないと考えていました」と言い訳できるというのもあります。もっとも、「レーダーから飛翔体が消え、日本の領域に被害を及ぼす可能性はないと判断した」というのは口が滑ったのでしょう。また、「日本は、レーダーで飛翔体の軌道の探知を始めていたが、1分ほどで軌道を見失った」というのも、日本のレーダーが探知できなかったと認めるわけにはいかないという事情が言わせたのだと思われます。人間、嘘や言い訳をしようとすると、つい余計なことまで口走ってしまうものであり、藤村官房長官も例外ではなかったということなのでしょう。(そうではなく、藤村官房長官が発表したことがすべて事実であった場合、当日首相官邸に詰めていた皆さんは揃いも揃って無能無策であったということになります。だとしたら、すみやかに辞表を提出された方が、これ以上恥を晒す必要がなくなるので、ご本人のためであると思います。)


なぜ日本のレーダーが北朝鮮の「ロケット」を探知できなかったのでしょう? この疑問に対する軍事専門家の答えは、レーダーを搭載したイージス艦の位置が発射場から遠く離れたいたことが原因であるというものです。どれほど高性能のレーダーであっても水平線の下にある物体を探知することはできません。地球は丸いのですから、日本海に展開しているイージス艦にとって、北朝鮮の発射場は水平線の下にあることになります。したがって、「ロケット」が発射され、イージス艦と水平の位置に達するまでは、イージス艦からは「見えない」ことになるわけです。万一、「ロケット」がその高度に達するまでに爆発してしまえば、結局イージス艦は探知することができないという理屈です。

この問題を解決するには、日本のレーダー(すなわちイージス艦)を可能な限り北朝鮮の発射場に近いところで待機させる以外にありません。それがどのあたりになるのかは計算によって求めることができます。そういうことをしていたにもかかわらず、探知できなかったというのであれば、今後のためには、違った方策も考えなければならないでしょう。

自民党の石原幹事長は、今回の40分について真相を究明すると述べていますが、権力闘争を念頭に置いた魔女狩りのようなことを行なうのは害の方が大きいといえます。むしろ、今回の一連の「騒動」によって明らかになったのは、日本の有事対応として決められていることが現実の前には無力であるということなのですから、それを改める方が優先するはずです。
今回は北朝鮮が発射する時間帯を予告していたために、朝の7時前に関係閣僚が首相官邸に集まるということができたわけです。けれども、あらかじめ予告して有事が起こるわけではありません。むしろ突然に起こるのが当然だと考えるべきでしょう。したがって、有事の際に、どれだけ短時間で初動体制をとることができるかポイントになります。(小沢一郎は、有事は、のこのことPAC3を沖縄まで運んでいくのを待っていてくれるはずがないという意味のことを述べていたそうです。)

日本の自衛隊は装備も充実しており、隊員も優秀であることは東日本大震災の際に証明されています。ところが日本では、有事にあたって自衛隊をどのように活用するのがいいのかについてこれまで真剣に検討されたことがないように思います。議論されていたとしても、自衛隊を出動させる手続きをどうするかという類のものばかりですから、今回のように政府が無様な姿を晒すわけです。

石原幹事長が目論むように魔女狩りを行っても、問題の本質は改善されません。それならば、いっそのこと有事の際には米軍の指揮下に入るとしておいた方が、被害を最小限にくい止めることができるはずです。
独立国家としてそんなことができるかと思うのであれば、自分たちで日本の防衛を行うという覚悟を固める以外に選択肢はありません。というよりは、それが当たり前なのです。 それも嫌だというのであれば、現在のように誰が日本を防衛するのかについて曖昧なままにしておくというのがベストでしょう。その代わり、いつまで経っても外交オンチの国民のまま(代表的なのがイランに行ったあの人)ですし、有事に際してまともな判断ができないリーダーばかり登場するのは避けられないと思います。
ただし、これは個人の資質の問題ではありません。普段考えていないことを突然やれといわれてできる人間などどこにもいないというだけのことです。その典型的な例が田中防衛大臣であることはいうまでもないでしょう。
by t_am | 2012-04-15 00:41 | その他 | Trackback | Comments(0)
北朝鮮の「ロケット」打ち上げが失敗したとのことです。国力というのはこういうところに現れるのかもしれません。国民の飢えを解消できない国にとって「ロケット」(弾道ミサイルでもいっしょ)というのは、やはり高い買い物なのでしょう。

 北朝鮮は既に核兵器を持っていますが、持っているだけでは意味がありません。核兵器は敵国で爆発させなければならないのですから、どうやって核兵器をそこまで運ぶかということが課題となります。宅配便で送るわけにはいきません。そうなると空輸(?)しかないのですが、飛行機で運ぼうとしても、制空権を握っていなければ途中で撃墜されるだけなので、どうしてもミサイル(それも大陸間弾道弾)を持つ必要があるのです。

極東アジアに関係するすべての国は北朝鮮の「ロケット」の打ち上げに反対しており、なんとか思いとどまらせようとしてきました。けれども、北朝鮮は、ロケットの開発は国の主権に属することであるから他国の干渉を受けるいわれはないと主張し、実際に打ち上げを強行したわけです。

 興味深いのは、今回の打ち上げがなぜ失敗したかではなく、北朝鮮のミサイル発射実験はなぜ失敗が続くのか(2009年に続き、今回も失敗しました)、ということです。北朝鮮の技術力が低いのはわかっています。それよりも、なぜ技術力が低い水準に留まっているのか、というところに興味を引かれるのです。

 技術力とひと言でかたづけてしまうのは乱暴かもしれません。思うに、弾道ミサイルというのは(自動車と同じように)技術の裾野が広いのではないでしょうか。自動車を国内で生産するということは、そこで使われる全ての部品を国内で調達するということですから、製鉄業・機械工業・ガラス工業・電気工業・繊維工業などが発達していなければできません。どの国でも生産できるというものではないのです。同様に弾道ミサイルも国内生産するならば、そこで用いられる部品を高い精度で加工できる工場が国内に多数なければなりません。いいかえれば、それらの工場が喰っていけるだけの仕事(需要といってもよい)が国内になければ、産業として成り立たないのです。

 無理を重ねれば、試験的に1基の弾道ミサイルを製造することはできるかもしれませんが、ある程度量産できる体制を整えないと、アメリカの武力に対する抑止力にはなりません。ところが、それを実現させるには産業のインフラが整っていないのだろうと推測するのです。

 どこに飛んでいくか分からないミサイルならばすぐにでも配備できるのでしょうが、アメリカが脅威を感じる弾道ミサイルが実戦配備されるまでには、まだ相当高いハードルがあるように思われます。
by t_am | 2012-04-14 06:55 | その他 | Trackback | Comments(0)
 福島県の生協「コープふくしま」が、家庭の食事にどれくらいの放射性物質が含まれるのか、食卓を丸ごと調査する取り組みを始めました。

(食卓の放射性物質を丸ごと調査-NHK NEWS WEB)
http://www3.nhk.or.jp/news/web_tokushu/0328.html


 今回結果が公表されたのは、応募のあった組合員の家庭、福島県内各地の96世帯の調査結果です。そのやり方は、家族の人数より1人分を余分に食事を作って検査のためのサンプルにするというもので、2日分の朝昼晩ごはん、合わせて6食分のサンプルを生協の検査センターに送ると、およそ2週間程度で含まれていた放射性物質の量が知らされるのだそうです。コープふくしまの検査機器は1kgあたり1ベクレルまで測定できるという精度の高いものであり、誤差を考慮しても信頼できる検査結果になるものと期待してよいと思います。

 今回の調査では、個々の食材に対して放射性物質を測定するというものではなく、1回の食事全体でどれだけ放射性物質が含まれるかというものです。したがって、食事を通じてどれだけの放射性物質を取り込むのかという目安になるものですから、調査の結果は私のような素人にも分かりやすいものになっています。

 もっとも、今回の調査の対象となったのは生協の組合員という「偏ったサンプル」であり、しかも市場に流通している食品を無作為に抽出して検査しているわけではありません。したがって、何を食べても安心してよいと断言できるわけではありませんが、今後もこうした調査を定期的に実施していくことには意義がある思います。

(調査結果の概要)
1.96世帯のうち86世帯では放射性セシウムは検出されなかった。
2.福島県産の野菜を使った世帯でもセシウムが検出されない世帯があった。
3.セシウムが検出された世帯でも最高値は12ベクレル/kg に過ぎなかった。
4.自然界に存在する放射性物質であるカリウム40はすべての世帯の食事から検出された。
5.カリウム40の検出値は15ベクレルから56ベクレル(1kgあたり)であった。

※カリウム40
 太陽系がつくられたときから存在する放射性物質で半減期は12.8億年とされています。自然界に存在する放射性物質には存在比というのがあって、たとえばカリウム40の存在比は0.0117%であるとされています。これは放射線を出さない天然のカリウムの中に放射能を持ったカリウム40が0.0117%含まれるということを意味しています。
 なお、カリウム40はベータ線を放出するので、通常の測定器(もっぱらガンマ線を測る)では検出することができません。それではコープ生協がどうやって検出したのかというと、想像になりますが、食事に含まれているカリウムの量を化学的に測定したのだろうと思われます。カリウム40の含有量(存在比)は一定ですから、カリウムの量がわかればそれに存在比をかければカリウム40の量もわかるということになります。
 また、ベータ線は飛行距離が数十センチから数メートルと短いので、外部被曝よりも内部被曝の方が人体に与える影響が大きいといえます。

(この調査によってわかること その1 意外と身近に存在する放射性物質)
 私たちは毎日の食事を通じて、微量ですが、カリウム40という放射性物質を摂取しています。カリウムが野菜や魚・肉に含まれているのでカリウム40を摂取しないというわけにはいきません。カリウムは生物にとって不可欠の元素ですが、過剰に摂取したカリウムは腎臓から排出されます。つまり、人体には常に一定濃度でのカリウムが存在しているのであり、そのうち0.0117%はカリウム40なのですから、カリウム40を気にしてもどうにもならないのです。これは政府の責任ではありませんし、東京電力のせいでもありません。

 それよりも、放射性物質がどこにでもあり、誰の身体の中にでも存在することが確認できたわけですから、原発事故の被災者に対する差別が根拠のないものであるということが分かると思います。

(この調査によってわかること その2 食品の規制値)
 自然界に存在する放射性物質があって、それらは人体にも取り込まれているからといって、原発事故により放出された放射性物質を無視してよいということにはなりません。政府は昨年「暫定」規制値として食品に含まれてもよいとする放射性物質の基準値を定めましたが、甘い基準であるという批判を浴びました。今回の調査結果は、その甘い規制値のもとで流通している食材を使った食事について調べたものです。だからといって甘い規制値でも充分安全性が確保されているという根拠にはなりません。既に述べたように、市場に流通しているすべての食品について調べたわけではないからです。とはいうものの、セシウムなどの放射性物質に汚染された食品を流通させないという施策が有効であることに間違いはありません。

 個々の食品についてはそれぞれ規制値が定められていますが、私たちが口にするのはそれらを複合的に組み合わせて調理した食事です。したがって個々の食品の規制値の設定をどれくらいの水準にすれば1食あたり総合的な放射性物質の量がどれくらい含まれることになるのか、については今後も継続して調査する必要があります。それによって規制値の妥当性を判断する材料を得ることができると思います。

(被災地の瓦礫の広域処理について)
 宮城県と岩手県の被災地の瓦礫を広域処理することについて、住民の中には受け入れ反対という人が多いことも報道されています。その理由は、自分たちが住む町に放射性物質なんか持ち込んでもらいたくないということであり、その思いは私にも理解できます。(ほかに放射性物質を日本中に拡散させることにつながるという批判もあります。)

 今回の調査によって、日本中のどこにでもカリウム40という自然界に存在する放射性物質があることが示されました(ほかにも炭素14というベータ線を放出する放射性物質があります)。 

 震災(津波)による瓦礫は莫大な量であり、岩手県と宮城県の処理能力をはるかに超えています。これらの瓦礫を取り除かなければ復興ができないのですから、早いうちに処理をしなければなりません。そうかといって、広域処理を受け入れることで放射性物質が持ち込まれるのではないかという心配があることもわかるのですが、被災地以外の土地でももともと放射性物質が存在しており、さらに風や雨などによって原発から飛散した放射性物質が少しずつ運ばれて来ているというのが実情です。


(学校の貯水槽から放射性物質 NHKニュース)
http://www3.nhk.or.jp/news/html/20120329/t10014065151000.html


 自然界に存在する放射性物質は薄く均等に分布していて、濃縮されるということがありませんが、原発由来の放射性物質は主に自然現象と生物によって濃縮されていきます。このニュースが伝えるところは、雨水に含まれている放射性物質が貯水槽の中で沈殿して溜まった結果これだけの量になったというものです。雨水の中にこれだけ濃度の高い放射性物質が含まれているというわけではありません。

 このような現象は神奈川県だけでなく東日本の至る処で起こっているものと思われますが、誰も測定しないので明らかになっていないだけであるといってよいでしょう。だからといって不安に思う必要はありません。人間に害を及ぼすのは放射線ですから、要は放射線を浴びないようにすればよいのです。そのためには、原発由来の放射性物質がどこにあるかわからないという状態よりも、むしろ自然現象(重力や水や風の流れ)によって放射性物質が集まってくれた方が都合がよいといえます。(たとえば雨水に含まれている放射性物質は下水道に流れ込めば汚泥の中に沈殿していきます。)

 ただし、今の時点では放射性物質がどこに集まっているのかよくわかっていません。そこで測定によって放射性物質が集まっている場所をひとつひとつ見つけていくことが重要となります。そうやって発見された放射性物質の塊を人間から隔離して、危険がなくなるまで保管しておくという取り組みが、今必要なのではないかと思います。もちろん、飛来した全ての放射性物質が集められるというわけではありません(中には河川を通じて海に流れ出すものもあるはずです)が、このまま何もしないでいることは危険を放置することになるのですから、はるかにましであるといえるでしょう。

 これは被災地の瓦礫を広域処理する場合でも同じことです。瓦礫に付着している微量の放射性物質は焼却することによって空気中に飛散するか、もしくは焼却灰の中に残るものと思われます。焼却場の煙突にはフィルターが取り付けられていますが、極微細な放射性物質を完全に除去できるとは思えません。何割かは空気中に飛散することになるものと思われます。
 このことは、新たな放射性物質を環境中にまき散らすことになるのですが、それでも瓦礫の広域処理は行われるべきだと私は思います。というのは、東日本の地域であれば被災地でなくとも飛来した放射性物質に対する取り組みが必要になってきているからです。瓦礫の受け入れは嫌だといって何もしないでいる間に、少しずつではありますが、原発由来の放射性物質が飛来してきているのです(福島第一原発では今も放射性物質の飛散が続いています)。それならば、これらの放射性物質に対する取り組みに着手し、その一環として瓦礫の受け入れも行うこともできるのではないでしょうか。

付記
 環境省では瓦礫の焼却灰に含まれる放射性物質が8000ベクレル/kgであればそのまま埋め立てしてもよいとしていますが、埋め立てされた放射性物質が土壌や地下水を汚染する可能性も排除できない以上、これは無責任極まりない指針であると思います。むしろ焼却灰や汚泥を固化して放射性物質がしみ出したり飛散しないような措置をとったうえで、専用の保管場に運び込んで社会から隔離するべきだと思います。
 原発からの放射性廃棄物の保管場は今も設けられていません。政府は福島第一原発の周辺に「中間」貯蔵施設を設置する考えを持っているようですが、こういう言葉のごまかしのようなことをいつまで続けるのかと思います。高レベル放射性廃棄物でない限り三百年間保管できればそれはほぼ無害化されるのですから、三百年間絶対に周辺環境を汚染しないという施設を建設するので同意していただきたいと約束すればよいだけのことです。現在はドラム缶に入れたまま放置されているのですから、それよりははるかにマシであるはずです。


 原発は安全ですから安心してください、というのがこれまでの住民説明のやりかたでした。しかし、実際にこれだけの大事故が起こったのですから、もはやこの手法は通用しません。にもかかわらず、停止中の原発の再稼働について、政府も電力会社も従来と似たようなやり方を続けようとするので不信感を招いているのだといえます。
 
 それよりも、「これをすることによってこういうリスクが発生します。それに対してはこういう対策を用意しています。また、こういうリスクも予想されますが、こういう対策を用意しています。」という説明とそれに対する質疑応答を繰り返すことの方が、政府にとっても住民にとってもいいように思います。当局は、煩わしいことは避けたいと思うのか、肝心なことには触れないで説明を済ませようとします。また、賛成する人たちは、もはやこれ以上議論する必要はないとばかりに速く結論を出すよう求めているようですし、反対する人たちにおいても、反対という結論が出ているために議論に応じようという意識が希薄になっているようにみえます。

 こうして問題点が明らかにされないまま放置されることになり、不信と不安がいつまでも解消されないという状況が続くのだと思います。

 このように、リスクを曖昧なまま放置してきた結果福島第一原発の事故が起こったと考えることもできます。事故のきっかけは「想定外の」地震と津波ですが、あのような大事故にまでつながった直接的な理由は東京電力と政府による不作為であるといえます。ただし、そのような状況を事実上容認してきたわたしたちにも責任の一端があることを自覚した方がよいと思います。

 そのうえで、わたしたちにできることは何かといえば、自分自身で考えること、わからないことがあれば説明を求めること、その説明がわかりくいものであれば分かるように説明してくれと要求することであると思います。そのような議論を重ねるうちに自ずと結論は導かれるのですから。


by t_am | 2012-03-30 08:36 | その他 | Trackback | Comments(0)
 3月21日の岡田副総理の記者会見で、国家公務員に希望退職制を導入する考えがあることを示したそうです。(NHKニュース)

http://www3.nhk.or.jp/news/html/20120322/k10013881621000.html

 これは政権公約に掲げた国家公務員の総人件費の2割削減を達成するための取り組みの一環であり、中高年層の退職者を募る一方で新規採用を抑制していくのだそうです。そういえば、岡田副総理はこの前、平成25年度の採用者数を政権交代前に比べて約7割削減する考えも表明していました。(実際には、平成22年度には前年対比で4割削減されており、23年度には21年度対比で3割削減されています。)

 赤字に陥った企業が従業員を減らすというのはよく聞く話です。その際に対象となるのは人件費が高い中高年層と解雇しやすいパート従業員です。バブル崩壊後のあの手この手でのリストラを思えば、早期退職者を募るというやり方はまだ穏当なほうだといえるかもしれません。(非正規雇用労働者は1ヶ月前の予告か、1ヶ月の解雇手当を支払って終わりです。)

 国の財政が大幅な赤字となっているのですから、公務員の人件費を削減するために退職者を募るというのは当然であるという意見もあることと思います。(また、いい気味だと思う人もいるかもしれません。)けれども、企業が人員整理を行って、それが許されるのは「そうしないと会社が潰れる」という状況にあるときに限られるのであり、この前提条件だけは絶対に崩してはなりません。経営再建のために不採算部門を整理・撤退した結果人が減って人件費が下がるというのが本来のあり方であって、人件費の削減を目的とする改革というのは本末転倒です。(こういうことは労働組合がいわなければならないのですが・・・)

 経営者の視野は自分の会社の中がすべてであって、そのほかのことまで構っている余裕などない、何も手を打たなければ会社が潰れてしまう、というのが本音でしょう。そのことは誰もがわかっていることですから、たとえばどこかの大企業で、従業員を整理するという発表(不採算部門の整理・縮小という発表も同時に行われているのですが、そちらの扱いは小さなものになっています)が行われると、会社って冷たいところだな、と思われるけれどもそれ以上非難されることはなくそれで終わってしまうわけです。

 政治家は経営者とは違います。財政のことも考えなければなりませんが、国民全体のことも考えなければなりません。企業の経営者と同じ発想をされたのでは困るのです。

 かつて日本では、政権が替わったときに大量の失業者を出してきました。豊臣政権から徳川幕府に替わったときには、戦に負けて取りつぶしにあった大名の家臣たちが浪人となりましたし、明治維新では旧士族という失業者があふれました。武士は武力を持っているだけに、大量の失業者が発生すると社会不安に直結します。現に、失業した武士たちの不満は江戸時代では由井正雪の乱(島原の乱にも浪人が参加していました)、明治政府にとっては西南戦争を頂点とする一連の不平士族の乱につながっていきました。どちらも、武士の失業者対策がほとんど考慮されなかったこと、最終的には弾圧して決着をつけたことが共通しています。

 現代の国家公務員は武力を持っているわけではありませんから、民主党政権による国家公務員の大量整理が実施されたとしても、それがただちに内乱に結びつくとは思いませんが、それでも社会を不安定にするだろうという予測を否定することはできません。あるべき論となりますが、政府の役割は失業者対策をどうするかであって、自ら失業者をつくることに荷担するというのは本末転倒であると申し上げざるを得ません。岡田副総理によれば、民間の再就職支援企業の活用も視野に入れているということですが、新たに雇用を創出する政策を打ち出しているわけではないので、要するに、他人任せで後は知らないよといっているに等しいのです。

 さらに気になるのは、最近公務員が目の敵にされているということです。大阪維新の会では不逞教職員や不逞公務員をターゲットにした政策を展開しており、市民もそれを応援しているという状況になっています。また、大阪市では、市営バスの運転手の給料を4割引き下げて民間並みにするという発表が行われました。この発表を大阪市民は歓迎しているので、組合がこれに反発すればするほど世間の目が冷たくなるという構図ができあがっています。

 このブログでも過去にさんざん官僚の悪口を書いてきましたから他人事ではないのですが、政府が公務員に対する苛酷な処遇を発表するというのは、国民の不満のガス抜きを企図しているように思います。消費税増税のために政治家や公務員も「身を切らなければならない」という理屈もそうですね。そうやってなだめておきながら、実はあやふやなものにしてしまうという手法です。

 震災からの復興財源とするという理由で国家公務員の給与を2年間削減することになりました。それがいつの間にか、「消費税増税のために身を切った」ということになっています。だから国会議員の定数も削減しなければならないという理屈を展開したいわけです。

 野田総理は3月22日官邸で民主党が主催する学生インターンシップに参加した大学生30人と懇談した際に、学生が国家公務員の新規採用削減に懸念を示したのに対し、「東日本大震災の痛みを国民皆で分かち合うため理解してもらいたい」と答えたそうです。総理が言っているように、「痛みを分かち合う」というのは「みんなで」というのが前提条件です。ところが、国家公務員の新規採用削減というのは特定に人たちだけが対象ですから、「みんなで痛みを分かち合う」ことにはなりません。したがって、野田総理の発言は「君たちには痛みを押し付ける形になるけど我慢してね。そのうち他の国民にも痛みを感じてもらうようにするからさ」といっているように聞こえます。

 3月21日に行われた春の選抜高校野球の開会式での選手宣誓がニュースで大きく取り上げられていました。未来を信じて疑わない心、自分たちが守られているという自覚と感謝の思いが自分たちに何ができるのかということにつながって、あのような選手宣誓になったのだと思います。百戦錬磨の政治家たちよりも、自分の率直な思いを吐露した一高校生の方が人間としてはるかに好ましいように私には思えます。
by t_am | 2012-03-24 07:58 | その他 | Trackback | Comments(0)

by t_am
XML | ATOM

skin by excite
トップ