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カクレ理系のやぶにらみ

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時間のある方はお読みください。軽い気持ちで読み始めると頭が痛くなります。

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1.放射性物質を理解するうえでのポイント 
 福島第一原発の事故によって、放射性物質の存在を意識せずにはいられない世の中になりました。しかしながら、心配のあまり流説流言が拡散されているのも事実であり、それらが社会に与える悪影響も無視できません。幸いなことに、政府事故調の報告書の中に、放射性物質について理解するうえでのポイントが要領よくまとめられているのでご紹介します。専門家でもない限り、これらのポイントさえを理解していれば十分だと思います。

参考:政府事故調の報告書
http://icanps.go.jp/post-2.html

参考:今回引用している部分
http://icanps.go.jp/SaishyuHon06.pdf

 以下は引用です(389-390ページ、(g)放射線に関する国民の理解から抜粋。改行は筆者)

今回の事故を契機として、改めて放射線防護に万全を期する必要があることが再確認されたが、他方で、放射線を「正しく恐れる」必要性についても認識させられた。放射線を「正しく恐れる」ためには、例えば以下のような知識が有用となろう。
①放射性物質は病原菌のように伝染するものではないこと、
②原発事故等がない状態における自然放射線からの年間被ばく線量(食物等からの内部被ばくも含む線量)は、国内平均約2.1mSv/年20(世界平均約2.4mSv/年21)であること22、
③ヨウ素131 は、体内に入ると甲状腺に蓄積するが、その半減期は約8 日と短く、福島第一原発事故によって放出されたヨウ素131 は、ほとんど残存していないこと、
④セシウム134 は半減期が約2 年、セシウム137 は約30 年と長く、現在も環境中に多量に残存しているものの、これらは体内に取り込まれてもヨウ素のように体の一部に蓄積することはなく、体全体の筋肉組織等に均等に分布し、しかも大人の場合は90 日でその半分が体外に排出されること23、
⑤人体には、もともとカリウム40 や炭素14 等、全体で120Bq/kg 程度の放射性物質が含まれること24、
⑥日頃摂取する食品の中にも100Bq/kg 以上の放射性カリウムを含むものがあること、
⑦被ばく線量が100mSv 未満の場合、被ばく線量とがん等の発生率の間に関連性があるか否かは明らかでないものの、正比例の関係があると仮定して放射線防護の考え方が組み立てられていること(中間報告Ⅴ4(1)b参照)等である。
 今後も不必要な被ばくをできる限り避けるため最大限の努力が払われるべきことは当然であるが、それと同時に、個々の国民が放射線のリスクについて正確な情報に基づいて判断できるよう、すなわち、情報がないためにいたずらに不安を感じたり、逆にリスクを軽視したりすることがないよう、できる限り国民が放射線に関する知識や理解を深める機会が多く設けられる必要がある。



 この中で、これまであまり知られていなかったものとしては、「原発事故等がない状態における自然放射線からの年間被ばく線量(食物等からの内部被ばくも含む線量)は、国内平均約2.1mSv/年20(世界平均約2.4mSv/年21)であること」であり、「人体には、もともとカリウム40 や炭素14 等、全体で120Bq/kg 程度の放射性物質が含まれること」でしょう。体重50kgの人であれば、体内におよそ6,000ベクレルの放射性物質が常時存在しているということであり、それらも含めて日本人の年間被曝量は平均で2.1mSvであるということです。
 ただし、この2.1mSv/年という数値は平均値ですから、その人が住んでいる地域や食習慣によっては実際の被曝量は異なることになります。すなわち、日本中どこへ行っても放射線による被曝は避けられないということであり、それを気にしてもしかたがないということでもあります。
 具体的に申し上げれば、食品に含まれる放射性物質の安全基準が厳格化されたことによって、現在普通に売られているものを食べている限りは内部被曝を心配する必要はないということです。今後気をつけなければならないのは、いわゆるホットスポットと呼ばれる放射線量の高い場所に近づくことによって起こる外部被曝の方です。福島県内に住む人たちはこのことに敏感ですし、また、関東でも線量計を買い求めて測定してみたという人も多いと思います。

 ホットスポットができる理由は、雨や風によってその場所に放射性物質が集まるからです。逆に言えば、放射性物質が集まっていなければ心配する必要はないということになります。したがって外部被曝に気をつけるということは、放射性物質の濃縮に気をつけるということでもあります。
 濃縮には、次の3種類があると思われます。
①生物的濃縮(食物連鎖により生物の体内に蓄積される放射性に物質の濃度が高まっていくこと)
②ホットスポットなどに見られる自然現象による濃縮
③焼却灰や下水の汚泥に見られる濃縮

 今後問題となっていくのは、③における濃縮された放射性物質をどう扱うかということになるでしょう。常識的に考えれば集めて封じ込める(外部に漏れ出さないようにする)ということになるはずです。

 なお、付け加えるとすれば、自然由来の放射性物質と原子炉由来の放射性物質を区別することに意味はありません。どちらからも放射線が飛び出すことに変わりはありませんし、もしも自然界に存在する放射性物質から出た放射線は安全であるという人がいたら、相手にしない方がいいでしょう。
 もう少し正確に申し上げると、放射線だから危険というのではなく、可能性が問題であるということです。体重50kgの人の体内には常時6,000ベクレルの放射性物質が存在しているので、それだけ内部被曝していることになります。それでも癌や白血病に罹る人もいれば罹らない人もいます。人間は、それだけの放射線レベルの中でも生き延びて子孫を残すだけの能力を身につけているわけですが、被曝量が増えればそれだけ癌や白血病に罹る可能性も高くなるということもわかっています。よくいわれるように、これ以下だから安全という基準は存在しません。平均2.1mSv/年という被曝量でも癌や白血病に罹る人もいるわけです。
 一番いいのは、社会としてこれくらいの年間被曝量であれば許容できるという合意が形成されることなのでしょうが、現実には不可能です。(なぜなら、実験するわけにはいかないから。)
 そうなると、次に考えられるのは、身の回りの放射性物質の濃度を今以上に高くしないようにしましょうということになります。そのためには、くどいようですが、濃縮された放射性物質(を含むもの)をどうやって管理するのかが焦点となります。

 原子力発電所は電気をつくりますが、同時に放射性物質の発生装置でもあります。そこで発生する放射性物質を完全に管理して封じ込めることができるという前提で有用な発電手段であるといえます。
 しかし、実際には福島第一原発の事故では放射性物質の封じ込めに失敗しました。日本にある残りの原子力発電所においても同様の危険性があるのではないかすることが明らかになりました。


追記
 政府事故調の報告書では述べられていませんが、放射性物質の原子核が崩壊したときに放射線を発生するというのは化学反応とは異なる次元の現象です。したがって放射性物質を化学的に除去する(細菌や薬品を用いて分解する)ということは不可能です。
 また、除染という手法は、そこにある放射性物質をどかすということであり、色々な技術がありますが、基本的には放射性物質を「集める」か「洗い流す」かのどちらかとなります。放射性物質を集めた場合、それだけ放射能濃度が高くなっているわけですから、その管理が不可欠となりますが、保管場所すら決まっていないというのが現状です。また、放射性物質を洗い流した場合、排水路のどこか途中で引っかかるのを除けば、最終的には海に流れていくことになります。
 放射性物質は、その原子核が崩壊して放射線を放出するまでは決してなくなりません。だからこそ半減期が管理上重要な目安となるわけです。ちなみに半減期の7倍の時間が経過すると放射性物質の量は100分の1以下となり、10倍の時間経過で1,000分の1以下となります。当初の放射能濃度にもよりますが、濃度が低い低レベル放射性廃棄物などでは、当初の100分の1以下(半減期の7倍の時間が経過)になれば放射性物質のことは忘れても差し支えないのではないかと思います。
by t_am | 2012-08-26 13:45
 定期点検等で停止した原発の再稼働を認めるかどうかで、政府や電力会社は早く再稼働させたいと考えていますし、マスメディアはこれに否定的な立場での報道を繰り返しています。メディアが否定的な立場で報道するのには理由があって、政府や電力会社に比べ弱者である庶民の側に立っているということと、その方が「売れる」と計算しているからです。メディアのこのような立場については、もともとマスメディアというのはそういうものなのだと思ってニュースを見るしかありません。
 それはそれでしかたないのですが、気になることがあるので、今回はそのことについて申し上げることにします。

 私が気にしているのは、「原子炉内に核燃料がある限りそれが圧力容器の中にあろうと燃料プールの中にあろうと冷やし続けなければならない」という単純な事実です。それができなくなれば福島第一原発のような事故が起こります。つまり、原子炉を停止しているといっても、点検のため燃料プールに移された核燃料は、何があろうと冷やし続けなければならないということです。
 福島第一原発の事故を教訓にするのならば、いかなる事態が起ころうとも原子炉の冷却機能が失われないようになっているか、そのことをまずチェックしなければならないはずです。津波が来たときの防潮堤を建設するとか、非常用電源車を何台配備したとかいうのはそういうチェックの結果に基づいて起案されるべき対策にすぎません。福島第一原発では津波に襲われすべての電源が失われるという事態が起こりました(さらには配管の損傷も起きているはずですが、実際にどの程度の損傷が発生したのか明らかにされてはいません。配管は建物の中にあるのですから、これらが津波によって損傷したというのは考えにくいといえます。すなわり、地震のゆれによって損傷したと考えるべきでしょう)。
 津波が原因による事故なのだから他の原発でも津波に襲われないようにすればよいとか、非常用の電源を確保すればよいという発想では将来起こりうる「想定外の事故」を防止することはできません。
 2011年3月11日にあのような大地震と大津波が襲うとは誰も想定していませんでした。政府も東電も事故の原因を想定外の天災に襲われたためと発表していますが、それは嘘だと感じている人も多いはずです。今回と同程度の津波が過去に発生しているという指摘が実際にあったわけですが、その対策に要する費用が莫大であるために、自分の在任中はそんな災害が起こらないだろうとタカをくくって、実施を先送りしていたというだけのことです。

 原子炉の冷却機能というのは、単純化すれば、冷却水とこれを循環させるための配管および放熱のためのラジエーター、さらには冷却水を送り出すポンプとこれを動かすモーターによってできあがっています。実際はものすごく巨大な装置になっているわけですが、これらのシステムのどこかに損傷が発生すると結果として冷却装置は止まることになります。
 繰り返して申し上げますが、たとえ運転を停止中の原子炉であっても、天災等により冷却システムの損傷が発生すれば最悪の場合、福島第一原発の4号機のように過酷事故につながるということを私たちは学習しました。ゆえに原子炉を停止しているから安心していられるというものではないのです。

 一番いいのは原発をただちに廃止することですが、それは物理的時間的に不可能です。

 したがって、何があろうと冷却システムが動き続けるということが担保されるようにすることが緊急に実施しなければならないことであるといえます。ストレステストは、原発がどこまで耐えられるかを数値的にシミュレートするものに過ぎません。大飯原発3号機のストレステストの結果が公表されていますが、1260ガルのゆれ(想定は700ガル)まで耐えられるという結果は甚だ心許ないと思います。(2004年に起きた中越地震では震源地に近い小千谷では1500ガル、十日町では1750ガルを記録しています。また東日本大震災では宮城県栗駒市で2933ガルが記録されています。)
 この結果は、原発の至近距離で直下型の地震が発生した場合、原発が持たないかもしれないという疑いを持つのが妥当であると思います。ゆえに、まともな判断力の持ち主であれば、限界値以上のゆれが来た場合でも冷却システムが動き続けるようにするにはどうしたらいいかを考え、どうしても不可能であるというのであればその原子炉からはただちに燃料を撤去する以外にないと考えるはずです。原発の再稼働はそれらの問題点がクリアされて初めて可能となるものです。

 本来そのような手順ですすめればよいのですが、電力会社も政府も金勘定(経済に悪影響を及ぼしては困るという考え)に走っているせいか、いきなり原発の再稼働を持ち出すものですから、再稼働ありきのシナリオを描いているといわれてますます信用されなくなっているわけです。残念なことに、政府や電力会社に対する不信感が蔓延している以上、原発が立地する自治体のトップが世論を押し切って再稼働を認めるというのはあり得ないことです。というのも、誰も自分が再稼働を認めた首長第一号になりたがらないからです(これはセイヤさんの指摘。あいかわらず鋭いですね)。
 その点で自治体のトップとはいっても保身を優先させるのだなといささか情けなく思います。原発が立地する地域では電力会社が落とす金によって経済が回っているところもあるわけですから、このままいつまでも原発が動かなくなれば困るという事情も抱えているはずです。また、電力会社による電気料金の大幅値上げの動きも伝えられており、原発を再稼働させるかどうかは、原発のない地域に住む人々にとっても他人事ではなくなってきています。
 自治体のトップは、そういう事情と原発の安全性を天秤にかけて判断しなければなりません。そこで、原発がいかなる災害に襲われようとも冷却システムが機能し続けるという「保証」(安全だと政府に判定してもらうことではありません。どうせあてにならないのですから。保証というのは冷却システムが動かなくなった場合、最後まで責任をとるという意味です。政治家や役人、大会社のビジネスマンは責任をとると断言するのをすごく嫌がるものです。)を政府と電力会社に要求することが第一。それができなけばシステムに欠陥があるということになるので、ただちに対策の実行を要求するというのが第二。第三に、事故が起こった場合の住民の避難経路・避難方法・避難先の確保についての立案を指示しておくこと。いかなる災害が起ころうとも冷却システムの稼働について政府と電力会社が保証するとなった時点で再稼働に賛成するが、それまでは絶対に認めない。どうしても対策がとれないというのであれば原発の撤去を要求するという考えを表明するのが理性的かつ合理的な行動であると思います。首長のそのような判断に対し、何が何でも原発は廃止すべきだと反対する住民もいるでしょうが、その場合情理を尽くして説明をするということが自治体の首長には避けられません。

 再稼働をめぐる一連の報道には、どうも原発は停止していれば安全だという誤った認識があるように思えてなりません(政府の造語である「冷温停止状態」というのも、この勘違いにつけこんだものであるといえます)。大事故になればなるほど情報が錯綜するのでこのような事実誤認はやむを得ないと思いますが、今回は事実誤認を誰も訂正しようとしていません。その結果、社会が一種の思考停止状態になり、みんなが不幸になっていくということになりかねないと思うのです。

付記
 再稼働を認めなければ安心していられるという心理は、一昨年に起こった新型インフルエンザの騒動を思い出します。あのときは日本中の大型施設や事務所の入り口に消毒用アルコールのスプレーが置かれ、マスクをしたまま外出する人の姿を多く見かけました。SARSのように伝染力が極めて高いウィルスならばこのような対策も必要でしょうが、そうではないのですから明らかに過剰反応だったと思います。
 原発の再稼働が危険なのではありません。停止していても危険であることに変わりはないのです。ゆえに,
このまま放置しておけば危険極まりない原発を危険でないようにするにはどうしたらいいかが大事であって、再稼働を認めるなという圧力は、新型インフルエンザ騒動のときと全く同じように、無意味なことのように私には思われます。
by t_am | 2012-01-23 22:31
 橋下知事といえばストレート(そして過激)な発言をする人です。言っていることは頷けることも多いのですが、過激なあまり反撥を招くことも多いように思います。
 9月14日付の読売新聞サイトで、大阪都構想に反対する大阪市の幹部職員を外し、賛成する職員を抜擢するためのリストづくりを維新の会の大阪市議団団長に呼びかけたという記事を読んだときは唖然としました。

http://www.yomiuri.co.jp/election/local/news/20110913-OYT1T00102.htm

 記事の中には、「都構想を『踏み絵』に幹部を登用する手法とみられ、市側からは『恐怖政治の始まり』などと反発が強まっている。」とも書かれており、記者の「ここまでやるのか」という気持ちが伝わってくるようです。

 日本は法治国家ですから法を犯さない限り、どのような思想信条の持ち主であっても処罰されることはありません。

 というのは建前で、実際は違います。典型的な事例は、ついこの前辞任した鉢呂前経産大臣でしょう。辞任のきっかけとなった「死の町」という発言は他の国会議員も行っていますし、「放射能つけちゃうぞ」という発言に至っては信憑性も疑わしいと思われます。鉢呂氏が経産大臣に相応しい人物であったかは別にして、よってたかって辞めさせたというのが事実です。
 よってたかって叩かれる政治家として小沢一郎という人もいます。それでもいっこうにめげない、キレないというところはたいしたものだと思ってしまいます。

 民間レベルでも、トップの逆鱗に触れた幹部が左遷されるというのはよくあることですし、管理職が気に入らない部下をいじめ抜くというパワハラに至ってはありとあらゆるところで行われています。

 自分が気に入らない人間を外すという点では、橋下知事もたいした違いはないように私には思えます。けれどもご本人はそれが当然と思っているのであり、その根拠は、大阪都構想を掲げて大阪市長選に立候補するのだから、当選すればその政策が支持されたということになるのであり、大阪都構想を実現させることが民意に叶うことになる、というもののようです。
 9月21日の橋下知事のツイートでは次のように述べられています。


民主的統制下の職務命令。これは民意の発露であってこの職務命令に違反する公務員を放置することは国民主権といえるのか。


 このツイートは君が代起立斉唱に反対する教員に対する一連のツイートの一部であり、大阪都構想に反対する職員の処遇とは直接の関係はないのですが、知事の考え方が伺える文章だといえます。
 また、橋下知事はこのようにもツイートしています。


知事在任中、確定的な職務命令に違反する行政職員など見たことない。反対意見を持つ職員も含めて議論は徹底的にするが最後決定されたら、皆それに向かって動く。それが組織だろう。決定する立場にない職員も、決定が出た以上はそれに従う。そのために議論を尽くす。命令違反するのはごく一部の教員のみ


 知事のスタンスは、自分の構想を実現させるために職員たちと議論を徹底して行うというものであり、その過程で自分の意見を引っ込めることもあるようですが、そのうえで決定するというもののようです。大阪府の職員たちが橋下知事をどのように見ているのか、声を聞いてみたいところですが、正攻法であると私には思えます。

 橋下知事の発言は過激で強引な印象を与えますが、手法は(基本的には)まっとうなものであり、別に異論を唱えるわけではありません。問題は、その目指すところそのものだということです。
 具体的な政策を掲げて選挙に臨んだ政治家が当選した場合、国民が彼を選んだと思われています(小泉元総理の郵政民営化解散選挙を思い出してください)。橋下知事の信念もこの前提に拠って立つものだと思います。
 そこで、前回の大阪府知事選の結果について調べてみました。(こういう情報がたちどころにわかるのですから、ネット社会というのは便利ですね。)

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 次点の候補者の2倍近い票を得て当選しているのですから、まず圧勝といってよいでしょう。しかし、投票率と得票率をかけてみると次のような結果であることがわかります。

橋下候補              48.95%×54.0%≒26.4%

 この数字が何を意味しているかというと、大阪府の有権者のうち橋下知事に投票した人の割合はこれだけだということを示しています。次に橋下候補者以外の候補者に投票した人の合計得票率と投票率をかけてみます。

橋下候補者以外の全候補者    48.95%×46.0%≒22.5%

 これは(くどいようですが)、大阪府の有権者のうち橋下候補以外の候補者に図評した人の割合を示しています。
 さらに、投票しなかった人が51.05%いたわけであり、それらの人々の気持ちを知る術はありませんが、「橋下候補を積極的に支持するわけではない」ということだけはいえると思います。(投票しなかった人の中には「どーでもいい」と思っているひともいれば、「どちらかといわれれば橋下さんかな」という人もいるでしょうし、その温度差はかなりのものがあると思います。)

 今後行われる大阪府と大阪市のダブル首長選挙によって橋下徹氏が大阪市長に当選するかもしれませんが、投票率によっては有権者の支持率が3割を切ることも予想されます。(だからといって、過半数を超えていれば問題ないといっているわけではないので誤解しないでくださいね。)つまり、当選したからといって、自分が掲げる政策に対して白紙委任状が与えられたというわけではないと政治家自身が認識すべきだということなのです。
 禊ぎ(事件を起こした政治家が次の選挙の洗礼を受けること)といい、選挙に勝てばそれですべての問題が解決すると政治家は安易に考えていますし、私たちもそれを許しているといえます。その最たる例が野田総理が掲げている増税路線でしょう。増税に関する政府高官の発言にほとんど反応がないというのが不思議というか不気味でなりません。あたかも既定路線となったかのようですが、野田総理というのは身内である民主党の国会議員の投票によって選ばれただけに過ぎません。震災による復興財源の捻出にせよ、やはり国政選挙による国民の判断を仰ぐというのが筋です。

 橋下知事の大阪都構想も同様であると私は思います。今度の選挙で橋下市長が誕生したとしても、それで大阪市民が大阪都構想に賛成したとみなすのは早計です。多数決が意味を持つのは、議決までに充分議論を尽くしたというプロセスがあるからです。賛成するものも反対するものも意見を出し尽くしたのであとは決定するだけという雰囲気になったときに、多数決による決定に潔く従うと思えるのです。しかし、選挙はそうではありません。
 橋本市長が当選したとして、大阪都構想をより具体的なものにする作業を進めることは構わないと思います(それを許した有権者たちがいるわけですから)。そのうえで、大阪都とはどういうものになるのかを住民に示した上で、住民投票によって実施するかどうかを決定するというプロセスが不可欠であると思います。
 ところが、大阪都構想に反対する市の幹部職員の降格や賛成する職員の登用という手段を橋本市長が誕生したときに行うというのはどう考えてもおかしいと思うのです。
 選挙によって橋本市長が当選したとしても、大阪都構想に賛成する住民は全体の一部であり、それに反対する住民だっているわけです。したがって、この段階では大阪都構想をより具体的なものにして、住民に対する説明を行うための準備に着手しても構わないと有権者から委ねられたに過ぎないと解釈するのが妥当であると思います。また、そういう目で行政がやることを見ていかないと、いつの間にか後戻りのできないところまで来てしまうということになりかねないのですから。
by T_am | 2011-09-24 09:52
 いちいち解説書を読まなくても直感的に操作できるというのがiPhoneの長所ですが、その代わり、一度操作方法を覚えるとそれ以外の方法があることになかなか気づかないという欠点もあります。
 今回はその一例として、写真をメールで送る際に、複数の写真を同時に送る方法についてご紹介します。


 通常写真をメールで送るときには、カメラロールを開き、送りたい写真を選択(タップ)してから送信を行うというのが普通の発想です。下図の左下にあるアイコンをタップすると、選択した写真をどうするかを決定する画面に切り替わります。ここで、「メールで送信」を選択すればよいのですが、この方法だと1回のメール送信で1枚の写真しか送ることができません。


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 カメラロールを開き、写真の一覧が表示されたときに、画面の右上に先ほどと同じアイコンがあることに気づきます。(といっても普通は気がつかないと思いますが・・・)このアイコンをタップすると、「写真を選択」という画面に変わるので、いっしょにメールで送りたい写真を次々とタップして選択することができます。


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 そのうえで、画面左下にある「送信」ボタンをタップすればよいのです。
 通常の手順は次のようになっています。

1-1)メールで送りたい写真を選択して、アイコンをタップする。
1-2)メールで送信を選択する。

 ところが複数の写真を同時に送る場合の手順は次のようになります。

2-1)iPhoneに、これから複数の写真を送るということを教える。(アイコンをタップする)
2-2)送りたい写真を順次選択する。
2-3)「送信」ボタンをタップする。

 1-1)のときと2-1)のときとで、アイコンが同じというのが、ユーザーを戸惑わせる原因であるといてもよいかもしれません。どうせなら2-1)のところで、「複数枚選択」とでもしてくれた方がまだわかりやすいと思います。もっとも、それはお前の注意力が散漫なのだといわれれば返す言葉もないのですが・・・・

 なお、@i.softbank.jp では容量が1MBを超えるメールの送受信はできません。一応送信前に写真のリサイズを選べるようになっているので、事故は起こりにくいと思いますが、この制約は知っておいた方がいいと思います。私の場合、うっかりと1MBを超えるサイズのメールをiPhoneに送ってしまったために、しばらくの間送受信ができなくなるという羽目に陥りました。そのときは、いったんアカウントを削除して再度設定し直したらメールが正常に使えるようになりましたが、その後検証していないので、これが正しい復旧方法なのかどうかはわかりません。
 写真を頻繁にメールで送りたいという方はgmailのアカウントを取得しておくことをお勧めします。








 
by T_am | 2011-05-03 22:22
 日本の農産物を輸入禁止としている国があって、それは「正しい情報が伝えられていない」からだそうです。日本の国民に対しても「正しい情報が伝えられていない」のですから、外国のこのような措置はやむを得ないと思います。

 今朝のNHKの番組で、「それでは一体どれだけ被曝すると健康に影響が出るのかというと、年間100ミリシーベルトなんです。」と出演者が述べていました。ワンセグの音声だけを聞いていたので、この発言者がどういう人なのかはわかりませんが、これも「正しくない情報」の一例です。
 この発言が許しがたいのは、100ミリシーベルトを超えなければ安全であるかの印象を与えるからです。
 既にこのブログで申し上げたように、放射線の被曝は個人にとっては確率の問題ですが、集団にとっては犠牲者の数の問題となります。100ミリシーベルト/年間の被曝量ではおよそ1,000人に対し5人が癌を発症します。それでは99ミリシーベルト/年間では癌の発症者がゼロになるかというとそうではありません。20ミリシーベルト/年間で1,000人のうち癌の発症者が1人となるので、単純計算すると80ミリシーベルト/年間では1,000人に対し4人が癌の発症者となります。
 したがって100ミリシーベルト/年間を超えなければ大丈夫と思わせるような発言は看過することができません。ついでに申し上げると、原発の作業員に対しては、年間100ミリシーベルトという基準が設けられています。その代わり、彼らは作業するたびに被曝した放射線量を計測され、その累積値が記録されています。そのうえで健康診断が実施されているので、不幸にして千分の五になってもただちに治療が行われる体制が整っているのです。
 でも、一般の住民はそうではありません。放射線量を計測・記録する術もなければ、自発的に申し込まなければ健康診断を受けることもできないのですから、これを同列に論じることはできません。100ミリシーベルト/年間という被曝量の基準値は、原発の作業員にとってリスクのあるものです(1,000のうち5人がまず間違いなく癌になる)から、それを補う体制が整えられているのです。そういうことを伝えないで「健康に影響の出るのは年間100ミリシーベルトなんです」としゃあしゃあと言い切る神経が私には理解できません。おそらく無知であるか、それともしょせんは人ごとと思っているかのどちらかなのでしょう。

 せっかくですから、今朝の新聞に載っていた記事からひとつ事例をご紹介します。それは福島第一原発から4月4日から10日の間に意図的に海に放出した汚染水に含まれる放射性物質の総量が約1,500億ベクレルだったという、東電から原子力安全・保安院に対する報告について、保安院の説明は「今回放出した分だけを考慮すると、近くの魚類や海藻を毎日食べ続けた場合の被曝量は年間0.6ミリシーベルトで、一般人の年間被曝量限度の1ミリシーベルトを下回る。」というものでした。
 ここで問題なのは、保安院による計算式が公表されていないということです。どのような計算式でこの結果(年間0.6ミリシーベルト)が導かれたのかがわからない限り、保安院の説明を鵜呑みにすることはできないからです。自分の発表した内容が正しいかどうかは第三者が検証することによって初めて証明されるというのは科学のイロハですが、日本の政治家と官僚には理解されていないようです。

 福島原発の事故発生以来、このような一方的な発表が何度も行われてきました。その結果、国民は政府(保安院を含む)・東京電力のいうことをを信用しなくなったのです。国民でさえ信用していないのですから、外国が日本の農産物に対して不安を抱くというのも当然であるといえます。

 また、マスコミは政府の発表を垂れ流しにするだけで、その発表内容が正しいかどうかを独自に検証するという努力を怠ってきました。これには、東京電力が出稿している広告がかなりの金額であることも影響していると思います。(東京電力はNHKのスポンサーではありませんが、代わりに政府がスポンサーであると理解してよいでしょう。)

 震災後の風評による被害を思いつく限りあげてみましょう。

1)買いだめによる品不足(ガソリン、食料品、飲料水など)が被災地でもないところで発生した
2)茨城・福島産の放射性物質に汚染されていない農産物に対する仕入れ拒否
3)福島原発の避難指示区域の人に対する放射線検出結果の証明書の提示要求(これがないという理由で避難所への入所や医療機関への立ち入りを拒否された事例が報告されています)
4)日本の農産物に対する輸入禁止措置
5)日本製自動車に対する輸入時点での放射線検査の実施
6)東北地方の宿泊施設のキャンセルおよび日本を訪れる外国人観光客の激減

 1)に関していえば、メーカーの毎日の出荷量と毎日の販売量を情報として提供していればもっと軽微なもので済んだ可能性があります。すなわち、震災後も出荷量は安定していたにもかかわらず販売量が突出したことによって品不足が起こったということがわかれば、消費者は安心するからです。
 2)については、はっきりいって卸・小売店の過剰反応です。食品業界では何か問題が起こると一斉に店頭から撤去されるということが繰り返し行われてきました。これは「これだけの問題が起きているのに、問題となっている食料品を店頭に並べているのはけしからん」と非難されるのが嫌なのだろうと推測されます。その点消費者にも責任があるといえます。しかし、最大のミスは放射性物質が検出された野菜について、汚染されていない産地があるにもかかわらず、県全体で出荷停止としたことです。そういう仕組みになっているというのは言い訳にすぎません。これは酷ないい方かもしれませんが、茨城県や福島県が風評被害に困っているというのであれば、収穫された農産物に対して独自に放射線量の測定を行い、基準値以下の野菜についてはその結果をつけて出荷を認めるという措置をとることもできたのではないかと思います。(全量検査をしろといっているのではありません。産地ごとの抜き取り検査で十分です。)そうすることによって、安全でない野菜は市場に流通させないが、安全な野菜はそれを県やJAが保証して流通させるときっぱりと表明した方が風評被害はかなり軽減できたと思うのです。
 3)については、日本の教育が間違っていたということの証左でもあります。放射線を出すのは放射性物質に限られるのであって、人体が放射線を発するのではありません(ゴジラならともかく)。そういうことは、ちょっと考えればわかりそうなものですが、日本の教育が考える力を養成するよりも答えを覚えることの方に力を入れてきた結果がこのことにあらわれているのです。文部科学省は、自分たちが定めてきた教育指導要領が間違っていたと素直に反省すべきでしょう。
 4)については、国内における2)のような動きが諸外国にも伝えられることによって起こります。したがってその原因は国内にあるといえるのであって、まず国内を安心させれば、自然と諸外国の日本を見る目も落ち着きを取り戻すはずです。
 5)は、その国の教育レベルの低さを物語るものです。これも3)と同様に、放射線が放射性物質から出ているという事実が理解されれば払拭される類の誤解に過ぎません。
 6)については、被災地以外の県で旅館やホテルなどの宿泊施設が被災者を受け入れていることを積極的に報道すること、および外国人が訪れる主要な観光地の放射線量測定値を海外にアピールするなどの努力が必要でしょう。単に「安全です」というよりも「安全であると誰もが納得できる事実」を伝える方がはるかに効果があるのはいうまでもありません。

 こうしてみると、福島原発の事故による風評被害の加害者は、政府・官僚・東電が主犯であり、マスコミはその共犯であるといえます。そして、自分で考えようとせずに他人がいうことを鵜呑みにして右往左往する私たちも荷担していると反省した方がよいと思います。


付記
 欧州委員会のエッティンガー委員(エネルギー担当)は、4月15日、日本間らEU領域内に入港するすべての船舶に対し、放射線量の検査を実施すべきだと発言した。EUにも教養のない政治家はいるということなのか、もしくは大衆受けを狙った発言なのだろう。後者だとすると実に質が悪い人物だと思う。
by T_am | 2011-04-16 22:20
 前々回のこのブログで、厚生労働省が定めた食品に含まれる放射性物質の暫定基準についてご紹介しました。念のため、もう一度おさらいしておきます。

(参考)厚労省が決めた暫定基準
ヨウ素の場合
飲料水や牛乳、乳製品     300ベクレル(1kgあたり)
乳児用調製粉乳         100ベクレル(同上)
根菜や芋類を除く野菜類    2000ベクレル(同上)

セシウムの場合
牛乳など              200ベクレル(同上)
野菜類や穀類、肉、卵、魚など 500ベクレル(同上)

※原子力安全委員会が定めた「安全審査指針類における放射線防護の関連既定-基礎調査」p68に基づいています。

※原子力資料情報室によれば、ヨウ素の場合で10,000(Bq)ベクレルを経口摂取した時の実効線量は220マイクロシーベルト(μSv)、セシウムの場合で10,000ベクレルを経口摂取した時の実効線量は190マイクロシーベルトとのことです。
 したがって、暫定基準を実行放射線量に換算すると次のとおりとなります。

ヨウ素の場合
飲料水や牛乳、乳製品      220μSv÷10000Bq×300Bq=6.6μSv
乳児用調製粉乳          220μSv÷10000Bq×100Bq=2.2μSv
根菜や芋類を除く野菜類     220μSv÷10000Bq×2000Bq=44μSv

セシウムの場合
牛乳など               190μSv÷10000Bq×200Bq=3,8μSv
野菜類や穀類、肉、卵、魚など  190μSv÷10000Bq×500Bq=9.5μSv

 ヨウ素131の場合半減期は8.4日ですが、半減期というのは文字通り放射性物質が半分に減るまでの期間をあらわすものに過ぎないので、放射線量がゼロになるわけではありません。半減期の13倍の期間をとると元の量の1万分の1にまで減りますから、これくらいの期間が経てばほぼゼロになると考えてよいかもしれません(半減期の10倍の期間では元の量の千分の1になります。こちらを採用することも可能かと思います。)
 また、ヨウ素の場合吸収されたヨウ素の10%は甲状腺に集まり、残りは排出されるといわれていますから、それらを加味すると体内被曝は次のとおりとなります。(ただし90%が体外に排出されるまではこの10倍の数値の放射線を被曝することになります)

飲料水や牛乳、乳製品     6.6μSv×0.1×8.4日×13×24時間≒1730μSv
乳児用調製粉乳         2.2μSv×0.1×8.4日×13×24時間≒577μSv
根菜や芋類を除く野菜類    44μSv×0.1×8.4日×13×24時間≒11532μSv

 実際には野菜を1kgも食べる人はいないと思うので、100グラム食べるものとすると
11532μSv×0.1=1153μSvとなります。

 一方セシウムの場合、半減期は約30年と長くなりますが、100日くらいで体外に排出されるのでそれまでの時間数をかけると体内被曝の量がわかります。

牛乳など                3.8μSv×100日×24時間=9120μSv
野菜類や穀類、肉、卵、魚など   9.5μSv×100日×24時間=22800μSv

 ヨウ素の場合と同じように肉や野菜を1kgも食べる人は滅多にいないと思われるので、これも100グラム食べることにすると、22800×0.1=2280μSvとなります。
 通常1年間に浴びる自然界の放射線量が2400μSvといわれていますから、暫定基準はこれとほぼ同じであるということがわかります。ブラジルのガラバリでは1年間の放射線量が10000μSvといわれており、健康被害に苦しむことなく人が住んでいますから、この暫定基準は相当厳しい数値となっていると考えてよいと思います。

 ここで疑問に感じるのは、暫定基準の単位が1kgあたりとなっているのはなぜか? ということです。水であろうが牛乳であろうが野菜であろうが、あるいは肉であろうが1度に1kgを食べるという人はあまりいないと思います。水であれば1日に1リットルは飲むかもしれませんが、ほかの食品はそういうわけにはいきません。たとえば肉を1日に1kg食べる日本人は相当限られているといえるのですから、基準値を設けるのであれば、1回に食べる量(たとえば100グラム)を前提にするのが自然だろうと思うのです。でも、なぜかそうではありません。とても現実味のない1kgという数値を用いて基準が設けられているのです。
 こういう基準の設定のしかたをしていると、今回のように基準を超えた放射能が検出された場合、「1kgもホウレンソウを食べる人などいないのだから大騒ぎする必要はない」と考える人が出てきます。実際にツィッターをフォローしているとそのような発言をする人がいることがわかります。
 思うにこれは、風評被害によって農業にダメージを与えたくないけれども健康被害が発生したときには責任をとりたくないという厚労省の官僚たちの思惑の産物ではないでしょうか。福島県産の原乳と茨城県産のホウレンソウで暫定基準を超える数値の放射線量が測定されたときに、厚生労働省の大塚耕平副大臣は「ただちに健康に影響を与えるというものではない。全例のない事態の深刻さを考え、すみやかに報告した」と述べました。
 それはそうでしょう。暫定基準はもともとかなり厳しいものとなっているのですから、これを多少超えたからといって「ただちに」健康に影響を与えるとは考えにくいのは事実です。けれども暫定基準は、先ほど示したように、たった1回口にしただけで人間が1年間に浴びる自然界の放射線量と同じだけの放射線を浴びるというものです。これが度重なれば健康に影響を与えることはないとは誰にも断言できなくなります。

 大塚厚生労働副大臣がいう「ただちちに健康に影響をあたえるというものではない」というのが急性放射線障害のことを指すのであれば、これはまったくその通りです。一度に数百ミリシーベルト以上の放射線を浴びない限り急性放射線障害は発症しません。けれども食品に放射線に対する基準を設けるのは急性放射線障害を想定しているからではありません。体内被曝によって人体にダメージが蓄積されるのを防ぐ目的で基準を設けるのですから、「直ちに健康に影響をあたえるものではない」という説明はナンセンスです。

 もしも、本心からそのように思っているのであれば、大塚副大臣は厚労省の高級官僚たちといっしょに福島産の原乳と水道水および茨城産のホウレンソウをつかった料理を食べてみせればいいのです。けれどもそういうパフォーマンスが演じられたというニュースは聞きませんから、この発言を信用する国民はあまりいないだろうと思います。

 ホウレンソウや原乳のように特定の食品で基準を超える放射線量が検出されるというのは、その地域で生産されているほかの農産物も汚染されている可能性が極めて高いということを意味しています。放射性物質はなにもホウレンソウ畑や乳牛の飼料にだけ降り注ぐわけではありません。他の野菜畑や河川にも降っているはずです。その中でたまたまサンプル検査をしたホウレンソウと原乳で基準を超える放射線量が測定されたということなのです。
 過去の薬害訴訟を見ても、国が素直に責任を認めたという事例はありません。憎らしいほどしらばっくれて、どうにもならなくなってからしぶしぶ認めるということを繰り返してきました。
 官僚たちがそういう不誠実な態度をとる限り被害者は後を絶たないのですが、それを防ぐために安全基準が設けられているわけです。したがって「暫定」基準であっても軽視することは許されません。食品が安全だといいたいのであれば、「直ちに健康に影響を与えるものではない」などと根拠のない発言を繰り返すよりも、ホウレンソウ畑や牛舎のまわりにある畑や田んぼでつくられる米や野菜の放射線量を測定して、それらが基準値以下であることを示すべきです。
 絶対安全だといってきた原発が事故を起こして、これだけ大きな影響を与えている以上、農産物のサンプル検査ではなく、もっと大規模な放射線検査を行って事実はこうなっているということを示すことが必要です。その結果によっては、汚染がさらに広まていることが明らかになるかもしれません。それならそれで対策をきちんと講じればいいのです。国民に対し事実をあきらかにすること。そのうえで不都合なことがあればその対策を講じること。それが責任をとるということではありませんか。誰も責任をとろうとしないから、国民は不安を感じて買い控えや買いだめを行うのです。福島原発の事故処理もそうですが、政府官僚たちには、この期に及んでまだ隠そう、ごまかそうという思惑を感じます。
 厚生労働省の庁舎内にある職員食堂(そんなものはないかもしれませんが)で、福島県産の牛乳と茨城県産のホウレンソウを仕入れたというニュースを聞いたら、大塚副大臣の発言を信用してもいいと思います。
by T_am | 2011-03-23 00:00
 1月10日の朝日新聞のニュースサイトに、「先生休むと代わりがいない 不足、昨年度は800件以上」という記事が掲載されました。これは、教師が産休や育休あるいは病気や介護休暇に入っても代わりの教師の手配が間に合わないというケースが実際にどれだけあったかを調査した結果について書かれたものです。
 産休や育休の場合は事前にわかっているので、その当日に代わりの教員が着任できなかった事例の件数。また、病気や介護休暇の場合は突発的なものですから、代わりの教員が1ヶ月以上来なかったケースがどれだけあったかを調査したとのことです。
 こういう調査は過去に例がなく文科省も実態を把握していないということですから、意義のある調査であることに異論はないのですが、このような調査は単発で行うのではなく、継続して長期に渡って行うことが望ましいといえます。

 見出しにあるように、欠員が発生した件数は、産休や育休の場合で304件、病気や介護休暇の場合で486件(いずれも大阪府除く)とのことで、800件以上というのはこのことを指しているようです。大阪府を除いているのは、大阪府の回答が毎月1日現在の件数を回答してきたために、たとえば欠員が2ヶ月以上続けばその件数が重複してしまうためでしょう。
 「全国で800件以上」とあるように、記事の論調はこれが看過しうる問題ではないという立場で書かれています。事実、同じ日に掲載された記事「先生不在で自習 時間割り組み直し…混乱する教育現場 」では、各地の事例を紹介し、いずれも授業が充分にできなくなったということが書かれています。
 たしかに先生が欠員となり授業が行えないという状況が異常であるという指摘に対し異論の挟みようもありません。
 わが身を振り返ってみれば、小学校から大学を卒業するまでそもそも先生が病気や産休などでいなくなるということがなかったのであり、欠員によって授業が行われなくなったという経験は皆無でした。たぶん、大部分の人が同じような経験をしているのではないかと思います。(産休の場合は学期や年度の変わり目で代理教師が着任していたように記憶しています。)

 この調査を行い記事を書いた朝日新聞の記者たちも、おそらく同じような経験の持ち主であると想像することができます。そのような経験を持ち合わせている者からすれば、現在の教育現場の実情は「異常極まりない」というものであり、その思いがこのような調査を行わせたのだろうと思うのです。
 実は、教師がいかにストレスの溜まる職業であるかという指摘はかなり以前から行われているのであって、そこには括弧書きの(昔と比べて)というフレーズがあることを忘れてはなりません。
 校長や教師の自殺。鬱病となって休職したり退職する教師・・・。不幸にしてこのような状況に追い込まれた教師はいくらでもいるというのは現代ではもはや常識であるといってよいでしょう。そのような時代の生徒たちにとって、教師の欠員が生じるというのはもしかすると「わりと普通にあるできごと」なのかもしれないのです。
 そのように考えると、全国で800人以上という数字の意味が変わってきます。自分が子どもの頃の記憶と照らし合わせて、このようなことがあってはならないという先入主を持って眺めれば800人以上という数字は由々しきものとなります。一方「わりと普通にあるできごと」であると思っている人にすれば、「へえ、けっこういるもんだね。」くらいの感想に終わるでしょう。

 このような調査を行いその結果を分析するのであれば、少なくとも次の数字は抑えておくべきです。

1.教員の総数
2.産休や育休を取得した教員の数と全体に対する割合
3.病気休職や介護休暇を取得した教員の数と全体に対する割合
4.定年退職者数とそれ以外の退職者数(事情別年齢別)と全体に対する割合

 数字というのは、それ単独では評価することができません。たとえば、テストの結果が100点だったとします。これは満足できる成績でしょうか? 100点満点のテストであれば申し分のない成績であるといえますが、TOEICのように990点満点のテストで100点であれば話しはまるで違ってきます。このように、数字は必ず何かと比較しないことにはその意味を理解することが人間にはできないのです。

 そのうえで、欠員が生じた件数について、その元となっている休暇求職者数に対する割合も検討すべきでしょう。さらにいえば、このような調査は単発で終わらせるのではなく、何年にもわたって継続して行い、年ごとにどのように推移しているのかも探る必要があります。
 そこまでやったうえで、どのように解釈するのが実態に沿っているのか、それによって仮説が導かれるというのが科学的姿勢というものです。その点、今回の朝日新聞の調査は結論ありきで取り組んだのではないかと疑いたくなるくらい、調査項目が不十分であるといえます。

 統計というのは、とり方によってどのような結論でも導くことができます。その気になれば、「日教組幹部における鬱病経験者の割合は一般教員のそれよりもはるかに低い」だとか「親が教師であるという教員の方がそうでない教員よりも鬱病に罹った人が多い」という結論でさえも容易に導くことができるのです。
 統計というのはそれくらい恣意的な道具として用いられる可能性が高い、ということは知っておいて損はないと思います。特に加工前のデータを公開していない統計は要注意です。マスコミが報道する統計調査の結果はほとんどが加工前のデータを公開していません。ということは第三者がその内容を検証することができないということを意味します。
 この点は政府広報も同様です。
 大学生がそのような第三者が検証することのできない統計に基づいてレポートや論文を書いても点数をもらうことはできません。そのことはよくわかっているはずなのに、平気でそれを行う。それがマスコミであり、官僚たちなのです。


付記
 教員の欠員があってはならないことであると断罪するのは簡単ですが、現実を見つめたうえでどうすべきなのかを考えるべきであるということで本稿を書きました。ここでいう現実とは、今の学校は教師にとって働きにくい環境となっているのではないかというものです。そのことを統計調査によって証明できると思うのですが、そのようなアプローチを経なければ、いくら代用教員を採用しても定着しないのではないかとも思います。
いったい、真面目に勤務している者が鬱病や胃潰瘍に罹ったりする職場は正常であるといえるのでしょうか。
 解決すべき問題点はどこにあるのか、そのような発想をしない限り教育の現場はかえって振り回されることになるのだろうと思わないではいられません。
by T_am | 2011-01-12 00:03
 iPhoneからPC宛に送ったメールをOutlook2010で受信したところ、本文が文字化けするという現象が起こりました。ヘルプを見ても解決法が見つからず、またOfficeオンラインを見ても解決法が見つからなくて困っていたところ、書きのサイトに解決方法が記載されていました。

http://report.station.ez-net.jp/software/microsoft/office/outlook/2010.encode.asp

 この記述をアップされたTomohiro Kumagaiさんにお礼を申し上げるとともに、多少補足して備忘録としたいと思います。

1.文字化けしているメールをダブルクリックして開きます。
2.リボンの中の「メッセージ」タブにある「アクション」をクリックして、「その他のアクション」をクリックします。
3.「エンコード」をクリックして、「その他」をクリックします。(ここで表示されるドロップダウンリストでチェックされているものが規定のエンコード方式です。普通は「日本語(自動選択)」にチェックがついているはずです。)
4.エンコード方式のリストが表示されるので、「Unicode(UTF-8)」をクリックします。
5.メールを閉じるときに、「プロパティが変更されました。この変更を保存しますか?」と訊いてくるので「はい」を選択します。


(エンコードとは)
 コンピューターでは、文字をそのまま扱うのではなく、文字コードと呼ばれる数値に変換して扱っています。電子メールでも文字をそのまま送るのではなく、いったん数値データに変換したものを送信しています。
 厄介なことに、この変換ルールは何通りもあるというのが現状です。
 送信側と受信側とで同じ変換ルールを用いていれば電子メールの文字化けは起こりませんが、異なる変換ルールを使用していると受信側で文字化けが起こります。この変換ルールのことをエンコードといい、メールソフトでは文字化けした場合に備えてエンコードを手動で変更することができるようになっています。
 Outlook2010では、Tomohiro Kumagaiさんが指摘されている方法でエンコードを変更することができます。(本当に助かりました。重ねてお礼を申し上げます。)

 ソフトがバージョンアップして機能が充実するのはありがたいのですが、操作方法がこのように変更されるとユーザーは戸惑ってしまいます。せめてヘルプに記述があればいいのですが、ユーザーが困っているときにヘルプはあまり役に立たないというのは昔から変わらないようですね。
by T_am | 2010-09-30 23:04
 11月8日付けの朝日新聞に政府がやろうとしているたばこ増税を歓迎する社説が掲載されました。読んでいて呆れてしまいましたので、少し長くなりますがその全文を引用します。


たばこ増税―結果は減収でも大歓迎
 国民の健康を守るため、たばこの税金を大幅に上げて、欧州諸国並みの価格にする。
 厚生労働省の要請を受けて、政府税制調査会での議論が始まった。財源ではなく、健康問題としてたばこの増税が議論されるのは初めてのことだ。
 たばこは肺がんだけでなく、心筋梗塞(こうそく)などさまざまな病気の原因になる。しかも、吸う本人だけでなく、周囲の人の健康を害し、とりわけ子どもへの被害は深刻だ。
 国民の健康のためには、価格を上げて消費を減らすなどの対策が重要だ。だが、自民党政権下では、税収を確保したい財政当局やたばこ産業を背景にした政治家たちによって、消費減につながる対策は阻まれてきた。
 鳩山由紀夫首相は「環境や人間の体の面から、増税がありうべしかなと思う」と後押しする考えを明らかにしている。今こそ、国民の健康を守るために、思い切ってカジを切るときだ。
 日本人男性の喫煙率は、10年前に5割を切り、徐々に下がってきてはいるものの、なお約4割で国際的にも非常に高い。女性は約1割と低いが、若い女性では増えて、全体では横ばいを続けている。喫煙大国といっていい。
 その背景には、たばこ価格の安さがあるに違いない。20本入りたばこ1箱は、英国で約850円、フランスで約550円と、日本の300円に比べて、円高を考慮してもはるかに高い。
 日本も批准した世界保健機関(WHO)のたばこ規制枠組み条約でも、喫煙率を下げるには、価格を上げることが不可欠とされている。
 財政当局には、増税で価格が上がり消費が減れば、現在約2兆円の税収が減るとの心配が当然あるだろう。
 しかし、厚労省の科学研究によれば、たばこによる病気の治療費は毎年1兆3千億円、労働力の損失や火災による損害などを含めると、損失は5兆~7兆円に上る。人々が健康になることも考えれば、たばこ消費が減っても得られるものの方がはるかに大きい。
 喫煙者の8割は禁煙を望んでおり、また1箱500円なら5割強、1千円なら約8割の人がたばこをやめるという調査結果もある。とくに若者は手を出しにくくなるに違いない。
 600円から段階的に上げる案も出ているが、本当に効果を考えるなら、1箱1千円も十分に検討に値する。
 もう一つ重要なのは、民主党の政策集にある通り、たばこ産業の「健全な発展と財源確保」を目的とする四半世紀前のたばこ事業法を廃止し、健康を守ることを目的とする新しいたばこ規制法をつくることだ。
 政府が日本たばこ産業(JT)の大株主であるのは、今の時代にふさわしいことだろうか。株を売却すれば、貴重な財源になるはずだ。



 いい機会なので、ひとつひとつ検証していきます。
 まず、たばこは健康に害を及ぼすということに異論はありませんが、喫煙者として、自分のことは自分で決めるのでほっといてくれ、というのが偽らざる気持ちです。「たばこが様々な病気の原因になる」というのは、正確にいうと、「様々な病気の原因になることがある」というものであって、喫煙者でも病気にかかっていない人はいくらでもいます。したがって、このような書き方は事実をねじ曲げるものであるといえます。
 「しかも、吸う本人だけでなく、周囲の人の健康を害し、とりわけ子どもへの被害は深刻だ。」とあるのは、副流煙のことを指しているのでしょうが、これだけ分煙化が進んでいるのに何をいっているのか、と思います。
 たばこの煙が嫌いだという人がいることは百も承知しています。だからこそ、たばこを吸わない人と同席しているときはたばこを吸わない、などのマナーを徹底する方が大事なのであって、社会的にたばこ規制しようというのは間違っています。マナーによって自発的に分煙化が達成されている社会と、規制によって強制的にたばこを吸わせないようにする社会とでは、どちらが成熟しているかは一目瞭然ではないでしょうか。
 さらに、「とりわけ子どもへの被害は深刻だ。」と書いていますが、こういう書き方をすれば誰も反論できないだろうという筆者の意図が見えるようです。これも、こどものいるところではたばこを吸わない、吸いたければ席を外す、というマナーの問題です。むしろ、たばこよりももっと深刻な問題(いじめ、虐待、性的虐待など)があるはずですが、私たちの社会は未だにこれらの問題に対する効果的な対策を見いだしてはいません。こどもの心配をするならばそちらの方を取り上げてはいかがなものかと思います。
 朝日新聞の社説はたばこそのものを社会から大胆に減らしてしまおうというものであると理解していますが、それならばたばこの栽培・製造・販売・喫煙を禁止する法律をつくりましょうといえば済むことです。大麻が禁止されているのですから不可能なことではないはずですし、たばこによる健康被害を根絶する可能性は、大幅な値上げよりもはるかに高いといえます。
 また、イギリスとフランスのたばこの価格と比較して、日本のたばこははるかに安いから喫煙者が多いのだという理屈ですが、それならばこれらの国の喫煙率も紹介すべきでしょう。そうでなければ論理として成立しません。
 実際にはどうかということを見ると、イギリスもフランスも男性の喫煙率(23%と28%)は日本(41.3%、OECD Helth Data 2007より。以下同様。)よりも低いのですが、女性の喫煙率は日本よりも高いという結果(日本 12.4%、イギリス 23%、フランス 19%)が報告されています

http://www2.ttcn.ne.jp/honkawa/2214.html

 朝日新聞の論理ではたばこの値段を上げれば喫煙率は減るはずですが、女性の喫煙率に関してはイギリス、フランス、日本を比較すると、そういう論理は成り立たないということがわかります。
 このように、事実をきちんと伝えないで、自分の意見を正当化しようという姿勢はマスメディアとしては失格であるといわざるを得ません。自分に都合のいい情報だけを流し、そうでないものは黙殺するというのでは、もはや報道機関ではなく広告会社であるということになります。
 確かに、値段を大幅に上げればたばこを買えなくなる人が出てくることは間違いないでしょう。しかし、アメリカでは貧困層に喫煙者が多いという報道もあるくらいですから、単純に値段を上げればそれで解決するというのは乱暴であり、無責任です。朝日新聞の見識を疑わざるをえません。
 また、「厚労省の科学研究によれば、たばこによる病気の治療費は毎年1兆3千億円、労働力の損失や火災による損害などを含めると、損失は5兆~7兆円に上る。」と書いていますが、人間は誰でもいつか必ず死ぬということを忘れもらっては困ります。これだけ医療が発達している日本においては、事故死や災害による死亡、自殺などを除けば死ぬときは必ず病院のお世話になるのですし、生きている限り誰でも病気になることは避けられません。さらに、インフルエンザにかかるのはインフルエンザウィルスに感染するからですが、ウィルスが体内に侵入してきても発症しない人がいるように、病気にかかった原因をこれということに特定することは難しいのです。つまりたばこを吸っても吸わなくても、人はいつかは病気になるものですし、最後には死んでいくのが人間という生き物です。
 朝日新聞の理屈がおかしいのは、この1兆3千億円が日本の医療費の総額に占める割合を掲げていないところにあります。この割合が日本人の喫煙率よりも高いのであれば、たばこが社会にもたらす被害が無視できないものであることを私も認めます。しかし、実際にはそうでないのですから、この数字も、自分の主張をもっともらしく見せるために出している数字であって意味はないということになるのです。

 想像するに、この社説を書いた人はたばこが嫌いなんでしょうね。だからたばこを吸う人が許せないのでしょう。ずいぶん幼稚な精神構造をした人だなあと思いますが、自分に都合のいいデータだけを見せて自分の主張を正当化しようという姿勢は看過できません。本来、政府がそういうことをしようとするのをチェックするのがマスメディアの責務ではありませんか。政府と同じことを堂々と社説欄でやっているのですから、朝日新聞はもはや報道機関ではなく広告会社であると申し上げるのです。

 個人の権利ということを考えると、たばこを吸う人にも権利があるように、たばこの煙が嫌いという権利も等しく認められるべきです。そこから導き出される合理的な結論は分煙化を徹底するということであり、たばこを禁止するというものではありません。個人の思惑を他人に押しつけるのはやめていただきたい。


追記
 これは朝日新聞の主張ではありませんが、日本のたばこの値段は欧米に比べて安いのだから、もっと高くしてもいいのではないか、という人がいます。
 個人がそういうことをいうのは構いませんが、政府の人間がそのような発言をすることがあります。
 本来、物価水準の違う諸外国とものの値段を比較することに何の意味もないのですが、あえて申し上げます。
 そういうことは牛肉やガソリンの値段をアメリカ並みに安くしてからいってもらいたい、と。
by T_am | 2009-11-13 07:41
 今の日本で最も割に合わない職業といえば、たぶん教師ということになるのだろうと思います。というのは、教師に対する要求は年々増え続けてきており、それができないときは不適格教師というレッテルを貼られてしまうからです。
 教師の仕事をざっとあげてみると、授業をどのように組み立てるかという事前の準備があります(これは、本人の要領のよさにもよりますが、良心的であればあるほど時間がかかるだろうと容易に予測することができます)。そして、時々行われるテストの採点(ときには問題づくりもしなければなりません)をし、記録につけるということもしなければなりません。
 さらに担任になると、生徒指導というものが加わり、生徒の一人一人をみなければなりません。小中学校では年に数回保護者との面談もありますから、その準備も大変です。
 また、部活の顧問になるとさらに時間をとられることになります。昔と今を比べると、顧問となっている教師の取り組み方・時間のかけ方というのは雲泥の差があると思います。それだけ今の教師は時間を割いているということです。
 ほかにもいろいろとあるのでしょうが、ざっとみても教師はこれだけのことをやらなければなりません。そこに、何かしら問題が発生しようものなら、パンクしても不思議ではないと思います。
 みんなよくやっていられるな、と思うのです。
 オーバーワークになったときの人間の行動のひとつに、「放置する」というのがあります。つまり、「何もしない」というものです。それがやっかいなものであれば、見て見ぬふりをすることで過負荷となることを避けようという心理が働くのです。
 今までやってきたことと同じことをやり、新しいことに手をつけない限り、オーバーワークになることはありません。ベテラン教師が陥りやすいマンネリ(授業内容が毎年同じという教師は昔もいました)もそれにあたります。
 もう一つは、徹底的に割り切って自分の権利を主張することです。「勤務時間外ですからこれ上のことはできません」とか「休日なので休ませていただきます。部活の指導はできません」とかね。

 ところが、親にしてみれば、自分の子どもを預けているのですから、教師に対して何らかの期待を持つのは当然であり、やむを得ないことであるといえます。自分の期待したことを教師がやってくれれば、「いい先生にあたってよかった」ということになりますが、そうでなければ「あの先生はなにもしてくれない」と不満を持つようになります。

 今の親は昔の親に比べると教育に対する知識をけっこう持っているので、それだけ教師に対する注文が増えていると思います。そこに、学級崩壊、校内暴力、いじめ、学力低下、等々の問題が発生すれば、その責任の所在は誰にあるのだという声が起こり、教師が槍玉にあげられることになります。

 安倍内閣のときに教員免許の更新制度が導入され、今年から実施されました。当初はいわゆるダメな教師の免許を更新しない(つまり排除する)ということを念頭においていましたが、その後、文部科学省によれば「定期的に最新の知識技術を身につける」という目的に変わっていきました。これをまともに受け取れば、まことにけっこうな制度であるといえると思います。
 しかしこの制度には日教組が反対しており、それを支持基盤とする民主党政権はこの更新制度を廃止する意向を打ち出しました。
 10月14日、文部科学省の鈴木寛副大臣はマニフェストに掲げている教員養成課程の6年制や専門免許制の導入に伴い、スタートしたばかりの更新制度を廃止する考えであることを発表しました。6年制というのは従来の4年制に加え、大学院での2年間の修士号取得を免許の条件とするほか、従来は2~4週間だった実習期間を1年間に延ばすというものです。また専門免許は従来の免許の上級免許にあたり、実務経験8年以上の教師が2年間の研修を経た上で取得できるというものだそうです。
 6年制にすることに対し、当然反対する声もあがっており、その理由として教師としての適格性は学歴とは関係ない(大卒でもダメ教師はいるし、短大卒でも優秀な教師はいる)以上6年に延長するのは無駄であるというものです。
 また免許の更新制度廃止に対しても、現状を見る限り教師たちは真剣に講習を受けており、講習する側の準備と受講する側の意欲によって大きな効果が期待できるとして反対する声もあり、まさしく正論であるといえます。
 さらに更新制度廃止に反対する意見として、せっかくダメな教師を排除することができる制度を設けたのになぜ廃止するのだ、というものもあります。
 9月14日付の産経新聞の「主張」欄では次のような意見が述べられていました。


(前略))
 また教師は自分の授業を客観的に評価される機会が極めて少ない。ベテランがマンネリ化し、学級崩壊を招くケースも報告されている。指導法を見直す機会としても、更新制は意味が大きい。
 輿石氏(民主党参院会長のこと。輿石氏の支持母体は日教組である。筆者注)は過去にも「教員の政治的中立はありえない」などと耳を疑う発言をした。だが政権が代わったからといって、教育の重要施策が特定団体の意向などでねじ曲げられることは許されない。
 家庭や地域の教育力低下が懸念される中、公教育再生のカギを握るのは教師だ。適切に評価し、鍛える更新制を機能させねばダメな教師が増えるばかりだ。



 産経新聞らしい論調であるといえばその通りですが、この文章が、ダメな教師が今日の教育の改革を阻む要因となっているという前提で書かれていることは明らかです。
 でもね。ダメな教師というのはいったいどのような教師をいうのでしょうか? 授業が下手? 学級崩壊をくい止めることができない? いじめがあっても見て見ぬふりをしている? 校内暴力が起こっても対処できない?
 
 生徒が教師に服従するのは、ある種の「約束事」に基づいています。その約束事というのは、「先生のいうことをきかなければならない」という至極単純な義務感に由来します。子どもが親のいうことをきくのは、そのように躾がされるからです。これを我慢という言葉に置き換えてもできるでしょう。ときには地域社会がそれを子どもに教えることもあります。
 けれども何らかの事情によって、我慢することを覚えなかった子どもや我慢しなくてもいいのだと思った子どもは、いとも簡単にこの「約束事」を踏みにじります。それは教師の責任でしょうか? 「家庭や地域の教育力低下」と「主張」の筆者も指摘しているように、その原因は家庭(もっとはっきりいえば親)や地域社会にあると考える方が自然でしょう。
 しかし、そのことはあまり取り上げずに、教師の対応が悪いこと(つまり、ダメ教師)の方が問題だとする論調があまりにも強いといえます。
 今の教育に問題があると感じているというのは理解します。だからといって改革の必要性を声高に叫ぶ人の中には、自分たちが現場の担当者である教師の足を引っ張っているという自覚がない人も見受けられるのです。
 たとえば体罰は、その用い方によって躾にもなれば暴力にもなります。暴力になるかどうかは用い方の問題(高校生の頃体育教官から、平手打ちをするときは鼓膜が破れない程度に気をつけていると聞かされたことがあります。つまり、相手が怪我をするかどうかが暴力と躾の境界であるというわけです)であって、体罰そのものは単なる手法に過ぎません。けれども体罰が全面的に禁止されて久しいので、教師たちは強力な手段をひとつ奪われた状態が続いています。それでも時折体罰をしたといことで新聞沙汰になることがあり、その場合、教師は校長といっしょに生徒の自宅に出向いて謝罪することが通例になっています。今日の日本社会は偏ったところで過敏になっているような気がしてなりません。

 何か問題が起こって自分がその被害者になったとき、その責任の所在を他人に追求しなければ気が済まない人というのはいくらでもいます。その人たちに共通するのはデタッチメントという特徴であり、これじゃ友達もいなくなるよな、と思わざるを得ない人が多いのです。
 その中でも特に頭の悪い人は、他人の責任を追及するときに、「文書にして出せ」とか「いつまでにやるんだ」と機嫌を自己申告させるよう圧力をかけることを平気で行います。挙げ句の果てに「ちゃんと謝罪しろ」とか、甚だしい場合には「土下座して謝罪しろ」と要求するのですが、自分の気が済めばそれで問題が解決すると思っているあたり救いようがありません。そういう頭の悪い人たちが、意欲のある教師たちを萎縮させ、自信を失わせているのです。(これはパワハラを行う上司にもいえることであり、仕事をさせるためというよりは自分の憂さ晴らしのために部下が存在していると勘違いしているのです。これもまた救いようのないバカであるといえます。)

 長々と書いてきたのは、熱心に生徒を指導している教師を何人も知っているからです。その人たちの邪魔をするようなことはしたくありませんし、これからも研鑽を積んで生徒の指導にあたっていただきたいと思います。
 学級崩壊やいじめ、学力低下という問題があることは私にもわかります。しかし、その責任を教師に押しつけて、問題を解決するためといっては制度をいじっても、かえって現場の教師のやる気を削ぎ、時間を奪う結果になっていると思うのです。
 教員免許の更新制度に伴う講習の実施というのは、意欲のある教師にとってはとてもいいことだと思います(意欲のない教師にはいい迷惑でしょうが)。それよりも、ダメ教師には免許の更新をせず失職させるというのは異常なことではないかと思います。第一に、ダメ教師の定義が明らかではないこと、第二に、人事評価について信頼性のおける手法が未だに確立されていないこと(講習後の試験に合格しなかった教師がダメ教師であるという判定には合理的な根拠があるとは思えません)、第三に、解雇権の濫用にあたると覆われるからです。
 懲戒解雇というのであれば誰もが納得するでしょうが、ダメ教師については確立した定義もなければ合理的な人事評価の手法もないわけですから、どのような教師が教員免許の更新を拒否されるかというと、恣意的に行われる危険性が高いといえます。したがって、更新制度について文部科学省が「定期的に最新の知識技術を身につける」ことを目的としていることは理に適ったものであると評価することができます。

 一方、民主党政権が打ち出している6年制については、修士号の取得を教師になるための条件とする理由に合理性があるとは思えません。また、専門免許についてはどのように運用されるのかがまだ明らかにされていないのではっきりとしたことはいえませんが、専門免許を取得しても仕事の内容が劇的に変化するのでなければ意味がないといえます。
 免許というのは、それを持っている人にしかできないことがある(大型トッラクやバスは大型免許がないと運転できません)からこそ意味があるのです。
 しかし、学校においては、生徒に教える仕事に上級も下級もありません。たとえば、普通免許しか持たない数学教師は1次方程式しか教えられないが専門免許を持つ教師は2次方程式を教えることができるという区分を設けたとして、それがばかげていることは誰でもわかることです。
 となると専門免許の活用方法としては、それがないと管理職(教頭や校長)になれないということくらいしかないと思われます。
 しかし、それならば昇格試験というもっと手軽で安上がりな方法があるのですから、わざわざ高い費用(=税金)と大勢の人手と時間をかけてまで設ける意義のある制度なのかという疑問が拭えません。それこそ「無駄な予算」ではないでしょうか?

 人は誰かが認めてくれることで嬉しいと感じる生き物です。逆に、誰も認めてくれる人がいないと寂しさと空しさを感じるようになります。さらにいえば、誰かが自分を否定すると自分の存在意義に疑問を感じるようにもなっていきます。
 私たちは他人の責任を執拗に追及することによって憂さ晴らしをしていますが、それは他人を追い詰めるだけの不毛な行為であることが多いのです。
 教師たちに同情せざるを得ないのは、絶えず保護者たちからプレッシャーをかけられているだけでなく、本来は彼らの味方であるはずの官僚と政治家たちが、改革の名の下に、彼らの足を引っ張ることに異常な熱意を燃やしていることです。
 いっそのこと教育に関わる官僚と政治家を大幅に減らした方が、余計なことができなくなるので、日本の教育にとってははるかに有益ではないかとさえ思うのです。
by T_am | 2009-10-16 23:26