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カクレ理系のやぶにらみ

tamm.exblog.jp

時間のある方はお読みください。軽い気持ちで読み始めると頭が痛くなります。

名前で呼ぶことの考察

 私の名前はどちらかというと女みたいな名前なので、今までに何度も女と間違えられたことがあります。いまでも1年に3回くらいは、私のことを女と思いこんでかかってくる電話があります。そういえば、この名前のおかげで下着泥棒に入られたことがあります。当時住んでいた学生アパートは大家の方針でドアの前に入居者の氏名が掲示されていた(しかも田舎町に住んでいたので、留守にするときも鍵をかけていなかった)ので、下着泥棒は私が女だと勘違いして入り込んだのだと思います。
 アパートに帰ってきてドアを開けたら、見知らぬ男が部屋の中に立っていました。

「あんた、誰?」
「いや、ボクは彼女を待ってるんです。」
「彼女って?」
「○○さん。」
「○○はボクだけど」

 このとき、下着泥棒の顔が青ざめたのがわかりました。
 改めてその男を観察してみると手に白いものを持っているのがわかりました。

「ちょっと、手に何を持ってるの。見せてみろ。」

 といって取り上げてみると、それは私の洗濯前のブリーフでした。

 その後、その男を部屋からたたき出し(本当は警察に連れて行こうとしたのですが、それだけは勘弁してほしいと懇願されるうちに怒りが鎮まってきたのです)、しっかり鍵をかけて先輩の部屋に非難しました。なんといっても薄気味悪かったからです。
 私が下着泥棒に入られたのは、後にも先にもこれっきりですが、日本中で下着泥棒に入られた男というのはあまりいないだろうと思います。
 こういう体験があって、名前の使われ方に興味をもつようになりました。以下は、その考察です。



 日本語の2人称と3人称は距離感と上下関係によって使い分けがされます。さらに、話し言葉においては事実上2人称代名詞が存在しない(というよりは使わない)ということもあって、複雑な様相を呈しています。
 今回は自分以外の人間を名前で呼ぶということについて考えてみたいと思います。

 他人を、名字ではなく名前で呼ぶというのは、その人と親しいときに限られます。ざっとあげると次のような場合があるようです。

1.友達に対して
 年下や同い年に対しては、素の自分で向き合っているという意味で呼び捨て。一方、年上に対しては「君」付けか「さん」付けとなります。「君」付けする場合親しみが込められており、「さん」付けする場合はさらに敬意が強調されている(これは先輩を名前で呼ぶときも同様)ようです。
 また、相手を名前で呼びたいけれどもストレートに呼ぶのははばかれるという場合、相手の名前をほんの少しアレンジして呼ぶことがあります。例:「マサミ」→「マチャミ」、「涼子」→「お涼」、「信子」→「ノブ」など。

2.恋人や配偶者に対して
 距離を置かないので普通は呼び捨て。3人称で使う場合、相手の親族に向かって話すときは「さん」付け(決してぞんざいには扱っていないという意思表示のため)。それ以外は呼び捨て。ただし、相手に対して特別な感情を示したい(たとえば「愛しさ」)を示したいときは「ちゃん」付けや「君」付け。何か下心がある場合も同様です。

「ねえ、ヒロミちゃん。」
「何?」
「ボク、新しいゴルフクラブが欲しいんだけど。買ってもいいかな?」
 
3.職場の女性に対して、キャバクラのお姉さんに対して
 職場の女性が年下でしかもある程度歳が離れている場合、男性社員から名前で呼ばれる場合があります。このとき「ちゃん」付けされる場合と呼び捨ての場合があります。「ちゃん」付けする場合、相手に対する「好意」が込められているといえます。
 そういえば、キャバクラのお姉さんに対して「愛ちゃん」とか「マリアちゃん」と「ちゃん」付けで呼ぶのは、相手に対する「好意」を示すことで、相手との「距離」を無理矢理縮めようとする荒技です。このことは、相手との距離が本当に縮まらない限り「ちゃん」付けがとれない、ということになります。
 一方、職場の女性を呼び捨てにする場合、変な下心がないということが込められていますが、親しさの中に上下関係が反映されている(つまり、「自分の方が上」という意識)ようです。

4.小さな子供に対して

 相手に対して「好意」を持っていることを示すときは「ちゃん」付け。男の子の場合、相手に若干の敬意を持っていることを示すときは「君」付け。

5.皇后や皇太子妃、宮妃に対して
 親しみを持っているということを示す場合「さま」付け。この用法は1.の年上の友達(先輩)に対して名前で呼ぶ場合の延長と思われます。
 もちろん、公式には「皇后陛下」「皇太子妃殿下」「妃殿下」と呼びます。

呼び方の決定権
 その人をどう呼ぶかの決定権は基本的には呼ぶ方にあります。呼ばれる側に決定権はありません。ただし、その呼び方が気に入らない(あるいは気持ち悪い)場合、苦情を申し立てたり違う呼び方をしてほしいということはできますが、相手との上下関係(あるいは力関係)によっては我慢しなければならないこともあります。
 欧米人は自己紹介のときに、「マイクと呼んでくれ」とか「リズでいいわ」と、自分を愛称で呼んでほしいといいます。
 私も親しい人からは、名字ではなく名前で呼んでもらった方が、余計な気兼ねがなくて嬉しいのですが、自分から要求するのははばかられます。というのは、名字で呼ぶ場合と名前で呼ぶ場合とでは微妙に距離感が違うからで、相手に対し、その人が自分に対して抱いている距離感を修正してもらいたいと強制することができないことに由来します。

名前を教えることの意味
 初めて会う人に自己紹介をするのは、その人と何らかの人間関係を持つことに同意するという意思表示でもあります。
 このとき、もっとも無難なのは相手を名字で「さん」付けする呼び方です。
 ただし、相手が役職者である場合、名字ではなく単に「社長」とか「支店長」とか「部長」と肩書きで呼ぶのが普通です。これは、身分の高い人に対して、名前で呼ぶのは失礼であるという意識が働くからです。若干の親しみを込めたいときは「麻生総理」のように名字+肩書きで呼びかけることもあります。 
 
 逆に、相手の姓名(名前)を問うということは、その人との何らかの人間関係がそこからスタートすることになります。
 だから、ナンパするとき「ねーねー、カノジョー。どこから来たのー?名前はー?」と尋ねるでしょう。このとき、関わりたくないと思えば無視して立ち去ればいいわけです。
 昔の日本においては、名前を呼ぶというのは身体に触れることに等しいとされていました。(以下は、高島俊男さんの「お言葉ですが・・・」文春文庫のうち「美智子さま雅子さま」の受け売りです。)
 万葉集の第1番には雄略天皇が、野であった娘に家と名前を訊く歌が収められています。

 籠(こ)もよ み籠持ち 堀串(ふくし)もよ
 み堀串持ち この岡に
 菜摘ます児(こ) 家聞かな 名告(の)らさね
 そらみつ 大和の国は おしなべて吾こそ居れ
 しきなべて吾こそ居べ 吾こそは告らめ 家も名をも

「ねえ、そこの菜を摘んでいる君。(とっても可愛いね。)家はどこ? 名前を教えてくれる? ボク? ボクはこの国の王様さ。」という意味ですが、これはどうみてもナンパです。それだけおおらかだったというべきでしょう。ここで、娘さんが家と名前を教えれば、ナンパに対してOKよ、ということになります。
 このように、昔の日本では女性の名前は特に秘匿されており、表に出ることは決してありませんでした。ですから紫式部も小野小町も本名は伝わっていません。北条政子は名前が伝わっているじゃないかといわれるかもしれませんが、残念でした、これは朝廷から従三位を賜ったときに命名された名前です。それ以前の名前は伝わっていません。ちなみに、北条政子は鎌倉幕府では御台所と呼ばれていたそうです。

 かつての日本では、男の場合、実名のほかに通称がありました。実名を呼ぶのは親兄弟くらいで、他人は友達であっても通称で呼んでいました。
 勝海舟の場合、実名は義邦、通称は麟太郎、任官してからは安房、歳をとってからは海舟先生と呼び名がいくつもあったそうです。親である勝小吉は義邦と実名で呼び、友達は麟太郎と通称で、幕府の同僚は安房殿、上役は安房、後年になって下のものからは海舟先生と呼ばれていたようです。

 このように昔の日本人の名前の用い方は現代とはだいぶ異なっています。現代人は名前を実名ひとつしか持たないことも影響しているように思います。たとえば、通称を持つ習慣が残っていれば、友達は通称で呼び合うはずですが、通称がないから実名で呼ぶわけです。
 また、年配の人ほど昔の感覚(上の人に対しては名前で呼ぶことはない)が強く残っていますが、年齢が若くなるとそれだけ希薄になっています。皇后や皇太子妃を「さま」付けして名前で呼ぶというのはその現れでしょう。


「崖の上のポニョ」での用例
 映画「崖の上のポニョ」では主人公の男の子の他人に対する呼び方に特徴があります。その用例は次の通りです。

(1)両親に対して
 両親のことを、「リサ」、「耕一」と名前で呼んでいます。

(2)「ひまわりの家」の車椅子のおばあさんたちに対して
 「トキさん」「ヨシエさん」と名前で呼んでいます。

5歳の男の子が、現実にこのような呼び方をしているか、ということを考えれば、このような呼び方は実に違和感があります。もしかしたら、自分の子供に自分を名前で呼ばせている親がいるかもしれませんが、 そうだとすれば世も末だと思います。
 宮崎駿監督は、今まで書いてきたような名前に対する感覚は私以上に持ち合わせていることでしょうし、作品を観ていると現代の風潮に批判的な考えもお持ちであるように思われます。それでもあえて、主人公の男の子にこのような呼び方をさせているからには、何かわけがあるということでしょう。
 そのような目で観てみると、「おとうさん」「おかあさん」「おばあちゃん」と呼ばせるよりは名前で呼ばせた方が、この映画のテーマに沿った人物描写ができるからだという結論に達しました。見た目は5歳の男の子であっても中身はちゃんと責任をとることができることができる精神の持ち主を造型すると、このような言動をとることの方がむしろ当然ということになります。現実にこのような5歳の子供がいたら薄気味悪いと思われるはずですが、そのようなことを感じさせないのが作者の力量というものでしょう。
 これ以上はネタバレになるので申しませんが、興味のある方は映画をご覧になってください。小さな子供を連れた親子連れが目立つ映画ですが、見終わった後で優しい気持ちになれる映画です。
by T_am | 2008-10-12 22:49 | 言葉

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