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カクレ理系のやぶにらみ

tamm.exblog.jp

時間のある方はお読みください。軽い気持ちで読み始めると頭が痛くなります。

考えを「丸める」

 この前は理解を「丸める」ということについて述べました。今回は考えを「丸める」ということについて述べてみたいと思います。



 考えを「丸める」とはどういうことかというと、たとえば学生が英文和訳をするときに頭の中で翻訳を考えてそれで終わったつもりでいる、という状態を思い浮かべていただければいいかと思います。
 その場合紙に書いてみると日本語になっていないことがあります。それを推敲して意味の通った日本語にしなければ、英文和訳は完了したことにはなりません。ところが、頭の回転の速い人ほど、わかったつもりになってそれ以上の作業をやめてしまう、というピットフォールに陥りやすいのです。文章は単語を組み合わせてつくります。頭の中だけで翻訳すると、いくつか日本語の単語が思い浮かんだ時点で文章としてつながったように錯覚するわけです。、
 
 これは仕事も同様です。コンサルタントはよく「なぜを5回繰り返せ」ということを指導します。これは、原因が何なのかを発見しなければ有効な対策を講じることができないということからきています。
 何か事故が起きたときに、担当者の不注意で終わってしまうことがあります。そうすると対策は、「ちゃんとやらなきゃダメじゃないか」となってしまいます。
 それで済むならば、ミスを犯す人間はいなくなるはずですが、相変わらず人間はミスを犯しますし、忘れることだってあるのです。
 したがって、ミスを犯さないようにするにはどうしたらいいか、ミスを犯しても直ちに発見できて修正できるようにするにはどうしたらいいか、という視点で考えなければなりません。
 担当者のミスとして事故原因の救命を終わらせることは、そこで「考えを丸める」ことになります。つまり、それ以上思考が展開しなくなるのです。
 同様に、他人から説明を受けるとき、あるいは交渉をするときに、自分が納得するまで話をしないと成果をあげることはできません。途中でわかったつもりになって、そこで話を打ち切ると、詰めが甘いということになってしまい、あとで問題が起こることになりかねません。わからないことは無理して結論を出す必要はありません。少し時間をおくことで解決できるということだってこのことは、「突き詰めて考え」なければいけない、と理解していただいても結構です。

 ところが、いくら考えてもわからないということは世の中しょっちゅうあります。そういうときどうするかというと、考えを「丸める」のではなく、いったん「保留する」のです。私たちの日常生活はクイズ番組とは違うので、解答に制限時間が設けられているということは、それほどあるわけではありません。たいていの場合、「少し時間をください」といえば、それが通るのです。仕事もそうです。
 むしろ、少し時間をおくことで、新たな情報が入ってきて一気に解決できるということだってあるのですから、焦って結論を出す必要はありません。

 少し前の話ですが、女性のTバックという下着を、私は長い間、勝負パンツのようなものだと思っていました。お尻の汗が洋服に染み込むわけですから、洋服を傷めることになり、実用性はないのだろうけど、どうしてあんな下着があるんだろう? きっと女の人はここぞというときにあれを穿くんだろうな、くらいにしか考えていませんでした。まさか、まわりの女性に「ねえ君、Tバック持ってる? どういうときにTバックをつけるの?」と訊くわけにはいかないからです(訊いてみたい気もするけど)。
 あるとき映画「スペシャリスト」をみていたら、シャロン・ストーンが身体にぴったりしたドレスを着ているシーンがあって、お尻のラインがくっきりと現れている(つまり下着の線がまったく出ていない)のをみて、これは絶対ノーパンに違いない、と思ったことがあります。ところが次のシーンで、シャロン・ストーンがそのドレスを脱いだときに身につけていたのが「Tバック」だったのですね。なるほど、Tバックはこういうときに着ける下着なんだ、と妙に納得した覚えがあります。
 もしも、好奇心に負けて「ねえ君、どういうときにTバックをつけるの?」と訊いていたら、「何? この人?」と、変態オヤジのように思われていたことでしょう。

 一方、人生においては、「そないいうたかて、どーもならんやろ。」といって片付ける局面が時々あります。これは、さきほどの「自分が納得するまで考える」や「突き詰めて考える」という姿勢とは明らかに矛盾しますが、その方が人間関係がうまくいくという意味での知恵なのです。
 「自分が納得するまで考える」という人は、ハタから見れば「くどい奴やなあ。もーえーとゆーとるやろ!」と嫌われることにもなりかねません。
 このように、「自分が納得するまで考える」という姿勢は鋭角の多い人格をつくりあげるかもしれない、というリスクを負うことになります。
 歳をとって、角が取れて人格が丸くなった人というのは何ともいえぬ人間味の溢れた人になる(ただし、若いうちに鋭角の多かった人は誰でもそうなるというわけではありません)のですが、そうなるまで本人は結構辛い想いをしなければなりません。何も好きこのんで辛い想いをする必要はないと思います。
 実は、丸めてならないのは論理であって、感情の方はむしろ丸めてしまってそれ以上追求しない方がいい場合があるのです。いわゆる「水に流す」ということで、そうした方が人間関係がうまくいく場合がある、というのが先人の知恵です。
 論理においては丸めることはしないけれども、感情については丸めて水に流すということで、余計な争いをしないで済むようになります。それでも、「論理」を丸めるわけではないので、ときには他人から恨まれたり嫌われたりすることがあるかもしれません。どうせ、世の中のすべての人に好かれるということは不可能なのですから、いちいち他人の顔色を伺うというのも意味のないことだと思います。
 でも、誰かきっとみていてくれる人がいる。そのことだけは確かです。
by T_am | 2008-10-10 20:43 | 心の働き

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