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カクレ理系のやぶにらみ

tamm.exblog.jp

時間のある方はお読みください。軽い気持ちで読み始めると頭が痛くなります。

セイヤさんへの手紙 食の安全と「してはならないこと」

 セイヤさん こんばんは。
 教えてくれた日経レストランの記事を読みました。ちょうど、三笠フーズの事件があって、いろいろと考えさせてくれました。





 これを契機にいろいろと調べてみたわかったのですが、食品の供給と安全を巡る制度というのは、一般人の常識では理解できない部分があるというのが正直なところです。
 たとえば冷凍コロッケのようにパック入りの食品は品質表示が義務づけられていますが、食品スーパーの店内で揚げられてばら売りされるコロッケについては表示が不要とされています。
 また、輸入した食品でも国内で加工すれば、その最終加工地を産地として表示してもいいことになっています(確か衣料品でも同様で、国内でボタンをつけるとかすれば、国産表示が可能だったと思います)。

 食品を製造する際に添加される調味料、着色料、保存料が食品添加物として定義されています。
 昔の縄文人のように自分の食べ物は自分で採集するというのであれば、その食べ物を食べても安全かどうかについての感度は極めて高くなります。変なものを食べれば最悪の場合死んでしまうわけですから、その方面の感覚が鋭くなるのは当然であるといえます。また、その頃は食品添加物などなかったわけですから、その食材が食べても安全かどうかだけを判断していればよかったわけですね。
 その後、調理方法や保存方法の発達に伴って、食材に何か(調味料も含まれます)を添加するのは当たり前になりました。ところが、現代人は店頭に並べられているものであれば、疑うことなしに購入して食べてきました。なぜならば、商道徳に対する素朴な信仰(変なことをすればその会社はつぶれる)があったからです。
 こうした背景には、食品を製造する際の規制が有効に機能してきたというのもあると思います。食品衛生法が制定されたのは昭和22年ですからずいぶん古い法律です。
 その後昭和32年に起こった森永ヒ素ミルク中毒事件により、食品衛生法が見直され、科学的に合成された添加物は指定されたもの(ポジティブリスト)以外は添加できないというふうに改められました。
 それでも国民の間には、お上のすることに間違いはない、という盲目的な信頼があったのですが、その後の公害病や薬害が事件として報道されたことで、お上といえども誤りを犯すのではないか? という疑問が生まれ、現在では、政府がすることはあまり信用できない、というふうにまで国民の意識が変わってきていると思います。
 それでも私たちは、スーパーの店頭に並んでいる食品については、せいぜい賞味期限と産地を確認するくらいで、たいして疑うこともなく購入して食べています。
 昨年から相次いでいる食品の偽装表示事件や中国製毒餃子事件、今回の三笠フーズ事件は、火事を預かる主婦の「嫌だわ。なんだか怖いわ。」という不安を煽る材料になっていると思います。
 食品の安全を脅かす要因は大別すると次の二つがあると思います。

1)食品の製造に関する規制や基準に違反する行為
2)食品の安全に関する基準そのものが間違っている場合

 昨年からの一連の事件は、すべてこの1)に該当するものです。コンプライアンスという概念を持ち出すまでもなく、これらはすべて「してはいけないこと」です。それを常識といい、子供でもわかることなのですが、企業経営者の中にはこの常識の欠落した人が日本には大勢いるということが明らかになりました。自分さえ儲かるならば他人はどうなっても構わない、という意識の持ち主です。この人たちに共通するのは、その「他人」の中に自分の家族や友人、知人も含まれるかもしれないという想像力が欠落しているということです。お金を儲けたり偉くなったりするには、この想像力が邪魔になる場合があります。お金儲けの得意な人や偉くなった人を人生の成功者(勝者)としてもてはやす傾向がマスコミと大衆にはあるので、自分もそうなりたいと思えば、この想像力を捨て去ることにためらいを覚えないという人も後を絶たないことになります。
 西欧的自我という概念が輸入されたことで、日本古来の常識に懐疑の目を向けるという風潮が広まりました。ビジネスでも文学でも、常識にとらわれている限り人間は自由になれない、という考え方が優勢になり、常識を軽視しても構わないという空気が漂っているように思います。
 現在は、その反動として、常識や法令に背いて不当に金儲けをした人を容赦なく責め立てるという傾向があります(こういうときのマスコミの態度というのは最強であると、つくづく思います)。企業の経営者もこれをみているので、大企業ほどコンプライアンスに敏感になってきています。これをないがしろにしていると、いつか自分も責任追及をされて最悪の場合は職を失うかもしれないという恐怖があるものと思われます。このことは、現象としては歓迎すべきですが、その動機は利己的であると思います。精神の成熟した大人の発想ではありません。
これは単なる思いつきですが、法令に違反した行為によって得たと見なされる利益については過去に遡って課税することができるというように税法を改正したら、不法行為は払拭されると思います。既に一度課税しているわけですから、もう一度課税することになり、不法行為による利益は全部税金でとられるということになります。(我ながら暴論ですね)。ただし、いきなりやると日本中が混乱するので、3年程度の猶予期間を設けます。その間に違法行為を改めなさいというわけです。
 昨年から、あれだけ食品の偽装表示が摘発されているのに未だに後を絶たないというのは、日本の経営者には学習能力がないのかと疑ってしまいたくなるのですが、自分は大丈夫という根拠のない自信があるからなのでしょう。そうであれば、他人事で済まされない状況にしてやれば違法行為は防ぐことができるはずです。

 食品添加物や残留農薬に対する安全基準が、実際のところどうなのか、僕にはよくわからないというのが正直な気持ちです。いささか暴論に近くなりますが、毎年癌になる人は大勢発生しています。けれどもその人たちがなぜ癌になったのかという原因までは解明されることはありません。また、人間の体内では、毎日のように癌細胞が登場しているけれども増殖せずに死滅する限りは癌という病気にはならない、ということを聴いた記憶もあります。つまり、この物質が原因で癌になったと立証することは、現実にはできないということなのです(ということは、現在の食品の安全基準が適正であるかどうかはわからないし、適正でないと断定することもできない、ということです)。
 しかも、人間はいずれ必ず死にます。医療はその死期を遅らせることはできますが、人間を死なないようにすることはできないのです。
 そうはいっても、発癌性物質が癌細胞の発生率ひいては癌の発症率を高めるというリスクをもたらすことに異存はありません。したがってこれらの物質を食品添加物として使用することを禁止することも、論理の帰結として当然であると思います。
 いつまでも元気でいたいというのは、人間が皆持っている願望であると思います。だからこそ、食品に対する安全性が求められるのだと思います。
 それはこういう意識です。
 私は本来であれば平均寿命に達するまで生きていることができるはずだ。ところが、安全でない食品を食べることによって、それ以前に死んでしまうかもしれない。それは到底受け入れることはできない。
 
 健康に対する願望(裏返せば病気になることへの不安)は誰もが持っているものですが、そこにつけ込む隙が生まれやすいようにおもいます。
 ミネラルウォーターの方が水道水よりも身体にいいと持っている人は多いのですが、水道水にもミネラルは含まれています。しかし、いずれもその含有量はきわめて微量なので栄養摂取というつもりで飲用するのは無意味です。
 浄水器や活水器も水道水の味やカルキ臭、トリハロメタンに対する不安を背景に普及が広がっていますが、どこまで効果があるものか疑問もあります。

 今回、セイヤさんから教えてもらった記事をきっかけにいろいろと調べてみて、自分があまりにも何も知らないことに気づかされました。やはり、セイヤさんがいうように、科学主義(きちんと勉強したことに基づいて考える)で望み、情報に右往左往しないことが必要なのだと思います。


付記
 今回の三笠フーズの事件で、「事故米」という聞き慣れない用語を耳にしました。そこで農水省のホームページをみると、次のように説明書きがありました。

(参考)
事故米穀とは、保管中にかびの発生、水濡れ等の被害を受けたもの、又は基準値を超える残留農薬等が検出されたものであり、用途を限定して売却するものである。


 これって他人事のような名前のつけ方だと思いませんか。保管責任というものがあるでしょうし、保管方法に問題がないとすれば、購入した時点で既に品質に問題があったということになります。いくらで購入しているのかはわかりませんが、要するに、食用として売り物にならないから買い取ってくれる業者に工業用として安値で売っているということです。こういうのをお役所仕事というのです。
by T_am | 2008-09-07 05:13 | セイヤさんへの手紙

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