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カクレ理系のやぶにらみ

tamm.exblog.jp

時間のある方はお読みください。軽い気持ちで読み始めると頭が痛くなります。

つくられた自然

私たちが普段目にし、自然だと思っているものの大半は実は「自然」ではありません。では何かというと「人の手が入った自然」なのです。
 そのいい例が水田です。



 あれは弥生時代から日本人が連綿として作り上げてきた環境にほかなりません。縄文時代の日本は、国土のうち平らなところといえば湿地が多かったのですが、灌漑によって水はけがよくなります。そうすると、地面が乾くので田んぼをつくり、人が住めるようになっていきます。
 また、堆肥をつくるためには下草を刈るので、林の土壌は痩せていきます。そうすると肥えた土地を好む雑木の樹勢が衰え、代わりに痩せた土地でも育つ松が増えていきます。
 このように、縄文時代の日本は雑木林と湿地帯で成り立っていたといいます。それを、稲作をすることで日本人は、千年以上の年月をかけて戦前の日本の姿(環境)をつくりあげきたのです。

 ですから日本の国土というのは、人間の手がよく入った自然ばかりであり、大陸にみられるような人手が入っていない自然というのは、日本ではほとんどみることができません。
 このことは、人間が手を入れないと「自然」は荒れてしまう、ということでもあります。

 私たちが普段目にし、自然だと思っているもの(たとえば農村の風景など)は、実は自然そのものではなくあくまでも「人手が入った自然環境」に過ぎません。

 このような「自然」は、絶えずメンテナンスをしていかなければなりません。それには、時間と労働とお金がかかります。
 毎年、梅雨に入る前に、家の前のドブさらいを町内一斉に行っていることと思いますが、これも雨水を流すための側溝に溜まった泥を掬うことで、水の流れをよくしようというものです。やったことのある方はおわかりでしょうが、あれは結構重労働でもあります(だからといって、やらないと町内のみんなが困ることになります)。
 水田の水路も同様です。
 これらのメンテナンスは本当に大変なので、側溝をコンクリートで固めたものに置き換えるということが行われたわけです(土を掘ってできた溝や水路では、土が崩れてきたら直さなければなりません)。
 そうするとどうなったかというと、今度は、水の流れが速くなって「フナなどの水棲生物が姿を消してしまったのは寂しい。昔の日本はこうじゃなかった」という声が出てくるようになりました。でも、そういうことをいう人たちは、自分の自宅の前の側溝がコンクリートで固められていることについては何もいいません。
 この人たちは、「昔の自然に戻すべきであり、そのために手間とお金を費やすのはしかたがない」と考えているのですが、誰が手間とお金を費やしてこれを維持するかというと、自分はその勘定に入っていないのです。
 自分がやらないのであれば、何だって好きなことがいえます。

 なぜ、こんなことを書いているかというと、神戸の都賀川で起きた鉄砲水で人命が失われたことについて、新聞にこんな論説が載っていたからです。抜粋してご紹介すると、「コンクリートで固められた街では、雨水は地下に浸透できず、一気に川に押し寄せる」、「(都賀川には)自然の草木がほとんどない」、「かつて、川辺には根の深いチガヤやススキが繁茂していた」、「(川に滑り落ちても)それさえつかめば一人でもはい上がれた」、「だが、コンクリート中心の河川改修が進み、そんな”救命植物”は姿を消した」、「水辺から楽しさも、怖さも学べる夏だ。自然の流れがつくる瀬や淵(ふち)、川端の木々など、川本来の姿を大切にしたい」というものです。
 都賀川は映像でみるとコンクリートで固められていますが、これはメンテナンスの手間・暇・コストを最小限に抑えるために、行政がそうしたのでしょうが、私には、そのことはしかたのないことであると思えます。もともと、人間がそこに住むために自然に手を加えたのですから、あとはどの程度人工物を入れるかという費用対効果の問題となります。
 見方を変えれば、このことは自然災害(都賀川の場合は洪水による川岸の流失と氾濫。都会の真ん中でそんなことが起きたら大変なことになります。)を予防するための手段である、ということができます。自然がもたらす災害に対し、予防する方にコストをかけた方がいいのか、それとも何も予防せずに自然のままにしておいて、災害が起こったときに対処する方がいいのか。このように考えたら、予防策にコストを投じた方がマシであることは、どなたにもおわかりいただけると思います。
 確かに、河川をコンクリートで固めても、樹木を植えたり花壇を設けるということは可能です。しかし、それには維持するためのコストがかかるのです。「河川に自然の草木がないのは間違っている」という人は、実際に自分で草刈りをし、落ち葉の掃除をしてみてからいうべきでしょう。それを怠けていると近隣の住民から、「虫が湧いて困る」といった苦情が行政に来るのは目に見えています。

 自然の草木というのは見た目にはキレイですが、管理の手を抜くと、とたんに荒れてしまいます。ちびまる子ちゃんに登場する「佐々木のじいさん」のような人が日本中にいて、頼まれもしないのにせっせと公園や街路の草木の世話をしてくれるなら別ですが、そうではないので、誰かがお金と時間と労働力を提供してそれらを管理していかなければならないのです。
 昔は、お上はそんなことをしてくれなかったので、そこに住む住民(というよりもその川や水路を使う人たち)がそのメンテナンスをしていました。現代であれば、誰がそれをするというのでしょうか。ボランティアでやってくれる人はいるかもしれませんが、そうでなければ税金を投入して管理しなければなりません。
 そういえば、道路の中央分離帯や法面の草刈りが昔ほど頻繁に行われなくなったような気がしますが、気のせいでしょうか?案外、草刈りの予算が削られているのではないかと勘ぐっているのですが、このように、道路・河川・公園などのインフラは整備したらそれで終わり、というものではありません。

 どうやら、私たちには、面倒なことは自分以外の誰かが全部引き受けてくれる、というサンタクロース信仰が根強いようです。
 その私たちがエアコンの効いた室内で、自然が失われているのはけしからん、というのはどこか違っているのではないかという気がしてなりません。
by t_am | 2008-07-31 07:09 | 社会との関わり

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