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カクレ理系のやぶにらみ

tamm.exblog.jp

時間のある方はお読みください。軽い気持ちで読み始めると頭が痛くなります。

部分と全体

 石原都知事が、五輪招致に非協力的だとして以前から宮内庁批判を繰り返していましたが、一昨日のニュースではこのように報道されていました。



 宮内庁の野村一成東宮大夫が皇太子さまの東京五輪招致協力について「招致段階からかかわるのは難しい」との見解を示した問題で、東京都の石原慎太郎知事は17日、横浜市で開催中の全国知事会で、「宮内庁のばかが余計なことを言って」と批判した。
 同知事会で石原知事は五輪招致について「国民が熱願することだ」としたうえで、「宮内庁が反対する理由は私はないと思う」と主張。そのうえで「せっかくある皇室を私たちは大切にしてきたんだからこの際、『お国のために皇太子さんがんばってくださいよ』と声を上げるのは当たり前のことだと思う」と話した。(7月17日、産経新聞から)

 この中で、注目すべきは、オリンピック招致について「国民が熱願することだ」と断定している部分です。

 一般に政治家が「国民」という言葉を使うときは、自分の主張の正当性を強調することが目的であって、別に国民の利益を考えているわけではありません。
 そこには、一部分だけを取り出しておきながら、あたかもそれが全体であるかのようないい方をするという共通点があります。
 相手の主張を封じ込めようとするときに、「だってみんなが言っている」とか「みんながやっている」というレトリックを使うことがあります。これを正確にいうと「だって(私が訊いた人は)みんなが言っている」であり、「(わたしが知っている人は)みんながやっている」ということに過ぎず、カッコの中を意図的に省略しているのです。せいぜい数人が該当することを世の中の人全部に該当するかのように言っているわけです。
 これは、部分が全体であると強弁する手法であり、乱暴だけれども効果的なレトリックです。
 
 普通「国民」という言葉を主語に使うときは、「大部分の日本人」という意味を持ちます。それを強調したいときは、わざわざ「国民の大多数が」といういい方をします。
 石原都知事が言う「五輪招致を熱願する国民」とは、知事の周りでオリンピックを東京に持ってきたいと考えている人達のことを指します。
 都民の中にも、景気をよくするためにもオリンピックが来ればいいのに、と願っている人もいるでしょうし、そこまで考えずに軽い気持ちでオリンピック賛成と思っている人もいるでしょう。当然、反対と考えている人もいるはずですが、多くはどうでもいいやと考えていると思います。東京都民でない人は、どうでもいいと考えているのがもっと多いと思います。
 いったいオリンピックを東京で開催するという国民的合意がいつ形成されたというのでしょうか?

 石原都知事の意識にとって、オリンピックに反対な人(ということは自分に反対する人)は「日本国民」の中には含まれていないような気がしてなりません。したがって、反対する人も自分に協力するのが当然なのに、そうでないのはけしからんという論理が展開されることになります。「宮内庁ごときが」とか「宮内庁のばかが余計なことを言って」というのは、このような論理から出てきた言葉なのです。
 知事は、歯に衣着せぬ発言を繰り返すことから本音で語る人として、高い人気を保っています。
 しかし、政治家としてはこのような危うさを持った人でもあります。
 有能だけれども国民生活に害ももたらす政治家と有能ではないけれども無害な政治家、いったいどちらを選ぶべきなのでしょうか?

 東京へ行くたびに、「ただいま○○線では人身事故のため運転を見合わせております。」というアナウンスを聞かされます。今までは遠い存在に過ぎなかった自殺者が、それだけ身近になってきたということです。
 私が知事を務めている間に都内の年間自殺者数はこれだけ減りました、といってくれる方がオリンピックを持ってくるよりも「国民」にとってはありがたいことだと思うのですが。
by t_am | 2008-07-19 06:55 | 科学もどき

by T_am