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カクレ理系のやぶにらみ

tamm.exblog.jp

時間のある方はお読みください。軽い気持ちで読み始めると頭が痛くなります。

あいまいな国のあいまいな人々  他人と自分についての位置関係の勘違い(1)

 今日は、あなたの会社の上司やトップがなぜあなたに対して偉そうにしているのか、理不尽なことを要求されてもあなたが従わなければならないのはなぜなのかを考えることから始めてみましょう。



 金銭を媒介とした人間関係は、「お金を払う立場」と「お金をもらう立場」の2種類に大別することができます。「買い手」と「売り手」ともいいます。
 常識からいえば、「買い手」(お金を払う立場)の方が強いのは、皆様経験知としてご理解いただけるものと思います。
 お店へ行けば、「お客様」と呼ばれ、敬語を使ってもらえます。それは、「買い手」であるあなたの方が強い立場にあるからです。
 会社では、従業員というのは、労働という商品を会社に売り、その対価として賃金をもらっているひとのことをいいます。ですから、会社とその代弁者であるあなたの上司は、「買い手」として、「売り手」であるあなたに対して、好き勝手なことを要求できるのです。
 それはなぜかというと、あなたが提供できる商品(労働)の売り先がひとつ(会社)しかないからです。

 売買というのは契約行為ですから、法的には、売りましょう・買いましょうという双方の合意があって初めて成立する行為です。すなわち、売る自由(売らない自由)と買う自由(買わない自由)が存在するはずです。
 しかし、実際には必ずしもそうではありません。「売り手」と「買い手」の力関係が対等でないとき、力の弱い方の自由は制限されます。
 あなたが持っている商品を買ってくれる人が世界中で一人しかいないとき、その商品をいくらで取引するかという価格決定権は「買い手」が持つことになります。すなわち、どれだけ値切られてもあなたには文句を言う権利がないという状況が生まれるのです。

 「よろしければ買ってさし上げてもよくってよ。オーホホホホ。」

 こうして白鳥麗子みたいな(かなりムカツク)買い手であっても、あなたは自分が持っている商品を売らざるを得ないということになるのです。

 「買い手」と「売り手」の力関係を決定する要因は、どちらが決定権を持っているか?ということです。
 街には失業者が溢れ、求人はわずかしかないというときに、労働者の買い手である企業の方が(雇うかどうか、いくら給料を払うかの)決定権を手にすることになります。逆に、好景気でいくら人を雇っても足りないというときは、入社するかどうかの決定権は労働者が握っています。
 したがって、売り手の方が強いという状況も起こり得るのです。
 
 「服の上からだったらカルく身体に触ってもいいけれど、キスはダメ。デート代は1回1万円でーす。うふ」などという売り込み文句がネット上でまかり通るのも買い手の力が弱いからなのです。

 以上のことがいえるのは、金銭を媒介とする取引関係の相手だけです。
 世の中には、そうでない関係の人の方が圧倒的に多いのですが、日頃無理難題を言いつけることに慣れきっているあなたの上司や会社のトップは、ここのところを忘れてしまいがちです。

 あなたに対する、上司やトップの命令は2種類に大別できます。

(1)あなた自身に対して、これをしろ、という命令
(2)この場にいない第三者に、これをして貰って来い、とあなたに命令する

 このうち、(1)の命令はそれほどストレスが溜まりません。なぜならば命令を受けた自分の中で行為が完結するからです。
 逆に、(2)の方はストレスが溜まります。このときのあなたの行為の対象は、その場にいない第三者です。あなたと上司(そしてトップ)との関係は「売り手」と「買い手」の関係ですが、その場にいない第三者があなたにとって「売り手」であるとは限らないからです。
 第三者が「売り手」であるならば、あなたも強気な発言ができますが、そうでない人に強気の発言をすれば、あなた自身の品性が疑われることになります。
 にもかかわらず、第三者に無理難題を承知させろとあなたに迫る上司やトップは、極めて自己中心的な自我の持ち主であるといえます。
 世間では、こういう人のことを「常識のない人」とか、あるいは「バカ」といって蔑むのが許されるのですが、同じ会社にいるあなたにはそれができません。極めて不幸な状態であるといえます。
 その場合の対策については、最後に述べることにして、相手と自分の位置関係を勘違いしている人というのは、今の世の中非常に増えているように思います。

 もう一つ例をあげます。
 たとえば、学校を「売り手」と思い、自分を「買い手」と思っている人が多いのです。この人たちが学校や教師に対して色々と注文をつけるのは、自分は学校に対して授業料を払っているのだからそれに見合う対価を授受する権利がある、と考えているからです。
 この場合、対価の価値判断の主体はあくまでも自分自身です。他人が容喙する余地はありません。もしかしたら自分の勘違いではないか、という謙虚さは微塵もありません。自分が不服だと思えば、正当な対価(サービス)が提供されるまで苦情を申し立てる権利が自分にはあり、相手にはそれを聞く義務があると思って疑わない人たちなのです。
 問題は、正当なサービスの基準が人によって異なるということです。それにつきあわされる教師が疲労困憊するのも無理はありません。こうして、学校は生徒と教師にとって苦痛を与える場所となっていきます。

 これに対して、単純な事実をひとつだけ指摘させていただきます。

 それは、私たち父兄が支払う授業料だけでは学校経営は成り立たない、という事実です。
 現実には、公立の小中学校学では授業料の負担はありません。その代わり学校で発生する経費は、その大半が税金で賄われています。
 こういうと、それは義務教育なのだから当然だ、と思う人が多いと思います。

 残念でした。

 小中学生に教育を受けさせる義務を負うのは、その親(もしくは養育者)です。行政が義務を負っているわけではありません。そもそも、親や養育者に子供を学校にやることを義務づける目的は、子供を労働という搾取から守ることにあります。
 将来の国を背負う次世代の社会人を育てるために必要だということで、地方自治体が学校を設置することにしているのですし、その授業料や教科書代金を親から徴収しないのは、その運営費が社会的なコストとして考えられているからなのです。(義務教育だから親が授業料を負担する必要がないというのは誤った理解です。もしそれが正しいのならば、私立の小中学校も授業料はいらないということになります。)
 だから、税金で、納税者が均等に負担する形で、小中学校の運営経費が賄われているのです。父兄も税金は払っていますが、それは学校の運営経費の一部であって子供のいない人が収める税金も投入されているのです。

 このように、学校というのは金銭を媒介とした取引の場ではありません。
 したがって、自分が払っている税金で学校が運営されているのだから、自分の子供はそれに見合う対価(サービス)を受ける権利があると考えるのは間違っています。同様に、小中学校は義務教育なのだから、学校は子供に対し等しくサービスを提供しなければならない、と考えるのも間違いです。
 このことから、学校に対して、当然の如く親がクレームをつけるというのは、根拠のない行為であるということがわかります。
 親は学校に対し「買い手」ではありませんし、学校は親や子供に対して「売り手」ではないのです。
 そこを勘違いしている父兄と教師が増えているように思います。
                                                 (この稿続く)
by t_am | 2008-06-20 00:23 | あいまいな国のあいまいな人々

by T_am