学習することの前提
どういうときに人間は学習するかというと、別に、先生に教えてもらうから学習するわけではありません。上の空で聞いている学生はいくらでもいますし、中には居眠りしている者もいます。
したがって、学習にあたっては、自分こそが大事なのであって、極論すれば、それ以外の要因はさほど重要ではないといえます。
ひとつ例を挙げてご説明します。
映画「スペシャリスト」(1994年)を観ていたときのことです。シャロン・ストーンが身体のラインを強調するドレスを着て登場するシーンがあり、ウェストからヒップにかけてのラインの見事さに、「ワオワオ! これだけぴったりしたドレスを着ていながら、パンツの線が見えないということは、もしかしてパンツをはいてないんじゃないか?」と不思議に思った(これを「問題意識」といいます)のですが、すぐ後に、シャロン・ストーンがドレスを脱ぐとTバックのショーツが現れたのです。
その瞬間、Tバックのショーツというのは、身体にぴったりした服を着たいけれども下着の線を見せたくないというときに穿くものであり、うまくいけばそのまま勝負パンツにもなるという、実用性にすぐれた下着であるということを学習しました。
それまでは、グラビア・アイドルの撮影用の特殊下着くらいにしか思っていなかったのですが、そうではないということに気づいたのです。
いかがでしょう? 人間が「学習」するには、その前提として「問題意識」がひつようであることがおわかりいただけたでしょうか?
つまり、私たちが「不思議だ」「なぜなんだろう?」「知りたい」という問題意識を持たない限り学習する機会は訪れないということなのです。
これが「学習する」ことの第一のケースです。
第二のケースは、「私もそうなりたい」と思うときです。
女の人は、電話に出るときとか、あらたまった場所に出るとき、または好意を持っている相手と話す場合に、思わず声のトーンが高くなるという特徴を例外なく持ち合わせています。逆に、どーでもいいヒトに対しては低い声で話をするという現象もみられます。(あなたが男の人で、女の人が低い声で話をしてきたとき、あなたはその女の人にとって「どーでもいい」男だということになります。はい、またひとつ学習しましたね。)
女の人のこのような性質というのは、後天的に備わったものです。生まれながらに持っているものではありません。
では、どのようにして女の人がこのような、高い声で話す特技を身につけるかというと、学習によるものなのです。
つまり、身の回りに高い声で話す実例をみて、「ふん、何よ。カワイコぶっちゃって。」と反発を感じながらも、それが男に受けるのを目の当たりにすると、「私もそうなりたい」という気持ちが働いて、それを繰り返すうちに、高い声で話すという特技をいつの間にか身につけていくのです。
三十年以上も前でしょうか、新妻がスケスケのネグリジェを着て夫の前に現れるのが流行ったことがあります。その後時代が下って、勝負パンツという概念が登場してからは、スケスケのネグリジェというのは消え失せてしまったようですが、形を変えただけで、女の人の情念に変化はありません。
男であれば、女の人のこのような様子をみて、それを好ましいものとして受け入れるだけの度量が必要でしょう。奮闘を祈ります。
第三のケースは「失敗したとき」です。「失敗は成功の母」といいますが、これほど効率よく学習できる機会はほかにありません。ただし、諦めたり投げやりになったのでは学習することはできません。
あくまでもポジティブな気持ちを持ち続けることが、「学習」できるかどうかを左右することになります。同じ出来事に遭遇しても、学習する人とそうでない人の差は時間と共に開いていきます。
そういう意味で、時間というのは万人に平等であり、また残酷でもあると思います。