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カクレ理系のやぶにらみ

tamm.exblog.jp

時間のある方はお読みください。軽い気持ちで読み始めると頭が痛くなります。

記号化される個人と行為

 内田樹先生が、秋葉原で起きた事件について、無差別殺人などというものは人間を「記号化」しない限りできるものではない、ということを指摘されています。

http://blog.tatsuru.com/2008/06/11_1020.php




その一部を引用させてもらいます。


人間の身体の厚みや奥行きや手触りや温度を「感じて」しまうと、人間は他人の身体を毀損することができない。
私たちにはそういう制御装置が生物学的にビルトインされている。
他人の人体を破壊できるのは、それが物質的な持ち重りのしない、「記号」に見えるときだけである。
だから、人間は他者の身体を破壊しようとするとき、必ずそれを「記号化」する。
「異教徒」であれ、「反革命」であれ、「鬼畜」であれ、「テロリスト」であれ、それはすべての人間の個別性と唯一無二性を、その厚みと奥行きとを一瞬のうちにゼロ化するラベルである。
そこにあるのが具体的な長い時間をかけて造り上げられた「人間の身体」だと思っていたら、人間の身体を短時間に、「効率的に」破壊することはできない。
今回の犯人の目にもおそらく人間は「記号」に見えていたのだろう思う。
「無差別」とはそういうことである。
ひとりひとりの人間の個別性には「何の意味もない」ということを前件にしないと、「無差別」ということは成り立たない。



 いかがですか? 自分に当て嵌めて考えてみても、私の場合今まで家族に手をあげたことはありません。(奥さんから物を投げつけられたことはありますが。)
 そういえば、以前聞いた話ですが、誘拐された被害者がある程度年齢が高いと、誘拐犯との間にコミュニケーションが生まれて、殺される可能性が低くなる傾向がある、とのことです。
 ですから、家族に暴力を振るったことがないからといって、私がやさしい男であるという傍証にはならないということです。

 では、「記号化」とはどういうことかというと、たとえば「お隣のお嬢さん」には人としての「個別性と唯一無二性」が備わっていますが、「少女A」と表現するとそれが失われてしまうというご指摘であろうと理解しました。
 「お隣のお嬢さん」には「おはようございます」「こんばんわ」とフレンドリーな態度で接しますが、「少女A」に対してはその必要がない、ということです。
 実際、人間を記号化するには、ラベルを貼るという作業が必要ですが、それは一瞬で完了します。
 こうして記号化され個別性が失われた人間に対して、私たちはどんなことでも躊躇せずにできるようになるという事例は枚挙に暇がありません。
 「後期高齢者」から新たに保険料を徴収する医療制度。
 消費税の税率をアップして「国民」に等しく負担させようという官僚と政治家。
 ちょっと前になりますが、「造反議員」に対して選挙の際に党の公認を与えないうえに、その選挙区に党公認の対立候補(「刺客」)を送り込んだ郵政選挙。
 「店長」に対して残業手当を支給する代わりに、それまで支給していた店長手当を廃止するとした企業(報道されたM社以外にも同様の措置をとっている企業はあります)。
等々

 これらのラベル以外に具体例をあげると、「オタク」「負け組(負け犬)」「フリーター」「派遣」「ホームレス」などがあり、そのほかにも「差別用語」としてここには書けない言葉も数多くあります。
 このようなラベルの多くは個人の個別性をゼロにした上で、その人に対し特定のイメージ(多くはネガティブなイメージ)を強制的に付加するという性質を持っています。
 過去に遡ってみると、「異教徒」「鬼畜米英」「反革命分子」「裏切り者」というラベルを貼られた人間は憎悪の対象となり、無慈悲かつ暴力的な扱いを受けています。

 こうしてみると、人間が他人をどこまでもひどく扱うためには「理由」が必要であることが分かります。内田先生が指摘する「人間の身体の厚みや奥行きや手触りや温度を「感じて」しまうと、人間は他人の身体を毀損することができない」という「制御装置」はよほどの理由がないと解除することができないのです。
 けれども、今回の秋葉原の事件の犯人にはこの「理由」が見あたりません。
 強いてあげるとしても、「人を殺したい」という思いくらいしか、理由が見あたらないのです。
 「人を殺したかった。殺す相手は誰でもよかった。」という心理には、人を殺すという行為が既に記号化されているように思われます。
 「殺人」という言葉は単なる記号に過ぎませんが、それを実行に移すとなるとその時点で記号であることをやめて、現実の行為として生々しい意味を持つようになります。
 けれども殺人という行為が記号であれば、自分が殺す相手の個別性はゼロになります。
 私たちはこのことをテレビゲームの中で簡単に体験することができます。テレビゲームで登場する敵(モンスター)を倒しまくるのは記号化された行為なので、プレーヤーは何の痛痒も感じません。
 ですから、殺人という行為を記号化する体験は、テレビゲームの経験者であれば誰もが持っているということがいえます。

 このことは、殺人を記号化できる潜在的な資質を持っている人が大勢いるというということをあらわしますが、実際にそれが行われるかどうかについては何らかのリミッター(制御機構)があるものと思われます。
 リミッターが外れたとき、ゲームをするように殺人という行為が記号化され、無差別殺人が行われるのかもしれません。
 実際のゲームでは、果てしない殺戮の果てにエンディングがありますが、現実世界ではエンディングはなく、ゲームオーバーがあるのみです。そのことに気がつかないというのも、リミッターが外れることと関係があるように思います。
by t_am | 2008-06-15 20:00 | 社会との関わり

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