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カクレ理系のやぶにらみ

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時間のある方はお読みください。軽い気持ちで読み始めると頭が痛くなります。

船場吉兆はなぜ潰れたのか

 5月28日に船場吉兆が廃業を発表しました。他山の石とするために、今回はこのことを取り上げてみたいと思います。
 なぜ船場吉兆は潰れ、石屋製菓(白い恋人のメーカー)は潰れなかったのか?



 どちらの会社にも共通するのは、会社は自分のものだと経営者が思っていた、ということです。船場吉兆は湯木家のもの、石屋製菓は石水家のもの、という意識です。
 一般に、経営者がこのような意識を持っていると従業員は丁稚・女中に等しい存在となってしまいます。丁稚や女中が主人に対し意見をいうなど考えられません。仮にそういう生意気な従業員がいたとしても、早晩居づらくなってやめてしまうのがオチです。イエスマン以外は自然淘汰される環境にあるのです。
 だから賞味期限の改竄や産地の偽装がまかり通るようになります。偉い人に指示されたからやったのであって、現場が自発的にこのようなことをするということはありません。
 それを現場のせいにし、パートに対して、全責任は自分にあるという会社作成の報告書に署名を強要するという行為をみると、やはり会社を私物化して考えていると思わざるをえないのです。(石屋製菓では、石水社長は辞任しましたが長男は役員に残りました。)

 船場吉兆と石屋製菓で異なったのは何かというと、「危機管理能力」の違いです。(何だかビジネスの教科書みたいになってきたぞ。)
 石屋製菓では、偽装発覚から10日後に石水社長が引責辞任し、外部から社長を招聘したうえで、5人いる役員のうち長男を残して全員が辞任しました。それまでの身内によるなれ合い経営から脱却しなければ生き残れないという判断があったのでしょう。
 これに対し、船場吉兆では事件発覚後も一族経営を払拭することができませんでした。廃業を発表する女将の記者会見で「暖簾の上にあぐらをかいておりました」と述べ、号泣する様子が映し出されていました。この涙は、自分と一心同体であった船場吉兆という店がなくなってしまうことに対する悔しさ情けなさによるものだろうと思うと、最後まで、会社は自分のものという意識を捨てることができなかったのだ、と思ってしまいます。
 
 危機管理というのは、どうすれば今直面している危機から受けるダメージを最小限にすることができるか、ということです。石屋製菓ではその能力が発揮されましたが、船場吉兆にはその能力がなかった、ということになります。
 では、何をもってその「能力」とするかですが、一番の問題はどこにあるかを発見することができる力のことをいいます。問題点とその原因が放置されたままでは、同じことが起きてしまいます。
 事件や事故が起こったのは何が問題なのか、その原因は何なのか。これを解決することが必要なのであって、「安全と信頼の回復に努めます」というお題目を並べても何の効果もありません。
 今年5月に発覚した、船場吉兆がお客の食べ残しを「使い回し」していたという事実は元従業員の証言によって明らかになったものです。(食べ残しを再調理してまったく違う料理にして出す限りにおいてそれが悪いことであるとは、私は思いません。捨てるのはもったいないので従業員の賄いにするというのもあると思います。むしろ、そのまま次の客に出すというのはあまりにも芸がない、高級料亭の名が泣くぞ、といいたいくらいです。)
 こういうのをみると、経営陣は相当従業員から恨まれていたんだろうな、と思ってしまいます。賞味期限の改竄が発覚したときは、すべてパートの責任でやったという報告書を作成し、それに本人に署名するよう強要したという前歴のある会社なので、従業員よりも会社(湯木家)が大事という考え方に変わりはなかったということがわかるのです。
 
 船場吉兆が廃業に追い込まれた直接の原因は、高級料亭の暖簾を掲げながら、客や世間を騙して何とも思わない卑劣さ・身勝手・厚かましさといった体質に馴染みの客も流石に愛想を尽かしたというところにあると思います。
 してみると、一番の問題点はその会社の体質にあるということになります。石屋製菓が外部から社長を招き、役員を交代させたのはその体質を変えるためである、ということがうまく社会に対してアピールできたと思います。それには、社長が引責辞任を決断したのが素早かったというのも大きいのです。

 船場吉兆が潰れたのは危機管理能力の欠如にあると、私は申しました。
 危機管理能力というのは才能なのでしょうか? 才能というのは持って生まれたものをいうので、後から努力しても身につけることはできません。
 けれども、商才と違って危機管理能力は後天的に身につけることができる能力であると私は思います。確かに、勘の鋭い経営者は一瞬で問題点がどこにあるのかを見抜くことができるのも事実です。しかし、その勘はそれまでの経験によって磨かれてきたのではないか、と思うのです。

 では、船場吉兆ではなぜ危機管理能力が欠如していたのか? ここまで考察しないと意味がありません。そこで、もう少しこのことを掘り下げてみたいと思います。
 船場吉兆では、賞味期限の偽装が発覚したときの記者会見に、最高責任者である社長が出席しませんでした。誰だって(もちろん私だって)嫌な思いはしたくないという気持ちはあります。けれども、それでは経営者として高い給料を取っている理由がなくなると思いませんか?
 どうも、日本の会社では、給料の高い人ほど嫌の思いをすることを他人に押しつけても構わないと思われている風潮があるように思います。だから、このことは船場吉兆だけの問題ではないのです。(そうでなければ他山の石とする意味もないのですから。)
 嫌なことから目を背けるということは、結局、問題点がどこにあるのか気づく機会を自ら放棄しているということになります。
 よくいわれるでしょう。会社をダメにするのは二代目三代目の苦労知らずの経営者であると。
 ここでもう一歩踏み込んで考えてみましょう。会社組織で下っ端が嫌な役回り、辛い仕事をさせられるのはなぜかというと、彼にはそれを断ることができないからです。つまり誰だって嫌なことはしたくないのです。世の中には、それを他人に押しつけることができる立場の人間と押しつけられる立場の人間と、そして(極めて稀に)自ら進んでそれを引き受ける人間の3種類があります。
 我が身が可愛いのは誰もが同じです。
 船場吉兆の女将だって、自分と、自分と一心同体である船場吉兆という会社が可愛かったわけです。自分と会社に利益をもたらしてくれる限り従業員を可愛がることはあったでしょう。このような人は別に珍しいわけではありません。世の中にはごろごろしています。
 つまり、私たち人間の大部分は、嫌なことを他人に押しつけたいという気持ちを持つことができるということなのです。
 自分にとって本当に大事なものを守るために、ときには自分が泥を被らなければならないと覚悟できるかどうかが、危機管理能力を発揮できるかどうかの境目になると思います。

 船場吉兆の女将の記者会見の様子を見て、無様だと嗤う人は、もしかすると未来の自分が他人から嗤われる立場に陥ることになるかもしれない、ということに気づいていません。自分には関係ないと思っているからなのですが、そういう意識が危機管理能力を失わせることになるのだと思います。

 危機管理能力というと、何も会社が潰れるかどうかの問題に関わることだけではありません。
 家族を失う。恋人を失う。友達を失う。信用を失う。
 私たちの誰もが、それぞれ何かしら失うものを持っているのですから。
by t_am | 2008-06-04 23:43 | 社会との関わり

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