コミュニケーションが成立するとき(親子と夫婦のコミュニケーション)
まず、他者とのコミュニケーションを希求するというのはどういうことなのかを考えてみます。
そのために、人と話していて不愉快に思うのはどんなときかを思い出してみましょう。
たとえば、相手が自分の話を全然聞いていないとわかったときというのは気分が悪いですよね。普通の人であればそれ以上話す気持ちが失せてしまいます。
このことからわかるのは、私たちは自分の思いを相手が理解してくれるのを望んでいる、ということです。
聞き上手といわれる人がいます。このような人と話をしていると、自分のいいたいことをちゃんと理解してくれているという気持ちになり、とても気分がよくなります。
つまり人間は、自分の思いが相手に伝わったと感じることで、嬉しさを感じる生き物なのです。
ここまでが、他者とのコミュニケーションを希求する理由の半分です。でも、これ以外にも理由はあるのです。
あとの半分というのは、自分が知らないものと向き合うことの楽しさです。
世の中の事象は自分が知っていることと、まだ知らないことの2つに分けることができます。このうち、まだ知らないことのグループはさらに、自分が理解できることと、理解できないこと、に分類することができます。
私たちが相手のいうことを聞いていて楽しいと感じるのは、それが今まで知らなかったけれども理解できることに限られるのです。(理解できないことは聞いてもストレスを感じるだけです。これではコミュニケーションは成り立ちません。)
自分が知っていること(あるいは聞きたいと願っていること)を相手から聞かされるのは、安堵をもたらしますが、それによって話が弾むということはありません。
思い出してみてください。
話が弾んで、時間が経つのをずいぶん短く感じたことはありませんか?
このままもっと話をしていたいと感じたことはありませんか? それは、どういうときだったでしょうか?
話が弾んで、そのことが楽しいと感じるのは次の条件が満たされた場合です。
第一に、相手の話すことが自分はまだ知らないことであり、しかもそれが自分にも理解できること。(たとえば、フェルマーの最終定理の証明は、私がまだ知らないことですが、聞いても理解できないので、それを聞かされても全然楽しくないと思います。)
第二に、自分の思いが相手に伝わっていると感じられること。
逆にいえば、人と話をする気にならないというのは、自分の思いが相手には伝わらないと感じたとき、そして、既に自分がわかっていることをくどくどといわれたときです。
高校生の息子が母親に向かって、「うっせー、ばばあ。」と毒づくのは、母親のいっていること(いわんとしていること)が今更いわれなくてもわかっているからです。だから、これ以上いわれたくないので、コミュニケーションを拒否しているわけです。
コミュニケーションというからには、たくさんの言葉を交わせば交わすほどいいコミュニケーションが築けると思いがちです。しかしながら、言葉の量と相関関係にあるのは、自分が得られる満足感であって、コミュニケーションの質とは無関係です。
夫婦の間では、何でも話せることがよいことであるかのように思われています。ここでいう「何でも話せる」とは、「自分一人で抱え込まないでほしい」という気持ちを代弁するものであって、「何をいっても構わない」と無制限に許可を与えているわけではありません。
「俺、この前出張に行っただろ。夜、飲みに行ったんだけど、どうやらそこで悪い病気を移されたみたいなんだ。」
こういわれた奥さんは、十中八九怒りますよね。わかるでしょ。
「この前のクラス会で、昔好きだった男の子に久しぶりにあって、そのままホテルへ行っちゃった。」
奥さんにこういわれた夫が、「そう、それはよかったね。」というと思いますか? 普通、いいませんよね。
だから、夫婦の間であっても(ということは恋人同士であればなおのこと)、「いってはいけないこと」や「いわない方がいいこと」があるのです。
ところが、「何でもいえる」関係がいいことだと思っていると、つい無神経になってしまいます。
「俺、禁煙することにした。」
「どーせ、一週間ももたないんでしょ。ま、好きにしたら。」
ここで、始末が悪いのは、いっている本人はそれが相手に対する親しさの表現であると思い込んでいるところにあります。
「あなたってバカじゃないの?」とか、「ダイエットしてもムダじゃないのか?」などという無神経な言葉は、当人にすれば軽い親しみを込めていっているのですが、いわれた方にしてみれば、認めたくない事実を面と向かって指摘されることになるので、とても不愉快になります。
このように、どんなに愛し合っていても、「いわれたくないこと」や「聞きたくないこと」というのがあります。そこのところを、覚えておいた方がいいように思います。
親子の間でも同様に、「いってはいけないこと」や「いわない方がいいこと」、「いわれたくないこと」や「聞きたくないこと」があります。これらの「触れない方がいいこと」は、夫婦の間よりもずっと多いのです。
さらに、家庭内では「話題にするのは好ましくないこと」というのもあります。セックスに関する話題がそうですし、配偶者の悪口、というのもそれに該当します。
よく子供に向かって夫の悪口をいっている母親がいますが、これは、失うものが多すぎるので、やめておいた方がいいと思います。
「お父さん、今度の日曜日もゴルフだって。もうちょっと家族のことも考えてくれたらいいのに。本当に自分勝手だよね。あんたは、お父さんみたいな大人になっちゃダメよ。」
「お父さん、今夜も遅いんだね。」
「ふん、何をしてるんだか、分かったもんじゃないわ。」
「お仕事してるんじゃないの?」
「仕事で遅くなるんだったら、まだいいんだけどね。さあ、子供はもう寝なさい。」
では、親子の間で話し合われるのが好ましい話題は何かというと、そんなものはないのです。
けれども、「おはよう」「行ってきます」「いってらっしゃい」「ただいま」「おかえり」「おやすみ」、最低限これだけ抑えておけば、あとはなりゆきに任せても構わないと思います。
なぜかというと、これらの言葉は「答えが返ってくる言葉」だからです。つまり、相手が何かいってきたときに、それに対して答えを返すという習慣が、これらの日常会話によって身につくということです。
コミュニケーションは、相手からの呼びかけに対して自分が答えを返すことによって開始されます。
「ただいま」「おかえり」。
たったこれだけの言葉の応酬でも、厭きずに繰り返していれば、そのうちにきっと親子の間で、質の高いコミュニケーションが成立するときが来ると、私は信じています。