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カクレ理系のやぶにらみ

tamm.exblog.jp

時間のある方はお読みください。軽い気持ちで読み始めると頭が痛くなります。

子供とのつきあい方

 昨年の今頃、高校三年生だった次男から、いきなりこんなことをいわれました。
「お父さん、僕、大学受けるのをやめようと思うんだけど。」
「どうして?」
「大学行っても何を勉強するのかわかんないし、それだったらまだ、働いた方がいいような気がするんだよね。」

 皆さんが、もしも、ご自分のお子さんから、いきなりこんなことをいわれたらどう対応しますか?



「いきなりこんなことをいわれたらどう対応しますか?」という問いかけを、私はしました。
 勘の鋭い読者はお気づきかもしれませんが、このことは、このブログの読者である「あなた」の価値観を問う質問でもあります。
 次男が私に対して、このような問いかけをしてきたのは、自分の価値観と父親である私の価値観(それは次男にとって未知のものです)をぶつけて擦り合わせをしたいということなのです。

 最初にお断りしておきますと、このような問いかけに対する「唯一の正解」というものはありません。(ただし、「愚答」というのはあります。)
 問いかけを受ける父親の価値観の種類と同じ数だけ回答があることになります。
 ここで大事なのは、問いかけられた父親の価値観と息子の価値観がぶつかった結果、そこにどんなコミュニケーションが生まれるかということです。(コミュニケーションについては、後でもう少し詳しく書いてみたいと思います。)
 
 まず典型的な「愚答」をご紹介します。
「日本は学歴社会だから、大学へ行くか行かないかで就職するときに差がついてしまう。いい会社に就職できれば、素敵な女性(あるいは男性)と巡り会って結婚できる可能性が高くなる。その方が幸せな家庭を築くことができるよね。だから、今一生懸命勉強して、いい大学へいった方が幸せになれるんだよ。」

 なぜこれが典型的な愚答かというと、息子は大学へ行って得られるものを既知のものとして捉えており、それには意味を見いだせないといっているからです。
 一流大学→一流企業→高い年収→レベルの高い配偶者→幸せな家庭、というのは、誰もそれを否定しないくらい「分かり切った」図式です。当然息子もそれは承知しています。
 でも、あえてそれを拒否しようとしているのです。なぜでしょうか?
 それは、このような図式で自分の人生が決まってしまうことに価値を見いだしていないからです。
 
 父親がこのような回答をした場合、口の悪い子供であれば、「その割にお父さんはぱっとしてないじゃないか。」と切り返される恐れがあります。私の場合も、そういうことをいっていたら、同じことをいわれ、家庭内不和の火種となっていたことでしょう。

 息子の、「お父さん、僕、大学受けるのをやめようと思うんだけど。」というメッセージは、その動機の大半は許可を得ることが目的です。でも、自分の中に迷いがあることもおわかりいただけると思います。大学進学を放棄して、その決意は揺るがないというのであれば、もっと別のいい方(たとえば「お父さん、僕、大学へ行くのやめたから。」というもの)になっていたはずです。つまり、問答無用で一切意見は聞かない、という文脈になっていたはずなのです。
 
 自分の中に「迷い」があると、他者に対してコミュニケーションを求める欲求が生じます。

 先の回答例がなぜ愚答であるかといえば、そのようなこと(一流大学→一流企業→高い年収→レベルの高い配偶者→幸せな家庭)は、息子にとっては既知のことだからです。相手が、自分の知っていることを話している限り、コミュニケーションは維持することができません。それ以上話を聞く気になれないからです。「もういいよ。」と、ドアをバタンと閉めて立ち去るのがオチです。

 ところで、私が息子にどういったかというと、概ね次のようなことです。
「何かわからないから勉強するんだろう? 大学で教わることが分かっていたら、それは自動販売機と一緒じゃないか。でも大学は自動販売機じゃない。分からないから大学へ行く意味があるんだろう?」

 正直いって、「学ぶ」という体験を通じて得られる最大のメリットは何かというと、「もっと学びたいという欲求」に目覚めることです。学ぶということは快楽でさえあります。
 ジョージ秋山さんの「浮浪雲」の中で、奥さんが息子の勉強嫌いを嘆くのを聞いて、主人公がこのような台詞をいうシーンがあります。
「新さん(筆者注:息子の名前)は、まだ勉強に対して処女なんですよ。」
 すごくわかりやすい表現でしょう?

 でも、そんなことをストレートに行っても息子には通じません。なぜならば、息子は(私よりもはるかに)功利的に思考しているからです。
 つまり、大学に行って得られるものと働いて得られるものとを秤にかけて、働いて得られるもの方が価値があると考えているのです。いってみれば、損得勘定ですよね。
 損得勘定をする人間に対して、損得で説得しようとしても通じません。議論は平行線をたどるだけで、はっきりいってムダです。

 ですから私の場合、私の価値観に基づいて、損得勘定以外の見方もあるよ、ということを述べたわけです。
 息子には、とりわけ「自動販売機」というフレーズが響いたようです。

 仕事でもそうなのですが、人間が教わりたいと思うことの大半は、実はその人が「知っていること」なのです。それが何か「知っている」けれども「どうすればいいか」分からないことを教えてもらいたいと考えています。
 具体的にいうと、パソコンの操作であったり、自動車の運転方法、などがそれにあたります。それを習得すると自分にどのようなメリットがあるか予めわかっているものを「教わりたい」と望むのです。
 こういうものを教わるにあたって、人間はお金を払うことを厭いません。自動車教習所やテニススクール、パソコン教室が営利事業として成立するわけです。(その典型的な成功例が学習塾であり、大学進学予備校です。)
 その一方で人間は、何だかよく分からないものに対して、教わりたいとはあまり思いません。だから冒頭の問いかけは、私の息子の独創的発想ではないのです。

 とうやら、「自動販売機」というフレーズは、息子に対して、自分が何を考えているかを認識するキーワードとなったようです。
 世の中には、対価(お金)を払って手に入れる商品が溢れています。そのほとんどは、それが何であるかを予めわかっていて買い求める、という類のものです。
 何をいってるんだ、わかっているから買うんじゃないか、と思われる方も多いと思いますが、では逆にお尋ねします。
 正月になると売りに出される「福袋」。何が入っているかも分からないのに、なぜ廃れないのでしょうか? 
 その解答は、「わからないから買う。そのことが楽しいから。」というものです。人間には、そのような側面もあるのです。

 話が脱線してしまいました。予め分かっているものを手に入れる行為を「自動販売機」と決めつけられたことで、予めわかっているものを手に入れようとするのは、実はつまらないことなのではないか? 息子はこのような疑問を持ってくれたようです。

 我が家の場合、こうして私と息子の間で、実に何年ぶりかでコミュニケーションが成立しました。そのせいか、次男は今春志望大学に進学しました。もちろん、本人が頑張って勉強したというのが大きいのです。

 今回のタイトルは「子供とのつきあい方」というものにしました。その意味は、特に父親の場合、普段子供とのコミュニケーションがない家庭が多いと思うのですが、何年かに一度、子供が父親を「見直す」機会があればそれでいいのではないか、ということです。
 子供が父親を「見直し」て「発見」すれば、そこにはコミュニケーションが生まれます。
 父親というのは、そのようなつきあい方でいいのではないかと思います。
 子供と友達のように接する必要はありませんし、いい父親であろうと肩肘張る必要もないのです。いずれ子供は親を乗り越えていくのですから。
 何年かに一度でもいいので、子供との間でコミュニケーションが通じることの方が、子供にとってはるかに有益であると思います。(そのことは子供の記憶に残ります。)

 既に夜も遅くなりました。肝心のコミュニケーションについては、次回述べさせていただくことといたします。
 それでは、おやすみなさい。
by t_am | 2008-05-08 23:51 | 心の働き

by T_am