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カクレ理系のやぶにらみ

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時間のある方はお読みください。軽い気持ちで読み始めると頭が痛くなります。

結婚と恋愛におけるおける「でも」と「だから」

 家族や結婚ということを考えるとき、私は河合隼雄さんと内田樹さんの影響を強く受けています。このブログの他の稿もそうですが、本稿でもこれらの偉大な先人の著作を読んで感じたことを自分の言葉をつかって表現するという作業を行っていきたいと思います。その際に、曲解している部分もあるかもしれないことをあらかじめお断りしておきます。




 以前述べたように、愛情は草花を育てるように扱っていかないとやがて枯れてしまいます。
 結婚産業が「永遠の愛」という用語を用いるのは、そういう貴重なものがあると思ってもらった方が、顧客の財布の紐がゆるむことになり都合がいいからです。
 けれどもそれを聞かされる方は、恋愛や結婚に失敗しても、それは永遠の愛ではなかったというふうに考え、どこかで永遠の愛が見つかるはずだと錯覚する可能性があります。 実際には、お互いが育てるという努力によって愛が続くのであって、何の努力もないところに永遠の愛というものは生まれません。
 ですから、永遠の愛がどこかにあると考える人は、どれだけ恋愛(結婚)を重ねても、それを手に入れることができないのです。

 いくら好きでも、他人と一緒に過ごすというのは、不自由で不快を感じることがあります。まして結婚生活ともなれば、四六時中一緒にいるわけですから、この不自由と不快を感じる度合いは更に高まります。
 このことを突き詰めていくと、次のようにいいあらわすことができると思います。

 僕には君が何を考えているかがわからない。
 たぶん君も僕が何を考えているのかわからないと思う。

 実は、このときに分岐点を迎えることになります。

 そこで、「だから僕たちは一緒にいることができない」と思ってしまうと、恋愛や結婚はそこで終わりを告げることになります。
 アメリカ人の離婚率が高いのは、愛しているかそうでないかによって身の振り方を判断するからだそうです。つまり、愛しているから結婚するのであって、愛がなくなれば離婚するのが当然と考えているわけです。したがって、アメリカ人がしょっちゅう「愛しているよ」「愛しているわ」というのは、愛情を確かめているということになります。(「村上春樹、河合隼雄に会いにいく」 河合隼雄・村上春樹 新潮文庫 より)

 ここには、愛情を育てるという意識はありません。だから愛情を求めて何度も結婚と離婚を繰り返すのです。
 
 日本人の場合、アメリカ人と同様に、愛情を育てるという自覚を持っている人は稀ですが、アメリカ人のように、愛情がなくなれば離婚する方が自然であると考えている人は少なく、離婚に踏み切らないのは、子供がまだ小さい、経済的に自立できない、世間体が悪い、などの事情を考慮するからです。
 このように冷めた関係のまま、結婚生活が長くなると、妻の多くは夫に対して、尊敬できない、鬱陶しい、冷たい人だ、嫌悪感を感じる、などの気持ちを抱くようになります。
 また、夫の方でも妻に対して、気が利かない、頭が悪い、度し難い、俺が養ってやっている、などの思いを抱いている人が多いのですが、それでいて日常生活の大部分を妻に依存しており、そのことについて妻が自分に奉仕するのは当然であるとも考えています。
 こういう夫婦関係はいずれ破綻しても仕方ないと思いますし、その結末は、子供たちが成人した後での熟年離婚という形をとることになります。(その頃にはしがらみも消えていることが多いから)。

 分岐のもう一方は、「でも僕たちは一緒にいることができる」と思える場合です。

 僕には君が何を考えているかがわからない。
 たぶん君も僕が何を考えているのかわからないと思う。
 でも僕たちは一緒にいることができる。

 恋愛や結婚生活を積極的に継続できるのはこちらになります。
 このように思える理由は何なのでしょうか?
 第1に、愛情がその理由にあげられるでしょう。しかし、時間の経過と共に、情熱は失われ、愛情も次第に穏やかなものに変わっていきます。
 どうやら、ときとして理解不能になる相手に対して、「それでも僕たちは一緒にいることができる」と思えるのは愛情だけが原因ではないように思います。
 
 では何なのかというと、

 君が望むことを、僕は受け入れてみようと思う。

 このように思えることだと思います。
 これは、お互いにとことん話し合えば必ずわかり合える、ということとは違います。どんなに話し合っても、自分の価値観と異なるものに対してはその価値を認めるということはありません。それでもそれを受け入れる、ということなのです。
 これは、「我慢する」ということとはちょっと違うように思います。我慢するというのは、それを否定する自分があって、そのスタンスはいつまでも変わらないことを意味します。
 しかし、「受け入れる」というのは、それを否定するのではなく、とりあえず肯定するところから始まる、というところが異なるのです。
 このように、相手を受け入れる、という気持ちは愛情とは別の次元のものです。もちろん愛情があれば更にたやすくなると思います。

 ここで男女ともお互いに知っておいた方がいいと思うことがあります。
 それは、相手が自分に対ししてくれることについて、男と女では評価するポイント(座標軸)が異なるということです。
 男の場合、相手が自分にしてくれる行為そのものを重視します。自分に対して何をしてくれるのか、何をしてくれないのか、どのようにしてくれるのか、を男は見るのです。これは、男の関心が仕事(労働)を通じてどれだけの成果をあげるか、にあることと通じるものがあります。形になって現れれるものは敏感に反応するのですが、目に見えないものに対しては鈍感であるともいえます。
 たとえば、毎年恒例のバレンタイン・デーですが、男は自分がチョコレートをもらえるかどうかを気にします。そしてもらったとなると、今度はそのチョコレートにはどれだけの「重み」があるのかに関心が移るのです。
 ですから、彼氏や夫に対しては、何を、どのようにしてあげるかということが大事なのです。一見面倒くさいようですが、そういうことをきちんとしてあげていれば、あなたに対する彼氏や夫の好意はいつまでも持続するということになります。

 一方、女の場合は、相手が自分にしてくれる行為そのものよりも自分に対する「気持ち」の方を重視します。これは、全くの仮説で検証できているというわけではないのですが、女性というのは他の女との比較を常に行っているのではないかと思うのです。
 たとえば、彼女にプレゼントを贈るとき、誕生日とクリスマスとではどちらに力を入れたらいいか、と男に問いかけると、たいていの男は「誕生日」と答えます。理由は、それが彼女にとって特別な日だからそれに見合ったモノを贈りたいと考えるからなのですが、これは自分の座標軸を基準に発想するからそういう答えになるのであって、実は間違っています。
 正解は、クリスマス・プレゼントに力を入れるというものです。
 なぜかというと、クリスマスは彼女の友達もそれぞれプレゼントをもらうので、お互いにもらったプレゼントを比較するからです。友達と比較しても私の方がずっといいものをもらったと思えるプレゼントが、彼女には嬉しいのです。

 妻や彼女に話しかける場合、自分がいかに関心をもっているか、どれだけ大切に思っているか、という「気持ち」を伝えることが重要です。
 もうひとつたとえ話をすると、彼女や妻が風邪を引いて寝込んだとします。当然看病をしますよね。でも、それだけではダメなのです。
 たとえば、あなたの看病に対し彼女(妻)が「ありがとう」といったとします。
 このときに「別に、たいしたことじゃないよ。」といいたいところでしょうが、ここはひとつ「大丈夫。君がよくなるまで、ずっとついていてあげる。」といういい方をした方が、あなたの気持ちは彼女に伝わるのです。
 これが、病気になったのが男の方であれば、看病をしてもらったという事実だけで満足するのですが、女の場合、それだけではなく自分の気持ちも伝えないとダメなのです。
 男も女も、それぞれ相手のこのような性質について、意外と無知であると思います。自分の座標軸に照らして、自分ならばこれで満足するであろうという行動をとりますが、その表現の仕方が男と女では少し異なるので、それはとかく相手に伝わらないことが多いのです。
 せっかく相手を思う気持ちがあるのに、それが空回りして伝わらないのは勿体ないと思います。
 自分の気持ちが上手く相手に伝われば、相手も嬉しく思い、それはいずれ自分に返ってきます。そうすると自分も嬉しくなって、また相手に自分の気持ちを伝えたいと思い、相手のことをもっと知りたいという気持ちも起こってきます。
 実際にはこのような、気持ちのキャッチボールが絶えず行われるというわけではありません。相変わらず、理解できないと思うことも多いのですが、それでもこういうキャッチボールが何度か繰り返されると、相手のことを大事にしようという気持ちが起きてきます。
 
 僕には君が何を考えているかがわからない。
 たぶん君も僕が何を考えているのかわからないと思う。
 でも僕たちは一緒にいることができる。
 君が望むことを、僕は受け入れてみようと思う。


(参考文献)
「街場の現代思想」 内田樹 文春文庫
「村上春樹、河合隼雄に会いにいく」 河合隼雄・村上春樹 新潮文庫
by t_am | 2008-04-19 08:06 | 心の働き