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カクレ理系のやぶにらみ

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時間のある方はお読みください。軽い気持ちで読み始めると頭が痛くなります。

行政の過剰な介入

 神奈川県が、県内全域で飲食店を含む不特定多数の人が出入りするほぼすべての施設での禁煙を定めた条例案を発表しました。受働喫煙を防止するというのがその理由だそうです。当然飲食店業会の反発が予想されますが、「小さい店はなかなかできないので、広さによる適用の除外も今後の課題」と松沢成文知事は述べています。



 これが公道や公園などの公共の場所であれば、まだやむを得ないと思います。また、ショッピングセンターや駅などの私的施設が自主的に決めたことであれば、それも仕方ないと思います。
 けれども、飲食店やパチンコ店という私的な空間に対しても、行政が禁煙を強制するという措置には納得がいきません。こういうことは市場に任せておけばいいことであって、行政が介入する必要はないと思うからです。
 飲食店やパチンコ店が、自分の店の中を禁煙にするのか喫煙可能にするのか、あるいは完全分煙にするのかは、経営者が決めることであり、その当否を決定するのは消費者のはずです。
 あの店はたばこ臭いから行きたくないと思う人は足を運ばないでしょうし、その一方で、安心して喫煙できるからという理由でその店を訪れる喫煙者もいると思います。
 その結果は、店の業績として現れます。
喫煙可能とすることで却って客足が遠のいて業績が悪化すれば、経営者としては禁煙に踏み切らざるを得なくなります。業績が変わらなければ、消費者(それも限られた)は喫煙できる環境を望んでいるということになります。
 神奈川県の誤謬は、飲食店やパチンコ店というものは不特定多数の消費者が訪れることによって経営が成り立つと誤解しているところにあります。しかし、実際には何度も通ってくれるリピーター(これを固定客といいます)によって、その店が支えられているというのが実体です。だから商人は、自分の店の固定客になって欲しいので、すべからくお客を大切にするべし、という姿勢を打ち出すのです。
 神奈川県がこういうことを考慮せずに、飲食店やパチンコ店も含めた不特定多数の人が出入りする施設の全面禁煙を決めたのは、松沢知事ががん対策として、昨年4月の知事選のマニフェストに盛り込んだのが発端とされています。(毎日jp 平成20年4月15日 http://mainichi.jp/select/today/news/20080416k0000m010122000c.html)
 神奈川県民が選んだ知事の政策に、他県の住民である私が異議を唱えるのもどうかと思いますが、今後はこの条例案を議会がどう扱うかに注目したいと思います。

 私たちの社会には色々な人がいます。善人もいれば不愉快な隣人もいます。自分が属する社会を維持するのに、個人が受け入れなければならない条件は、たった一つ、他人と共生していかなくてはならないということです。
 隣人が自分に不快をもたらすからといって、強制的暴力的にこれを排除する(皆で虐める、危害を加える、生命を奪う)ことを認めれば社会はたちどころに崩壊します。なぜかというと、誰もが、誰かに対して不愉快な思いをさせているからであり、誰もが排除される側になるという可能性を持っているからです。
 もしかしたら自分は誰かに不愉快な思いをさせているかもしれない、という自覚があったからこそ、私たちの親や祖父たちは「人様に迷惑をかけてはいけないよ」と教えてきました。
 条例によって受働喫煙を根絶しようという考え方は、ガン対策といっていますが、それならばタバコの製造・販売を禁止する方がはるかに即効があります。それをしないのはタバコによる税収を失いたくないからであって、受働喫煙を防止するという口実で、世間受けを狙った政策を提案しているわけです。
 この条例案が抱える問題は、あまり指摘されませんが、自分に不快をもたらす存在を法や条例によって取り締まるべきだという思想を生み出す可能性があるということです。
 いつか自分が法や条例によって取り締まられる立場になるかもしれないということに思いが及ばないという点で、実に自己中心的な発想であるということになります。
 公共の場で受働喫煙を禁止するのは構いません。しかし、飲食店という(他人の)私的空間にまであなたの考えを強制するのはやめていただきたい、と申しているのです。
 私は、他人が所有する空間内でのルールに対してとやかく口出しするつもりはありません。私にとって快適なところだと思えば、定められたルールに従ってそこに入れてもらいますし、気に入らなければ足を踏み入れないというだけのことです。
 人間が社会の中で、他人と共生するというのはこういうことであると思います。他人の私見の及ぶところでは、その人が決めたルールを尊重するというのが大人の態度でしょう。
 自分の快不快を他人に押しつけるのは、その社会に暮らす資格の有無を決める決定権は自分たちが占有し、他人には口出しさせない、と宣言することにつながっていきます。
 この条例案の作成を指示した松沢知事は、おそらくこういうことを考えたことがないのでしょう。それが正しいことであれば、行政が介入して強制的に実行させても構わないという思想の持ち主であろうと思います。
 
 スターバックス・コーヒーでは店内を禁煙にしています。
 以前この会社の人から話を聞く機会があって、その際に、なぜスターバックスでは店内を禁煙にしているのかを聞いたことがあります。
 そのときの答えは、スターバックスのコンセプトは「サード・リビング」であり、お客にくつろいでもらえる空間を提供することを目指しているというものでした。ですから、スターバックスの店内には長時間坐っていてもいいように座り心地の椅子が(全部ではありませんが)用意されており、どれだけ長い時間いてもらっても一向に構わない、ともおっしゃっていました。
 現に、スターバックスの店内でコーヒーを飲みながらレポートを書いている学生を見かけたことがあります。この会社のすごいと思うところは、そういう使われ方をされるのを嬉しいと思っているところです。(普通はお客をできるだけ開店させるために、あまり長居してもらっては困ると考える喫茶店も多いのですが)。
 だからスターバックスでは店内を禁煙にしているわけです。タバコを吸いたい人は、他人の迷惑にならないように外で吸ってくださいと、安っぽい灰皿が屋外に置かれています。
 こういうルールは、この会社が独自に決めたものです。それが嫌な人はスターバックスに行かないでしょう。スターバックス。コーヒーの経営陣はそれでも構わないと割り切って考えているようです。

 このように、私的空間にルールを設ける場合、その権利は本来その空間の所有者・管理者に帰属します。
 亡くなった今東光さんは、貫首を務める中尊寺を全面禁煙にしました。その理由は、歴史的財産である中尊寺を火災から守り、後生に残すためには禁煙が必要であると判断したからだと、その著作「極道辻説法」の中で語っていました。
 このようにこれらの施設のルールを設ける決定権は行政にあるのではありません。彼らに決定権を与えるということは、ろくでもないことになるというのは歴史が証明しています。

 喫煙者には喫煙するという権利がありますが、他の権利がそうであるように、喫煙権もまた制限される場合があります。
 駅やショッピングセンターという、不特定多数の人が訪れる公共性の強い施設を禁煙としているのはやむを得ない(火災予防という狙いもあります)と思います。最近は喫煙室を設けて、喫煙者の存在も容認するという姿勢をみせているショッピングセンターも登場しています。
 意地の悪い見方をすれば、これだけ広い施設なのだから全館禁煙にしたのでは喫煙者(家族連れで来る場合のお父さん)に敬遠されかねないという心配があって喫煙室を配置したことと思いますが、たとえコストがかかっても、異なる人間も受け入れるという姿勢はとても健全であると思います。
 その正反対の考え方の会社がJRです。
 ご存知のようにJR東海と西日本を除く、JR各社は列車内を全面禁煙にしています。以前は喫煙車両を設けて分煙を行っていましたが、隣接する車両にタバコの臭いが流れていくという理由で、全席禁煙としました。
 私はJR東日本しか知らないのですが、この会社は以前から客を客と思っていないところがあり、車内を全面禁煙にした本音は、どうせコストを優先して考えた結果だろうと勘ぐっています。
 この会社では、以前、長距離列車内では車内販売をしていながら車内のゴミ箱を使用禁止にするという不思議なことをしていました。テロの防止という理由(地下鉄サリン事件の直後、全国の駅でゴミ箱が使用禁止にされたことがあります)を説明していましたが、それよりもはるかに利用客の多い東海道新幹線では、車内のゴミ箱を使用禁止にするということはしていませんでした。
 そういえば、東北新幹線と上越新幹線で使われているMAXという2階建車両の窮屈なことといったらありません。自由席車両の二階席は何と6人掛け(3列×2)のベンチシートで、リクライニングができません。運悪く真ん中の席に座ろうものなら、とても窮屈な思いをすることになります。1階席は2列、3列シートなのですが、窓側は壁が湾曲しているので足下が窮屈です。東海道新幹線と比べると前の席との間隔は明らかに狭く足も伸ばせません。ひょっとすると椅子の幅も狭いかもしれません(測ったことはないので、違っていたらゴメンナサイ)。
 ですから、JR東日本の列車には本当は乗りたくないのですが、代替手段がないので、JRが決めたルールに従いながら嫌々乗っているのです。
 ついでに書いておきますが、代替輸送機関がないときのJRの運賃設定はあまりにもひどいと思います。私鉄の路線が並行して走っている区間では私鉄にあわせて安い運賃設定がされていますが、私鉄がなくなるととたんに高くなります。(三宮-大阪間のJRの運賃は390円ですが、ほぼ並行して走っている阪神電鉄の三宮-梅田間は310円です。ところがJRの三宮-新大阪間の運賃は540円となります。新大阪は大阪の隣の駅なのにこの料金差はひどいと思います。)
 
 長々と書いてしまいましたが、取引相手に代替え手段を選択する自由がないとき、私たち人間は徹底的にその足下を見るということを行います。銀行からお金を借りるとき、アパートを借りるとき、不況下で就職するとき、いずれも立場の弱い方が不利な契約を結ばざるを得ません。嫌ならよそへいってくれとといわんばかりの姿勢がありありと感じられて不快なのですが、皆さんも経験がおありでしょう。
 同じことが市町村や国の単位で行われたとき、その社会は非常に息苦しいものになってしまいます。憲法では居住地選択の自由が保障されていますが、自治体の政策が気にくわないからといって、そうおいそれと引っ越しをするわけにもいきません。これが国の政策が気にくわないということであれば、もはや亡命するしかありません。
 戦前の日本はそういう息苦しい国だったことがあり、その代償として多くの人命と財産が失われました。そういう国にしたのは、一部の権力者と軍部によるのであり、一般国民には責任はなかったとする考え方があって、私はこれを否定するものではありません。思うのは、「お上のすることだから」と、一般国民が責任を負わないという体質があったからああいう国になってしまった、ということです。
 神奈川県の取り組みは、これを見過ごしたのではまた嫌な時代が到来する嚆矢となるような気がしてならないのです。
by t_am | 2008-04-18 21:51 | 社会との関わり