セイヤさんへの手紙 清算されていない記憶
人は(程度の差はありますが)、それぞれ清算されていない記憶を持っているのではないかと思います。それは心の傷といいかえることも可能です。
生きている限り、心に傷を受けないで済ますことはできません。
自分が被害者である場合はもちろんですが、意図せずに加害者になってしまった場合も心に傷を負うことがあります。
そして、それが相手の人生を変えるほど大きな出来事となってしまった場合、心に大きな傷となって残ります。(残らない人もいますが、その場合、自分にとって大切なものは何かという座標軸が僕とは異なっているということになります。どの座標軸を受け入れるかという問題はありますが、どれが正しいということはいえません。)
心が受けた傷の痛みは、時間が経つにつれて少しずつ薄れていきます。ちょうど傷口にかさぶたができるように。
痛みが薄れたとしても受けた傷の記憶は残っています。
ですから、かさぶたが剥がれることがあるように、心が受けた傷もふとしたきっかけで露わになることがあります。
もしも、自分にとって大切な人がそのような傷を負っていたとしたら、一体自分に何ができるか考えてみましたが、できることは(当人が望めばですが)一緒にいてあげることくらいしかないと思いますし、たぶんそれが最良の方法だとも思います。。
冷たいいい方になりますが、このような傷は自分自身が清算する以外解消する術はないと思うのです。
キリスト教徒ではなくそれほど熱心な仏教徒でもない僕たちは「懺悔」という清算の手段を持ちません。したがって、自分が加害者になってしまった場合、それを清算するには、まず相手に許してもらうということを考えがちです。
しかし、相手だって早く忘れてしまいたいと思っているかも知れません。そんなところにのこのこと現れたのでは、火に油を注ぐようなものです。不幸にして相手が亡くなっていることも考えられます。ですから現実には、許してもらいたくても許してもらえないことが多いのです。
では、どのように考えたらよいのか?
僕なりの解答は、相手が自分を責める限りそれを甘受する、というのが第1。次になすべきことは、一人を不幸にしたのだからその分できるだけ多くの人に優しくする、ということだと考えます。
はたしてそれが「清算」といえるのかどうかはわかりません。しかし、自分が何者であるかをはっきり認識しない限り何も変わらないと思うのです。
自分が被害者となって心に傷を負った場合、どうすればそれを「清算」できるでしょうか? これも「たぶん」としかいえないのですが、たった一人でもいいから自分を大切に思ってくれる人がいて、自分も同じようにその人のことを大切に思っている場合、そのことに気づくことが自分の傷を埋めることにつながるだろうということはわかります。(何も恋人や配偶者だけではありません。友人や肉親、先輩、後輩などもその候補となります。)
自分が望めば嫌な顔をせずにそばにいてくれる人。Stand by me. といえる人。そのような人を持つことはやはり幸せなことなのだと思います。