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カクレ理系のやぶにらみ

tamm.exblog.jp

時間のある方はお読みください。軽い気持ちで読み始めると頭が痛くなります。

燃料に依存する文明

 イラク戦争以来ガソリンの値段が上がり続けています。価格を押し上げている要因の一つは中国における需要の急増にあります。今後はここにインドが加わってくるものと思われます。以前であれば、需要が増えても新しい油田が発見される、あるいは産油国が増産することによって供給が増えるという、需給バランスを保つメカニズムが働いて価格はそれほど大きな変動を示すということはありませんでした。けれども今日の状況はそうではありません。じりじりと上がり続けてきています。値段が下がらないまでも、せめてこのまま価格が安定してくれるといいのですが、もしも今後も価格が上がり続けるようであれば心配されることがあります。




 それは、もはや需要と供給のバランスが崩れてしまっていて、調整しようとするメカニズムが機能不全に陥りつつあるのではないか? ということです。つまり供給が需要に追いつけないという事態(生産能力の限界を超えている)が既に到来しているのではないかというということが心配されるのです。ただし、需給バランスが崩れている原因として、意図的に生産量が調整されているということも考えられますし、石油メジャーによるカルテルによって価格がつり上げられて来ているという可能性も否定できません。

 今の状況が石油の生産能力の限界以上の需要があると仮定すると、新しい油田が発見されない限りこのギャップは解消されません。むしろ油田が枯渇して生産量が減るたびにギャップは拡大していき、その都度価格が上昇するという事態を招きます。そして最終的に石油資源が地球上から枯渇するという日が訪れることになります。それがいつになるのか、はっきりしたことはわかりません。

 歴史上様々な文明が登場しては衰退していきました。文明社会は食料と燃料によって維持されています。青銅器時代、最初に鉄を使い始めたのはアジアとヨーロッパを結ぶアナトリア半島におけるヒッタイト王国(紀元前17世頃から紀元前12世紀頃)ですが、これが滅んだのは内紛による深刻な食糧難による国力の喪失だったとされています。
 18世紀にイギリスで始まった産業革命は、別な言い方をすれば石炭という化石燃料に支えられた内燃機関の登場がもたらした新しい文明であるといえます。石炭はその後石油に取って代わられましたし、これに伴って蒸気機関からガソリンエンジン・ディーゼルエンジンなどの内燃機関に替わってきましたが、系統としては同一の文明が継続しているといえます。つまり、(今更いうまでもないことですが)、現代社会は石油という化石燃料によって支えられているということです。

 明日は今日の続きであることは誰もが認めることです。そして、それゆえに今の状況がこのままずっと続くのだということを誰もが思い込んでいる、そのことが問題なのです。

 今後石油の供給が先細りになり、ついには地球上からすべての石油がなくなってしまったときにどうなるかを考えてみましょう。
 まず、内燃機関(ガソリンエンジン、ディーゼルエンジンなどエンジンの内部で燃料を燃焼させて運動エネルギーに変換する方式。蒸気機関はエンジンの外部から熱を加えるので外燃機関といいます。)はすべて動かなくなります。ということは自動車、バイク、建設機械・農業機械、飛行機、帆船と手こぎ以外の船が動かなくなるということです。したがって移動と輸送のための動力機械として残されるのは、蒸気機関車・蒸気自動車(炭や薪を燃やします)、電車・電気自動車、自転車、リヤカー、一輪車、牛馬、帆船・オールでこぐ舟くらいになります。こうなると現在の流通機構は成り立ちません。当然姿を消す小売店・問屋が出てくるでしょう。
 製造業の現場でも、石油に依存している工場は操業できなくなります。  
 また、建設現場では機械が使えなくなるので、シャベルとモッコの時代に逆戻りします。ヨイトマケと呼ばれるやり方が復活しますが、鉄筋・鉄骨造りの大型建築物・高層建築物を建てることはできなくなります。
 さらに農業においては、人や牛馬を使うしかないので、農業者一人あたりの耕作可能面積はたかがしれており、農業従事者の高齢化が解消されない限り、耕作放棄される農地が全国の至る所で見受けられることになり、食料生産量は大幅に減少します。しかも海外からの食料輸入も期待できません。(なにしろ船や飛行機が動かないのですから。)
 次に電気エネルギーですが、風力と水力発電所以外の発電所は無力化します。原子力発電所は、当面の間稼働することはできるでしょうが、燃料である濃縮ウランの生産がいつまでも可能であるとは思えません。したがって発電量は大幅に下がることになり、おそらく優先的にインフラ(上下水道、交通機関など)を稼働させるための動力源に割り当てられることになるでしょう。次が工場ということになり、一般家庭に供給される電力は後回しにされることになると思います。
 暖房や煮炊きのための燃料としては、木炭や薪などの木を原料にしたものに限られるようになってしまいます。当然森林の伐採が至る所で行われることになるでしょう。そうすると、洪水の心配も出てきます。
 石油が全くなくなった社会というのは、江戸時代の末期をイメージしていただくとわかりやすいでしょう。当時の日本の人口はおよそ3000万人くらいだったかと思います。これは、日本の国土という自然が養うことのできる適正人口がこれくらいしかないということなのです。これくらいの人口であれば、燃料や材料とするために木を伐採しても、日本のように高温多湿の気候の国土では森林の回復は可能です。けれども人口が増えすぎると、伐採と回復のバランスが崩れてしまうことになり、あちこちで禿げ山だらけという状態になってしまいます。そして木材という燃料・材料の調達ができなくなる結果、その分人口が減ることになります。人口の減少は木材に対する需要が減ることを意味するので、今度は回復が需要を上まわるという自然界のフィードバック機構が、ゆっくりと作用します。
 このように、人類が生存していくために行う自然破壊と自然の持つ回復能力とが平衡するところが、地球という自然が養うことのできる人口の上限となります。

 こうなると次の関心事は、今日の日本は1億2千万人の人口があるわけですが、すべての石油が枯渇する未来のXデーの時点で人口が何人になっているか、それがおよそ3000万人に減少するまでにどのようなことが世界的規模で起きるのか、ということです。 最悪のシナリオは、近未来にXデーを迎えてしまうという場合に起こります。日本の場合、3000万人しか生存できない自然環境に1億2千万人が住んでいるのですから、燃料を獲得するための自然破壊と食料を手に入れるための争いが起こります。そこに大雨でも降れば大洪水となります。多くの人命が失われ、多数の農地が被災することで食料の生産量はさらに減ることになります。多くの企業が倒産し、大量の失業者が街に溢れるという状況が到来する中で、都会で暮らす給与生活者とその家族という、食料と燃料の生産手段を持たない層はあまりにも無力です。こうして日本全体で4人に1人しか生き残れないというサバイバルが行われることになります。その過程は戦争よりもはるかに凄惨です。野坂昭如さんの「火垂るの墓」がアニメ映画化され、毎年のようにテレビ放映されていますが、あの主人公の兄妹のような境遇の子供がもっと大量に生み出されるのです。

 以上は最悪の場合のシナリオであり、実際にはもっとゆっくり変化が進むものと思うのが妥当なところだと思います。(あるいは思いたい?)

 今後何年間かの間に、バイオマスエタノールのような代替え燃料の開発・利用も進むでしょうが、完全に石油に取って代わるということができるでしょうか?(バイオマスエタノールには、ガソリンと比べると熱量が小さいという欠点があり、ある程度ガソリンと混合しないと現在のエンジンに用いることはできません。また燃料供給装置のゴム製品やプラスチック製品を腐食させやすいという欠点もあります。)
 代替え燃料が石油に取って代わらない限り、需要が常に供給を上回るので、石油の価格は上がり続けることになります。この価格上昇を吸収しようという努力(あるいは取引先への押しつけ)が行われますが、それにも限界があり、吸収しきれなくなると、原油価格の上昇分が販売価格に上乗せされることになります。すると需要がさらに減るということが起こります。なんとかしてガソリンを節約しようという動きが起こるわけです。ところが、しばらくするとまた石油が値上げされます。すると再び需要が減るということが起こり、以後このサイクルが定着していくものと想像されます。この過程において倒産する企業、それによる失業者が増加していき、こうして社会は徐々に活気を失っていきます。
 この間に、少子化が改善されることは考えにくいことです。さらに、活気を失った社会では従来のような医療や介護サービスを提供するだけの余力も失われていきます。同時に、教育・治安・交通・衛生などの公的サービスのレベルも低下するので、事故や犯罪、疫病の発生率は増加することになり、死亡率の上昇につながります。こうして人口は徐々に減っていきます。

 このようなサイクルの中で、社会全体で負担しきれなくなるデッドラインまで石油製品の価格が上がったときに、経済は崩壊します。(個人的なレベルでは、ガソリン価格が今の3倍になったら自動車による通勤は不可能になると予想されます。)
 おそらくそうなる前に、戦争が勃発すると思われます。理由は石油を確保するというためです。そのとき、どこの国の世論も戦争に反対することはないでしょう。食卓につく人数が減れば、それだけ自分の取り分が増えるという論理から、むしろ政府は生ぬるいという批判の方が優勢になっていると思います。なんだか戦前の日本を思い出しますね。
 国によっては、自国が開発した核兵器をちらつかせ、石油を優先的によこせといってくるところも出てくると思います。あるいは、油田地帯の安全を保証するため、という口実で派兵に踏み切る国も出てくるでしょう。そうなれば、これに同調する国、対抗して独自に派兵してくる国なども出てきます。局地的な紛争が起こることは間違いないところでしょう。多少の小競り合いの後は、おそらく戦争を拡大しないようにするために、軍事的大国がそれぞれ縄張りを認め合って油田地帯を実効支配することになると思われます。収まらないのは産油国の、地元に住んでいる人々です。自分たちの土地に他国の軍隊がやって来て、我が物顔にふるまうのですから。この人たちはテロに与する側にまわり、その結果テロの国際化に拍車がかかり、世界をいっそう混乱に陥れることになります。もはや世界中のどこにも安全なところはありません。「テロに対する戦い」も行われますが、「憎しみの連鎖」を強固にする結果をもたらします。結局、こうしたことも世界的規模での人口の減少につながります。(軍事的大国が世界の油田を分割支配するという状態は、椅子取りゲームに似ています。椅子をとれなかったプレーヤーは脱落していくのが椅子取りゲームのルールです。ところがこの場合、最終的に椅子は一つもなくなってしまうというのが皮肉なところです。)
 また、数年おきに発生している地震や洪水という自然災害に対して、復興に必要な石油エネルギーが不足しているので、復興作業はなかなか進みません。もしかすると既存のインフラ(橋、堤防、水路、道路、上下水道など)のメンテナンスまでなおざりにされているかもしれません。これらの状態は社会の生産力をさらに低下させる要因となり、人口減少の流れを加速させます。
 そして、石油価格がデッドラインを超えた国から順に、経済が崩壊し、やがて石油が枯渇するXデーを迎えることになります。

 世界的規模で人口が増えるのは、食料と燃料がそれを可能にしているからで、この2つが不足すると、人口を維持することすら難しくなります。こうして人口が減ることで、人類が消費する食料と燃料の総量も減ることになります。そして自然が供給できる食糧と燃料の総量とが均衡するところまで人口が減ることで、初めて安定化することになります。 日本の場合、輸出入がほとんどないものとすると、このラインは江戸時代末期の人口であるおよそ3000万人というふうに想定するのですが、これくらいが、日本の自然が養ってくれる上限の人口であると思うのです。これ以上の人口を維持しようとすると、どこか国外から食料と燃料を調達しなければなりませんが、おそらくそれは無理でしょう。
 たぶん、Xデーを迎えてから人口が3000万人で安定するまでに、長い時間がかかると思います。当面人口の減少に歯止めがかからず、3000万人をはるかに割ったところでようやく止まり、それからゆっくりと平衡点である3000万人にまで回復するものと予想されます。

 今回の考察はあまりにも暗いので、我ながらどうかと思うのですが、現代社会が石油という限られた資源の上に成り立っている以上、その状態が永遠に続くということはありません。必ず「終わり」はやってきます。その後には上記のような「混乱の時代」が到来します。イラク戦争をきっかけに始まったガソリンの値上がりが「終わりの始まり」でなければいいのですが・・・

 人類が「終わり」を回避する方法はただ一つしかないと思います。それは、石油の代替えとなる、太陽熱のように無限に供給可能なエネルギー源を活用するか、バイオマスエタノールのように農作物を原料とする燃料(これならば将来に渡って生産量の維持が可能です。ただし、農作物の作付面積は有限であり、バイオマスエタノールを生産するために作付面積を割り当てれば、その分食料の生産量は下がってしまうというジレンマがあります。)を商業ベースで実用化することです。
 実際には、これらの代替えエネルギーの実用化が進められ、上記のような「極めて暗いシナリオ」が実現することはなければいいというのが私の願望なのですが、それでも地球という閉じられた環境が養える人口は今よりも少ないところが上限となるのではないかと思うのです。
  
by t_am | 2007-09-02 20:07 | 科学もどき

by T_am