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カクレ理系のやぶにらみ

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時間のある方はお読みください。軽い気持ちで読み始めると頭が痛くなります。

自民党の改憲草案を読む(6) 第三章 国民の権利及び義務 その1

 この章には、これを書いた人たちが特権意識の持ち主であることを感じさせる文章が並んでいます。以前も述べた、国民と元首である天皇の間にいる人たちが、上から見下ろす視点で書かれたものが多いのです。こんなものを読むのはばからしいのですが、我慢して読んでいます。
 この草案で新たに追加または変更された文言について、順番に見ていきましょう。今回はその1回目です。

1,第十一条の一部をさりげなく変更
(日本国憲法) 
 国民は、すべての基本的人権の享有を妨げられない。この憲法が国民に保障する基本的人権は、侵すことのできない永久の権利として、現在及び将来の国民に与へられる。

(草案)
 国民は、全ての基本的人権を享有する。この憲法が国民に保障する基本的人権は、侵すことのできない永久の権利である


 下線部が変更されているところです。一見すると、たいした違いはないようですが、日本国憲法では、「享有を妨げられない」とあるのを、草案では「享有する」とかなり弱い表現になっています。これは、享有するけど制限される場合もある、といいいたいからでしょう。
 2番目のポイントは、日本国憲法にある「現在及び将来の国民に与えられる」という文言が削られているところです。「将来の国民に与えられる」というのがポイントで、これを字義通りに解釈すると、基本的人権に関する憲法の規定は、これをなくしたり弱めたりするような改正をすることはできないという意味になります。
 一方、草案では「現在及び将来の国民に与えられる」という文言をとってしまっているので、その憲法に書かれているものが基本的人権であって、これを侵すことはできないという解釈が成り立ちます。すなわち憲法改正によって、基本的人権も変わってくるということになるのです。
 けっこう、大事な問題がさらりと変更されていることがおわかりいただけることと思います。


2.第十二条の一部を訂正
(日本国憲法)
 この憲法が国民に保障する自由及び権利は、国民の不断の努力によつて、これを保持しなければならない。又、国民は、これを濫用してはならないのであつて、常に公共の福祉のためにこれを利用する責任を負ふ。

(草案)
 この憲法が国民に保障する自由及び権利は、国民の不断の努力により、保持されなければならない。国民は、これを濫用してはならず、自由及び権利には責任及び義務が伴うことを自覚し、常に公益及び公の秩序に反してはならない


 下線部が訂正されたところですが、ポイントは2つあります。

(1)国民に対し、自由及び権利には責任及び義務が伴うことを自覚せよと明記したこと(2)自由及び権利は、公益及び公の秩序に反する場合制限されると規定したこと


 まず、(1)の自由及び権利には責任及び義務が伴うという規定ですが、一般的な権利(というよりは取引)と基本的人権とを混同しているのではないかと思います。
 通常、ものを買うときは、自分が欲しいものを受け取る権利が発生しますが、それに見合う対価を支払う義務が生じます。売り手は、代金を受け取る権利が発生しますが、ものを引き渡す義務だけでなく、その品質に対する責任を負うことになります。
 行きすぎた権利意識といわれることがありますが、それは買い手が横暴に振る舞う場合(クレーマーもこの類です)や、公的なサービスの受け手が自分はお客さまであると勘違いするケース(学校や教師に対するモンスター・ペアレントがそうです)を指しているのではないかと思います。

 一方、基本的人権の代表例でである生存権(健康で文化的な最低限度の生活を営む権利、憲法二十五条)について考えてみると、生存権にどんな責任や義務が伴うというのでしょう? 学問の自由(憲法二十三条)や思想・良心の自由(憲法十九条)、参政権(憲法十五条)も同様です。
 どうやらこの変更は、なんとなくわかったような文言を並べることで、国民に対し、基本的人権を制限する場合があることを認めさせようとするものではないかと思います。
 このように、まるで見当違いのことを持ち出して、あたかもそうであるかのように説明するという手法は安倍総理が得意とするものであり、自民党が発行している改憲のPRマンガにも見られます。


http://jimin.ncss.nifty.com/pdf/pamphlet/kenoukaisei_manga_pamphlet.pdf


 ちなみに、日本国憲法が第三章で定めている国民の義務とは、子女に対し教育を受けさせる義務(こどもに労働させることの禁止)、勤労の義務、納税の義務の3つです。

 (2)について、日本国憲法では、誰もが自分の権利を無制限に主張した場合必ず衝突が起こるという考えから、権利の衝突を調整するために公共の福祉という概念を定めているものです。たとえば表現の自由とプライバシー権の侵害という問題がこれに該当しますが、実際には判例によって何が公共の福祉になるのかが示されるので、わかりにくいという欠点があります。
 一方、草案に書かれている公益及び公の秩序は公共の福祉とは異なる概念です。公益を別な言葉で表現すると「全体の利益」となります。昔の中学校の教育では、公共の福祉=みんなの利益なのだから我が儘をいうな、みたいなことが教えられていました。
 そのような記憶のある人にとって、草案に書かれていることに違和感を感じることはないようですが、全体の利益が個人の権利に優先するとはどういうことかについて、考えてみましょう。
 たとえば、東京オリンピックのための競技場を新たに建設するために、建設予定地にある住宅や学校、病院を移転させることが決まっても個人は反対することができず、大人しく従わなければならないということです。北京オリンピックのときに、競技場を建設するためにその予定地に住んでいる住民が強制的に移転させられているというニュースが入ってきて、いかにも中国らしいという反応がありましたが、どうやら日本も中国と同じようにしたいというのが自民党のセンセイ方のお考えのようです。
 オリンピックの競技場というのを、原子力発電所、放射性廃棄物保管施設と言い換えても同じことであす。民主的な手続きに則って決まったことなのだから文句をいうな。そんな時代がそこまで来ているように感じます。

 公共の福祉と公益というのは、一見よく似た言葉ですが、その意味することはまるで異なるということは知っておく必要がああります。

 次に公の秩序という文言ですが、これは解釈によっては、デモを取り締まる口実になりかねません。デモを行う際は警察に事前に相談に行き、許可を得てから実施するわけですが、いったん許可を受けたデモであったとしても、公の秩序を乱すと判断された場合は警察が介入することになり、逮捕者が出ることも考えられます。また、デモが大規模なものである場合、治安出動のために国防軍が出動することもありうるというのが、自民党の草案です。

 問題は、何が公益にかなうことなのか、あるいは何が公の秩序に反することなのかが、かなり恣意的に判断されるのではないかということです。
 沖縄県東村高江で起きていること(本土ではほとんど報道されていませんが)を思うと、杞憂ではないように思います。
by t_am | 2016-07-27 20:50 | その他