ブログトップ

カクレ理系のやぶにらみ

tamm.exblog.jp

時間のある方はお読みください。軽い気持ちで読み始めると頭が痛くなります。

改革は善であるか

 自分の考えを整理するために、思っていることを文字にするというのはとても大事なことです。脳というのは、曖昧な情報を扱うのに長けているので、私たちは曖昧な情報であってもそれ以上突き詰めるということに気づかない場合も多々あります。まして、日本語の場合主語がなくても通用しますし、二人称がありませんからどうしても曖昧なままになりがちです。ところが言葉にすることで、自分の考えの曖昧さが排除されることになります。

 前回に続き、今回も他の人の文章を読んで、自分の考えを整理することにしたいと思います。今回取り上げるのは、ちょっと前の情報ですが、1月3日(土)付のBLOGOSに、橋下市長のツイートをまとめたものが掲載されていたので、それを取り上げることにします。

(橋下市長のツイートのまとめ)
http://blogos.com/article/102705/

 ここで、橋下市長が書いていることを要約すると、前半部分は「新年早々悪いことが起こると書いている学者がいるが、そう思うんなら少しでもよくするように行動しないのか。政治家行動するが、学者は嫌み充分に指摘するだけ。国民全部が評論家になったら日本は沈没する。」というものです。
橋下市長がここで書いている「学者」というのは内田樹さんのことで、次のブログがきっかけになっているようです。

(2015年の年頭予言)
http://blogos.com/article/102705/

 両方を読み比べて感じるのは、橋下市長という方は教育者に対し、ほとんど憎悪といってもいいくらいの感情を抱いているのだということです。先ほどの橋下市長のツイートに似た主張に「文句ばっかり言ってないで、対案を出せ。」というものがあります。最初にこれを言い始めたのは小泉純一郎元総理だったでしょうか。
 「たしかにそうだよな。」と思わせる力のある語法なのですが、この意味するものは、「対案を持たない者は意見を言うな。」ということです。つまり相手の反論を封じ込めるレトリックなのですね。

 橋下市長はさらっと書いていますが、政治家というのは有権者が持ち得ない強力な権限を持っています。権限が大きいということは失政や悪政による被害もまた大きくなるということです。ところが、失政や悪政の張本人である政治家が責任をとることはまずありません。せいぜい選挙で落とされて職を失うくらいです。それでも首長の場合は退職金が支給されるわけですし、国会議員の場合は在職10年以上であれば年金が支給されることになります。民間企業ならば、会社に損害を与えた社員は最悪の場合懲戒解雇となり、退職金も貰えないことになります。政治家の失敗は損害の桁が違うと思うのですが、「民間ではあり得ない」ことが、ここでは行われているわけです。橋下市長も、この「民間ではあり得ない」という語法がお好きなようですが、「気に入らなければ次の選挙で落とせばいい」ともおっしゃっているように、ご自分がそれを実践しているというのは皮肉なことだと思います。

 このように、政治家は自分の失敗に対し責任を取ることはない(例外は革命が起きたとき)にもかかわらず、強力な権限を与えられるわけです。万一その政策が失敗したときの被害は国民が被ることになります。見方によっては、その政治家を選んだ有権者が責任をとるといってもよいと思います。ずいぶん理不尽な話ですね。
 そこで、民主主義制度においては、政治家は批判に晒されることに対して文句を言えないということになっています。批判に対し反論する権利はもちろんあるのですが、批判を封じ込めるということは許されません。それが可能なのは王制です。

 もっとも、最近はマスコミも政権に対する批判を遠慮するという風潮が目立ってきています。民放や新聞社は営利企業ですが、公共の財産である電波を使うことが認められていたり、税制上の優遇措置を受けているのは、マスコミの果たす役割が民主主義には不可欠だからです。これは受信料を徴収するNHKでも同じことです。国民から平等に受信料を取っておきながら、政権に都合のいい放送しかしないというのでは詐欺みたいなものであるといわれても仕方ないでしょう。政権の広報機関となるのであれば、特権を返上してからにしてもらいたいと思うのは私だけでしょうか?

 話が逸れてしまいましたが、このような観点から橋下市長の言動を眺めると、あまり民主的とはいえない姿勢が目立つように思えます。
 
 たとえば、さきほどのツイートの中には、「言うだけの面々が偉そうに」とあるように、自分の感情を持ち込んでいます。これは読む人に伝染する効果のある書き方ですから、批判されている相手は(自分が反論できない場所で)どんどん悪者になっていきます。
 冒頭に申し上げたように、教育者に対する橋下市長の憎しみは、同じような思いを抱いている人たちの共鳴を引き起こします。その対象は、一般大衆よりもちょっと恵まれていて、しかもちょっと偉そうに見える人たち(たとえば教師や公務員、市バスの運転手、文楽、学者など)を既得権益にしがみつく悪者と規定しては敵に仕立て上げ、容赦ない批判を浴びせることでそれに同調する人たちを自分の味方につけるというのが橋下市長の一貫したスタイルです。
 そのうえで、改革によってそういう悪を正すのだという論理を展開するのですが、これは「改革=善」であるという私たちの思い込みを利用したレトリックに過ぎません。

 何か問題があるから改革するのだというのは、その通りだと私も思います。けれども、人間は誰でも長所と短所があるように、人間がやること・つくり出したものにも必ず長所と短所があります。ところが、改革をしたがる人たちというのは、現行の制度の短所を並べ立てますが、長所を指摘することはまずありません。同様に改革案の長所を強調しますが短所について触れることはほとんどありません。
 たとえば教育改革や税制価格はしょっちゅう行われてきましたが、その効果が上がっているとはとてもいえないはずです。効果が上がっているのであれば、改革がそれ以上行われることはないからであって。しょっちゅう改革が行われるということは、直近の改革が効果なかったということの証明になると思うのですが、いかがでしょうか?

 橋下市長が行った改革がどのような成果をあげているのか、わたしには詳しいことはわかりません。伝わってくるのは、地下鉄の売店の営業をコンビニに委託したことや、公募によって任命された区長や校長の中に問題を起こして更迭された人がいるということ、あとは大阪市の教員志望者が激減していること、さらには多忙な上に待遇も悪化しているということで教頭のなり手がいないというニュースくらいでしょうか。

市長と教育委員の協議(第3回) 平成26年8月12日
http://www.city.osaka.lg.jp/kyoiku/cmsfiles/contents/0000278/278101/kyougigaiyou0812.pdf


 これまでも改革の好きな政治家はたくさん登場しましたが、不思議なことに警察改革と宗教法人に対する課税を打ち出した政治家は一人もいないというのが不思議です。自浄作用が働かず警察の不祥事が止まないというのであれば、政治家が改革に乗り出す以外にないのではないかと思うのですが、そのあたりどのように考えているのか橋下市長の声を聞いてみたいような気もします。
by t_am | 2015-01-11 14:30 | その他