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カクレ理系のやぶにらみ

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時間のある方はお読みください。軽い気持ちで読み始めると頭が痛くなります。

憲法9条がノーベル平和賞の候補として認定された意味について

 憲法9条がノーベル平和賞の候補になったというニュースがありました。

http://www.47news.jp/smp/CN/201404/CN2014041101001836.html

 もしも受賞が決定した場合、受賞対象者は日本国民とのことです。そうなると嬉しいですね。その場合、授賞式には安倍総理や麻生副総理ではなく、天皇に行ってもらいたいものです。

 ところで、憲法9条といっても所詮は言葉にすぎません。その条文を守る人、守らせる人がいて初めて効力が生じるのです。
 憲法12条の前半には「この憲法が国民に保障する自由及び権利は、国民の不断の努力によつて、これを保持しなければならない。」と書かれています。これは、憲法に書かれていることは理想であり、それが条文として書かれているからといって自動的に保証されるものではないのであって、その理想を実現させるにはわれわれ国民のたゆまぬ努力が求められ、決して座して待っているだけでは手に入れられるものではないのだ、ということを意味しています。
 このように考えると憲法9条が今回ノーベル平和賞の候補として認定されたというのは、条文の規定そのものよりも、戦後70年に渡って日本が戦争を拒否し続けてきたという実績が評価されているのではないかと思うのです。

 戦争放棄というのは一つの理想であって、実際には自衛隊という軍隊がある以上、この規定は現実と食い違っていると思う人も多いことでしょう。それゆえに憲法を改正して、自衛隊を国防のための軍隊として正式に認めてもいいのではないかという考えがあることも理解できます。
 しかし、憲法に掲げる理想が現実と乖離しているから、憲法を現実に近づけようじゃないかというのは本末転倒であるように思います。たとえば、日本国憲法に書かれている理想として基本的人権があります。けれども、この基本的人権ですら無視されたり、踏みにじられているケースはいくらでもあります。だから基本的人権を縮小し制限すれば、憲法を現実に近づけることができるので、憲法改正を行うべきだと主張する人がいたとすると、それはおかしいと思うでしょう?

 憲法を改正するのはどういうときかといえば、社会情勢が変化したことによってこれまで想定していなかった事態が起こり、新たな理想(権利と自由)を追加する必要性が生じた場合に限られるべきです。憲法が国家権力の暴走をくい止める装置である以上、時代の変化に応じて憲法が保障すべき自由と権利が増えていくというのは当然のことです。たとえば、普通選挙の実施や婦人参政権、義務教育(目的はこどもを労働から解放すること)などはその典型的な事例です。

 閑話休題。繰り返して申し上げますが、今回ノーベル平和賞の候補として認定されたというのは、過去70年の間、日本が戦争放棄の条項を守り続けて来たというそのことが評価されたのだとわたしは思います。
 にもかかわらず、安倍政権が解釈改憲を強行したときに、ノルウェー・ノーベル委員会はどう判断するのでしょうか? 常識的に考えれば、解釈改憲によって集団的自衛権を容認した時点で平和賞はアウトになると思われます。
 安倍総理は「積極的平和主義」という意味不明のことをいっていますが、アメリカという世界の警察(ただし影響力は年々低下中)の腰巾着に徹することが世界平和に寄与すると本気で考えているのかもしれません。もしかすると、集団的自衛権を容認することが積極的平和主義の実践につながり、世界の平和に貢献することができるようになるのだ、と国会の場で主張することもあるかもしれません。
 でも、この人の発言というのは常に内向きであり、身内にしか通用しない論理を強引に押し通そうとするんですよね。
by t_am | 2014-04-13 01:10 | その他