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カクレ理系のやぶにらみ

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時間のある方はお読みください。軽い気持ちで読み始めると頭が痛くなります。

日本が「いい国」であるという理由(3)

 日本が「いい国」であるといってよい理由は、自分と異なる人間を認めようという気運が戦後育まれてきたところにあります。そのきっかけは、日本国憲法によって様々な自由が保障されたことであり、個人が自由を追求していくと、どうしても他人の自由と衝突せざるを得ない場合があり、その場合どのように折り合いをつけていくのかという課題をつきつけられたからだといってよいとおもいます。

 もともと、日本の社会は農耕社会が基盤にあるために、黙っていても「同調圧力」が作用するようになっています。というのも、農耕社会では、皆が一斉に田植えをしたり稲刈りをするということをしないと、社会が混乱するからです。他人と同調するのが嫌だという変わり者が現れた場合、程度の差はあれ、何らかの形の制裁が加えられるようになります。いわゆる「いじめ」がそれであり、「無視」と「嫌がらせ」が主な手段として用いられます。(制裁の最終形が「村八分」になります。)
 このような「同調圧力」が働くところでは、その圧力に屈することで平穏な生活を送れるようになります。それはたとえていえば、河の流れに逆らって歩くのか、それとも流れとともに進むのかという違いになります。流れに逆らうよりも、流れに身を任せて進む方がはるかに楽であることは容易に想像つくことと思います。
「空気を読む」という言葉がありますが、これも同調圧力に逆らわず生きていくという処世術をあらわしている言葉です。そのような立場に立てば、場の空気が読めない人間はある種の能力が欠落した落ちこぼれであるということになります。そのような人間は揶揄しても構わないというのが暗黙のルールですから、「KY」-本人にはわからないけれどもまわりの人間にはわかる-という言葉が生まれることになりました。このことは、私たちが農耕社会につきものの同調圧力に対する受容体を備えているということを意味します。

 戦後の高度経済成長を実現させるために、農村部から都市部への大規模な人口移動が行われました。時期を同じくして台頭してきた個人主義は、そうやってできた郊外の新興住宅地の住民の間で浸透していき、かつての農村社会とは異なり、隣人に対してどちらかといえば無関心な社会が形成されるようになりました。それは、言い換えれば、他人に干渉しない代わりに干渉されたくないという思いからきています。
 このような、他人に干渉されたくないから干渉しないという思いがある一方で、どこかで他人と関わりを持っていたいという思いも私たちの中にはあります。この一見矛盾する二つの思いを共存させるための解答が、自分と異なる者の存在を認めるということになるのです。

 そのものが持っている「よさ」というのは、それが失われたときに初めてわかるのかも知れません。
 長引く不況によって、日本人は全体的に貧しくなっていますから、必然的に自由奔放な活動というのはなりを潜めるようになりました。何をしたらいいのかわからないので、これはいいものだと断言できるものを見つけると、みんなが一斉に飛びつくということが行われるようになりつつあります。
 その例が、美談が大きく取り上げられるという風潮であり、あるいは「正義感の発露としての行動」(反原発デモなど)があげられます。ただ、注意しなければならないのは、正義感は憎悪という感情に転化しやすいということです。やっかいなのは、本人にはその自覚がないということであり、自分は正義を行っているのだという揺るぎない自信を持っていることです。
 ひとつだけ、その事例をあげておきましょう。大津市の中学校でいじめによる自殺が起こったときに、ツイッターでは正義感の持ち主が一斉に活動を開始しました。いじめに荷担したとされる生徒の実名だけでなく、その親の氏名や勤務先まで晒す(さらに、リツイートによって拡散させる)ということが行われたのです。しかも、その中にはまったく関係ない人が当事者であると誤って晒されたケースもありました。さすがに、その後は下火になりましたが、「晒し」に加わった人たちの動機は正義感であり、人が一人死んでいるんだから罰を与えて何が悪いという気持ちであったと思います。

 このような行動をする人たちには、自分と対立する者を許さないという共通項があります。興味深いことに、その共通項は、その人たちと意見が対立してる人たちにも見られるのです。つまり、「あいつらの言ってることはとうてい許されるものではない。俺は絶対に許さない!」という気持ちは双方に共通しているということなのです。
 それは、新大久保のデモにおける対立に見られることですし、反原発と原発推進という対立にも見られることです。肝心なのは、いったん感情レベルでの対立に陥ってしまうと誰の得にもならないということです。

 美談に飛びつくということについて、少し書いておきます。

 テレビドラマで人気が出るのは、笑いがあってホロリとさせられ、最後はハッピーエンドに終わるという作品です。松竹新喜劇がそうですし、最近では「あまちゃん」がそうでした。
 「あまちゃん」は私も好きでよく観てたのでわかるのですが、「あまちゃん」に対して批判的なことを言う人がいると、「そんなことないよ」とつい反論したくなります。これは宮崎駿監督の「風立ちぬ」についてもあてはまることで、人間は自分がいいと思っているものを貶されるとつい感情的になるのですね。
 これは感情なので、その発生を止めることはできませんが、意識してその振幅を抑制することはできます。一人や二人の感情であればたいした影響はありませんが、それが大勢のものになるとその影響は無視できなくなります。

 せっかく自分と異なる者も許容しようという気運が育ってきているところだけに、あたかもそれに逆行するかのような動きが見えているのは残念でなりません。
by t_am | 2013-10-25 18:51 | その他