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カクレ理系のやぶにらみ

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時間のある方はお読みください。軽い気持ちで読み始めると頭が痛くなります。

歪んでゆく社会-兵庫県小野市の「小野市福祉給付適正化条例」-

 平成25年3月27日、兵庫県小野市(同年2月末人口は50,241人、世帯数18,984世帯)で、生活保護受給者や児童扶養手当の受給者に対してパチンコなどのギャンブルでこれらの手当を浪費することを禁じた条例が可決されました。このことは新聞やテレビで報道されていますから、ご存知の方も多いのではないかと思います。
 この条例の特徴は、さらに、「市民及び地域社会の構成員の責務」として、次の3つの義務を設けているところにあります。

(1)市やその関係期間の調査に積極的に協力する義務。また、指導者の業務に積極的に協力する義務。

(2)保護を必要とする人を見つけたら、市や民生委員に連絡する義務。

(3)受給している手当をパチンコなどのギャンブルや遊興に使っている人を見かけたら市に通報する義務。

「小野市福祉給付適正化条例」より
http://p.tl/DbLm


 こららの「義務」に対して、兵庫県弁護士会は林晃史会長名での反対声明で「受給者に対する差別や偏見を助長し,受給者の市民生活を萎縮させる」と指摘していますが、条例の提案者である蓬莱務市長は、「小野市のような規模の町では当てはまらない議論で」あり、小野市は、「市内各地に昔からの小さなコミュニティが残っており、『監視』ではなく、地域の絆を深める『見守り』社会を目指している」と反論しています。

(兵庫県弁護士会会長の反対声明)
http://p.tl/rz7o

(こんにちは市長です《当たり前のことを当たり前に》)
http://p.tl/HF9Y

 東日本大震災以降、よく耳にするようになった「絆」という言葉ですが、この言葉には離れがたくつなぎとめているものという意味があって、もともとは牛馬などを引っ張るひもの意をあらわす形成文字なのだそうです。いい意味で使われることが多いのですが、その反面、自由を束縛するものという意味もあります。まあ、程度の問題ということなのであって、まったくダメと決めつける必要もありませんし、かといって手放しで賛成するというのもどうかと思います。ここで、蓬莱市長の用いた「絆」という用法は、言葉の持つよいイメージを借りて論理を補強するというものです。「地域の絆を深める『見守り』社会を目指す」というのは上記(2)のように、本来生活保護を必要とする境遇なのにそうではなく生活に窮している人を見つけたら市や民生委員に通報するという点では必要なことであると思います。しかし、(3)がどうして「見守り」になるのか私には理解できません。
 ネットには、この部分について、「そもそも誰が生活保護を受給しているかわからないのに、受給者がパチンコをしているという通報ができるはずがないではないか」という指摘をされる方もおられました。慧眼であると思います。(3)について、蓬莱市長は、あそこは母子家庭(あるいは父子家庭)だから生活保護をもらっているのではないかという憶測に基づいて、周囲の人たちがその人の生活ぶりを「見守る」社会の到来を期待しているのかもしれません。もっとも、そういう行動は金棒引きを量産することにつながり、地域社会を息苦しいものにすると思います。それも地域社会の絆を深めるという意味において間違っているわけではないのですが・・・


 この条例については、兵庫県弁護士会会長による反対声明が指摘する通りの問題点があると私も思います。
すなわち、

(1)生活保護や児童扶養手当は憲法に定める生存権をすべての国民に対し担保するための制度であって、貧乏人に対する施しではない。

(2)受け取った手当をどのように使おうとそれは本人の自由である。

(3)現行法の下で、市民は、犯罪ですら通報義務を負っていないのに、犯罪を犯したわけでもない受給者の生活状況に対して通報義務を課すというのはおかしい。


 報道によれば、小野市のこの条例案に対し、これまでにおよそ二千件もの意見が寄せられ、その六割が賛成意見だったとのことです。
 こう書くと、小野市の市民から二千件もの意見が寄せられたのかと思いがちですが、実際には全国から寄せられた意見が二千件あって、その中のおよそ六割が賛成というものだったということのようです。
 世論調査の結果を読むときは、常にそうですが、なんらかのバイアス(偏り)がかかっているのではないか? という意識を持つことが大切です。この場合、普通の人は自分の意見をわざわざ市に伝えるようなマネはしないということが考えられます。概して、多数派は沈黙し、騒ぎ立てるのは常に少数派です。ですから、わざわざ市に対して意見を述べるというのは、こういう問題に敏感に反応する人が多いのですから、その意見というのは、どちらかといえば極端なものに近いと考えた方がよいと思います。

 この条例の可決に関する報道のうち、批判的なスタンスをとっているのが毎日新聞ですが、同社が配信した記事にツイートした人たちの呟きの内容を見ていると、条例に賛成している人も多いことに気づきます。

(生活保護費:パチンコなど浪費「通報を」 兵庫・小野市で条例成立 「監視日常化」の懸念)毎日新聞 2013年03月28日 東京朝刊より
http://mainichi.jp/select/news/20130328ddm012010068000c.html

 (ツイートの内容を見るには、このサイトの最初の方にあるツイートボタンの右側にある数字をクリックします。)
 
 賛成している人のツイートを読んでいると、昨年の大阪市の文楽協会に対する補助金の支給問題を思い出します。この問題については、橋本市長のやり方を批判する人と擁護する人が真っ二つに分かれて議論していましたが、基本的な構図はとてもよく似ています。

 文楽=既得権益に甘えて自助努力をしていない。ゆえに、税金を原資とする補助金の投入はおかしい。

 一言でいうとこういう構図ができあがっていました。文楽協会という組織に対する批判がいつの間にか文楽という芸能全体の問題にすり替えられてしまったのですが、生活保護
を巡る議論もまったく同じです。一部の不正受給者があたかも全体であるかのように取り上げられる中で、別に不正受給しているわけでもない人たちが肩身の狭い思いをしなければならない状況に追い込まれています。
 税金から生活保護をもらっているのだからパチンコなどに使うなどもってのほかであるという意見ももっともであるかのように聞こえます。しかし、兵庫県弁護士会が指摘しているように、生活保護や児童扶養手当は憲法が定める生存権を担保するために設けられている制度であって貧乏人に対する施しではありません。施しであれば、やるかやらないか、またいくら渡すかについては自分が自由に決めることができます。ところが、生活保護や児童扶養手当はそうではなく、生存権を国民に担保するための制度なのですから、行政がその運用を恣意的に裁量していいというものではありません。
 生活保護法第60条では(生活上の義務)として、「被保護者は、常に、能力に応じて勤労に励み、支出の節約を図り、その他生活の維持、向上に努めなければならない。」という規定がありますが、受給した手当をどのように使うかはその人の自由に委ねるというのが近代社会の考えかたでしょう。それに対して、税金という公金を投入するのだから、その使い途について口を挟むのは当然という考えかたがあります。これは生活保護に限ったことではなく、昨年の文楽に対する補助金の扱いを巡る議論の中でも言われていたことです。大阪市の橋下市長と日本維新の会の議員がこういう立場に立って発言していたことは記憶に新しいところです。
 生活保護の被保護者が、自分が納めた税金をお金をパチンコに使うのは納得できないというのは心情的にわかる気もしますが、制度のあり方をそのような感情論で変更してよいのかというと、そうではないだろうと思います。
 たぶん、それぞれ自分の善意や正義感に基づいて発言しているのでしょうが、広い目で見れば、善意も正義感も感情のひとつにすぎません。これまでの歴史を振り返ると、感情論が世論を支配するとロクなことがありませんでした。にもかかわらず、国民の感情を刺激するというのは、政治家にとって自分の支持者を増やすために極めて効果的な手法であることも事実です。どうも、この手法を濫用する政治家が増えてきているように思えてなりません。
 現在政治の世界で第一線にいる人たちというのは、一部の例外を除けば、50歳代の後半以降の人たちです。その人たちは、どちらかというと老い先短い人たちですから、国民の感情を刺激することによって国の仕組みを変えた結果がどうなるのかを最後まで見届けないうちに墓場に行ってしまう人たちが多いわけです。つまり、笛を吹いて踊らせた人たちは途中で退場してしまい、それに踊らされた若い世代の人たちが最後まで残ってそのツケを支払うということになります。

 小野市の条例は、具体的には、生活保護や児童扶養手当をパチンコなどのギャンブルに使ってはならないというものですが、言い換えると、国民の大多数が不適当だと思えば、個人の権利を制限しても構わないという社会にしましょうというものです。そこで思い出すのは、「欲しがりません。勝つまでは。」という戦前の標語であり、武器をつくるために制定された金属回収令です。お寺の鐘までもが対象になったそうですから、まさに世も末というところまで行き着いたと思います。このように、かつて、個人の権利を制限し、その財産を国が奪うことが正当化された時代がありました。よく考えると、小野市で可決された条例は、戦前の日本社会の再現につながる道であり、同時に、先の戦争で軍人と民間人をあわせて三百万人を超える犠牲者と引き替えに手に入れた戦後の社会を遺棄するものでもあります。しかしながら、そのような動きをみせているのは小野市だけではありませんし、多くの人が賛成する世の中になりつつあるように私には思えます。
by t_am | 2013-03-31 18:56 | その他