人気ブログランキング | 話題のタグを見る
ブログトップ

カクレ理系のやぶにらみ

tamm.exblog.jp

時間のある方はお読みください。軽い気持ちで読み始めると頭が痛くなります。

体罰についての様々な意見

 大阪市立桜宮高校のバスケットボール部のキャプテンが、顧問による体罰を苦にして自殺した事件をきっかけに様々な人が意見を述べています。体罰=暴力であるとして否定する人もいれば、体罰と暴力は違うとして容認すべきだという意見を表明する人もいます。
 この種の問題には唯一の正解というものはなく、時代背景や組織の性質が異なれば、当然体罰に対する考えかたも異なることになります。ある時代のある組織では体罰が容認されるということもあるでしょうし、時代が変化することで、同じ組織で会っても体罰が否定されるようになることもありうると思います。逆に、未来において、体罰が復活することも可能性として否定できません。
 要は、いろいろな意見を聞いた中で、自分がどの意見に共感するかということが大切なのだと思います。というのは、この種の問題は、簡単に結論を出す(あるいは付和雷同する)というのが最も危険なことだからです。まわりくどいかもしれませんが、自分はこう思うというものを詰めていくことが必要であり、そのための判断材料としていろいろな人の意見を聞き、自分が共感できる意見を拾い上げていくことで自分の考えがまとまっていくというプロセスを省略することはできません。
 個人の感想が収斂されて世論を形成していくわけなので、自分の意見を持つというのは案外大事なことなのだと思います。


1.体罰に否定的な意見
(「体罰は自立妨げ成長の芽摘む」桑田真澄さん経験踏まえ)朝日新聞デジタル
http://www.asahi.com/national/update/0111/TKY201301110314.html

 ご自身の経験から、体罰は「子どもの自立を妨げ、成長の芽を摘みかねない」という指摘をされています。


(平尾剛さんの連続ツイート)2013/1/16 の日付のものです。
https://twitter.com/rao_rug

 「体罰や罵倒によるスポーツ指導には一定の効果がある」と認めていますが、同時に「だが、競技力の向上と引き換えに失うものは限りなく大きい」という指摘もしています。


(「あってはならないし、なくなりもしないものについて」)日経ビジネスオンラインに掲載された小田嶋隆さんのコラム
http://business.nikkeibp.co.jp/article/life/20130117/242405/

 「体罰は、あってはならないものだし、現場が根絶を目指して努力すべき対象でもある。が、現実に、体罰はあらゆる場所に遍在している。」という指摘が鋭い。そのうえで「体罰が蔓延している現状を追認する形で、それを合法化するのは、スジが違う」と述べて、体罰を容認する意見に対する批判を展開しています。
 なお、「現職の教諭がほとんどまったくこの議論に参加して来ない」という指摘には考えさせられました。
 
2.体罰に肯定的な意見
(「義家政務官「体罰ではなく暴力だ」 自殺の事実解明指示」)朝日新聞デジタルに掲載された文科省の義家弘介政務官の意見
http://www.asahi.com/national/update/0115/OSK201301150014.html

 暴力を伴う体罰を否定する一方で、暴力を伴わない懲罰的な体罰は「あり得る体罰」ではないかと意見を表明されています。


(石原慎太郎「子供の不良性は個性だから抑制すべきではない」)昨年の週刊ポストに掲載された石原慎太郎前都知事のインタビュー
http://news.biglobe.ne.jp/trend/0104/sgk_120104_7778805545.html

 「しつけ」としての体罰を容認する発言が掲載されています。


 それから、これは意見ではありませんが、体罰と聞くと思い出すのがアニメ「機動戦士ガンダム」の中で、主人公アムロがブライト少尉に殴られたシーンです。

(「親父にもぶたれたことないのに」ガンダム・Zガンダム名言集から)
http://blog.livedoor.jp/dmnss569/archives/27418496.html

 このやりとりの中には、体罰を当然のこととして容認する発言があり、視聴者もそれに共感できる展開になっています。実は、視聴者が共感するのは、殴るという行為そのものではなく、アムロの幼児性に対するブライト少尉の怒りの方なのですが、その怒りは正当な怒りであるがゆえに、それを発露するための手段としての暴力(ここでは殴るということ)は許されるのだという凝ったつくりかたになっています。(それまでのアニメ作品で、こういう心理描写をしたものはなく、単純な勧善懲悪の物語ばかりでしたから、このシリーズの人気が高い理由がわかります。)


3.私の意見
 体罰も暴力も他者との関係の中で発生するものですから、単純に行為を見るのではなく、お互いの関係も考慮する必要があると思います。したがって、これは体罰に名を借りた暴力であると判断できるマニュアルができるというものではありませんし、一律に体罰を禁止するというのも近視眼的であるように思います。
 ただし、教育は教師と教師に服従する生徒の両者が揃って初めて成立するものですし、体罰の目的が生徒を服従させるところにあることも否定できません。(この服従を強制するという目的はしつけにおいても同じです。)そして、体罰を肯定する意見も否定する意見もこの事実からスタートしている(その代わり、どこに力点がおかれているかは異なります)といってよいと思います。

 私の意見は次の通りです。

1.我々は、他者に対し、暴力を振るう権限を持たない。
 例外は、正当防衛と緊急避難の場合だけです。しつけと称する暴力についてはこの後で申し上げます。


2.体罰を与える側が何を言おうと、受ける側に「自分が間違っていた。殴られても仕方ない。」という自覚がない限り、それは暴力になる。

 生徒の側に、「自分が間違っていた」という自覚があるのであれば、何も体罰を加える必要はないはずですが、それでも体罰を加えるというのであれば、それはもはや暴力にすぎないということになります。このことは、生徒の側に、「(自分が)殴られてもしかたない」という自覚がある場合に限って体罰は許容されるということを意味します。そのため、極めて限定的な場合でしか体罰は成立しないといってよいでしょう。
 これは家庭でもそうなのですが、体罰を加えなければならない状況というのは、そうやたらと発生するものではありません。むしろ実際には、親が興奮した結果、つい手が出てしまったという場合がほとんどではないかと思います。言うならば、親の未熟さの現れにすぎないと思うのですが、それがしつけという言葉で誤魔化されているというのが現実でしょう。
 生徒が悪いことをしたときに、懲罰的意味を込めた体罰があることは否定しませんが、それでもかなり限定されるというのが私の考えです。だいぶ昔のことになりますが、私が高校生の頃、友だちのバイクを借りて学校の敷地内を無免許で乗り回していた生徒がいました。その現場を体育教官が見つけ、無免許運転をしていた生徒をものすごい剣幕で殴りつけ、生徒も涙をボロボロ流していたということがありました。これも暴力であることに違いはありません。ただし、当事者が「殴られてもしかたない」と、そのことを許容していた点が異なります。
 

3.体罰が繰り返し行われているのであれば、いかなる口実をつけようともそれは暴力である。

 先ほどの無免許運転をした高校生のように、体罰を与えなければならないという事態が発生することも、ごく稀には、あるかもしれませんが、そういうことは滅多に起こるものではありません。
 にもかかわらず、日常的に体罰が加えられているという状況がある場合、それは教師が生徒を支配する快楽に取り憑かれていると考えられます。なぜなら、体罰を加えなければならない理由が、教師の自己満足以外に存在しないからです。そんなことのために殴られたり叩かれたりする生徒が気の毒です。

4.スポーツにおいて懲罰としての体罰は成立しない。
 今回の事件もそうでしたが、ミスをした生徒に対し懲罰のために体罰を加えるということがクラブ活動の中では頻繁に行われています。懲罰というのは、字義通り、罰を与えて懲らしめるというものであり、当人に対し「二度とするまい」という気持ちにさせることを目的としています。このように書くと、懲罰としての体罰は許されるのではないかという意見が説得力を持つかのように思われます。
 しかし、よく考えてみてください。スポーツにおいて、試合に勝ちたいと思う以上故意にミスを犯す人間はいないはずです。そこで、ミスを犯さないようにするために練習を積み重ねるわけですが、人間である以上、それでもミスを犯すことは避けられません。すなわち、ミスを犯した生徒に懲罰的な体罰を加えれば、次からミスを犯さないようになるかというと、そんなことはないのであって、ミスを根絶することは不可能なのです。したがって、懲罰目的での体罰といっても、ミスを犯さないようにするという目的を果たすことができない以上、体罰を加えることに何の意味もないことがわかります。


5.体罰は生徒の居場所を奪う
 以前、このブログで、教師の役割は「生徒の居場所を守るために、その生徒の最後の味方であること」と申し上げました。

http://tamm.exblog.jp/10243891/
 
 人間は誰でも、居場所が必要です。最初は、家庭の中に、親の庇護という居場所があるのですが、こどもは成長するにつれて、家庭の外にも居場所をみつけるようになっていきます。
 これに対し、いじめはその子の居場所を奪う行為となります。自分の居場所がない毎日というのを想像してみれば、これがどんなに残酷なことであるかがおわかりいただけることと思います。
 教師は、自分のすべての生徒に対し、その居場所を守ってやる義務を負っています。というのは、教育とは生徒と教師の二者が存在して初めて成立するものなので、その一方(生徒)が欠けるのを看過するというのは、教師にとって自分の存在意義を否定することにほかならないからです。
 体罰も、いじめと同様に、生徒の居場所を奪うことにつながります。その人にとって楽しいから居場所なのであって、苦痛をもたらすところは居場所ではありません。けれども、教師がそのことに無自覚なまま、生徒に苦痛を与えることが正当な指導であるというのはいったい何を根拠としているのだろうかと不思議に思います。


5.体罰を禁止するのは無意味である。

 教育基本法によって体罰は禁止されており、教師による体罰が事件となることもありますが、それらは教室内のことであり、クラブ活動においては「適用除外」となっていることが、今回の事件によって明らかになりました。
 大阪市の橋下市長はクラブ活動における体罰を禁止するということを発表していましたが、それで解決するのかといえば、そうではないように思われます。
 教師が顧問となってクラブ活動を指導するのは、教師の自発的な時間外勤務と休日出勤を前提にしています。これらは本来であれば違法状態なのですが、いっこうに改善される気配がありません。そのことに頬被りして、体罰だけを禁止して、それで決着をつけるというのは虫のいい話です。
 私たちの中にも、何か事件が起こると、その対策として罰則を強化したり、法律で禁止するようにすることを安易に求めたがるという傾向があります。しかし、いつも申し上げるように、ものごとにはプラスの側面とマイナスの側面があるのですから、短絡的にああだこうだと決めつけるのは新たな問題と混乱を招くことになります。

 小田嶋隆さんが書かれているように、スピード違反や駐車違反のように、法律で禁止されているけれどもその罪を犯す人が後を絶たないという事例もあり、教師による体罰もまさにそれに該当します。すなわち、体罰をなくすには、法律や規則で禁止しても効力はないのであって、教師の意識が変わらない限りいつまでも同じことが繰り返されるのです。 そうだとすると、意識が変わらない教師が一人でもいれば決して体罰はなくならないということに、理論上はなりますが、体罰はなくさなければならないと考える人が多くなればなるほど、体罰の発生件数は急激に減っていくはずです。というのは、体罰はよくないのだという社会的なコンセンサスがひろまっていくことにより、体罰を愛好する教師もそのような雰囲気を無視することができないようになっていくからです。もともと強い信念に基づいて体罰を取り入れているのであれば、周りの雰囲気など歯牙にもかけないはずですが、そういう人はごく僅かであり、大部分は単なる自己満足のために体罰を行っているはずです。
 逆に、石原慎太郎のように、体罰は必要だと考える人が増えていけば、体罰を取り入れる教師は増えて行くことになります。まあ、言ってみれば大がかりな綱引きのようなものであり、いずれ大勢がはっきりするのでしょう。
by t_am | 2013-01-22 22:17 | その他

by T_am