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カクレ理系のやぶにらみ

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時間のある方はお読みください。軽い気持ちで読み始めると頭が痛くなります。

憲法改正について思うこと2

 片山さつきのツイートがきっかけで、いろいろな議論が起こっていますが、憲法について議論するのはとてもいいことだと思います。そうすることで今まで知らなかったことがわかるようになるからで、自分の視野を広げてくれると思います。ただし、片山さつきがツイートしている「国民が権利は天から付与される、義務は果たさなくていいと思ってしまうような天賦人権論」という主張はこじつけだと思いますが・・・

 すべての人間は生まれながらにして自由・平等なのであり、幸福を追求する権利を持っているというのが天賦人権説です。これらの権利は人種・民族・性別・出自などによって左右されるものではなく、本来人間として存在するだけでその人が有しているとされる権利です。(このことは、漫画ONEPIECEの中でフランキーがニコ・ロビン-この2人は似たような過去を持っているという設定です-に対して言った言葉「存在することは罪ではない」を思い出させます。)もちろん天賦人権説は理念であって、人間が努力しなければ実現することができないのは明かです。実際に、普通選挙の実現・児童労働の禁止・性差別・人種差別の撤廃などを実現させてきた原動力のひとつが天賦人権説であったことに間違いはありません。

 日本国憲法にも「この憲法が国民に保障する自由及び権利は、国民の不断の努力によつて、これを保持しなければならない」という規定(12条)があって、これらの権利は国民であるわれわれが監視していないと、いつの間にか骨抜きにされてしまうという警告でもあります。したがって、自民党の主張が「人権は天より授かったものというよりは、自分たちの祖父母や両親の世代を通じて勝ち取ってきたものである」というのであればまだ理解もできるのですが、片山さつきのいう「義務」とは単に納税や給食費支払い等を指すようにも思えます。
 実際に、脱税する金持ちや企業は後を絶ちませんし,給食費を払おうとしない保護者も多く、中には教師が立て替えているという例も耳にします。他にも「権利ばかりを主張して義務を果たそうとしてない」という指摘はこれまで何度も耳にしています。
 片山さつきや自民党の政治家たちは、おそらく、きちんと義務を果たせといいたいのでしょう。そうでない者は権利を主張することはできない世の中にしたいのかもしれません。 しかし、「権利ばかりを主張して義務を果たそうとしない者」はいつの時代どこの国にもいるものであり、そういう輩が今の日本に特別に多いというのであれば、日本をそういう社会にしてしまった責任は今のすべての大人たちにあります。自分さえよければ他人はどうなってもいいと積極的に荷担した人もいれば、そういう行為を見ても見ぬふりをした消極的加担者もいるはずです。
 自民党の政治家のみなさんが、自分にもその責任があるのだと自覚しているのであれば何も申しませんが、どちらかといえば「悪いのは他人、自分がやってきたことは全部正しい」という信条の持ち主ばかりであるように見受けられるので、そういう人たちが国民に対して義務を果たせと説教をたれるのは噴飯物です。


 自民党の憲法改正草案Q&A(長いので以下「Q&A」と略します)を読んでみると、「権利は、共同体の歴史、伝統、文化の中で徐々に生成されてきたものです。したがって、人権規定も、我が国の歴史、文化、伝統を踏まえたものであることも必要だと考えます。」(14ページ)と書かれてあります。この考えかたは別な書き方をすれば、人権のあり方にはその国固有の特性が反映される場合があるということになります。極論をいえば、諸外国で認められている権利であっても日本に馴染まないとされるものもあるでしょうし、逆に日本独自の規定も許されるということになるでしょう。
 そのことを踏まえて、改正草案の第13条(個人の尊重等)をみると、次のようになっています。

(日本国憲法)
すべて国民は、個人として尊重される。生命、自由及び幸福追求に対する国民の権利については、公共の福祉に反しない限り、立法その他の国政の上で、最大の尊重を必要とする。

(改正草案)
すべて国民は、個人として尊重される。生命、自由及び幸福追求に対する国民の権利については、公益及び公の秩序に反しない限り、立法その他の国政の上で、最大の尊重を必要とする。

 違うのは下線を引いた部分です。「公共の福祉」という言葉が「公益及び公の秩序」というふうに書き換えられています。Q&Aでは、その理由として、「意味が曖昧である『公共の福祉』という文言を『公益及び公の秩序』と改正することにより、憲法によって保障される基本的人権の制約は、人権相互の衝突の場合に限られるものではないことを明らかにしたものです」と書かれています。意味が曖昧なのは公共の福祉だけではなく、「公益」も「公の秩序」も曖昧だと思いますし、そもそも人権の制約は現行憲法でも謳っていることです。
 したがって、自民党改正草案の目的は、この条項に「公の秩序」という言葉を潜り込ませることだといえます。それに対する反発も予想されたのでしょう。Q&Aでは、「『公の秩序』と規定したのは、『反国家的な行動を取り締まる』ことを意図したものではありません。『公の秩序』とは『社会秩序』のことであり、平穏な社会生活のことを意味します。個人が人権を主張する場合に、他人に迷惑を掛けてはいけないのは、当然のことです。そのことをより明示的に規定しただけであり、これにより人権が大きく制約されるものではありません。」と弁解めいたことを書いています。

 けれども、日本国憲法の規定では、個人の人権が制約されるのは公共の福祉に反する場合だけであるとしていますが、自民党の改正草案ではそれに付け加えて、公の秩序という社会秩序を乱す者には人権に制約を加えてもよいということにしているのです。この違いは天と地ほども大きいといえるでしょう。
 もともと憲法は、国(ということは政治家と官僚)に対して好き勝手なことはさせないという法律のはずなのに、日本では国にとって都合のいい法律に改正しようという動きが活発化しています。その主体が政治家たちなので、要するに自分にとって都合のいいように憲法を改正しようとしているしているわけです。

 自民党では、権利ばかりを主張して義務を果たそうとしない人をなんとかしなければということで天賦人権説を退け、その国固有の人権のあり方があるという考えかたを取り入れたということは理解できます。
 しかし、公の秩序に違反する者の人権に制約を加えること(たとえば村八分を思い出していただいたらよいと思います)は日本の歴史の中でも負の部分になりますし、公の秩序を維持するために身分制度が設けられたという歴史もあるのです。したがって、公の秩序を維持するためには人権が制限される場合もあるという自民党の主張は、いじめを正当化し、日本人に対し常に秩序の内側にいるように強く促すことになり、結果的に萎縮した人間を大量につくり出すことにつながる恐れがあるといえます。

 そういえば、誰かがこんなことをツイートしていました。「安倍晋三総裁や片山さつきには理想があるのかもしれないが、国民はあんたらの理想のために存在しているわけじゃない。」


付記
 公共の福祉に反しない限り人権が制限されることはないという考えかたは、「三銃士」の中のダルタニヤンの名台詞「みんなはひとりのために、ひとりはみんなのために(All for one.One for all.)」を思い出させます。国や組織に参加するというのは、こういう気持ちでいることが大事なのだし、たぶんそれだけで充分なのだと気づかせてくれるよい言葉だと思います。
 この言葉が好きな人も多いと思いますが、好きな人が多いということは現実はそうなってはいないということを指すのでしょうね。
by t_am | 2012-12-09 14:24 | その他