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カクレ理系のやぶにらみ

tamm.exblog.jp

時間のある方はお読みください。軽い気持ちで読み始めると頭が痛くなります。

たかが電気

 7月16日に代々木公園で行われた「さようなら原発10万人集会」で、坂本龍一さんが行った演説の中の「たかが電気のために、なんで命を危険にさらさなければいけないのか」という発言が波紋を呼んでいます。
 たとえば、7月21日付けの産経新聞のコラム(産経抄)では、坂本龍一さんを「おしゃれな文化人」と呼び、「『たかが電気』がどれだけ多くの命を救ってきたことか。」と書いたうえで、「原発への恐怖心を利用して騒ぎを大きく使用と画策する左翼団体や金持ち文化人、それに選挙目当ての政治屋どもに踊らされていることに参加者はそろそろ気付かれた方がいい。」と結んでいます。

 発言の内容の是非を論じるならともかく、発言者の属性を揶揄するかのような表現は真面目な議論を葬るものですから、私は、産経抄の文章は品性の賤しい文章であると思います。

 実際のところ、坂本龍一さんの演説を聴いたわけでもなく、したがってどういう文脈の中で「たかが電気」という表現となったのかわからないので、この発言について触れるのは適切ではないとわかっているのですが、自分の考えを整理するにはいい機会であるように思います。

 正直いうと、エアコンが使えなくなったり、PCやiPhoneが使えなくなるのは困るなあと思う気持ちがあります。もっともなければないで、やがてその不便さに慣れるのでしょうが、それだけに現代の文明社会が電気に依存していることは否定できません。
 ちょっと大げさな言い方になりますが、私たちの生活は、この社会のどこかで電気を絶やさないように働いている人たちのおかげであるといってよいと思います。その営みは、年末年始であっても、また深夜であっても途切れることはありません。そのような「誰か」が日本の至る処にいてくれるおかげで、日本の社会が麻痺せずに動いているのだと思っています。
 誤解のないように申し添えておきますが、私が言う「電気」は原発とイコールではありません。(さらにいえば、「誰か」が電力会社の社員だけを指すのでもありません。電気・ガス・水道・交通・通信などのインフラの維持に携わっているすべての人を念頭に置いています。)
 
 原発は電気を起こすための手段のひとつにすぎません。ところが、原発が、手段としてはあまりにも問題が多いために、別な手段にシフトしていきましょうというのが脱原発の意味するところでしょう。
 だから、原発の廃止と原発の再稼働は本来異なる問題のはずなのですが、大飯原発の再稼働を決めた政府の手法がひどすぎるために問題がこじれてしまっているように思います。再稼働を決めた政府の思いの底にあるのは、経済成長が最優先でそれ以外は二の次ということなのでしょう。このことは多くの人が感じているのではないでしょうか。
 経済成長を達成するためならば●●を切り捨ててよいのか(この●●には、弱者・文化・医療・被災者・教育・農業・中小企業・雇用・安全・モラルなど色々なことばを入れることができます)という思いが怒りに変わったときに、「人の命を軽んじるのもいい加減にしろ!」という感情が「たかが電気」という発言に結びつくことはもしかしたらあるかもしれないと思います。深読みのしすぎかもしれませんが。

付記
 私が、このように経済成長には期待できないということを申し上げるのは、今の日本では、経済成長を達成したとしてもその果実が社会の隅々に行き渡るわけではないからです。バブル崩壊後、経済成長率がプラスになればなるほど格差が拡大するという皮肉な現象が現れています。そのことは、国民の大部分の人は分け前にあずかることができないだけでなく、弱者ほど今持っているものを奪われることになるということを意味しています。
 そういう思いが私の中にあるものですから、政府の経済成長至上主義(財政再建はその一里塚であり、消費税の増税はそこに至るステップのひとつと位置づけられます)には疑問を持っています。
 
by t_am | 2012-07-21 23:28 | その他