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カクレ理系のやぶにらみ

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時間のある方はお読みください。軽い気持ちで読み始めると頭が痛くなります。

社会的制裁と私刑

 大津市の中学生が自殺した事件で、いじめていた中学生3人と担任のの実名がTweetされ、これはより大きな規模でのいじめのはじまりになると思っていたら、そのうちの一人がいじめの中心になっていたとして写真がアップされ、さらにはその生徒の父親の名前と職業までもがTweetされました。
 私自身、この事件に関する報道やTweetを読んでいると怒りを覚えることもありますから、いじめの加害者を擁護するつもりはまったくありません。かといって自分が加害者を責めれば、今度は自分がいじめに加わることになると思っています。

 言葉も含む暴力に対し、被害者が抵抗できないからいじめになるのであって、だからこそ被害が拡大していくわけです。

 いじめの加害者とその親たちが、道義的倫理的に許されないことをしており、しかも反省していないのだから、彼らに対し社会的制裁が加えられるのは当然だという意見もあるでしょう。それは「制裁」であって「いじめ」ではないのだと。

 「社会的制裁」の根底にあるのは正義感(という怒り)です。つまり、正義を行うのだから制裁は許されるというものです。これに対し、「いじめ」の動機は、自分とほんのちょっと異なる者に危害を加えてその苦しむ様を見て愉悦を覚えるというところにあります。これは「悪意」という言葉にいいかえてもいいと思いますが、要するに、悪意でやれば「いじめ」、正義をもって行うのが「社会的制裁」であるというふうに考えてもよいと思います。
 しかし実際には、「社会的制裁」の中身がどんどんエスカレートしていくというのが、この種の事件が起こるたびに見られる現象です。群衆心理とはそういうものだということであり、制裁の過程で「理性のタガ」が外れる瞬間があるのでしょう。また、中には悪意で「制裁」に参加する者もおり、彼らがよりエスカレートするように「煽る」ということもあると思います。

 「制裁」に加わる人たちの中に悪意を持った者がいる場合、誰がそうなのかは第三者にはわかりません。しかし、社会的制裁正義の行使であるならば、なぜ悪意を持った者が紛れ込むのを許すのかという矛盾を抱えることになります。そして、純粋な正義感の持ち主はそのような矛盾の解消に真摯に取り組もうとしますから、革命運動がそうであるように、社会的制裁に参加する人たちは次第にセクト化していき、最終的には自分以外全部悪ということに行き着き、そして消滅します。(革命が成功するには政治が必要となります。)
 もっとも、今回のような「社会的制裁」は時間が経てばやがて飽きられて、沈静化していくので、そこまで発展することはありません。それでも、いったんアップされた名前や写真は削除されない限り、いつまでも残り、いつでも閲覧可能な状態が続きます。

 このように考えてくると、「社会的制裁」と「いじめ」を明確に区別することは難しい(というよりもたぶんできない)ことがわかります。実際のところ、「社会的制裁」も「いじめ」も基準やルールというものがないので、参加する者の感情に左右されるのですから、これは私刑と呼んでも差し支えないと思います。
 社会が、このような私刑を容認するようになると、「いじめ」がそうであるように誰でも制裁の対象になりかねないということになります。いったんそうなってしまうと、事態はどんどんエスカレートしていくので、人類は、法によって裁くという手法を開発したわけです。

 そうはいっても、社会的制裁は自然に発生するものであり、誰もそれを止めることができません。そこで、一つの考えかたとして、社会的制裁が許されるのはその対象が大きな力を持っている場合に限る、というのが浮かび上がります。
 社会的制裁は集団による力の行使ですから、その対象が個人に向けられた場合、個人はこれに抵抗する術がありません。仮に、冤罪であった場合、その被害を回復することはできませんし、そもそも制裁に参加する者たちにはその検証をする能力はないのです。(だからマスコミの責任は大きいということになります。)

 要するに、相手が持っている力と制裁に加わる力の大小を比較するということです。

 ところが、相手が大企業であったり、権力に守られた政治家や高級官僚であるような場合、本来であれば法に裁きを委ねなければなりませんが、起訴されないことも往々にしてありますし、そもそも罰する法律が存在しないということもあります。
 このようなときに、社会的制裁というのは有効である(それが発展し、国中を巻き込むようになったものが革命です)と思います。与えられて権限を適正に執行し、責任を全うせずに私利私欲に走っているとそのような制裁を受けるかもしれないというのは、大きな力を持った者たちに対する大きな牽制となります。

 橋下市長が大阪で絶大な人気を保っているのは、市民がこれまでやりきれない思いをしてきた社会悪に対し、自分たちの代理人として正義の鉄槌を下してくれると期待しているからでしょう。ただし、制裁を加えるにあたって、条例を整備してから取りかかるという手続きを踏んでいるのは弁護士出身の市長ならではのことだと思います。
 その割に、制裁を加える相手が、一部の教師や公務員といった比較的小物ばかりで、大物は見のがされているというのは気になるところですが、法に不備があればそれを整備するという手順は外すべきではないと思います。


付記
 橋下市長において目立つ「一部を取り上げてそれが全体であるかのように思わせる」という手法については、いずれ改めて取り上げたいと思います。
by t_am | 2012-07-08 10:24 | その他