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カクレ理系のやぶにらみ

tamm.exblog.jp

時間のある方はお読みください。軽い気持ちで読み始めると頭が痛くなります。

否定する文脈

誰でも(その中には私も含みます)ブログやツイッターを自由に使えるようになったおかげで、自分の意見を忌憚なく表明することができるようになりました。これはかつてないことであり、とても貴重なツールであるといえます。なぜ貴重なのかは別な機会に申し上げることにして、本稿では、ブログやツイッターというツールが私たちの心の中のある部分を無防備に開放するということについて書いてみたいと思います。

私たちは、自分の好みに合うツイートをフォローするように、ブログも自分の好みに合うもをお気に入りに登録する傾向があることは同意していただけると思います。それは人間の性癖にすぎないので、いいも悪いもありません。ただし、そのような言葉に絶えず接していると、次第に自分の思いも共鳴してその振幅が大きくなっていくということは知っておいた方がよいと思います。

既に何度も申し上げているように、人間は自分が見たいと思うものを見るのであり、聞きたいと思うことに耳を傾ける生き物です。半ば無意識のうちに情報の取捨選択を行っているうちに、自分の思いは偏った方向に進化を遂げる場合があることは、ツイッターのタイムラインや特定の個人に対するメンションを見ていればわかることです。

興味深いのは、そのようにして発達した思いというのは、まずは自分と異なる意見を否定したあげくに、自分と異なる意見の持ち主の人格を否定する方向に作用するということです。恥ずかしながら、これは経験則として申し上げているので、中にはこれがあてはまらないという方もいらっしゃるかもしれません。もしくは、だからどーした、と思われる方もいらっしゃるかもしれません。(もっともそういう方は、こんなブログに眼を通すなどという悠長なことはしていないと思うのですが…)

前置きばかり長いのもどうかと思うので、そろそろ結論を申し上げると、自分と相容れない意見はまだしも、その人の人格までも否定するようになると、そこから先は不毛の世界のみ待ち受けているということです。
不思議なことに、自分と異なる意見に対し黙ってはいられないと思うようになると、その行きつく先には他人の人格を否定したいという欲望が待ち受けている場合が多いのです。(いつもそうだというわけではありません。)

たぶん、思いの強さを与えるエネルギー源の一つに感情があるのでしょう。そのような感情には、正義感や善意というものも含まれます。それらは決して悪いことではありませんが、自分の感情という燃料を燃やし続けると、いつしか火の手を制御することができなくなる場合があるということを申し上げているのです。

たとえば、上杉隆さんという「元ジャーナリスト」がいます。この人をデマ野郎と呼ぶ人もいれば、この人の行動を支持する人が多くいることも事実です。その際立った違いは福島第一原発の事故後の、この人が伝えた報道によるものだと思いますが、私には、どちらの意見も間違いではないと思われますし、どちらの意見も十分に正しいとは思えないのです。
上杉隆さんが伝える報道は、私のような素人が読んでも、人びとを煽動しようとしていると思える節があって、この部分を取り上げてデマ野郎と呼ぶ人もいるわけであり、それはその通りだと思いますが、だからといって、全人格をデマ野郎というひと言で片付けることには与しません。また、氏の放射線の危険性を訴えるいう姿勢に共感するという正義感は理解しますが、事実と異なる情報までも事実として鵜呑みにするというのもどうかと思います。

念のため、お断りしておくのですが、その人を信用しないというのと人格を否定するというのは同じように見えて実は違うということを申し上げておきます。

こうして、事実の一部分だけを拡大鏡を見るようにして見つめた人たちが、ツイッターやブログで発言するわけです。(もっとも、そうでない人の方がはるかに多いということも指摘しておきます。念のため。)

ブログやツイッターというのは、そういう(他人の意見や人格を否定する)点と相性のいいツールなのだと思っています。これに対して、フェイスブックというのは基本的には他人の意見や存在を肯定することによって発展していくツールだと思います。ブログやツイッターにもそういう面はあるのですが、そうでない面もあって、ときとして歯止めがきかなくなるということがあるのです。私は、これを否定する文脈と呼んでいます。

否定する文脈の目的はただひとつ、自分と異なる意見の否定にあります。ゆえに、否定する文脈の応酬が発展的に新しいものを生み出すということはありません。生み出すものがあるとすれば、それは悪意、もしくは無視、無関心ということになります。


 僕には君が何を考えているかがわからない。
 たぶん君も僕が何を考えているのかわからないと思う。


これは以前書いたブログの一節です。
人間は複雑であり、他人を理解する(他人に理解してもらう)のは本当に難しいということは同意していただけるのではないかと思います。

だから僕たちは一緒にはいられない、と思うのか、でも僕たちは一緒にいることができる、と思うのかによってその人の人生はまるで違ったものになると思います。どちらを選ぶのかはその人が決めることなので、どちらの方がよいと申し上げることは無意味でしょう。
けれども、他人を無視する、あるいは無関心でいられるというのは、自分も他人から無視されでもかまわない、関心を持たれなくても構わないという強さがなければとうてい続くものではありませんし、そういう強さを持った人を私はこれまで見たことがないということだけは申し上げておきたいと思います。
by t_am | 2012-05-03 23:15 | その他