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カクレ理系のやぶにらみ

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時間のある方はお読みください。軽い気持ちで読み始めると頭が痛くなります。

原発事故の検証と再稼働

 福島第一原発の事故調査委員会はいくつもあります。昨年5月に発足した政府による事故調査委員会(畑村洋太郎委員長、東京大工名誉教授)があり、次に昨年11月には財団法人日本再建イニシアティブによる民間の事故調査委員会(北澤宏一委員長、前科学技術振興機構理事長)がスタートしました。さらにその翌月には、国会による事故調査委員会(委員長黒川清・元日本学術会議会長)も活動を開始しました。
 このうち民間の事故調査員回の報告書はすでにできあがっていますが、「当初は非売品として部数を限定して作成して」いたそうです。今回のような巨大事故の調査・検証を行う目的は、事故の経緯や原因を明らかにして公表することで人類共通の財産とすることにあると思うのですが、この財団の考え方は違うようです。その後、報告書を出版して有償で配布することになりましたが、そのアナウンスのすぐ下には「福島原発事故に関わる情報提供のお願い」ということが書かれてあって、随分と虫のいいお願いもあったものだと思ってしまいました。

 政府事故調は12月26日に中間報告をまとめました(こちらの方はネットで閲覧することができます)が、その内容に目を通してみると「事故や被害の概要」および「事故に対する対応」については細かく記載されていますが、事故がどのようにして起こったのかについては触れられていません。無理もないと思います。というのも、誰も原子炉の内部に立ち入ることができないからです。肝心な部分がいっさいわからない中で、事故の経緯や原因を検証するということは誰にもできません。考えられる可能性として推測を並べるか、民間事故調の報告書がそうであったように、事故後の政府・東電の対応の妥当性を検証するものに終わってしまう可能性も否定できないと思います。大きな権限を与えられている国会事故調であっても、状況は同じです。原子炉の内部に入れない以上、現場検証ができないわけですから、あの事故がどのようにして起きたのかを検証することはたぶん不可能だろうと思います。

 現在停止中の原発の再稼働について、新潟県の泉田知事は福島原発の事故の検証が終わらないうちは判断できないというコメントを繰り返しています。これは考え方としては至極もっともなものであると私は思います。つまり、事故の原因が明らかになっていないのだから事故防止のためにとられた対策が妥当なものであるかどうか判断できないわけで、地方自治体のトップとして軽々に再稼働に同意することはできないというものです。
 このように、泉田知事の発言は論理的には全く正しいのですが、肝心の事故の検証が進まない(これは事故調の委員の責任ではありません)だけでなく、事故の原因の特定ができるのはいったいいつになるのか誰にもわからない以上、再稼働を認めるかどうかの判断を凍結せざるを得ないということになります。ひょっとすると永久に判断が下せないという可能性も否定できないわけですから、そうなると事実上廃炉にすると宣言しているのと同じことだといえます。

 原子力を推進する立場の人たちにとって、これは非常に具合の悪い事態であることは私にも理解できます。彼らの脳裏にあるのは、千年に一度の大地震と大津波によって起きた事故なのだから当分の間同じような災害に襲われることはないだろう、という思いでしょう。原発は停止中も維持管理のためのコストが発生しているわけですし、地元の経済に与えるダメージも無視できないものがあります。そのことに日頃向き合っている立場の人であれば、原発を再稼働しないで発生するコストやダメージと、再稼働した後万一災害に襲われ事故が発生した場合のコストとダメージを比較した場合に、前者の方がより身近で切実なものに感じられるはずです。そうなると、次にいつ起こるかわからない災害に備えて原発を止めておくという選択肢は考慮に値しないことになり、再稼働ありきでものごとが進めていくことになるわけです。
 実際に、事故直後は原子炉を冷やすための電源さえ失われなければ大丈夫なのだという観点から、非常時の代替電源の確保と追加が指示され、各地の原発ではその取り組みを行っています。しかし、だから安全になったと断言できる人は誰もいませんし、安心だと信用する人もいないはずです。もっとも、電力会社が本社支社を各地の原発の敷地内に移転すれば少しは変わるかもしれませんが・・・

 福島第一原発の事故後、各地の原発では様々な安全策が追加的に講じられてきました。それに対し、管直人前総理は、浜岡原発を停止させ、さらにストレステストの実施を打ち出しました。これらの指示が妥当であったかどうかというのは後世にならないと評価できないと思いますが、少なくとも国民の目には「政府がやっていることを首相が否定した」というふうに映ったことは間違いありません。さらに悪いことに、事故の直後から政府・東電による情報公開が不十分であり、むしろ意図的に隠していたのではないかと疑われている始末ですから、それらの疑いが晴れない限り地元住民が再稼働に同意するということは考えにくいと思われます。

 本来であれば、事故調の活動によって事故の原因が究明され、それに基づいて他の原発で然るべき手が打たれるということになるはずです。しかし、既に申し上げたように、肝心の原子炉の中に入ることができないのですから、事故原因を究明することはできません。
それではいつになったら原子炉の中に入ることができるのかというと、それもはっきりとした見通しが立っているわけではありません。

 以上のことからいえるのは、原子力というのは人間の手に余る代物だということです。そして、私たちは、言葉にはしないもののそのことに気づいているはずです。原発の再稼働にあたって、様々な手続きや検討を追加的に実施しておきながらいっこうに決断する人が現れないのはこのためです。本来ならば決断すべき立場の人が、このままこの状態が続くことは困ると思ってはいるものの原発が絶対に安全だと自信を持って断言することができないために、さまざまな人を巻き込んで共同責任という状態をつくりあげようとしているように私には思えます。

 仮に、誰か決断力のある政治家が原発の再稼働を決定したとして、猛反発が起こることは間違いありません。けれども、彼が、再稼働に反対する市民グループの反対運動をときには無視し、ときには実力で排除しながらも原発を再稼働させたならば、原発事故そのものがそのうちに忘れ去られてしまうだろうと思います。今後、日本を今回のような大地震や大津波が襲い、原発が制御不能の事故に見舞われるかどうかは正直言ってわかりません。
 ただいえるのは、数年という短いスパンの中では発生しないことでも数十年数百年という長いスパンの中では発生確率は桁違いに高くなるということです。そのときに、今回の事故の知見が生かされているかどうかによって事故の被害影響はまるで違ったものになるはずです。
 ゆえに、事故調による原発事故の検証がきちんと行われなければならないのですが、何度も申し上げるように、原子炉の中に入ることができない以上極めて難しいと思っています。そのことが意味するものは、今回の事故は私たちが無視してきた、あるいは見落としてきたメカニズムによって引き起こされたかもしれないのに、私たちはそれに気づく機会を奪われているということです。(事故の原因が想定外の津波による全電源喪失であると断定するのであれば事故調を設ける必要はありません。)
 自然災害は、巨大なシステムのあらゆるところに襲いかかります。システムがそれに耐えられれば問題はないのですが、負荷が大きすぎて耐えきれなくなったときに、システムはもっとも脆弱な部分から崩壊します。このような小さな事故が複合的に発生したり、または連鎖的に発生することによって巨大事故は起こります。福島原発における巨大事故はその典型的な事例であり、事故原因は決して単純なもの-作業員が操作ミスをしたとか-ではありません。以前東海村で起きた臨界事故のように単純な原因による事故であれば、それは一過性のものとして終わるのが普通であって、被害があれほど大きくなることもありませんし、これほど長期に渡るものにはならないからです。
 事故調による検証は、本来ならば原発という巨大システムの中の脆弱な部分を炙り出してくれるはずでした。このように過去形で書くのは不謹慎であり、委員の皆様に対し失礼であるとも思いますが、現実には無理だろうと思います。それでも今回の事故から何らかの教訓を引き出すことは可能でしょう。しかし、民間の事故調の報告がそうであったように、ヒューマン・エラーを指摘するものに留まるのであれば、結局その教訓は活かされないことになります。なぜかというと、たとえば政府や東電の対応が不適切であったと指摘しても、その対策は「心を入れ替える」「ちゃんとやる」「人を替える」という甚だ心許ないレベルのものにしかならないからです。
 幸いなことに、政府事故調の委員の顔ぶれをみるとそのような報告書を作成して終わりにするような人はいないことがわかります。昨年12月に公表された中間報告書を読むと、事故の経緯や原因についての記述はないものの、「災害発生後の組織的対応状況」を読むと、私のような素人であっても、事故対策の体制について今後はこのようにした方がよいと思うような記述のしかたがなされています。
 事故の状況からその経緯や原因を推測することは可能だと思いますが、事故現場に入れない以上それを検証できないという大きな制約があります。
 それでも事故調が、今回の事故についての経緯と原因を究明することができるのであれば(そうなってほしいと思いますが)、それは人類にとって大きな財産となるはずです。

 私自身は、原発はすべて廃炉にすべきだと考えています。その主な理由は、今後少なくとも二十万年の間核廃棄物を管理し続けることは人類にはできないと思うからです。既に発生している核廃棄物はいたしかたないにしても、これ以上核廃棄物を増やす行為は愚かです。ただ、いきなりすべての原発を廃炉にすることはできませんから、時間をかけて徐々に廃炉にしていくのが現実的でしょうし、その間は運転を認める原発が出るのもやむを得ないとも思います。
 ただし、この考え方が成り立つのは、人間が原子力を制御できるということが前提となっています。もしも、人間が原子力を制御できないのであれば、再稼働を認めないだけでなく、全ての原子炉から核燃料をただちに撤去する作業にかかるべきでしょう。というのは原発を運転していなくても、そこに核燃料がある限り冷却し続ける必要があるからです。福島原発の事故の要因は核燃料の冷却に失敗したことに尽きる(現に、運転を休止していた4号機では冷却プールに保管されていた核燃料が一時危険な状態に陥りました)のですから、再稼働を認めなければそれで万事解決とはならないのです。さらに、悪いことに、日本では核廃棄物の貯蔵施設が確立されていません。したがって、原発を廃止したとしても、核燃料をどこでどうやって保管するのかという問題が残ります。
 
 政府は福島県双葉郡に中間貯蔵施設をつくろうとしていますが、地元がすんなりと受け入れるとは思えません。仮に、つくることができたとしても、それはあくまでも「中間」貯蔵施設であって、「最終」保管施設ではありません。まだまだ解決しなければならない問題は山積みのままです。

 今回の事故調の最終報告書がどのようなものになるのか。原発事故の経緯と原因の究明ができるようであれば、人類は原子力を制御できると考えてもよいのかもしれません。そうなれば、何か起こっても、それが事故に結びつくことを防ぐ堤防をかさ上げすることにつながると考えられると思います。
 
 それでも、ひとつ気になることがあって、それは被害の大きさと事故の発生頻度は反比例するということです。比較的被害の小さい交通事故はしょっちゅう起こっていますが、大勢の人が死ぬ航空機事故はそれほど頻繁に起こっているわけではありません。つまり、滅多に起こらない事故ほどその被害の大きさは桁違いなものになるということです。
 スリーマイルの原発事故が起きたのが1979年。チェルノブイリの事故が起きたのは1986年です。この30年の間に大きな原発事故が3回起きているわけです。(放射能漏れというような軽微な事故はもっと頻繁に発生しています。)しかも事故が起きるたびにその影響は大きなものになってきています。それは知見の蓄積と技術の進歩によって、それまでならば事故につながっていた事態が発生しても何とか回避できるようになったということなのでしょう。そうやって事故を防ぐ堤防のかさ上げが行われてきたのだと考えることもできるのですが、ある日突然その堤防以上の波が押し寄せた場合にやはり事故は起こります。しかもその場合、それまで経験したことのないような被害をもたらすことになります。
 次の原発事故がいつ起こるのかは誰にもわかりません。しかし、いつか必ず起こるだろうということはいえますし、その際には今回の福島原発の事故以上に深刻な被害をもたらすだろうともいえます。

 そういうことを考えると、次の原発事故が起こる前に原発をなくしてしまった方が賢明であるという結論にならざるを得ないのです。
by t_am | 2012-03-11 21:26 | その他