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カクレ理系のやぶにらみ

tamm.exblog.jp

時間のある方はお読みください。軽い気持ちで読み始めると頭が痛くなります。

しあわせとは何か

 「しあわせになりたい」とか「この人をしあわせにしてあげたい」というのは誰もが持つ気持ちであろうと思います。不幸になりたいという人も中にはいるかと思いますが、大部分の人はしあわせになりたいと思っているはずです。
 この「しあわせになりたい」には二通りの意味があって、「今はしあわせではないからしあわせになりたい」という場合と「今はしあわせだけれども、将来もしあわせでいたい」というものです。それはとても自然なことなので、とやかく言う必要はないのですが、このような時代にあって、しあわせとは何だろうかと一度考えてみることもいいのではないかと思います。

 しあわせとは何かを考えるうえで、ひとつ実験をしてみましょう。決して難しいものではありません。あなたがしあわせだと思うことを想像していただくだけでいいのです。ただし、ひとつではなくふたつ以上、多ければ多いほどよいでしょう。ちょっと考えてみていただけますか。



 はい、いくつか思い浮かんだことと思います。
 そこで質問ですが、「あなたがしあわせだと思うことにはどれも共通するものがひとつあるはずです。それはなんでしょう?」というものです。私には、あなたがしあわせだと思うものが何かはわかりません。でも、それらの中に唯一絶対に共通するものがあるということはわかります。それはなんだと思いますか?



 あなたが思い浮かべたしあわせの中で、唯一絶対に共通するもの。それは、「あなた自身がそこにいなければならない」ということです。あなた自身がそこにいなければ、それはあなたにとってしあわせであるとはいえませんよね。
 このことは別な見方をすれば、しあわせだと感じるあなたがいるからしあわせなのだ、ということになります。なぜ、しあわせだと感じるのかという理由は無数にあります。以前しあわせだと感じたのと同じ状況が再現されたとして、同じようにしあわせだと感じられるとは限りません。むしろ、それはあなたにとって当たり前のものであり、今更しあわせだというのも変だということになるのではないでしょうか。
 そのように考えてゆくと、しあわせというのはそのときの心の状態をあらわす言葉であって、その人が置かれた状態や境遇を示すものではないということに思い当たります。したがって「しあわせになる」というのは、実は「しあわせだと感じられるようになる」というのと同義語であって、それには2通りのアプローチがあります。
 ひとつは自分のまわりを変えること。それは「自分が今持っていないものを手に入れる」ことで達成されます。車、洋服、家、恋人、赤ちゃん、etc…。
 その代わり、これらのものは手に入れてしまえば、それ以降は「あるのが当たり前」となりますから「しあわせだと感じられる」状態が長続きするものではありません。だから、人は次々と色々なものを手に入れたいと思うわけです。運良く手に入れられればよいのですが、そうでない場合その人は「しあわせだと感じられない」状態が続くことになります。それだけならよいのですが、今度は逆に「失うことの悲しみ」も背負う場合もあるということは覚えておいた方がよいと思います。

付記
 わが子が成長して親元を離れてゆくのは、こどもを失うことではありません。三砂ちづるさんがその著書「オニババ化する女たち」(光文社新書)の中で、カーリル・ギブソンの「預言者」という本に出てくるこどもに関する詩を紹介しています。
『子どもはあなたの子どもではない。あなたの弓によって、生きた矢として放たれる。弓をひくあなたの手にこそ、喜びあれと』


 ふたつ目のアプローチは、「しあわせだと感じられる」ハードルを下げることです。(これは村上春樹さんもエッセイの中で、「小さくて確実な幸せ」として指摘しています。)
 昭和三十年代がよい時代であったと懐かしむ動きがあります。あの時代は現代と比べると何もない時代でした。ものの豊富さ、社会の豊かさからいえば現代に暮らす私たちの方がずっとしあわせであるはずですが、それならばあの時代を懐かしむ必要はないことになります。
 ということは、人間はなにも持たなくともしあわせだと感じることができる、ということであり、すなわちあの時代の人たちは「しあわせだと感じられる」ハードルが現代よりも低かったということになるのです。


 今自分が持っていないものを数えて、しあわせを手にするエネルギーとするのを私は否定しません。現に人類はそうやって今日までやってきたのですから。
 ただし、そうやって手に入れてきたものの中には嘘やペテンまがいのやり方で入手したものもあって、その綻びが明らかになったのがあの原発事故だったのではないかと思います。
 あの事故に学ぶところがあるとすれば、私たちがこれまで通り「今自分が持っていないものを求めてしあわせを追求する」道をとるのか、それとも「すでに自分が持っているものをみて満足する」道を選ぶのか、そろそろ選択する時期に来ているのではないかということになると思います。
by t_am | 2012-02-06 23:13 | その他

by T_am