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カクレ理系のやぶにらみ

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時間のある方はお読みください。軽い気持ちで読み始めると頭が痛くなります。

私が大阪市の小学校の校長だったら

 橋本市長の連続ツイートを読んでいると、教育委員会が機能していないというところなど肯定できるところもありますが、違和感を感じるところもあります。そこで、仮に自分が教育基本条例が成立した大阪市の小学校の校長だったらどうするかということを考えてみました。

 橋本市長の考えは保護者が学校を選択できるようにしたいということです。学校にも競争原理を導入して、保護者から選んでもらえる学校にしなさいということでしょう。逆に保護者にそっぽを向かれて、入学定員割れを起こした学校の校長は、どこに問題があるのか、それをどう改善するのかをまとめて実行する義務を負うことになるということです。
 そういうことを踏まえて、私が大阪市の小学校(別に中が稿でも同じですが)の校長だったならば、成績別クラス編成を実施することになるでしょう。これに対し、「差別だ」とか「こどもが可哀相だ」という反対の声も当然あがるものと想像されますが、差別ではなく単なる教育の「効率の問題」であることを部下である教師たちや保護者に説明しますが、なかなかわかってもらえないかもしれません。
 そもそも理解力の異なるこどもたちに対し同じことを同時に教え、同じスケジュールでカリキュラムを消化していくというやり方に無理があるのですから、これを改めてこどもの理解の状況に応じた教え方をする方が理にかなっているはずです。そのためにはこどもの学力を測定するテストを実施し、その結果に応じたクラス編成を行わなければなりません。そしてクラスによって教える内容が変わっていくということにするわけです。
 そのことを突き詰めてゆくと次のようになります。

1)科目によってクラス編成が変わるということもあり得る。
 国語は得意だけれども算数は苦手だというこどもも当然いるはずでしょうから。得意なこどもだけを集めたクラス、苦手なこどもだけを集めたクラス、平均的な理解力のこどもを集めたクラスというように、少なくとも3種類のクラス編成が行われなければなりません。当然クラスによって人数も変わってきます。体育も例外ではありません。

2)学年は同じでも教える内容はクラスによって異なる。
 学力というのは積み重ねですから、ひとつひとつの過程をおろそかにするわけにはいきません。漢字が読めない書けないこどもには読み書きができるようになるまで教師がつきあう必要があります。同様に、高学年であっても九九ができないこどもには、カリキュラムを遡ってでも教えていかなければなりません。そうなると学年の壁を越えたクラス編成も実施する必要があるかもしれません。

 これらの方策は単に教育の効率を高めるというだけのことであって、差別でもなんでもありません。クラスの生徒の学力が同じであれば教える効率は飛躍的に高まります。現状はそうではなく、できる子もできない子もまとめて同じクラスに入れるわけですから、教師はどのレベルを対象に教えればいいのかという解決不能の問題に悩むことになります。ところが、同じレベルの子を集めてクラス編成をすればこの問題は解消されるのですから、授業がわからなくて退屈する子もいなくなれば、わかっていて退屈だという子どももいなくなることになるはずです。


 そういう教え方をするとどうなるかというと、全体がレベルアップしていくことになると予想されます。ただし、それはこんなイメージになるはずです。


 これは、横軸に成績、縦軸に人数をとりグラフ化したものですが、全体がレベルアップするということはグラフの形はそのままで右にスライドするということに他なりません。すなわち、そのこどもの学校の中での相対的な位置は変わらないけれども、成績別クラス編成を実施していない他校も含めると全体の中での成績という絶対値は、どのこどもも向上することになるわけです。

 こうしてみると成績別クラス編成というのは非常に効果の高い教育方法であると思うのですが、これを実施している学校というのはほとんどないといってよいと思います。その理由は、文部科学省がそもそもそういう教え方を認めていないからですし、保護者の反発も大きいと想像されます。自分のこどもが2つも3つも年下のこどもと同じクラスになるというのは受け入れがたいことだと思うからです。(他にも反対する理由はいくらでも見つけることができます。)

 しかし、私が大阪市の小学校の校長であったとしたならば、橋本市長の教育改革の下では断固として成績別クラス編成を実行するでしょう。その結果、数年を待たずして私はクビになるはずです。なぜかというと、そのようなやり方は「保護者が望まない」からであり、橋本市長の目指す教育改革は「保護者が望むことの実現」にあるからです。
 そういうことを考えると、(私は教育者ではありませんが)大阪市に住んでいなくてよかったとつくづく思うのであります。

付記
 1月16日のニュースで、「日本のリーダーにふさわしい政治家は誰だと思うか」という調査が行われ、橋本市長がダントツの1位になったと報道されていました。市長の歯に衣着せぬ発言が高い評価を得たのでしょう。まさに順風満帆といえます。しかしながら、橋本市長の支持者の多くは、市長が問題があるので改革すべしと主張する教育を受けて育ってきた人たちであることを思うと、今回の調査結果はブラックユーモアであるといってもよいと思います。
 問題のある教育を受けて育ってきた人たちであれば、その判断力をどこまで信頼していいのか疑問が残るのであり、そのような人たちから支持されている橋本市長という政治家をどのように理解すべきなのか迷ってしまいます。もしくは、橋本市長を支持する人たちの判断力には疑いを挟む余地がないというのであれば、問題のある教育を受けて育ったとしても結果として何の問題もなかったということになるのですから、改革する必要性が本当にあるのかということにもなりかねないと思います。
 
 いったいどっちなのでしょうね?

 この疑問は次のように理解すべきだと考えています。
 橋本市長が高い支持率を得ている理由は、現在何かしらの不満を抱えている人たちに対し、既得権という特権の持ち主を明示し、それらの人々を攻撃することで彼らの溜飲が下がるということを積極的に行っているからです。
 要するに、敵をつくりあげて、あなたたちの敵は自分にとっても敵であるという状況をつくることが非常にうまいのです。その敵というのは権威を持っている者である方が効果的です。だから大学教授や大新聞、誰もが知っている週刊誌を敵とみなすのであり、あとはその敵を激しく攻撃すればするほど喝采を浴びることになるというわけです。

 橋本市長のこれらの反対勢力に対する罵詈讒謗を見聞きしていると、その文脈は「お前には発言する資格はない」と断定し、相手の発言を封じるものであることに気づきます。法廷闘争における裁判官のように、判定を下す第三者に対する心証形成という点では有効な手段であると思いますが、民主主義の手続きとしてはあまりも暴力的であると思います。
by t_am | 2012-01-18 19:56 | その他