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カクレ理系のやぶにらみ

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時間のある方はお読みください。軽い気持ちで読み始めると頭が痛くなります。

民主主義と政治の効率化

 大阪市の橋本市長のツイートを読んでいると、民主主義は権力に対する制限を志向する制度であるということを今更のように考えてしまいます。
 民主主義の根幹は国民主権にありますが、直接民主制を行うには国のサイズが大きすぎます。そこで、国民の中から代表を選び政治を任せることになるわけですが、その際に特定の個人に権力が集中しないようこれを分散させるということが行われています。たとえば、三権分立は権力を司法・行政・立法の3つに分割し、相互にチェックし牽制し合うことを目的としています。さらには表現の自由を保障することでこれらの権力に対し外部からチェックをかけられるようにするということも行われています。
 権力を制限するために制度化されているものは他にもあって、三権分立の具体例になりますが、総理大臣には衆議院の解散権が与えられていますし、逆に国会には内閣不信任決議や閣僚に対する問責決議という制度があります。
 これらは特定の個人や組織が無制限の権力を握ったときの弊害があまりにも大きいという経験知の産物であるといえます。
 ところが、権力が分散し、制限されることによって政治の効率が悪くなるということが避けられなくなります。日本の最高権力者である総理大臣には政策の決定権はありますが、それを立法化するためには国会の同意が得られなければなりません。法治国家であるということは、ものごとを行うにあたってはその根拠となる法律がなければなりません。ゆえに大事なことがなかなか決まらない、いっこうに進まないということが随所で起こるようになるのです。(政治が国民の要望するものを実現してくれない-たとえば薬害訴訟で国が非を認めようとしないなど-は政治家や官僚の意識の問題であって、本稿で申し上げている政治の効率という問題とは異なります。)
 いっこうに進まないという具体的な例を申し上げると、震災からの復興、原発事故によって拡散した放射性物質への対応などがあげられると思います。
 こういうことが積み重なると国民を苛立たせることになり、政治改革の必要性が指摘されるようになります。このように考えると、政治改革とは政治における効率化を目指すものであり、そのためには権力の集中を促さなければならないということがわかります。小さな仕事であれば小さな権力でできますが、大きな仕事を成し遂げるにはそれだけ強大な権力が必要となります。帝政に移行する前の共和制ローマでは独裁官という制度が設けられていました。(今からおよそ2500年ほど前のことです。)これは国家の非常時において任命されるポストで、独裁官には非常に強力な権力が与えられ、即断即決を可能にすることで非常事態に対し次から次へと手を打つことができるようにするというものでした。独裁官には強大な権力が与えられるのですが、その暴走を防ぐために独裁官には任期(6ヶ月)が定められていました。
 仮にこのような制度が現代にあったとすれば、たとえば、震災からの復興という目的に限ってあらゆる省庁を指揮下に置き、立法と司法が全面的に協力するというリーダーを任命するようなものだとイメージしてよいでしょう。そして、1年とか2年とかの限られた期間の中である程度の目的が達成されたところで辞めることになるわけです。

 共和制ローマで独裁官という制度が設けられたのは、国家の非常事態には通常のシステムでは対応が後手に回ってしまいかねないために、あらかじめ非常時用のシステムを用意しておき、いざというときにはそれに切り替えるという知恵によるものだと考えられます。こういうことが2500年前に行われていたわけですから感嘆を禁じ得ません。
 民主主義という制度が権力の集中を抑制する以上、どうしても政治は非効率的になってしまいます。それでも専制君主制を選ぶよりははるかにましだと思いますし、そのように考える人が主流を占める間は権力の集中を許容するということはないでしょうが、今回の震災や原発事故のような非常事態に対応するためのシステムはあらかじめ用意しておいた方がよいように思います。

 話を橋本市長に戻します。橋本市長が掲げる大阪都構想を私なりに解釈すれば、権力(というよりは権限)を整理し、都でやるべきものは都に権限を集約し、区で取り組むべきものは区に集約するということのように思われます。橋本市長が賢いと思うのは区長を公募制(選挙制ではない)にして、民間からでも誰でも能力のある人を登用するとアピールしたことです。将来的には公選制に持ってゆくようですが、現時点では根拠となる法体系の整備がなされていないので公募制にする以外にないように思われます。公募制と公選制の違いは、区長を誰が選ぶのかというところにあります。公選制であれば有権者が選ぶわけですが、公募制では選考委員会が決めることになります。選考委員の任命は市長が行うわけですから、市長の意向に沿った考え方の持ち主が区長に任命される可能性が極めて高いといえます。もっとも、このことは今までもそうだったわけですから、とりたてて避難すべきことではないと思います。将来は公選制に移行するという前提で考えれば、誰でも応募ができるようになったことは大きな進歩ですし、選考過程がオープンにされることが望ましいのはいうまでもありません。

 大阪都構想を実現するには相当高いハードルをクリアしなければならないと予想されるので、これまでに述べたように、推進者である橋本市長や大阪維新の会に権力が集中する体制に持っていこうとするものと思われます。橋本市長のツイートを読んでいると、この人が自分の敵と判断した人物に対しては容赦ない攻撃をしています。そのことは市長を支持する人たちにとって痛快であると思われているような気がします。つまり、まず最初に敵を設定し、それを徹底的に叩くことで支持者の共感を呼ぶという手法です。教育基本条例と職員基本条例はそのための手段として使われるのでしょう。別な見方をすれば、今後大阪市の職員組合および教職員組合との間で権力闘争が繰り広げられることになるのだろうと思われるのです。

 権力闘争が悪だというわけではありません。ただし、自分のやりたいことがあって権力はそのための道具であるという割り切れている人であればよいのですが、政治家の中には権力を手中にすることが目的となっている人の方がはるかに多いのが実情でしょう。そういう人が権力を握るとロクなことがないというのは人類の経験知として知られていることです。ゆえに特定の個人や組織に権力が集中することのないよう、民主主義国家においては制度設計がなされているわけです。橋本市長がどちらのタイプなのかはわかりませんが、相当の遣り手であることは誰もが認めるところでしょう。それだけ高い能力を持った政治家が経済成長や効率化を推進しようというところに危惧するわけです。
 21世紀以降、各国では多国籍企業に配慮した政策が執られるようになりました。その結果、国民の間で格差が固定化しつつあります。それらが成長戦略という言葉で括られて実施されてきたことを思うと、まだ同じことを繰り返そうとするのかという思いがしてなりません。

付記
 特定の個人に権力が集中した状況は、即断即決即実行を可能にするようであり、案外悪いものではない部分もあるのですが、それが長期化すると次第に弊害の方が大きくなっていきます。そのような組織では幹部クラスがトップの方を向いて仕事をするようになり、その結果、トップに気に入られるにはどうしたらいいかという判断基準の持ち主が優遇されるようになっていきます。そういう茶坊主みたいな人間の忠誠心や使命感がどの程度のものであるかについては大いに疑問がつきまといます。
by t_am | 2012-01-13 11:54 | その他