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カクレ理系のやぶにらみ

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時間のある方はお読みください。軽い気持ちで読み始めると頭が痛くなります。

大阪のダブル選挙の結果について思ったこと

 27日に行われた大阪のダブル選挙(知事選と大阪市長選)は大阪維新の会の圧勝に終わりました。冷めたいい方をすれば橋下徹候補の人気が2つの選挙を制したということになると思います。選挙の大勢が判明した昨日の夜から様々な人が意見を表明しています。後世のためにも、今回の選挙に関する分析はきちんとしておいた方がいいと思います。それだけに、私などが出る幕はないのですが、自分の中で気持ちの整理をするために、思ったことを書いてみたいと思います。

1)イメージの勝利
 橋下候補は知事時代から歯に衣着せぬ発言を繰り返してきました。凡人であれば、「まあまあ」とかいってなだめながら何とか妥協点を探るような局面でも、自分の意思を通そうとする姿勢を貫いてきました。それらの行動は橋下候補に対するプラスのイメージをつくってきたといえます。
 有権者が閉塞感を感じているときには、このように歯に衣着せぬ発言をするリーダーというのは、行動力を連想させるだけに、有権者の受けがいいといえます。小泉純一郎、石原慎太郎という事例をあげれば、このことはおわかりいただけると思います。

2)「改革=善」という幻想
 閉塞感を感じする社会では「改革=善」であると誰もが思い込みます。このことは小泉純一郎のときにもあったことですし、自民党から民主党に政権交代が行われたときにも同じ期待がありました。
 それらの期待が悉く裏切られたにもかかわらず、私たちは相変わらず「改革=善」という期待感にしがみついているように思います。冷静に考えれば、どのような改革であろうと一部の人々にとってプラスとなりますが、それによってマイナスの影響を受ける人たちもいるはずです。したがって、改革が自分にとってよいことであると思うのは早計なのですが、ほとんどの場合そこまで考えずに改革に飛びつく傾向があると思います。

3)「敵」の明示化
 閉塞感をもたらしている根本原因が既得権にしがみつく一部の勢力にある、という指摘は非常にわかりやすいといえます。その例としてあげられるのは、官僚であり、あるいは財界であったり、時には労組であったりするわけですが、今回橋下候補があげたのは公務員と教師・教育委員会でした。マスコミもそれにとびついて、橋下市長を断固拒否する大阪市幹部たちという図式で報道を繰り返しました。それらは、閉塞感を感じている有権者の破壊衝動を刺激するという効果があったと思います。
 ところが、このような選挙戦術は、(ヒトラーをみればわかるように)独裁者が自己を正当化するための常套手段ですから、本来「してはいけないこと」のはずです。なぜならば、政治とはすべての国民を念頭において行われるものであって、一部の国民にレッテルを貼り付けて迫害することではないからです。
 けれども、そのような選挙戦術を駆使して当選した政治家は、民意を口実にします。すなわち、自分は民意によって選ばれたのだから、自分に反対する者は民意に背く者であるという論理を展開するのです。橋下候補は選挙前からそのようなことを発言していました。
 
 ここで、大阪市長選の投票結果をみてみましょう。大阪市の有権者総数は2,090,370人です。これに対し橋下候補の得票数は750,813票ですから、有権者対比で35.92%となります。すなわち、全有権者のうち35,917%の人が橋下候補に投票したということを意味しています。このことは、逆に言えば、全有権者のうち約64.083%の人が橋下候補に投票しなかったということでもあります。
 全有権者の約36%の支持しか得られていない市長がはたして「民意によって選ばれた」といってよいのか私にはわかりません。それでは50%以上ならよいのかといわれると、そういうものでもないだろうと思うのですが、すくなくとも橋下候補が民意によって選ばれたと断言できる数字ではないように思います。(ちなみに平松候補に投票した人は全有権者のうち約25%となります。)
 このような結果になる理由は、首長選挙とは全候補者の中で一番票を集めた人が当選するという仕組みの上に実施されるからです。すなわち「相対的に一番支持率の高い人が当選する」というのが首長選挙なのです。したがって、首長選挙の当選者は「民意によって選ばれた」というよりも「選挙制度によって選ばれた」と自覚する方が正しいのではないかという気がしてなりません。

4)「強いリーダー」の渇望
 平松候補が敗れ、橋下候補が当選したというのは、大阪市の有権者の中で「強いリーダー」を望む人が多かったからだと考えることもできると思います。それでも全体の36%程度なのですが、このような傾向は他の都道府県・市町村でも似たり寄ったりではないかと思います。ただし、阿久根市の前市長のようにあまりアクの強い人物は却って嫌われるという面もありますから、人民の気持ちというのは移ろいやすいものだといえます。
 ここで、意地の悪い見方を披露すると、「強いリーダ-」を渇望する気持ちというのは、「誰か他の人がやってくれるだろう」という他人任せの思いの裏返しであろうとも思えるのです。改革を訴える候補者の思いは「現状を変えたい」というものですが、彼に投票する有権者の思いは「現状を変えてもらいたい」というものであって、そこには天と地ほども隔たりがあるのです。
 社会に閉塞感を感じるのであれば、そのような社会になってしまった責任の一端は「他人任せ」にしてきた私たちの側にもあるといえます。自分では面倒なことはやりたくないので他人に任せておきたい、と私たちが思っている限りは誰がリーダーになっても大差ない結果に終わると思います。
 だからといって、みんなが政治家を目指すべきだと申し上げているのではありませんし、特別なことをすべきだというつもりもありません。
 「世界平和のために何をしたらいいでしょう?」という問いに対して、マザー・テレサの答えは「家に帰って家族を愛してあげてください」というものでした。この答えが示唆するのは、特別なことをするのではなく、こうしてもらったら自分は嬉しい(気持ちがいい)ということを誰もがするようになればいいということだと思います。

 自分は何もしないで誰かの働きに期待するという思いを持ち続ける限り、そこにつけこもうとする輩は後を絶たないだろうし、その結果としてこの社会を覆っている閉塞感はいつまでも解消されないのではないか、そんなことを考えさせられた選挙結果でした。
by T_am | 2011-11-28 22:38 | その他