ブログトップ

カクレ理系のやぶにらみ

tamm.exblog.jp

時間のある方はお読みください。軽い気持ちで読み始めると頭が痛くなります。

対立という構図の落とし穴

 この秋注目を集めているのは大阪のダブル選挙のゆくえでしょう。注目される理由は良くも悪くも大阪維新の会の橋下徹代表のキャラクターにあります。
 私は投票権がないので気楽な立場で眺めているわけですが、守旧派と改革派の対決という構図に持ち込むことができれば大阪維新の会が勝つだろうと思います。そのことは橋下代表もよくわかっていて、ことあるごとに平松市長は大阪市役所の現体制を守ろうとしているに過ぎない(=何のビジョンも持たない)という指摘を行っています。

 人間は誰でも何かしら不満を持っているために、改革=善で、現状維持=悪というイメージを抱きがちです。実際には改革が改悪となってしまうこともある(本当に改革=善であるならば、この世はとっくにパラダイスになっていなければならない)わけですから、改革=善という根拠はどこにもありません。にもかかわらず、改革=善であり、その対立項としての現状維持は悪であるというイメージを捨て去るのはなかなかできるものではありません。
 その証拠に、国会中継をみると、政府も野党も改革が必要だということをいっています。ただし、お前のいう改革は駄目で自分の改革の方がいいのだ、という水掛け論ですが。これは今に始まったことではありません。「君たちは昔から改革を主張して、過去に何度も改革を行ってきたけれども、世の中がいっこうに良くならないのはいったいどういうことなのかね?」と国会議員諸氏に聞いてみたい気もするのですが、まあ聞くだけムダでしょうね。

 (橋下代表がそうであるように)改革を訴える人は心の底からそれが正しいと思っています。「人を騙すにはまず自分から」という諺があるかどうかは知りませんが、自分が正しいと思っている人の言葉は、内容が空虚であったとしても、やはり説得力があるのです。(こう書いたからといって、橋下代表が嘘つきだといっているわけではありませんし、その主張が空虚だといっているわけでもありませんので、誤解しないでください。)

 議論するというのは、相手を論破することだと思っている人がいて、ディベートという言葉はその意味で用いられることが多いようです。もっとも政治家によるディベートは常に観衆を意識して行われるので、議論の決着がつかなくとも、観衆が自分のいっている方が正しいと思ってくれれば目的は達成されたことになります。
 その点天才的だったのは小泉純一郎です。自らを改革の旗手として位置づけ、改革に反対する政治家たちを抵抗勢力というネガティブな名称でひとくくりにしてしまいました。これで小泉純一郎に反対する政治家=悪者という構図ができあがったのです。

 このように、単純明快な対立構造が示されると人の興味をひくのはわかるのですが、興味深いのは、その改革が実施されたときにもっとも被害を受けた人たちも熱烈に小泉純一郎を支持をしていたということです。(このような現象は今度の大阪の選挙でも再現されるのではないかと思っています。)
 船が大きくなればなるほど急に曲がることはできなくなります。社会もまったく同じであり、一度に色々な改革を行おうとするとその反動は極めて大きなものとなります。もっとも過激で規模の大きな改革といえば革命がそれにあたります。リビアの例をみてもわかるように、革命によって大勢の人が命を落としたり怪我をしています。そうかといって、革命が成功した後はただちに社会情勢・政治情勢が安定するかというとそんなことはありません。社会不安が解消されないまま革命政権内で主導権争いが行われ、たいていの場合血みどろの争いとなります。
 日本で革命を起こそうと真剣に考えている政治家はいませんが、それに近いことを実行しようとしている政治家はいます。橋下代表もそのひとりだと考えてよいのですが、大阪維新の会が掲げている政策は、広範囲に渡って過激で重大な改革の実施に取り組むとしてます。そのため、改革が実施されるとその被害を受ける人も相当数発生することが予想されるのです。

 大阪維新の会にすれば、今度の選挙で勝たなければ何もできないのですから、選挙戦術として、改革派 VS.守旧派という対立の構図を打ち立てようとしているように思われます。大阪の有権者がそれにとびつけば橋下代表率いる大阪維新の会が勝利することになるでしょう。

 対立という単純な構図で政策を評価することの危険性についてもう少し整理してみます。
 
 大阪維新の会が掲げている政策は端的にいってしまえば、「都市の論理」「自由競争主義の論理」です(これらの用語は便宜上私がつけたものです。大阪維新の会が用いている用語ではありません。)。「都市の論理」というのは、住民や企業は経済成長の一端を担う存在であるからその能力が充分に発揮されるように環境・教育などの諸制度を整えるというものです。目指すは世界都市であり、都市に農地がないように、マニフェストには農業のことは書かれていません。
 「自由競争主義の論理」とは、海外からも人や企業がやってきやすい環境を整え、活発な経済活動を行えるようにするというものです。そのためには現在ある規制は邪魔になるので大幅な規制緩和を行うとマニフェストには明記されています。その根底にあるのは、市場の選別に委ねた結果本当に優れた企業と人材が残るという論理です。(学校にも自由競争の原理を導入しようとしているように見受けられます。)
 大阪維新の会のメンバーにとって規制は、邪魔自由競争を阻害するだけの存在です。そこには「規制することによって守らなければならないものがこの社会にはある」という視点が欠落しています。また、それらの規制によって守られている立場の人たちほど大きな不満を抱えていますから、維新の会による改革を積極的に支持するだろうと予想されます。維新の会の支持者に共通する心理は、おそらく「改革が実施されたときには、自分ならばうまく立ち回れるという自信がある」というものでしょう。その根拠が何に由来するのかわかりませんが。

 環境と機会が整えられれば、人間はいくらでも利己的に振る舞うことができるものです。共同体の利益よりも自社の利益、自社の利益よりも自分の利益を優先させるという人間はどこにでもいます。福島第一原発の事故はその見本市を見せられているかのようでした。そういう人間が登場すると、その一方で消耗品のように利用されて使い捨てにされる人間(しかもそちらの方がはるかに多い)も生まれてきます。
 維新の会が掲げる世界都市というのはグローバル化を念頭に置いたものと思われます。端的に言ってグローバル化とは多国籍企業が儲かるしくみです。一応、どの企業にも多国籍企業に脱皮するチャンスは均等に与えられていますから、ご自分の会社が多国籍企業となってなおかつご自分がそこで必要な人材であると認められている場合はハッピーでいられますが、そうでない場合は金銭的に恵まれるということはないように思われます。

 私たちの社会で取り入れられ、現在も残っている制度や決まりには何かしら意味(存在理由)があります。中には賞味期限が切れかかっているものもありますし、住民のためになっていない規制もあると思います。だからといって、それらをひとまとめにして改革の対象としてしまのは大きなリスクを伴います。
 現状に対する不満があるのでどんな改革でも構わない、という人はいないはずです。本来ならば現状に不満があるから改革が必要だ。ではどんな改革をしたらいいのかという議論を経た上で、その改革を実施するかどうかを決めるというプロセスを踏むのが普通でしょう。
 先の衆議院議員選挙で、私たちはその手順を経ないで民主党に投票しました。もっとも、あのときの選択肢は、「このまま自民党に任せるのか、そうでないのか」というものでした。有権者にしてみれば、民主党のマニフェストを熟読して民主党に任せようと決めたから投票したわけではないのです。
 しかしながら、現行の選挙制度では選挙で勝つということは、その候補者・政党が掲げる政策が支持されたとみなされてしまいます。そのあたりをよく考えて投票しないと、後になってこんなはずじゃなかったと臍をかむ羽目に陥らないとも限らないのです。
by T_am | 2011-11-09 01:49 | その他