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カクレ理系のやぶにらみ

tamm.exblog.jp

時間のある方はお読みください。軽い気持ちで読み始めると頭が痛くなります。

卵が壁になる

 村上春樹さんがエルサレム賞を受賞したときのスピーチの中で、「高くて固い壁があり、それにぶつかって壊れる卵」という比喩がありました。有名なスピーチですから、覚えておいでの方も多いと思います。

(スピーチの日本語訳全文)
http://www.47news.jp/47topics/e/93925.php?page=all

 このスピーチに関連して、畔上くんが「高い壁」になってしまった「卵たち」について書いています。

http://azeway.com/

 システムをつくり運用するのも人間ですから、本来は「卵」である人間がいつのまにか「高い壁」になってしまうことがあるという指摘には目からウロコが落ちる思いがしました。
 どうして「壁」になってしまったのかについても畔上くんが書いているので、ここでは私が感じたことを書いてみたいと思います。

 何か大きな問題が起こったときに、「それは会社(組織)の問題であるから部署の垣根を越えて問題の解決に臨む必要がある」と考える人と、「それは他部署の問題であるから自分には関係ない」と考える人がいます。興味深いことに、組織の中での地位が高い人ほど後者に属する人が多くなるなるようです。(これをお読みのあなたはいかがですか? また、あなたの上司はどちらのタイプですか?)
 いうまでもなく、人間として尊敬できるのは前者のタイプです。しかしながら、実際に何か問題が起こり、その原因を究明する際に、いつのまにか自分には責任がないことを立証するというスタンスで発言し行動していることが多いのです。このような心理は多かれ少なかれ誰にでもあるものであって、だからこそ事故の原因究明は犯人捜しになってはいけないということになっています。

 「この問題は自分以外の誰かに責任がある」という論理では、同種の事故の発生を防ぐことにはつながりません。なぜならば、「とりあえず自分に責任がないことが証明されればそれでいい」という意識でいるうちは、「今後同じような事故を発生させないためにはどうしたらいいか」という発想は出てこないからです。

 鉢呂前経産相の辞め方をみると、この国では(他の国でもあまり変わらないと思いますが)、熾烈な競争を抱える組織では他人の失敗や責任に対して不寛容というのが当然であると思われていることがわかります。そのような状況下では、なんとかして言質をとられないように気を遣う、自分に責任がかかってこないように振る舞うということが日常的に行われるようになるといってよいでしょう。
 その典型的な例が「国会中継」で見ることができます。あれを見ていると、立場が変わるということも変わるのだとつくづく思います。面白いのは、政党が変わっても、野党質問(というよりは追求といった方がよいですね)のロジックと政府答弁のロジック(極端ないい方をすれば「はぐらかし」)は同じだということです。民主党の支持率が下がりっぱなしで浮上しない理由の一端がここにあると思うのですが、質問をする方も答弁をする方も大真面目で不毛な議論を繰り返すばかりで、いっこうに変わる気配がありません。
 答弁の作文は官僚が下書きするはずですから、官僚の世界でも同じようなことが日常敵に行われていると思ってよいでしょう。すなわち、自分の昇進はライバルが消えることによって実現するというものですから、そういう風潮に染まると次の人間ができあがるようになります。

・自分が持っている情報は他人には明かさない。その代わり、他人が持っている情報は欲しがる。
・手柄になりそうなことは首を突っ込んで横取りすることも辞さない。その代わり、手間だけかかって評価につながらないことは他人に押しつける。
・他人が関わって問題となったことは公式の記録に残すが、自分が関わったことは(後日追求されることがないように)一切記録に残さない。
・上司やトップの喜びそうなことな何かという判断基準で動き、上司やトップに叱られそうなことについてはそのままにしておく。
・他人の痛みや苦しみについて、しだいに鈍感になってゆく。

 このタイプの人は、自分の業績を優先するあまり、ときとして組織の不利益に結びつく行動をとることがあります。もちろん、組織のより上位の存在(会社そのものや国家という存在)を意識することはあまりありません。「会社の利益」とか「国家の尊厳」とか言うときは、自分の意見の正当性を補強するためであって、常日頃そのようなことを意識しているわけではありません。

 誤解しないでいただきたいのですが、こうして長々と書いてきたのは、「世の中にはこういうタイプの人間がいる」ということを申し上げたいわけではないのであって、人間は誰でもこのようになりかねない生き物だということを申し上げたかったのです。
 このような人たちは大企業や中央省庁のような大きな組織であればいくらでも見かけることができます。(中小企業に少ないのは、競争が比較的少ないからではないかと思います。)そのような組織では効率が悪化し活気が喪われていくことになるのですが、皮肉なことにこのような人たちが頑張れば頑張るほどその傾向は強くなっていきます。
 無論、そうならない人も大勢いるわけですが、その違いはどこから来るのかというと畔上くんが指摘しているように、「その人が組織に人生あるいは生命与奪権を握られているから」です。以前申し上げたように、選択肢がより少ない方を弱者といいます。追い詰められた弱者は他人に対していくらでも酷薄な仕打ちができるものです。

 その根本には「恐怖による支配」があるといっていいのかもしれません。
  
 恐怖による支配への対抗手段としては、「この仕事を辞めても喰っていける」という自信を持つことが有効であるように思います。
by T_am | 2011-09-18 16:29 | その他