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カクレ理系のやぶにらみ

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時間のある方はお読みください。軽い気持ちで読み始めると頭が痛くなります。

橋下知事について思うこと

 今、公務以外の分野でもっとも精力的に活動している知事といえば、大阪府の橋下知事であると思います。知事としての仕事のほかに「大阪維新の会」という地域政党を興したうえで、「職員基本条例案」と「教育基本条例案」を発表しました。

 橋下知事のツイート(リツイートしてくれる人がいるのです)を読むと、なるほどごもっともと思う論理も多いのですが、素直に賛成といえないわだかまりが自分の中にあります。それはどういうことかというと、この人のいうとおりにしていると社会全体が全員参加のマラソン大会になってしまうように思えるのです。なかには、自分はゆっくり歩いて行きたいとか、走りたくないと思う人もいるでしょうが、そういう「異端児」の存在は認めてもらえないだろうなと思ってしまいます。

 橋下知事(メンドクサイので、以下単に「知事」と書きます)の掲げるのは「大阪の経済成長」というシンプルでわかりやすいものです。そのために、行政組織の効率化を徹底し、また、教育にも政治が介入することによって質の高い人材を供給するシステムを作り上げようというものです。教育に対する政治の介入というと、それだけで拒否反応を示す人もいると思いますが、知事の論理は、生徒(わが子)の学力を向上させたいというのは民意であり、政治家はそれを実現するために存在するというものです。そこには、政治の不介入というスローガンの上にあぐらをかいて教育を荒廃させてきた一部の教育者たちに対する批判が込められているようです。

 ここで、「教育を荒廃させてきた一部の教育者」という書き方をしました。実際日教組に対する批判も多く、それはまるっきり的外れではないと思うのですが、かといって日本の学生の学力を低下させてきたのは学校教育に携わる教職員だけが責任を負わなければならないかというとそうではないと思います。
 むしろ、わが子に高等教育を受けさせたいという「民意」が大部分を占めるようになったからだというのが私の考えです。一生懸命勉強をして、いい大学を出ていい会社に就職すれば、レベルの高い配偶者を得ることができて、お金に不自由しない生活をおくることができるという素朴な信仰を私たちは持っています。
 たしかにバブルの頃まではそれは真実でした。しかし、バブル崩壊後の不景気によるリストラによって大量の失業者が生まれたことで、「いい大学=お金に不自由しない人生」という図式は崩壊したと私は思うのですが、そうは考えない人の方が多いようです。
 その人たちにとっては、「能力の高い人=お金に不自由しない人生」であり、逆に、「能力の低い人=不幸な人生」であるということになります。それでは、「能力が高い」とはどういうことなのかというと、たとえばTOEICで何点以上とかいう尺度が用いられています。東大に入るのは無理だとわかりきっているのですが、TOEICであれば一生懸命勉強すれば何とかなるのではないという心理をあらわしているようで、面白いですね。ちなみに、TOEICの点数と交渉力・企画力・調整能力などとは無関係であることはいうまでもありません。
 なぜ、学生の学力が低下し続けているのかというと、わが子に高等教育を受けさせたいという親の願望が社会の主流になったために、高校や大学に入学する生徒が増えた結果、それらの学校では難しいことを教えられなくなってしまったからです。本来であれば、学校で教える水準についてこれない生徒を容赦なく落とすために入試という制度があったわけですが、高等教育を受けるのが当然という風潮によって入試のレベルが少しずつ落ちてきています。(今まで通り厳しくすると、入学者数が減ってしまうから。)
 こういうスパイラルがあるために学力が低下してきていると、私は思っています。

 かつて、学問が金になった時代がありました。しかし、それは学問を修めた人に希少価値があったからです。現代のように、事実上の大学全入時代では大卒の希少価値などありません。橋下知事のように司法試験に合格して弁護士資格でもとれば別ですが、単に大学を出たというのでは、自動車運転免許証のように当たり前のものに過ぎず、他人に対するアドバンテージにはならないのです。そのような状況のなかで、誰もが大学を目指すというのは、使い捨ての人材を量産するようなものだといえます。誰もが同じことをやっている社会では、他人と同じ分け前しかもらえないのは当たり前です。

 橋下知事が掲げる政策というのは、このようなトレンドを政治によって一層加速させようというものです。そのスローガンは、おおっぴらにはされていませんが、「効率化」であり「自由競争」であり、さらに「市場原理」であるといっても間違いではないと思います。それらはビジネスの世界では有効ですが、世の中のすべてに適用できるかというとそうではありません。

 「職員基本条例案」でも「教育基本条例案」に関する報道のなかで、人事評価が2年連続で最下位となった職員らを分限免職できる規定が盛り込まれているという記事を読みました。(申し訳ないのですが、条例案そのものはまだ読んでいません。)いくらなんでも、2年続けて人事評価が最下位になった職員(教員も含む)をただちに分限免職(民間企業でいうところの解雇)するというものではなく、所定の手続きを踏んだうえでこのような処遇をとることができるようにする、というものでしょう。
 これを聞いて、日頃公務員や教員に対し、いいイメージを抱いていない人などは拍手を送りたくなったかもしれません。それだけ世間受けする提案だということです。
 しかし、私が不勉強なせいか知りませんが、完全な人事評価制度を運用している企業・組織というのは聞いたことがありません。仮に、そういうものがあったとしたら、コンサルタントや経営マスコミが放っておくはずがありません。必ず取り上げられるはずです。
 ここでいう「完全な人事評価」とはどういうものかというと、「どこからも文句のでない評価」という実に単純なものです。ところが、この単純なことが意外と難しいのであって、ご自分の評価に不満を感じている方は多いはずです。
 ですから、ほぼ完全な人事評価を実施している管理者は極めて稀ですが、この世に存在しないわけではありません。しかし、それを制度化することができるかというとそれは無理な相談です。人事評価にはどうしても管理者個人の感情が入り込んでしまうからです。それを極力排除しようとして、実績を数値化して評価表を書かせたり、自己評価と上司の評価をカウンセリングによってつきあわせるということを行っている企業もあります。しかし、それらがうまく機能しているとはいえません。というのは、たとえば経理部や総務部のように実績を数値化できない部署もあります。また設定されている数値目標が妥当かどうかという検証はまずされていない(実際はトップダウンで決まっている)というのが実情です。さらに、自己評価はどうしても甘くなりがちなのに対し、他人から見たときのギャップをきちんと指摘できるだけの力量を持った管理職はほとんどいませんし、そもそもそういう管理職の養成すらしていないというのが実情だからです。(どこの企業でも人事担当者はこのことを認めようとはしません。認めれば、なぜそのままにしておくのだ、と叱責されるからです。)
 これは、この2つの条例案が提出される大阪府・大阪市・堺市でも同様だと思います。人事評価が2年連続最下位の人間というのは組織にとって無益であるから分限免職(解雇)しても構わないのだという発想は、理屈の上では成立しますが、人事評価制度が職員(従業員)から信頼されていないところでそれを実行に移すとなると、かえって問題を招くことになると思います。(それよりも、2年連続最下位となる職員はいなくなるのではないかという気がしています。つまり現場の管理職が意図的にそういう評価をするのではないかということです。自分の評価によっては、もしかするとこの人間が解雇されることになるかもしれないと思うと、誰しもためらうものだからです。ですから、実際に、2年連続で最下位の評価となった職員がいたとすれば、その人はよほど上司に嫌われているのではないかと疑ってかかった方がよいと思います。

 橋下知事の主張を聞いていると、部分的にはなるほどと思うところが多いのですが、今回書いてきたように、よく考えるとおかしいと思うところがあります。ただし、知事の手法までも否定するわけではありません。むしろ、大阪府の財政健全化に向けた取り組みは評価してよいと思っています。問題は、そのような手法・発想法を市場原理に馴染まない分野にまで持ち込もうとするところにあります。それを思うと、この人は社会をミスリードする指導者であると申し上げざるを得ないのです。
by T_am | 2011-08-23 00:56 | その他