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カクレ理系のやぶにらみ

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時間のある方はお読みください。軽い気持ちで読み始めると頭が痛くなります。

震災からの復興~悲惨のなかの失望

 昨日は回り道をしてしまいましたが、今日こそは、6月25日に菅総理に提出された復興構想会議による「復興への提言~悲惨のなかの希望」(変なタイトルですね)について書くことにします。

(復興への提言~悲惨のなかの希望)全文です
http://www.cas.go.jp/jp/fukkou/pdf/kousou12/teigen.pdf
 

 まず、前文を読んでみましょう。以下はその冒頭の部分です。


 破壊は前ぶれもなくやってきた。平成23年(2011年)3月11日午後2時46分のこと。大地はゆれ、海はうねり、人々は逃げまどった。地震と津波との二段階にわたる波状攻撃の前に、この国の形状と景観は大きくゆがんだ。そして続けて第三の崩落がこの国を襲う。言うまでもない、原発事故だ。一瞬の恐怖が去った後に、収束の機をもたぬ恐怖が訪れる。かつてない事態の発生だ。かくてこの国の「戦後」をずっと支えていた“何か”が、音をたてて崩れ落ちた。


 これを読んで、「“何か”って何なんだ? お前はいったい何がいーたいんだ?」 と思ってしまいました。小説やエッセイならば、読者の想像に任せるということでこういう書き方をしますが、復興構想会議の「提言」は文学作品ではありません。これを書いた人は、たぶん、もはや戦後日本の成長を促してきた“何か”が通用する時代ではなくなったということがいいたいのだろうと思います。


 複合災害をテーマとする総合問題をどう解くのか。この「提言」は、まさにこれに対する解法を示すことにある。実はどの切り口をとって見ても、被災地への具体的処方箋の背景には、日本が「戦後」ずっと未解決のまま抱え込んできた問題が透けて見える。その上、大自然の脅威と人類の驕りの前に、現代文明の脆弱性が一挙に露呈してしまった事実に思いがいたる。われわれの文明の性格そのものが問われているのではないか。これ程大きな災害を目の当りにして、何をどうしたらよいのか。われわれは息をひそめて立ちつく
すしかない。問題の広がりは余りに大きく、時に絶望的にさえなる。その時、程度の差こそあれ、未曾有の震災体験を通じて改めて認識し直したことは何か、われわれはこの身近な体験から解法にむかうしかないことに気づくことだ。



 それで、「この身近な体験」とは何かというと、「自らを何かに『つなぐ』行為」だといいたいようです。


 われわれは誰に支えられて生きてきたのかを自覚化することによって、今度は誰を支えるべきかを、震災体験は問うている筈だ。その内なる声に耳をすませてみよう。
 おそらくそれは、自らを何かに「つなぐ」行為によって見えてくる。人と人とをつなぐ、地域と地域をつなぐ、企業と企業をつなぐ、市町村と国や県をつなぐ、地域のコミュニティの内外をつなぐ、東日本と西日本をつなぐ、国と国をつなぐ。大なり小なり「つなぐ」ことで「支える」ことの実態が発見され、そこに復興への光がさしてくる。



 これが間違っていると申し上げているのではありません。毎年3万人以上の自殺者が発生し、就職したくても非正規雇用の道しかない人たちが大量に発生する社会にしておきながら、今更何をいってるんだと思うのです。


 被災地の人たちは、「つなぐ」行為を重ねあうことによって、まずは人と自然の「共生」をはかりながらも、「減災」を進めていく。次いで自らの地域コミュニティと地域産業の再生をはたす。「希望」はそこから生じ、やがて「希望」を生き抜くことが復興の証しとなるのだ。
(中略)
 そもそも、自衛隊をはじめとする全国から集まった人々の献身的な救助活動は、まさにつなぎあい、支えあうことのみごとなまでの実践に他ならなかった。そこで引き続き東北の復興を国民全体で支えることにより、日本再生の「希望」は一段と身近なものへと膨らんでいく。そしてその「希望」を通じて、人と人をつなぐ「共生」が育まれる。それは日本にとどまらず、全世界規模の広がりを持つ。あの災時に、次から次へと、いかに世界中からの支援の輪がつながっていったか。われわれはそれを感動を持って受け止めた。
 かくて「共生」への思いが強まってこそ、無念の思いをもって亡くなった人々の「共死」への理解が進むのだ。そしてさらに、一度に大量に失われた「いのち」への追悼と鎮魂を通じて、今ある「いのち」をかけがえのないものとして慈しむこととなる。
 そうしてこそ、破壊の後に、「希望」に満ちた復興への足どりを、確固としたものとして仕上げることができると信ずる。(前文終わり-筆者)



 何度もいうようですが、復興構想会議の提言書は文学作品ではないのですから、このようなまわりくどい書き方をする必要は全くありません。どうせ書くなら、このようにはっきり書いたらいいのです。


 戦後日本が実現させた競争社会は誤りであった。
 それは、学歴や能力、収入といった属性で人間の価値を判断する社会であり、その代償としてわれわれは自然を破壊し、家族を崩壊させ、地域社会を無視するということを行ってきた。
 このような社会づくりが、高度成長を実現させ、日本人の暮らしを豊かにしたことは否定できない。しかし、時代は変わり、かつての価値観では、日本社会が抱える問題を解決することができない局面となっていることも事実である。
 震災後、被災者たちを助け、励ましてきたのは、いわゆる勝ち組の人間ではなく、無名の人々の善意であることにわれわれは目を向けなければならない。
 ゆえに、現在の、人々の善意を踏みにじる社会ではなく、人々の善意が報われる社会の実現こそが、未曾有の震災から日本を復興させるうえで必要不可欠の課題であり、それは震災とは無縁の地域においても共通する課題であると信ずる。


 復興構想会議の黒子として大勢の官僚が関与してきたことは想像に難くありません。当然この「提言」にも官僚たちの意向が反映されていることになります。そういうことを思いながらこの前文を読むと、曖昧な書き方をしている理由がわかります。というのは、曖昧な書き方をしていれば、読む人が自分に都合のいい解釈をしてくれるからです。一応政府に対する「提言」なのですから、政府も無視することはできません。他に誤解のしようのない明確な文章で書かれていれば、政府にとって逃げ道はなくなってしまいます。そこで、曖昧な書き方をすることによって、解釈の幅を持たせているということなのでしょう。
 ただし、曖昧なままだと何がいいたいのかさっぱりわからなくなりますから、ところどころに誰もが反論のしようのない耳障りのいい言葉をちりばめるという小細工が行われることになります。
 この「提言」が官僚による作文であると思う理由がここにあります。もっとも、あまりにも立派なことが書かれているので、まるでマフィアの幹部が突然平和主義を唱えだしたような違和感を覚えることも事実です。

 こういうご立派なことを述べるのは結構だが、だとしたら今まで君たちは何をしていたのかね?

 「提言」の本論を読むと、まことにごもっともということがてんこ盛りに書かれています。その反面、震災からすでに百日を経過しているのに、こんな悠長なことをやっていていいのかという疑問もぬぐえません。
 どうしてそんなことを思うのだろうと考えたところ、この「提言」には実にいろいろなことが書かれていますが、「何から順番に手をつけるべきなのか」という視点が完全に欠落していることに気づきました。あれもやりなさい、これもやりなさい。このことは忘れてはいけませんよ、という文脈で書かれているのがこの「提言」です。構想会議の委員の皆様には申し訳ないのですが、結果に対して責任を負わない立場の人の意見だからこそ「提言」なのだと思います。
 その最たるものが復興の財源をどうするのか?という問題です。これについて「提言」は次のように述べています。


 わが国の財政を巡る状況は、阪神・淡路大震災当時よりも著しく悪化し、社会保障支出の増加等による巨額の債務も、これからの世代に負の遺産として残されている。さらに、わが国の生産年齢人口は今後10年で1割も減少するなど大幅な減少が見込まれており、次の世代の一人あたりの負担には著しい増加が見込まれている。海外の格付会社も、復興のあり方とわが国の財政健全化の取組に懸念を示している。
 こうした状況に鑑みれば、復旧・復興のための財源については、次の世代に負担を先送りすることなく、今を生きる世代全体で連帯し、負担の分かち合いにより確保しなければならない。政府は、復興支援策の具体化にあわせて、既存歳出の見直しなどとともに、国・地方の復興需要が高まる間の臨時増税措置として、基幹税を中心に多角的な検討をすみやかに行い、具体的な措置を講ずるべきである。



 「次の世代に負担を先送りすることなく、今を生きる世代全体で連帯し、負担の分かち合いにより確保しなければならない」と聞こえのいいことをいっていますが、要するに、復興の財源は増税によって捻出すべきだというのです。
 けれども、復興のためのインフラ再建などは、その恩恵を今後数十年にわたって受けることができるわけですから、次の世代にも負担を求めることに何の問題もありません。そのような目的に絞って発行される国債を建設国債と呼んでいるくらいなのですから。
 この時期で増税を行うというのは、水に濡れた人を助けるために、隣にいる人の外套を脱がせて着せてやるようなものです。それのどこが悪いのだといわれるかもしれませんが、下手をすると全員が風邪を引いてしまう恐れがあるのです。
 それよりも復興債を発行することで財源を確保して、インフラの再建という公共投資を行うことで経済の再建を促すことの方がはるかに効果は大きいと思います。また、その過程で雇傭を生むというメリットも考えられます。
 被災者が抱える不安は、とりあえず今日食べるものと雨露をしのぐ家はあるけれども、職を失っている以上1年先2年先がどうなるのかわからないというものです。
 そのような人たちに対し、自立できるよう雇傭を生むという取り組みが、「希望」を持つことにつながるのだと思うのですが、この「提言」のなかには雇傭という言葉は一度も登場してきませんでした。そのことが残念でなりません。
by T_am | 2011-07-06 01:12 | その他