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カクレ理系のやぶにらみ

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時間のある方はお読みください。軽い気持ちで読み始めると頭が痛くなります。

日の丸と君が代の問題(1)  政治家の皆様に申し上げる

 ちょっと前になりますが、大阪府で君が代斉唱時の教職員の起立を義務づける条例が議会に提出されました。これについては朝日新聞の記事(2011年5月28日付 大阪版)を無断で引用させていただきます。



 橋下知事が率いる大阪維新の会の府議団が27日、君が代斉唱時の教職員の起立と、府施設への日の丸の常時掲揚を義務づける条例案を府議会本会議に議員提案した。一方、自民府議団は府施設への日の丸掲揚のみを義務づける条例案を議員提案。論戦が始まった。

 維新の大橋一功議員は「ルールに故意に従わない教師が子どもたちの模範になるとは思えない。職務を履行させるために条例化が必要だ」と提案理由を説明した。

 中西正人教育長は自民議員の代表質問に「教育委員会としては、校長と力を合わせて対応するので条例による義務づけは必要ないと考えている」と答弁。これに対し、橋下知事は本会議後、「起立して歌いなさいというのは教育委員会が2002年に決めたこと。9年たっても実行できないからしょうがない」と不満を述べた。




 自分の卒業式のときはどうだったろうかと一生懸命思い出してみようとしましたが、四十数年前に行われた私の卒業式で君が代斉唱が行われたかどうかは思い出せませんでした。これは中学校、高校でも同じです。その代わり、小学校では嫌というほど卒業式の練習をさせられました。卒業証書の受け取り方、行進のしかた、等々。
 そういう少年時代を歩んできた私が現在はどうなっているかというと、政府に対しては批判的ですが、スポーツの国際試合で行われる君が代斉唱には特に違和感を抱くということはありません。テレビのこちら側にいるのですから、起立していっしょに君が代を歌うということはしませんが、もしも自分がその会場に居合わせたなら起立していっしょに歌うことに何の疑問も抱かないだろうと思います。

 昨日は、校長の教職員に対する起立斉唱命令は合憲であるという最高裁判決が下されました。ひらたくいえば、「起立斉唱というのは単なる儀式であって個人の思想信条や世界観までも否定するものとはいえないが、日常業務の範疇ではないためにストレスを感じることもあるだろうということは理解できる。さりとて、起立斉唱命令に必要性と合理性があれば別に憲法違反というほどのものではない」というものです。

 実をいうと、そんなことはどうでもいいのであって、問題はむしろ、なぜ政治家の皆様とその意を受けた学校における管理職である校長先生が君が代の起立斉唱を職務命令とするのかということになると思います。
 この答えは明白です。なぜかというと「言うことを聞かないから」です。だから職務命令という形にして違反者には処罰をするぞと脅かしているわけです。

 言うことをきかない者にはペナルティを与えて従わせるという発想は古典的ですが、かえって面従腹背の徒を量産するだけはないかという気がしてなりません。

 政治家の皆様が、君が代に対して起立斉唱をしてくれる国民を育てたいのであれば、この国に生まれてよかった、と思われるような国づくり・まちづくりをすることがもっとも確実な方法です。この国(そして自分が住んでいるまち)に対する不平不満がなければ、儀式において君が代や日の丸に敬意を払うというのは自然に行われるものだからです。
 したがって政治家の皆様が、国記や国家に対する敬意を職務命令という形で強制するのは本末転倒であるといえます。また、それが憲法違反かどうかを問うというのもナンセンスだと思います。何の不満もなければ、日の丸や君が代に対して儀式のときに敬意を払うというのは神社で二礼二拍手一礼するのと同じくらい自然に行われるものだからです。

 それでも政治家の皆様が起立斉唱を強制したくなるのは、世の中には日の丸に正対する人と君が代を背に立つ人との二種類の人間がいるということがわかっているからなのかもしれません。

 これに対しては、小野不由美さんがその著作「風の万里 黎明の空(下) 十二国記」(講談社文庫)の中で主人公である王に次のように語らせています。ちょっと長くなりますが引用することにします。




 そして、と玉座(ぎょくざ)の王は言う。
「みんな、立ちなさい。」
 ざわ、と諸官は困惑して顔を見合わせる。おそるおそるというように、立ち上がり、身の置き場に困ったように、周囲を見渡した。
 獄座の王はそれを見渡してうなずく。側に控えた宰輔(さいほ)を振り返った。
「これは慶麒にも聞いてもらう。-わたしは人に礼拝されることが好きではない」
「-主上……!」
 宰輔の咎(とが)める声に、王はわずかに苦笑する。
「例といえば聞こえは良いが、人の間に序列あることが好きではない。人に対峙(たいじ)したとき、相手の顔が見えないことが嫌(いや)だ。国の礼節、見た目は分かるが、人から叩頭(こうとう)されることも叩頭する人を見るのも不愉快だ」
「主上、お待ちください」
 とどめた宰輔を無視して、王は諸官に下す。
「これ以後、礼典、祭典、および諸々の定めある儀式、他国からの賓客(ひんきゃく)に対する場合を除き、伏礼を廃し、跪礼(きれい)、立礼のみとする」
「主上-!」
 宰輔の制止に、王の返答はそっけない。
「もう決めた」
「侮(あなど)られた、怒る者がおりましょう」
「それがどうした」
「-主上!」
「他者に頭を下げさせて、それで己(おのれ)の地位を確認しなければ安心できない者のことなど、わたしは知らない」
 宰輔は絶句したし、諸官も呆(あき)れて口を開けた。
「そんな者の矜持(きょうじ)など知ったことではない。-それよりも、人に頭を下げるたび、壊れていくものの方が問題だと、わたしは思う」
「ですが」
「人はね、景麒」
 王は宰輔に言う。
「真実、相手に感謝し、心から尊敬の念を感じたときには、自然に頭が下がるものだ。礼とは心の中を表すためのもので、形によって心を量るものではないだろう。礼の名のもとに他者に礼拝を押しつけることは、他者の頭の上に足をのせて、地になすりつける行為のように感じる」
「しかし、それでは示しが」
「無礼を奨励(しょうれい)しようというわけではない。他者に対しては礼をもって接する。そんなものは当たり前のことだし、するもしないも本人の品性の問題で、それ以上のことではないだろうと言っているんだ」
(中略)
「地位でもって礼を強要し、他者を踏みにじることに慣れた者の末路は昇絋の例を見るまでもなく明かだろう。そしてまた、踏みにじられることを受け入れた人々はたどる道も明かなように思われる。人は誰の奴隷(どれい)でもない。そんなことのために生まれるのじゃない。他者に虐げられても屈することない心、災厄(さいやく)に襲われても挫(くじ)けることのない心、不正があれば正すことを恐れず、豺虎(けだもの)に媚(こ)びず。-わたしは慶の民にそんな不羈(ふき)の民になってほしい。己(おのれ)という領土を収める唯一無二の君主に。そのためにまず他者の前で毅然(きぜん)と首(こうべ)を上げることから始めてほしい」




 いかがでしょう。いい文章ですね。初めてこれを読んだときは感動しました。(少し補足すると、「慶」というのはこの王が治める国の名前で、「昇絋」というのは悪事を働いて滅亡した役人の名前です。)
 礼と人との関わりを鮮やかに説いた文章は初めて見ました。(物語としても面白いので、興味のある方はぜひお読みください。)

 このことを踏まえて、次回は教師の皆様に申し上げたいことを書くことにします。
by T_am | 2011-05-31 22:00 | その他